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どこまでサポートするか。支援と子育ては似ているかもしれない

一般社団法人繊細復興支援センター(通称:WDRAC/ワドラック)の活動に関わり2年以上が経つ。
WDRACはウクライナでの戦争をきっかけに戦災によって苦しむ市民を支えたいと思って立ち上げた団体で、『支援する人たちを支援する』を掲げ、現地で支援活動をするヒーローたちの後方支援をしている。

そんなWDRACの活動、設立当初は稼働メンバーも多く熱量高く活動していたけど、長引く戦争や戦災という終わりの見えない支援であることから、メンバーそれぞれが無理なくやれる範囲でと言う感じで、現在全体の活動自体は少し落ち着いている。
でも、変わらずウクライナ国内で支援活動を行うアンサングヒーローへの支援を続けたり、彼らの活動に帯同するために直接ウクライナへ赴くメンバーもいる。
活動量もやることもその人次第だけど、できることをできる範囲で続けているWDRACだからこそ、私自身も関わり続けることができている。

そして、今回は年に1度WDRACでクリスマスのこの時期にやっているアドベントカレンダーに寄稿するため、こうして今、記事を書いている。
何を書こうかな~と思いながら、WDRACのSlackを覗いて最近の活動をふり返ったり、アンサングヒーローのSNSを見返したり、noteで「ウクライナ」と検索してみたり…。

そんな中で、戦争というものに普段よりも少し意識して触れると、戦争やだな…とか、悲しい側面に触れ感傷にふける感じになってしまうけど、なんかそれってちょっと違うような気もして。
なんだろうなあ~と思いつつ、ふと目にした岸田奈美さんの記事をみてなんとなく自分の気持ちが整理できた気がした。
(記事は有料ですが途中まで読めます。)

『長年の友人でもない仲間のために自分の命をささげようとする戦時の兄弟愛は、戦争を未経験の人には伝えがたい』
・・・
戦争へ行くことは、とてつもなく、悲しいことだと思っていた。でも、今のドゥミトロさんにとっては、戦争へ帰ることが、愛であり、喜びなのである。

平和に帰ることのほうが苦しく、戦争に帰る方が苦しくない。

上記に引用したことは戦争未経験の私にとってはなんだかせつない現実だなーと感じたし、とくに肯定も否定もするものでもない。
ただ、でも、そういう人もいるのだな。ということを知る。

で、何が言いたいかというと、やっぱり原点に戻って、助けが必要な人がいたら、できる範囲で手を差し出せるよう、できることをやっていこうと思った。ということ。

ちなみに、最近WDRACで行った支援のひとつにウクライナの子供たちがサッカー大会に出場するための遠征費をサポートしたものがある。

ドネツク州で活動していたあるサッカーチームが、非戦地帯であるポルタバで、子供たちのストレスケアを目的としたサッカー大会に出場しようとしていた。ところが、当初市が負担予定だった旅費を、サッカーチームが活動する地域が主戦場の一部となったために急きょもらえなくなってしまい困っていた。
そんな時、WDRACが支援するサイモンを経由して、このサッカーチームの監督をしていたイワンと繋がり、彼らのチームの旅費をサポートすることになった。(イワンはサイモンと一緒にウクライナ国内で支援活動も行っていたた。)

こうやって、遠くウクライナから具体的に困っていて支援が必要、と言う声が日本で活動する私たちに届いて、サッと手を貸せたことは、WDRACならではな感じがしてとてもよかったなあと思う。

そして、支援について考えながらふと、支援と子育ては似ているなと思った。
子育てをしていると、「どこまでが手を貸すべきか、どこからが甘やかしか」なんて議論があったり、私自身も頭に浮かんで悩むことがある。
困っていたら助けたいけど、やりすぎ?どこまで?自分のエゴ??とか。

この悩みに対するひとつの解として、子供が助けを求めたかどうか。という話を聞いたことがあり、確かにそうだなと感じた。
というか、大人同士の関係性でもこれは同じであって、「ちょっと困っているんだけど助けてくれない?」って言われたら、できることはやるだろうし、それは子供でも一緒というか、分けて考える必要はないか。と妙に納得した。

支援をしよう!と思うと、必要とされることはたくさんありそうで、でも何もかもはできないし…というジレンマみたいなものもあるけれど、まずは困っている人が「助けてくれない?」と言える存在となり、届いた声にひとつずつ対処していけばよいのだと思った。

これからもまずは「ちょっと助けてくれない?」の声が届くように、支援も子育ても耳は傾けているよという姿勢でいたいと思う。

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