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「わかる」ということがわかるとどうなるか

山口周氏が数日前にnoteに記していたある文章に、うわーっと、なんというか、それこそ頭のなかの霧が晴れるような感覚に襲われました。

「わかる」ということがよくわからなくなった阿部謹也は、率直に指導教官である上原に「わかるということはどういうことでしょうか?」という質問をします。

この質問に対して、上原専禄は

わかるということは、それによって自分が変わるということでしょうね

と答えたそうです。

山口周氏のnote 『安易に「わかった」と思うことの危険性』

この文章に続き、山口周氏は

『僕にとっては非常に大きな・・・それこそ、この言葉によって自分が変わってしまうような言葉だったのです。』

とも言っていたのですが、畏れ多くもうなずけるというか、自分にとっても大いにインパクトがある解でした。
(それこそ安易にわかったと思ってはいけない…!とも思うけど。。)

わたしの中の、「わかる」を体感した出来事

自分の経験に則してみると、確かに「わかった!」と体感したことはその後から「感じかたが変わる」「見え方が変わる」「考え方が変わる」というような変化があったように思います。

私は長らくレースラフティングという競技に関わってきましたが、レースラフティングは、1つのボートをチームで「漕ぐ」ことで進めます。

この「漕ぐ」(パドリング)技術を磨くために練習するなかで、競技に関わる人たちの中では、「漕ぐ」という動作をさらに分解した、「キャッチ」という概念というか言葉が使われることがよくあります。

「キャッチ」とは、具体的には、パドルが水中に入って、そこからパドルを前から後ろ(漕ぎ手にとっては奥から手前に)動かすことでボートを前に進める推進力を生み出します。

このときの「水をつかむ」ような行為のことを指して「キャッチ」と言っている、と私は認識しています。

この「キャッチ」、私は当初「できていない」とチームの他のメンバーから指摘されていました。
厳密には、漕ぐ動作はしているし、ボートも動いているので「キャッチしていない」訳ではないのですが、「できていない」と指摘されます。

私は「キャッチができているとはどういう状態なのか?」それ自体がまずわからなくて、悶々と考えながら漕ぎ続けていました。

そんな状態が3~4年くらい続いたのですが、チームがパドリングにおいてコーチをつけ指導をしてもらう中で、自分の中で「キャッチ」というものの正体というか、それこそ感覚として「わかる」という状態になった経験があります。

このときは、「それまでとは違うパドルが水を通す感覚」を感じられるようになったことで、「これがキャッチか…!」と認識した記憶があります。

一見、動作としてはほぼ同じなのでパドリングを詳しく知らない人が見たらたぶんほとんど変化はないと思います。
でも、自分の中では確実にこれまでと違う、という感覚がありました。
(具体的には、徐々に感覚を掴めるようになっていく感じですが。)

わかるを通じて、変化を楽しむ

スポーツではこういうことがよくあるように思います。

たとえば、ラフティングをするうえでよく課題として上がる「どうしたら川の流れを読めるようになるのか」という問いも似ているような気がします。

この問いにおける「どうしたら」という部分はまた別の問題になりますが、「川の流れが読めるようになったら」という点に関しては、おそらく

「川の見え方が変化する」
「流れが見えるようになったことで何をするかという考え方が変わる」

という変化がありそうだな、と思います。


私はこれまで、自分を向上させるには「わからないことをわからないと認識すること」が鍵だと思っていました。
ここに今回、「わかるとは、それによって自分が変わること」という「わかる」の状態を理解したことで、またひとつ解像度が上がったような気がします。

というか、「わかる」の状態がわかることでより「わからない」の状態も理解しやすくなりました。

そして、わかるということはすなわち、これまでの自分とは違う
「新しい感覚」や「新しい考え方」、「新しい経験」
との出会いがあって、それが自分に取り込まれるというか、納得して自分の中に入っていくことなのだなと感じました。

わかるとは変わること

これを知ったうえで、変化を楽しみつつまた色々と学んでみたい…!と思いました。

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