斜線堂有紀「私が大好きな小説家を殺すまで」を読んだ日の日記
斜線堂有紀先生の「私が大好きな小説家を殺すまで」を読んで、なんらかの物を語りたくなった日記。
一種のラブレターでもあると思う。
あれを読んでこれを書くのは正気ではないのだが、正気ではないので書く。
たぶんネタバレがあります。脱法小説のネタバレもあります。
ツイッター拡張版エッセイ形式風味日記なので文体はぐちゃぐちゃです。
半分以上は意味のない私のお話。
この小説を読み始めた日、私は気が狂っていた。
正確に言えば前夜から狂っていた。
この1週間ほど、私は昼夜逆転暗澹生活を送っていた。よくわからない焦燥が私を追いかけてきて、背中を殴りつけるのに動けない。
夜、ひそひそと外出し生きるのに必要な用事をほそぼそ行い、そして日中はほぼ死んでいた。目覚ましに負け、あるいは勝ち、朝というか昼に目が覚める日々だった。雑な生活に負けて肌も死んでいた。ごろごろしていた布団にはくぼみが出来ていた。
ただなんとなく思いつきで、斜線堂有紀先生作品の年表を作って、ぼんやりと空気を吐いていた。
前日、唐突に高揚した。
躁に転じたと言うのではとも思う。久しぶりに家事をした。洗濯槽用の酵素洗剤をわざわざ買ってきて、洗濯機の掃除まで始めた。
眠気がやってこない。薬を飲まなくてもいいような気さえして、初めて薬を飲まずに過ごした。
眠れなかった。眠らなくていい気がした。
そのまま、hontoで約3万円分の本を買った。完全に金銭感覚がイカれている。
なんとなく続きが読みたかった漫画たちを読み終えた。カルデアスクラップを読んでバカ泣きした。40巻弱ある漫画も一部読み崩した。ねこぢる大全を消化した。なんとなく知っていたものの、漫画家ねこぢるのWikipediaを初めて読んだ。
そうして暇になった。
動けない日は虚無虚無無限マインスイーパーをするところである。
でも、その夜私は「動ける」状態だった。
「私が大好きな小説家を殺すまで」を読もうと思った。電子書籍を開いた時に、斜線堂有紀先生の様々なカフェの描写を思い出した。(ちなみに菱崖小鳩と喫茶店ロンには行きたくないが死体埋め部となら行きたい。)
急に空腹が襲ってきた。コーヒーが飲みたくなった。
これは今読むものではないと勝手に思った。近所にあるというカフェを検索して、行こうと誓った。そこでモーニングをいただき、この小説を読もうと。
そのためにはちゃんと朝に起きよう、と。
結局眠れなかったのでほとんど起きていた。
朝まで起きていればモーニングが食べられるのである。
そう思って布団でよくわからない雑誌などを眺めていた。dマガジンで女性向けファッション雑誌や暮らし雑誌を読む行為もかなりの虚無虚無であり、脳に全く入ってこない細かい文字と色とりどりの服やご飯の写真がスマートフォンの世界に私を繋いで、起こしていた。
と、思ったら明け方に2時間ほど寝ていた。
それでも「朝」に私は目覚めることができたのである。久しぶりにカーテンの隙間から見た朝焼けは綺麗だった。
テンションの高さはやはり続いていた。
太陽が完全に登ってから、私は布団をせっせと干した。部屋に干しっぱなしだった洗濯物を取り込み、洗濯機の洗濯槽が綺麗になったか確認し、溜まった洗濯物を洗い始めた。
そして本当にカフェへ向かった。
ずっと行こうとは思っていたのである。でも機会がなかった。そもそも私はあまり喫茶店に行かない性質なのだ。
道筋がよくわからなくて、遠回りをした。
通った道の用水路にベージュのぬいぐるみっぽい毛の、拳大の塊が2つ落ちていて、日常の謎みたいだと感じた。名探偵ではないので謎は解けなかった。そもそも本物の動物の毛だったらどうしよう、めちゃくちゃ怖い。
ともかく、カフェは開いていた。
焼き立てのパンの匂いがした。
――焼き立ての!?
インターネットにあまり情報がなかったため知る由もなかったのだが、店内で焼かれたパンがモーニングに供されているようだった。
最高じゃん。
ついつい窓辺の席に座ったところ、ゆっくりと動く店主さんがブラインドを明けてくださった。
私は慌ただしくモーニングを注文した。
丁寧にお冷やメニューを渡してくれた店主さんと、慌ただしい自分の取り合わせが滑稽だなと思った。
雰囲気の良いカフェだった。
ラテン系の個別レッスンをしている先生と生徒、朝から静かに楽しそうにお話している老婦人たち、一人寡黙にモーニングを食べるおじさん、木製の子供のおもちゃ、2001年宇宙の旅に似た心地いい不協和音が含まれたモダンなジャズ。
砂糖壺の横には、小さな花が生けられていた。秋にふさわしい深い紫色の花だった。
モーニングは予想以上に最高だった。
サラダ、焼き立ての温かいパン、小さく添えられたバター、バターの効いたパプリカ入りスクランブルエッグ、それからホットコーヒー。
これでこのお値段か、などと思いつつ窓辺やら手元の花やらを眺めてご飯を食べた。
最高の焼き立てパンからはうっかりしていたのだろうか、髪の毛が1本紛れていたのだが私はそういうのはどうでもいい方なので引っこ抜いてそっと床に捨てた。いや、床に捨てるのはどうかと思うけども。
コーヒーは酸味が際立ったタイプで、程よく苦味があり主張が強すぎず、読書のお供に最適である。
「私が大好きな小説家を殺すまで」を読み進める。
私はしばしばエモーショナルと思ったシーンや伏線と感じたシーンにマーカーを引いて電子書籍を読むのだが、冒頭からラインマーカー引きまくりでしたね、ええ。
私はこの話を知っている、いや知らない、でも知っている。インターネットで腐るほど見た気がすると思った。
題材がアレだ。実際に読んだことはない気がするのだが、この類型のテンプレートは嫌というほど目にしているのだ。
悲劇はタイトルからわかっている。悲劇のスタート地点は劇中作の冒頭ですでに示された。
劇中作はその始まりと終わりを時系列で繋いで補完していく。重要なシーンには十万字のうち多くを割き、学校のシーンは非常に簡潔に。
劇中作の主人公の過ごした時間は母親の支配生活から脱却しても、学校以外つまり平日の夜から朝までの時間と少しの休日にほとんど集約されている。
母親は腕時計で夜7時から朝7時までの主人公を縛っていたが、結局は彼女はその時間にのみ「あの時死んだはずだった」人生を過ごしていた。彼女の描写は先生との交流にのみ終始していた。
めちゃくちゃ怖い。結局、彼女の時間は夕方の踏切の前で止まったままじゃないかと思った。
高校に入ると話が異なってくる。
高1の秋からの時系列のスポットには、部活の描写が加わる。と言っても、記述されるのは一人だけで、思い出は断片的だ。
先生の描写が少なくなった。先生の代わりに、主人公と「小説」の関係がメインになる。主人公はあの暗闇で、夜から朝を「小説」と一緒に生きはじめたように思えたし、実際「小説の断片」とウォークインクローゼットで同居していた。
そうして遥川の小説はどんどん幕居梓のものになった。
幕居梓は彼女の主観はあろうとも淡々と事実を書いた――のだと思う。
一方で私は、小説で事実を作り変える「謎解き」をした瀬越歳華を思い出した。
幕居梓はおそらく事実を塗り替えなかった。
同じように星空を見ていたのに、同じように小説を書いていたのに、彼女と彼女の「小説」への向き合い方は違ったし、「小説」でやったことも違った。
ただ、幕居梓も瀬越歳華も汚いことをしていても、それでも自分にとってはいい人であった、生きてほしいと願っていたところが似ているなと思った。
幕居梓と遥川悠真の感情についてはもう作中で十分に描写されており、彼女も自覚的だったので筆圧がすごい。
語れる隙間がない。
信仰をやっていたのだから仕方がない。その密着した隙間を語れるのは本人のみだ、とか思ってみたりした。
「隙間」が十万字というのがすごいけれど。小説家の才能がある幕居梓なので。
守屋和幸は敬愛により大好きな小説家「幕居梓」を守るため、大好きだった小説家「遥川悠真」を壊そうとした。
幕居梓は信仰で大好きな小説家の「遥川悠真」を壊してしまい、好きだった生身の「遥川悠真」も意図せずが喪ってしまった。
その結果、守屋和幸も好きだった生身の「幕居梓」を喪ってしまった。
個人的には死体埋め部北海道合宿編の殺し合い4人死体たちを思い出す構図だ。
最後、冷めたコーヒーをすすりつつ読み終えた小説は最高だった。
ツイッターにも書いたんですが、斜線堂有紀先生っぽい軽快な文体が潜められて、幕居梓の、遥川悠真の文体が十万字詰まっていたのも印象的だった。
警察官が劇中作を読み進めるシーンすら意図的に切れ味抜群な文体が潜められていたように思う。あれすらも劇中だったら恐ろしいので考えないようにする。
そうして私は本屋に赴き、紙の本を手に入れ荼毘にふし、埋葬した。
――と書きたかったんですけど、せっせと赴いた本屋に在庫がなかったのでこの話終わり!