【ハナー哲学 その9 自由権利義務責任の範囲】
最近、マンガで「表現の自由」が話題になることがあった。「自由」と「権利」は近しいところにあり、「義務」と「責任」は近しいところにある。これらを単体で語っても近視眼的なことになってしまうと個人的には思っている。なのでこのあたりの話題を語る時はすべてを語らなければなるまい…と思う(例によって自分の見解なので他人様に強制するつもりはさらさらないが)。
色々な視点、語り口があるが・・・まあわかりやすいところから。
以前「解決可能かどうかで問題への対処を考える。解決可能ならリソースをつぎ込んで対応する・解決不可能ならその問題を考えるのは傷口を広げるようなものだから考えない、割りきる」と書いた。
まずその問題を認識できるかどうか。不可知だと対処できない。これが最初(だから見えない攻撃や悪意は恐ろしい効果を発揮する)。
続いて、解決可能かどうかの判断。その問題の大きさがマイナス、自分(味方)の能力がプラスに働く。能力が高いと解決可能な範囲が増えるので基本的には良いことが多いが、反面なまじ能力が高いと気付いたり解決できたりする範囲が多いが故にノブレスオブリージュ的なものが生じる。有能な連中はそれだけ大変な思いをしているのだ。能力が低く問題に気づかなければ悩むことすらない。またどうせ解決できないとあきらめもつきやすいわけだ。ゆえに能力の高さは必ずしも幸福感とは直結していないと思っている。それでも能力は高い方がいいんだが。
ストレス、責任分担の話。これも以前書いた。自分、相手、環境のどこに責任を負わせるか? それぞれに一長一短があるのでバランスが大切だ。全部自分の責任だとすると成長できるし、自分が主役の人生を送れるが、そのうち潰れる。全部相手の責任だとすると、労せずして問題解決の可能性がある反面、成長できないし嫌われることうけあいである。全部環境のせいにすると誰も傷つかずに済む代わりに自分も相手も成長できず、環境が変わらない限り問題が解決しない。
自分がつぶれない範囲で自分の責任として考えるのが基本だろう。とはいえ自分がつぶれては元も子もないので程好く相手や環境のせいにするというバランス感覚が必要になる。生きていくには高田純次ばりの「無責任さ」「適当さ」も必要なのだ(笑)。
表現の自由とは「表現する権利」とも言い換えて良さそうだ。そしてその裏には表現の責任、「表現する者の義務」が存在する。
「自由や権利」と「義務や責任」は比例していなければバランスが取れない。
自由や権利ばかりで義務や責任が不足している連中は王侯貴族のように他から色々と奪うことになる。相手に「謝罪や賠償」を一方的に要求し続けるだけの存在は「寄生虫」に等しい。
一方で「義務や責任」ばかりの存在とは奴隷のようなものだ。自分に大した落ち度がなくてもなぜか負債ばかり背負うことになる。
CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。