必ず最後に愛が勝つ!?

将棋は上級者同志になればなるほど「多数の個所で戦いが同時に発生するようになる。相互に読みが浅い間は単純に駒がぶつかった個所での殴り合いになるが、読みが深まれば深まるほど「不利な場所での戦いには応じない」という我慢の応酬が発生し、むしろ別方面での戦いを仕掛けるからだ。
(唯一例外なのが玉のそばの戦いで王手が絡む場合である。)

戦いが複数発生すると「有利な場所」「不利な場所」「互角な場所」が発生する。

利害や損得の計算が最も役立つのは互角な場所(拮抗した場面)である。そこに限られた資源である「手番」を消費したり、さらには「持ち駒」を投入することで「有利な戦場」を増やす。

反面、絶望的な状況になるとそういった「計算」は機能しなくなる。せいぜいが撤退する判断基準になる程度だろう。

奇跡を起こしたいのなら、「愛」しかない。

・・・半分は冗談だが。半分の本気な部分を記すと「無償でのぶっこみ」というある種非合理的で理不尽な行動こそが相手の読みを乱す「情の発生する余地」があるわけだ。

むろん、絶対ではないし、負けが大きくなるだけの目算は高いのだが。

奇跡を起こさなければならない戦場が「王様のそば」、要は人生にとっての生命線であるのなら「全ぶっこみ」ができない時点で嘘っぱちだということだ。計算をして撤退を選ぶ時点で、その判断者にとっては「王様のそば(最重要)」ではないという判断が働いたという証左なのだから。

うむ、逆だ。「叫んでいた愛が本物ならば損得勘定での撤退はありえない、何故なら『負けたら終わりの戦い』だからだ」。
損するから撤退するという時点でその人物が大切なのは己の保身だという証左なのだろう。
私が相方のそばにいるのは「私以上に相方を幸福にできる存在はこの世に存在しない」という絶対的な自信によるものだ。だからこそ相方が私に「別れたい」と言ったら、即座に別れてあげる自信もある。その方が相方の幸せになるのならそれでいいのさ。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。