プロの定義「自分の正解を探せ」

「プロとは何か?」と言われて、ゴルフの青木選手、野球のバース選手、相撲の千代の富士関が全く同じ答えを返したそうだ。

「結果に言い訳をしないこと」

経緯はどうあれ個々の道を究めようとする人が、最終的には同じところに到達するらしい(上の三人は全員プロスポーツ選手という共通点はあるが)。そこには普遍の真理というか、物事の本質があるように思われる。

これ単体でも含蓄のある話だと思うが、当然にもう一歩踏み込みたい。たとえば宮本武蔵が書いた「五輪の書」は現代でも読まれているが、同時代の柳生宗則の記した「兵法家伝書」はほとんど伝わっていない。なぜか?

五輪の書が本質を解いた「WHY」の内容なのに対して、柳生の本は「ハウトゥーもの」だったからだと思う。物事の本質を語ろうとするとどうしても「WHY」になる。読みやすく簡単な「ハウトゥー」にはならない。

ハウトゥーの考えで行くと、やり方をまねすることになるわけだが、宮本武蔵のマネをしても体格や得ている経験、反射神経など様々な要素が異なる。あくまでも宮本武蔵にとっての正解であり、それが読み手の正解とはならない。

入門当初は「守破離」の「守」で基礎をしっかりとまねするのが良い。だが、やがては自身の正解を求めて踏み出す必要がある。うわっつらをまねるのではなくて、本質をつかむ必要がある。

今、本屋に行ってとっつきやすく読みやすいのは「ハウトゥーもの」だ。その時代、読む人が読みやすいように、ある種何も考えずとも受け入れれば良いように書かれているからだ。だが、本質を探ろうと生きるなら「WHY」という謎かけに対して、自分自身で正解を導き出さなければならない。生い立ちも能力も違うのに、他人の正解をそのまま自分の正解として使うのは難しいはずだ。ちょっと前に書いた「他人の助言はヒントにはできても、正解は自分で導き出す」というのはそういう意味になる。

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ハナー
CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。