「幸」と「福」の違い
「幸」というのは原因が自分の領域に無い、いわば偶発的な他より与えられたに過ぎないラッキーのこと。たまたま良家に生まれたとか、持って生まれた美貌とか、思いがけないうまい巡り合わせにぶつかることなどをいう。アテにはできないものだ。
「福」というのは原因が自分の領域にある、自身の努力や苦心によって勝ちえたフォーチュンのこと。勉強をして資格をとるとか、努力して出世するなどか。元は農家の俵を積み重ねた状態、神の前に蓄積されたものをいう。自分である程度は計算できるものだ。
幸福とは単なる事象を指すのではなく、事象を幸福に解釈する「思考方法」だと理解している。幾度か書いている「幸福解釈能力」というものがカギだ。
むろん、一般に幸福だとされること、宝くじが当たるだとか、異性にモテモテだとかの「幸」があれば楽に幸福を実感できる。それは否定しない。私もぜひあやかりたいw。
加えて、着実な努力で何かを勝ち取る、周囲の評価を得ることができれば幸福感は加速する。さらに低いコストで「福」を感じることができれば完璧だ。たまたま道端で見た花がきれいだとか、電車で老人が席を譲ってもらうシーンを見てほっこりできたとか、そういう「福」を感じるトリガーを多く持っている人間ほど幸福を多く実感できるのだろう。
だから「何かいいことないかなぁ」「いつ私は幸せになれるの?」「どうしてわかってくれないんだ!」というよりは、「いいことを探しに行こう」「私はすでに幸福をこれだけ感じられる」「分かってもらうための努力をする」という決意と行動が多いほど幸福になれると思われる。
<最近、大学生の間で麻薬がはやっているとかいうが、他人から与えられることに慣れてしまったのだろう。 なんと「浅はか」で「安易」なことか。 自分で幸福を探す能力が枯渇してしまって単純に「より強い刺激」が大麻なのか? 薬物による刹那の快楽のために自分を失い、周囲に大迷惑をかける。 自分で考えることをやめた時点で「そいつ」はもはや「そいつ」ではない。「なぜ、どんな理由でそう考えたのか?」を知りたがる私にとっては興味の埒外になる。そんなことを感じた。>
理屈が先行して、私自身が半分くらいしか実践できていないのが(あ、いや麻薬ではなくてね)いささか説得力に欠けるところではある。
同じ100万ジンバブエドルでも一方は「ラスベガスで購入した宝くじで獲得した!」という「幸」の入手。もう一方は「ラスベガスで1年間一生懸命働いて貯蓄した。」という「福」の入手。
私を含め大半の人が自分がそうなったらと望むのは前者、共感しやすいのは後者ではなかろうか?努力や苦労無く入手した「幸」は他人の嫉妬やヤッカミを受けやすい。努力や苦労をして入手した「福」はバランスが故に受け入れられやすい。にもかかわらず、単純に考えた時はつい「幸」を望んでしまうのは人間のサガか?
当然ながら、「ゾクゾクするほど俗物」な私も「幸」を望む願望は強い。ただ、それを人生の主軸にするのは愚かだと心得ているつもりだ。
「幸」任せの人生は自分の領域にないラッキーを祈りながら生きていく「他人任せの人生」のことになるだろう。自分は責任を背負わないし、ただ祈っていればいいのでラクちんだが、思うようにはならない。
「まちぼうけ」という歌を掲載する。
北原白秋作詞/山田耕筰作曲
(一)
待(ま)ちぼうけ 待ちぼうけ
ある日せっせと 野良(のら)かせぎ
そこへ兎(うさぎ)が 飛(と)んで出(で)て
ころり ころげた 木(き)のねっこ
(二)
待ちぼうけ 待ちぼうけ
しめたこれから 寝(ね)て待とか
待てば獲(え)ものは 駈(か)けて来(く)る
兎ぶつかれ 木のねっこ
(三)
待ちぼうけ 待ちぼうけ
昨日(きのう)鍬(くわ)とり 畑仕事(はたしごと)
今日(きょう)は頬(ほほ)づえ 日向(ひなた)ぼこ
うまい伐(き)り株(かぶ) 木のねっこ
(四)
待ちぼうけ 待ちぼうけ
今日は今日はで 待ちぼうけ
明日(あす)は明日はで 森のそと
兎待ち待ち 木のねっこ
(五)
待ちぼうけ 待ちぼうけ
もとは涼(すず)しい 黍畑(きびばたけ)
いまは荒野(あれの)の 箒草(ほうきぐさ)
寒(さむ)い北風(きたかぜ) 木のねっこ
兎が最初に躓いた最初の「幸」はありがたくもらっておいてよい。問題はその後である。その「幸」に味をしめて、ただ祈り待つだけではイカン。良く、高額の宝くじに当選した人がその後の人生をおかしくするのはこれが原因だ。努力や苦労の代価なしの「幸」に味をしめてしまい、調子を狂わせる。「行動する人」からに「祈る人」になりさがる。
思い出してみると良い。なかなか解けない難問を解いた時の達成感。普通では勝てない相手に何とか策略や工夫をひねり出して打ち勝った時のあの達成感を。そう考えてみると今の努力や苦労は「福」の価値を高めるために必要な代価であると思える。
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