【要約】『組織の不条理』と限定合理性
こんにちは、白山鳩です! クルッポゥ!
マガジン『本を読んだら鳩も立つ』での本のご紹介です。
前回は、『失敗の本質』を取り上げ、
「戦略が機能しないまま衰退していく組織の失敗の本質」を見ていきました。
今回取り上げるのは、この『失敗の本質』へのアンチテーゼとも言える一冊『組織の不条理』です。
日本軍の失敗を、人間や組織の合理性の限界の観点から見ていく一冊です。
「完全合理性」を前提とする『失敗の本質』
さて、前回の記事でも紹介した名著『失敗の本質』に対し、
『組織の不条理』は、同書の功績を称えつつも、「『失敗の本質』では、組織は合理的であるべきだという前提に立っている」という指摘をしています。
しかし、『失敗の本質』の基本的なスタンスは、合理的な米軍組織に対して非合理的な日本軍組織という構図があり、それゆえ日本軍の組織はより合理的であるべきであったという流れになっている。
つまり、完全合理性の立場に立って、日本軍の戦い方の非合理性を問題点として分析するという形になっている。
さて、ここに「完全合理性」というキーワードが出てきました。
読んで字のごとく、
「人や組織は、突き詰めると、完全に合理的な選択ができるようになる」
「だから、完全に合理的な選択ができないやつらは非合理だ」
といった、ちょっとトートロジーっぽい考え方です。
あるいは、「人や組織は、完全に合理的な選択が可能な存在だ」という前提を勝手に設定した考えとも言えるでしょう。
しかし当たり前ですが、あらゆる場面で合理的な判断ができる人間や組織など存在しません。
そういう意味では、「完全合理性」は幻想であるとも言えそうです。
しかし、伝統的な経済学では、「人は合理的な判断をする生きものだ」というのを隠れた前提として議論を展開してきたのもまた事実なのです。
伝統的なミクロ経済学では、すべての人間は完全合理的であると仮定されるので、企業組織の行動は一人の企業家の行動と同じものと見なされてきた。
というのも、企業家は完全合理的なので、すべての従業員の行動を完全に監視でき、利益最大化するように彼らを完全にコントロールできるからである。
ちなみに、「完全合理性」で物事を決定することは、涅槃(ニルバーナ)にいたったブッダぐらいにしかできないだろうということで、「ニルバーナ・アプローチ」と皮肉られています。
今日から声に出して読みたい経済用語ですね。
「おまえ、それ、ニルバーナ・アプローチじゃね?」といった具合でしょうか。
限定合理性と新制度派経済学
というわけで、「完全合理性」という考え方への批判から「限定合理性」という考え方が生まれるようになりまいた。
全ての人間は完全に合理的ではなく、完全に非合理的でもないと仮定される。
人間は限られた情報の中で合理的に行動しようとするものと仮定される。
このような人間仮定のことを「限定合理性」と呼ぶ。
つまり、すべての人間は主観的に合理的に行動を行うものと仮定される。
『組織の不条理』もまた、この「限定合理性」のもとで議論を展開していきます。
たとえば、ガダルカナル島での戦いで日本軍は白兵突撃戦術を繰り返し、戦闘による死者を8,500人も出しています。
ここで、
「米軍の砲弾や自動小銃の前に、何度も白兵突撃戦術を繰り返すなんて、正気の沙汰じゃない」
「旧日本軍は、全く合理的じゃなかったんだな」
という判断を下すのは簡単でしょう。
一方、『組織の不条理』はそのような考え方に待ったをかけます。
しかし、このような議論のほとんどが、完全合理的な人間を基準として現実を分析していることに注意しなければならない。
つまり、もしすべての人間が完全合理的であるならば、
このような非効率的な白兵突撃戦術は選択されず、
より効率的な戦術が採用され、
日本軍はより効率的に戦うことができたという分析なのである。
したがって、このような完全合理性にもとづく分析から出てくる政策は、今後、人間は完全合理的に行動すべきだという実行不可能な提言でしかない。
では、伝統的な経済学を踏襲した「完全合理性」に対するアプローチとはなんなのか。
『組織の不条理』では、伝統的な経済学に対する新たなアプローチとして「新制度派経済学」の3つの考えを提示します。
「①取引コスト理論」
「②エージェンシー理論」
「③所有権理論」
太平洋戦争の日本軍の振舞いを、これら3つの理論で解説していきます。
①取引コスト理論とガダルカナル戦
1つ目は、「取引コスト理論」です。
取引コストとは、「組織が何らかの取引を生じる際に発生するコスト」を指します。
具体的には、
「機会の探索コスト」
「取引相手との交渉コスト」
「契約履行確認のための監視コスト」
などが挙げられます。
いずれも、人間が限定合理的であるがゆえに発生するコストです。
複雑な環境下で情報不足や判断困難に陥ると、合理的判断に必要となる取引コストは高くなります。
一方、取引に参加するプレーヤーたちは、取引を有利に進めるために、情報操作や裏切りなどを行います。
なお、機会を最大限活かそうとするこの姿勢を「機会主義的行動」と呼びます。
また、人は何度も何度も取引コストを発生させることを好みません。
というわけで、一度何かを経験してしまうとそれをデファクト・スタンダードとしてしまう……これを「経路依存性」と呼びます。
『組織の不条理』は、取引コストにより、ガダルカナル島での戦いで日本軍が白兵突撃戦術を繰り返したことを説明できるとしています。
・陸軍が、白兵戦に特化した投資・教育・組織作りをしてきたこと
・精神主義にもとづく白兵銃剣主義を具現化したリーダーを高く評価する文化を形成してきたこと
・これまで白兵突撃で戦死した勇敢な日本兵士の死がサンクコストとなってしまうこと
この巨大なコストのために、ガダルカナル戦における日本陸軍は容易に過去へと後戻りできない歴史的不可逆性の中に置かれていた。
つまり、ガダルカナル戦における日本陸軍は、たとえ白兵突撃戦術が非効率な戦術であったとしても、依然としてその戦術をスタンダードとして採用し戦い続ける方が合理的な状況にあった。
「いやいや、それでもやっぱり旧日本軍って、アホな人たちの集まりだったんじゃない?」
と思う人たちは、自分の所属する組織に置き換えて考えてみてください。
たとえば、2010年代後半から定着して久しい「DX」。
しかし、いくら論理的で効率的なデジタルな仕組みを提示されても、
既存の組織と営みに支えられたアナログな仕組みを変更するのは一朝一夕では難しいことは、多くの会社が実感していることでしょう。
このように、取引コスト理論はいつの時代も組織を脅かしているのです。
②エージェンシー理論とインパール作戦
2つ目の理論は「エージェンシー理論」です。
エージェンシーとは、依頼人(プリンシパル)と代理人(エージェント)の受委託関係のこと。
企業で言えば、
方針や戦略を定める部門長が「依頼人」、
これを実現する現場組織が「代理人」と考えるといいでしょう。
依頼人と代理人が双方「完全合理的」であれば、依頼人の考えた方針や戦略は、代理人が100%正確に叶えてくれますが……。
しかし、実際には、すべての人間は限定合理的である。
それゆえ、企業家はすべての従業員の行動を完全に監視できないし、コントロールすることもできない。
それゆえ、従業員は企業家の不備に付け込んで、隠れて手抜きをする可能性もある。
このような現実的な人間関係を分析するために登場してきたのが、エージェンシー理論である。
「エージェンシー理論」では、依頼人と代理人の間に、
①利害の不一致
:依頼人と代理人の利害は一致しない
②情報の非対称性
:依頼人と代理人の持っている情報量は一致しない
といった状況が発生すると説きます。
そして、代理人の「手抜き」「さぼり」といった非倫理的なモラル・ハザードが起き、
「まともな人間は去り、自分の利益ばかり考える悪者だけが残る」というような淘汰、すなわち「アドバース・セレクション(逆淘汰)」が発生するというのです。
この「エージェンシー理論」を援用して解説されたのが、インパール作戦です。
インパール作戦は、インド北東部の地・インパールの攻略を目指した作戦で、牟田口(むたぐち)中将の、精神重視の杜撰な作戦で多くの犠牲を出したことで有名です。
さて、このインパール作戦において、
大本営(日本軍の最高機関)を「依頼人」、
大本営の命令に基づいて行動する現地軍を「代理人」とすると、次のような問題が起こります。
○利害の不一致
・「代理人」である現地軍、特に牟田口中将には強い名誉欲などがあり、なんとしてもインパール作戦を成功させたい。
・一方、「依頼人」である大本営はインパール作戦に多大な資源を配分することに関心はなかった。
○情報の非対称性
・「依頼人」の大本営は、遠く離れた現場を十分に把握・監視・コントロールできないでいた。
・一方、最前線の現場は自由に動き回っていた。
○アドバース・セレクション
・現地の独断専行やモラル・ハザードを抑制するために、大本営がかろうじて出せた命令は、「状況を見て、作戦を実施するか注視するかを決定せよ」という「作戦実施準備命令」だった。
・作戦参謀たちは、インパール作戦の実行はあまりに高いコストを伴うので、この作戦準備命令により作戦は実施されることはないと考え、合理的に沈黙した。
・この作戦の勝利に様々な個人的政治的利害をもっていた司令官たちは、作戦中止はいたずらにコストを増加させることになると考えた。
・結果、作戦「準備」命令は作戦「実行」命令に変えられてしまった。
いかがでしょうか。
「大本営も、現場も、大局観を持って合理的に考えればなんてことはなかったのに」と批判するのは簡単ですが、
現実にはそれぞれが自分の利益の最大化を考え、かつ情報が一致しない中で行動する組織にあっては、そのような批判は「完全合理性を持って行動しろ!」という空理空論につながりかねない、というわけです。
③所有権理論(共有地の悲劇、コモンズの悲劇)とジャワ軍政
3つ目の理論は「所有権理論」です。
「財の発生させるプラス・マイナスの外部性に対して所有権がどのような働きをするかを分析する経済理論」とのことなのですが、文字だけ読んでもさっぱりわかりません。
「完全合理性」のことを散々批判しておいて、「あんたたち本当に『限定合理性』って言葉の意味、わかってる?」と言いたくなるような定義です。
というわけで、みんなで使って良い公共の場「共有地」を例に説明しましょう。
共有地から得られる果物や材木などを、みんなが節度を守って共有しているときはなんの問題も発生しません。
しかし、たいていの場合、どこかの時点でこっそり共有地の資源を浪費する輩が現れます。
すると、
「あいつが無駄遣いするなら、自分だって少しぐらい……」
「ここで自分がもらっておかないと、あいつばっかり得をするじゃないか」
という風潮が広まり、「大切にしよう」という当事者意識が無くなった結果、最終的には共有地の資源は食いつくされる……
→だから、「共有」ではなく「所有」が重要になる!
これが所有権理論です。
ちなみにこの事例は、「共有地(コモンズ)の悲劇」とも呼ばれます。
さて、ここまでの日本軍の失敗とは異なり、今度は日本軍が不条理を回避した事例が紹介されます。
それは、インドネシアのジャワでの現地統治の事例です。
奴隷労働のような支配体制が敷かれた他の植民地とは異なり、ジャワでは、住民たちは自分たちの収穫物を軍が接収せず自分たちで処分できる余地があったといいます。
『組織の不条理』では、ここに所有権理論が援用されます。
すなわち、奴隷労働のような支配体制では、現地の労働者の手には所有物が残らず、収穫物は全て自分の手を離れます。
そうすると当然、「どうせいくら働いたって無駄でしょ」という考えで、労働者の生産性は落ちてしまい、胴元である日本軍の取り分も減ります。
「いくら働いたところで、賃金に大して反映されない」という現代の労働者たちと似たような構図ですね……。
一方、「自分で収穫したものを、自分たちでもらえる」という所有権が発生する状況だと、現地の労働者たちも一生懸命働くので、
「奴隷から総取り!」の状況よりもかえって取り分が増える、というわけですね。
「これまでの経験から言わせてもらうと」という「勝利主義」
さて、ここまで日本軍の失敗/成功を、「①取引コスト理論」「②エージェンシー理論」「③所有権理論」の3つで見てきました。
このように、「限定合理性」を前提とした考えで組織を捉えるのが重要だ、というわけです。
一方、過去の勝利の経験を頼りに学習することを止めた「閉ざされた組織」は、自分たちを「完全合理的」だと考える「勝利主義」にまみれていき、いずれ淘汰されるだろうと『組織の不条理』では指摘されています。
では、この勝利主義を回避するのに必要なのは何でしょうか。
それは、「自分たちはあくまで限定合理的な存在であると自覚する」ことです。
特に、過去に大きな経験をしている場合は、要注意です。
あなたの上司やあなた自身は、
「これまでの経験から言わせてもらうと……」
という言葉が口癖になっていませんか?
『組織の不条理』では、「自分たちは限定合理的だ」という自覚のもとで、仮説検証を繰り返し過ちから学んでいく「漸次(ぜんじ)工学的アプローチ」の重要性を説いています。
このような漸次工学的な考えをもつメンバーからなる組織では、メンバーたちは自分たちが知っていることがいかに少ないかを自覚している。
また、自分たちが誤りを通してのみ学びうることも知っている。
それゆえ、このような組織では、予測した結果と達成された結果が常に比較され、一歩一歩道を前進することになる。
逆にいえば、このような組織では、
原因と結果を明らかにできないような、
また自分が何をやっているのかわからないような複雑な、
しかも大規模なユートピア的改革や変革を企てようとはしない。
何よりも、漸次工学的アプローチは、組織の最も緊急な問題、たとえば組織内の非効率、不正行為、不平等のように実践的に解決できる諸問題を探し、それを漸次的に解決しようとする試みなのである。
以上、『組織の不条理』の説く、「限定合理性」を前提とした3つの理論、
①取引コスト理論
②エージェンシー理論
③所有権理論
そして、「勝利主義」を克服するための「漸次工学的アプローチ」の重要さを見てきました。
『組織の不条理』では、
自分たちの組織の「限定合理性」を意識し、
組織に対して常に批判的な態度をとることで「全体主義」に陥らないようにしなければならない、とも説かれていました。
今回の記事では最後に、同書で説かれていた次のようなメッセージで終わりといたします。
たとえば、いまあなたが有名会社の社員である、あるいは有名大学の学生であるとしよう。
もしあなたがその会社を辞めた場合、あるいはその大学を退学した場合、
自分の存在価値あるいは存在感がほとんどなくなるかもしれないという不安や恐怖に駆られるならば、あなたは全体主義に侵されているといえる。
一個の自由な人間として、自分の属する組織、そして自分自身の「限定合理性」を常に意識できるようにありたいものですね。
さて、次回は近年話題の心理的安全性について、『恐れのない組織』を通して見ていきます。
お楽しみに。
to be continued......
参考資料
・菊澤研宗(2017)『組織の不条理 - 日本軍の失敗に学ぶ』(中公文庫)