【社会人/博士/体験記】第22回「わたしは『結果』だけを求めてはいない」
こんにちは、白山鳩です! クルッポゥ!
このマガジンは、
働きながら、「博士後期課程="社会人"博士」
を目指す体験談です。
前回の記事はこちら ↓↓↓
さて、今回は、
「査読付き論文」で復活を果たした話
について書いていきます。
1つの記事あたり、だいたい5分で読めますので、お気軽にスクロールしてみてください!
査読に落ちたときの選択肢
前回の記事で書いたとおり、私は査読付き論文に落ちてしまいました……。
それも、「条件付きで受かりますよ~」と、ちょっとした希望を見せられた上で……。
こうなると、選択肢は2つあります。
1つは、「研究ノート」という位置づけで、提出してしまうことです。
研究ノートとは……
という位置づけです。
研究実績としてカウントはされるので、無いよりはマシですが、
客観的には、
(そうかあ……苦労されたんですねえ……残念な結果に終わったようですが)
と悲哀を誘ってそれで終わりとなります。
もう1つの選択肢は……「提出しない」という方法です。
なぜなら……この論文をブラッシュアップして、他の学会や雑誌に提出するという道が残されているからです。
さて、鳩はどうするか……。
もちろん、未熟な過去に打ち勝つために「提出しない」道を選びました。
すなわち、別の媒体でのアクセプトを目指す道です。
どうやって書き直すのか
まず、別の提出先の媒体を探します。
選択肢は、
①学会発表(年に1回の発表を求める学会を探す)
②雑誌への提出(定期 or 随時募集している雑誌を探す)
という二択です。
②雑誌の提出においても、●●学会や●●雑誌が論文を募集していることもあれば、
所属している大学が論文を募集していることもあります。
所属している大学が論文を募集するスタイルは「紀要」と呼ばれます。
さて、提出先を選んだところで、次は論文の提出です。
アカデミア界隈で時に耳にするのは、
「リジェクト(拒否)を喰らった論文でも、細部をちょこちょこっと書き直せば、別の媒体でアクセプトされることもある」
といった武勇伝じみたエピソードです。
確かに、「なんでうちの媒体が発行している雑誌に提出するの?」には応えなければいけないので、若干の手直しは必要です。
アメリカ文学の雑誌に提出した論文を、
数学の雑誌に提出できるかというと、
そりゃ無理だ、というような具合です。
もう少し具体的に言うと、社会科学の論文を書くときは、
「●●というのは、▲▲学上、重要な課題ではないか」
といった課題提起をしてから論文を書くので、
提出する媒体に合わせた課題提起にすべきだ、ということです。
とはいえ、入り口の課題提起さえ新たな媒体に順応させれば、
後はほぼそのままでいいだろうと考える
過程や方法も意に介さない悪のカリスマのような発想も存在するでしょう。
しかし、私の指導教官・X先生は、
という方針でした。
「結果」だけを求めて近道をすると、真実を見失うかもしれないからです。
そういうわけで、イチから論文を作るような清らかな気持ちで加筆修正しまくりました。
いい査読と悪い査読がある……どっちから聞きたい?
さて、そういうわけで、数か月後、別の媒体に再度、査読付き論文の提出をすることになり……。
再び、
③Major Revision(大幅に修正しないと載せないよ)
の評価が返ってきました。
(おいおいおいおい~ 前回と一緒じゃないかよ!)
と、最初は思いました。
しかし、査読者のコメントを見てみると、以前の査読者とまるで違うのです。
まず、ぱっと見たときに、不快でない。
何より、今回は、このコメントに沿って論文を加筆修正すれば、
現在よりも更に良い論文になるだろうなと感じられました。
すなわち、良い査読コメントとは、
修正のためのガイドラインとなるようなモノじゃないか、
と気づいたわけです。
まあ、提出するこっちの論文が箸にも棒にも掛からない、だと、
そういうコメントにはならないのでしょうが……。
そんなガイドラインのような文章を書くにには、
論文の構造や論理構成をつかみ、その論旨に沿ったコメントを残さなければいけません。
そんないい査読をしてくれる査読者はきっと、
有能な研究者なのだろうと想像がつきます。
査読者を任されるというだけで、ある程度のポジションであるでしょうし……。
そんな方というのは、そりゃあ忙しいでしょうから、
そんな忙しい合間を縫って的確なコメントをしてくれる査読者には敬意を表したい気持ちでいっぱいになります。
こうして、鳩は、初めての論文を生き返らせ……
そして、人生初のアクセプトを得ることになったのでした。
参考資料
・挿入マンガ①②③④:荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』(集英社)
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