面白エピソードで学ぶ三国志~蜀編~
【はじめに】
三国志についてご存じだろうか。中国の後漢時代の話であり、小説や漫画、ゲーム、ドラマなど様々な媒体で題材として使用されているためほとんどの方がご存じのことだと思います。しかし、三国志は歴史の話であり難しいというイメージから敬遠し、内容をよく知らない人も多いと思います。この記事ではそんな三国志の面白エピソードを紹介することで、三国志に興味をもってもらいたいと思います。
【三国志って何?】
そもそも三国志とは、中国の後漢末期から三国時代をえがいた歴史物語です。この三国志には大きく分けて2種類あり、歴史書である「三国志」(以降、史実とする)と羅貫中によってかかれた歴史小説の「三国志演義」(以降、演義とする)があります。
日本で主に知られている三国志は演義で、特に横山光輝の漫画「三国志」が有名です。主な国である魏・呉・蜀のうち蜀(劉備や孔明)を主役として扱われることが一般的です。
【登山家馬謖】
はじめに紹介するエピソードは故事で有名な「泣いて馬謖を斬る」で、馬謖が孔明の忠告を無視して登山をしてしまう話です。このエピソードは史実・演義ともに同じ内容です。
当時事実上の実権を握っていた孔明に重用されていた馬謖は、第一次北伐という大規模な攻撃作戦の際に要所である街亭の防衛を任されていました。このとき馬謖は孔明から、山の上に陣を取らないようにと指示されていました。しかし、馬謖は自身を過信していたために孔明の指示や副官の王平の制止を無視して登山をしてしまいました。その結果、蜀軍は敗北してしまいます。さらに馬謖は、罰則を恐れて逃亡してしまいます。結局捕まった馬謖は、命令違反に敗北した責任、逃亡したことが原因で処刑されてしまいました。
【親不孝者馬超】
次に紹介するのは馬超です。演義では蜀の五虎大将軍として蜀の代表格の武将とされている馬超ですが、とんでもない親不孝者なのです。この親不孝は当時の中国としては考えられないものでした。当時の中国では主に儒教が重んじられていて、その中には孝という子が親を敬い支えるべきとする考えがあります。
史実において、馬超の父親の馬騰は中国北西部で力をもっていた武将であり、同じく力をもっていた韓遂と争っていました。この争いを危惧した曹操(当時、朝廷にかわり実権を握っていた)によって仲裁され曹操(魏)に帰順している。しかし、力をもっていることを危惧した曹操により朝廷に招かれて馬超を残して一族のほとんどが曹操の影響下にある鄴に移住することになりました。馬騰を移住させた曹操は、馬騰のいた地域の南にいる張魯を討伐使用とします。その際に馬騰の軍を引き継いだ馬超は、自分たちが攻撃されるのではと疑心暗鬼になりあろうことか曹操と敵対してしまいます。その結果、人質同然で曹操の下にいた馬騰を含む一族全員が処刑されてしまいました。敵対したら一族が処刑されることは明白であるのになぜ敵対したのか理解できません。それに加え、母親と兄弟の仇である韓遂と手を結んで曹操に対抗していて、儒教を重んじる中国人としては信じられないことです。
一方、演義では蜀を主役(正義)としているため大幅な変更がされています。馬騰と韓遂の争いはかかれていません。そして馬超が曹操と敵対した原因も、曹操が馬騰を朝廷に呼び出して謀殺したために変更されている。
【情けない最期魏延】
最後は魏延の最期です。魏延は蜀で重用されていましたが、楊儀との仲が悪いことが原因で史実・演義ともに情けない最期を迎えます。
史実では五丈原の戦いにおいて孔明が病死すると、楊儀は孔明の指示の通りに撤退の準備をしました。また、魏延には楊儀を通して殿となって撤退の支援をするようにとの指示が出ていました。しかし魏延はこれを拒否し、自身の指揮のもと戦闘の継続を主張しました。楊儀は魏延を無視して撤退を開始したところ、魏延はこれを妨害してしまいます。そして魏延の軍と楊儀の軍で戦闘になってしまいましたが、魏延の軍の兵士は魏延をおいて逃げ出してしまい、魏延自身も逃げるも追撃してきた馬岱に討たれてしまいます。
演義でも楊儀の撤退を妨害して敵対します。また、魏延の側についていた馬岱の提案にのって蜀に反逆して漢中を奪おうとします。魏延が漢中を攻めると、先回りして漢中を守っていた楊儀は「わしを殺せるものがあるか」と3回叫べば城を明け渡すがお前にできるのかと挑発します。この挑発にのった魏延が「わしを殺せるものがあるか」と叫ぶと、ひそかに孔明の指示をうけていた馬岱が「ここにいるぞ」と即座に魏延を斬ったことで最期を迎えます。
参考画像
写真AC
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