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境界線

2023年2月10日〜23日。岐阜県関市において「渾沌の中の調和展Ⅱ」の開催に至った。岐阜県障がい者芸術文化支援センターさんと共催したアート展である。その一部は完全メタバース内展示とした。

なぜ私がメタバースに興味を持ったのか?それは「自閉症という知性」という書籍の中に仮想空間の中で活き活きと活躍する自閉症の方々の物語があり、興味を持ったからである。書籍の主題は「ニューロダイバーシティ(神経構造の多様性)」というもの。脳のバリエーションは人それぞれで、それを活かすことによって創造性を育む糸口になり得ることを様々な人たちの例を取り上げて書いてあった。私は興味を持った。

というのも、私の長男は自閉を伴う知的障がい者であった。言葉を使うことが少ない彼との暮らしの中で、親として迷ったり知りたいことは多かった。彼は同じ発音の言葉でも肯定や否定を使い分けた。前後の会話の雰囲気や声のトーン、表情や身体の向きなどから予測し判断したが、私が彼の真意を読み取れていたかどうかは分からない。

私はヘッドセット購入し試してみた。そこで感じたのは、身体の向きを変えるなど身体性を伴う会話が可能であること、相手も自分もアバターゆえに心理的ハードルが少し低いと感じたこと。(おそらく個人差あり)脳はいかに簡単に騙されてしまうのか。ということ。

仮想空間は仮想であるという定義は認識している。しかし逆説的に改めて考える。脳がいとも簡単に騙されるということは、私たちが見ているリアルは本当にリアルなのか?リアルって何?

人は五感から情報収集して脳が判断・解析している。自分の経験や思考をフィルターとして見聞きしている現実は、自分という仮想世界の中なのではないか。同じものを見ているのに他者は全く違う見解。という経験は誰にでもある。

ふと、荘子の中に出てくる「胡蝶の夢」を思い出していた。

いつだったか、わたし荘周は夢で胡蝶になった。ひらひらと舞う胡蝶だった。心ゆくまで空に遊んで、もはや荘周であることなど忘れはてていた。ところが、ふと目覚めてみれば、まぎれもなく人間荘周である。はて荘周が夢で胡蝶となったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか。

カタチにとらわれる人の儚さを説いたものだと思っているが、どんな形であれ主体は私なのである。現実も仮想も主たるヌシは私そのものである。

社会性というものにも阻まれ、主たる私はモヤの中にいるようだ。現実と仮想の境界線はどこにあるのか。仮想空間で体験したからこそ、現実も少し疑うことができた。

視点や聴き方を変えてみる。社会的な正誤にとらわれず、本来の主体である自分を感じて見聞きすれば、眼前に広がるその現実は違って見えるのではないか?それに気づくことができるのであればテクノロジーも使ってみる価値はありそうだ。

脳には人それぞれのバリーエーションがあるというのだから、個々の「リアル」は「障がい」というフィルターを通して見なくても、彩り豊かなバリエーションに溢れているはず。

「カーテンかくのっ」

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