まちが映る
地域の方々の協力もあり、アート展「渾沌の中の調和Ⅱ」の会期を終えることができた。昨年に引き続き今年もこの時期に向き合うことになるのが、”これはアートなのか、そうではないのか”、“障がいであるとか健常であるとか”という他者や自分からの問いである。少ししんどい引っ掛かりを抱えたまま長男の2月の命日に向かっていくというのが昨年からの流れである。
「伝えたい」という思いが希薄な私ではあるが、岐阜県障がい者芸術文化支援センター(TASCぎふ)と共同主催のイベントを開催するには、最小限の「伝える」行為は必要になる。言葉を使わずして「伝わってしまう」ことにはとても楽しさを覚えるが、チラシや文章など印刷物を発行する必要があり、認識されやすい言葉を使って伝わるように伝えることが求められたりすることには、少しハードルが高く感じる。「障がい者」や「アート」という文言などはそれを象徴する言葉であるような気がして、使うことをためらうこともある。
不特定多数の誰に何を伝えたいか?と関係者に問われると私は非常に困惑する。その問いには答えることがいつもできない。自分の長男を”障害があった息子”、”知的障がいの彼”などと連発するこの時期には消化しきれない違和感が溜まる。イベントを紹介してくれる新聞の”障がい者のアート”という大見出しに苛立たしさを感じたり感情が揺れることもある。同時に新たな同志がこれらをキッカケとして現われる嬉しさも交じり合って胸の中で膨らんでいき、ヒリヒリと疼く。展示という形で場を開くとはどのようなことなのかという模索は続いている。
言葉として「障がい」という記述をしたり発言をしたりする時点で、言葉を道具として使っている。障がいと健常を分ける必要などないと過去には発言したり他者から問われたりしたが、今は「どちらでもいいんじゃね」とこだわりは薄い。言葉で表現している限り相対した反対側の言葉は生まれる。「分ける必要がない」と言う時点で「分けている」ことに気付けていない自分たちというものが存在している。分けたから”良い悪い”という正誤判断は抜きにして、自分をそっと見つめる機会にしたい。
今回会場としてお店を開いてくれた店主さんたちとお店に来てくれたご本人やご家族、お客様方の間には、掲げられた作品をキッカケにして「何か」が漂ったようである。そこに言葉は見当たらない。その「何か」をあえて言葉にして表現はしたくはないという気持ちは強い。作品はご本人お一人から表出した何かであり、それを観る人々もお一人で作品に対峙している。お互いに「そのひと」にフォーカスできる僅かな時間が生まれることがとても大切な気がしている。イベントはその起こるかどうか分からない「何か」のフックになるために言葉を使う。そう考えてみれば惑わされずに「ことば」の力を信じてみてもいいのかもと感じている。
結果としてイベントは「何か」が開いてしまったと感じているのは、開催されたイベントの内容や企画によるものではない。店主さんたちや訪れた人たちが、ひとつの作品を通じて交わるまちの姿を映しているのにすぎないのだから。
それを「まち」はそっと見守り続けていると信じていたい。