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胡蝶の夢的な...アレ

長男と在宅している話は前回のnoteを読んでいただければ分かると思うが、在宅していても自在にあちこちに行けるVR(バーチャル・リアリティ)のヘッドセットを購入した。Oculus Quest2 である。オールインワンで価格も手が出せる感じだ。

そもそもなぜ私がVRに興味を持ったのか?それは数年前に読んだ「自閉症という知性」という書籍の中に、仮想空間の中で活き活きと活躍する自閉症の方々の物語があり、興味を持ったからである。

この書籍の主題は「ニューロダイバーシティ(神経構造の多様性」というもの。脳のバリエーションは人それぞれで、それを活かすことによって創造性をはぐくむ糸口になりうるということを様々な人たちの例を取り上げて説明している。それを意識することによって働き方や人の活かし方が変わってくるのではないかと提案していた。


私の長男は自閉を伴う知的障がいである。言葉を持たない彼との24年間の中で、やはり親として迷ったり、知りたいこともいろいろとある。同じ発音の言葉(その場面に関連性がない発声も多い)でも、肯定であったり、否定であったりする。例えば「次よ!」は、本当に待ってほしい時もあれば、今促してほしいという時もある。前後の会話の雰囲気や声のトーン、表情や身体の向きなどを予測しながら判断している。私が彼の真意を読み取れる確率は50%以下かも…。完全に遊ばれている。(;^_^A

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また自身の次の活動基盤を考えた時に、在宅という制約の中でも経験を積むことができる事はないかと考えていた。また福祉というカテゴリーに興味がある私は、VRが今後活かせるのではないかと考えていた。その意味でVRを体験してみるということは、双方の条件をを満たしていると感じた。

そんな時、㈱enmonoさんがVRを使ったZenschoolを行うことを発表した。対話中心で内発的動機によるイノベーションを喚起する本講座は、私も数年前に受講している。自己開示も含めて、深い対話ができないと成り立たない講座をVRでも可能であると言っていた。

興味を持った私はヘッドセットを購入し、彼らとの対話の機会を得た。そこで感じたのは、身体の向きを変えるとか、振り向くとかの身体性を伴う会話が可能であること。相手も自分もアバターゆえに心理的ハードルが少し低いと感じたこと(おそらく個人差あり)。あとは、空間の広さとバリエーションの豊富さであった。すぐにZennschoolマスターコース(Zennschoolで教えることができるようになる)に勢いで申し込んでしまった。(;^_^A

数週間後、実際に受講生がいる場にOJT参加して、講座に立ち会わせてもらった。2日間で16時間ぐらいヘッドセットを付けたまま過ごし、重さは気になるところではあったが、没入感も相まってあっという間であった。そこで体験したものを言語化するのは私には少し難しいが、受講生の声のトーンの変化など話に集中するとアバターに表情が見えてくる。これは、講師陣そろって同じタイミングで感じたことであった。”面と向かって話すのが苦手”とアバターの受講生が、アバターの講師に言ってしまう錯覚ぶり。また、自己開示の速さも目を引くものがあった。

脳みそはいかに簡単に騙されてしまうのか。。。

仮想空間は仮想空間としての定義はもちろんあるし、認識もしている。しかし、逆説的に改めて考える。脳がいとも簡単に騙されるということは、私たちが見ているリアルは、本当にリアルなのか? なのである。私たちが信じて疑わない目の前の現実は、本当に現実なのか?

そもそも現実って何?(笑)

人は視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚などから情報収集して、脳が判断・解析している。脳みそが決めているのだと思う。それを現実として見せているのだろう。仮想空間は最初から「仮想」と言ってしまっているので、嘘である、疑わしい、怖いなど心理的に敬遠しがちだと思うが、現実を疑う人は少ないだろう。

VRの中では、視覚・聴覚からの情報が多いと思う。それで人の脳が錯覚を起こすのであれば、自分の経験や思考をフィルターとして見聞きしている現実は、自分という仮想の中なのではないだろうか?などと考えたりしている。同じものを見ているのに全く違う見解。ということは誰もが経験していることだと思う。

ふと、荘子の中に出てくる「胡蝶の夢」を思い出していた。

斉物論篇;胡蝶の夢
 いつだったか、わたし荘周は夢で胡蝶になった。ひらひらと舞う胡蝶だった。心ゆくまで空に遊んで、もはや荘周であることなど忘れはてていた。ところが、ふと目覚めてみれば、まぎれもなく人間荘周である。はて荘周が夢で胡蝶となったのであろうか。それとも、胡蝶が夢で荘周となったのであろうか。 荘周と胡蝶はたしかに別の存在とされる。だが荘周は胡蝶となって空を舞う。これを「物化」と言う。(岸陽子訳)

人生の儚さやカタチにとらわれる無意味さを説いたものだと思っているが、どんな形であれ、主体は私なのである。現実も仮想も主たるヌシは私そのものである。形などはどうでもいい。

「自閉という知性」で読んだように、現在の社会の中でのコミュニケーションをうまく取れない人たち。いわば伝える手段が違い、主体を発揮しづらい人たちは一定数いて、その方々が、違う環境の中では自由に主体を発揮できる手段を手に入れる可能性は十分にあると感じている。

私たちも他人事ではなく、自分の主体を感じたり、伝える手段は持っているのか?と問われると何とも言えないのではないだろうか。社会性というものにも阻まれる。内観をして、自分の主体を感じること、脳内も多様であると感じることが必要なのかも。

仮想の空間での私は私ではない。現実の空間の私こそ私だ。ということではなく、どちらも私である。仮想空間で体験したからこそ、現実も少し疑うことができた。

視点を変えてみる。聞き方を変えてみる。社会的な正しい・正しくないにとらわれず、本来の主体である自分を感じて見聞きすれば、眼前に広がるその現実さえも違って見えるのではないか?それに気づくことができるのであれば、テクノロジーも使ってみる価値はありそうだ。

脳には人それぞれのバリーエーションがあるというのだから、個々のリアルは色とりどりなバリエーションに溢れている。。はず。

▼㈱enmonoさんとのVR内でのゆるゆる対話。お時間ある方はぜひ。




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