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風と星々のセレナーデ
ChatGPT o1 pro modeが執筆した長編小説です。
第一章 帰郷
夜行バスが緩やかに停車し、外灯の少ない田舎のバス停に降り立ったとき、四宮(しのみや)エリカは胸の奥にかすかな郷愁を覚えた。東京から乗り継ぎを重ね、ようやくたどり着いた小さな港町・葉空(ようくう)。夜明け前の空気はひんやりとして、どこからか磯の香りが混じってくる。
肩にかけていたリュックを持ち直し、立ち止まって深呼吸する。かつて幼い頃、祖母の家で過ごした夏の日々が、一瞬だけ脳裏をかすめた。大学院での研究や雑事に追われ、もう遠い昔のことになっていたはずなのに。
祖母が生きていたころ、葉空には何度も訪れた。しかしその多くの記憶は古いアルバムのように色あせてしまっている。唯一鮮明に残るのは、海風に吹かれながら祖母と一緒に眺めた「断崖の灯台」の姿と、そして祖父の行方がわからなくなった話だ。
祖父は船乗りだった。エリカが物心つく前に航海の途中で消息を絶ち、祖母はそれ以来ひとりでこの町に暮らしていた。祖母がよく語っていたのは、祖父が最後に残した「星の音を探しに行く」という不思議な言葉——。当時は意味もわからなかったが、いま思えば、それこそがエリカを葉空へ呼び戻す鍵になっているような気がしてならない。
この春、祖母が眠ることになった古い一軒家は、相続手続きが済んだまま放置されている。研究室の教授からは「長期休暇なんて取っている場合か」と呆れられたが、エリカはどうしてもここに戻ってこなければならないと感じていた。理由をうまく説明できるわけではなかったが、胸に残るわだかまりを解消しないまま、これ以上日常を続けることはできそうにないと思ったのだ。
バス停から海辺へ向かう道をゆっくり歩いていく。石畳が続く細い路地の両側には古い家屋や商店が並び、シャッターの下りた店先には漁網や舟具が積まれている。やがて視界が開け、波止場へ出ると、朝焼けの気配が海面をわずかに染めていた。
その瞬間、エリカは理系らしからぬ形容を思わず頭に浮かべる。——「神秘的」。いや、もっと科学的に説明できるだろう。海水の塩分が太陽光を反射してどうのこうの……。しかし、そうやって理屈をこねくり回しているうちに、大切な何かを見逃す気がした。
波止場には漁協のトラックが停まっていて、年配の漁師らしき男性がタバコをくわえたまま目礼をしてくる。「誰だ、こんな朝っぱらから……」とでも思われているのかもしれない。けれどもエリカは、頭を軽く下げて挨拶を返す。見ず知らずの人とすれ違っても、すっと挨拶が交わせる空気こそが、都会にはないこの町の魅力なのだろう。
さらに歩みを進めると、かつて祖母と暮らした家があるはずの路地へ通じる分かれ道に出る。だが、いざ曲がろうとしたとき、エリカの目は思わず別の方向へと引き寄せられた。海沿いの崖の上にぼんやりと浮かび上がる古い灯台が、まるで呼びかけるようにそびえているではないか。あれが、昔から“星の音”の伝説と結びついていた場所だ。
「星の音」——子どもの頃はただの作り話だと思っていた。でも、東京の研究室でふと耳にした天文現象の噂や、祖母が遺した日記にちらつく記述から、「もしかしたら何か本当にあるのかもしれない」と考えるようになってしまった。
朝の光の中で白く浮かぶ灯台を見つめながら、エリカはそっと口の中でつぶやく。
「おばあちゃん……わたし、戻ってきたよ」
その言葉を風がさらっていく。何も応えない空気の静けさに、どこか胸の奥がざわついた。しかし、そのざわつきこそがエリカをこの町に呼び寄せた原動力なのだろう。彼女はゆっくりと踵を返し、祖母の家のある方角へと足を進めた。
これが、まもなく巻き起こる数奇な出来事の予兆だと、エリカはまだ知らない。春先のまだ肌寒い風に吹かれ、薄暗い路地を歩いていく彼女の背中が、まるで遠い昔の祖母の姿に重なったかのようにも見えた。
第二章 揺れる影
祖母の古い一軒家は、葉空(ようくう)の街はずれ、山裾の緩やかな斜面に建っていた。坂道を上りきったところにある細い路地を左に曲がると、雑草の茂る小さな空き地を挟んで、石垣に囲われた敷地が見える。かつては畑があったのだが、何年も放置され、いまは背の高い草が風になびくだけだ。
エリカは錆びついた門扉を開け、玄関へと続く石段を踏みしめる。子どものころ、祖母に手を引かれてこの石段を駆け上がった記憶が微かに蘇り、「そういえば、随分急な坂だったんだな」と今更ながらに実感した。眼下には、家々の屋根越しに青白い海がちらりとのぞいている。遠くに潮騒の音が聞こえるが、それ以外はほとんど何の物音もしない。
玄関戸を開けると、わずかに埃のこもった空気が鼻をついた。鍵は郵送で取り寄せてあったため、難なく入ることができる。かつて暮らしていた記憶があるとはいえ、もう長く誰も住んでいないのだから、しばらくは掃除と整理に時間を割かねばならないだろう。
床を踏むとぎし、と音が鳴る。埃まみれの廊下を抜け、襖を開けると、そこが祖母の居間だった場所だ。畳にはうっすらと足跡のようなものが残っている。
「……誰か、来てたのかな」
ついそう呟いてしまい、エリカは周囲を見回す。戸締まりはしっかりしてあるはずだし、侵入者がいた形跡もない。けれど、廊下の隅や畳の表面に人が歩いたような痕跡があるのだ。ふと背後がそわつくが、自分だって今しがた靴下のまま歩き回ったばかりだ。気のせいかもしれない、と首を横に振る。
それにしても、壁に掛かった古時計は止まったまま。扉のガラス越しに見える柱時計の文字盤は、ちょうど五時を指していて、それが朝なのか夕方なのかも判別できないほど静止している。その静寂と薄暗さが、エリカにはどこか不思議な感慨を抱かせた。まるでこの家が時の流れから切り離されて、ぽつんと取り残されていたかのようだ。
少しでも風通しをよくしようと、窓を開け放つ。潮の香りと森の緑の匂いが混じった爽やかな風が、居間の畳をふわりと揺らした。すると襖の向こう、どこかの部屋でかさりと紙が擦れるような音がしたような気がする。振り向くが、そこには誰もいない。
「気のせい、よね」
少し心がざわついたが、疲れているのだろうと自分に言い聞かせる。夜行バスで仮眠しか取っていないし、何より初めてひとりでこの古い家に来たのだから。
とりあえず居間に荷物を下ろし、掃除用具を探すため押し入れを開けると、棚の奥に古びた段ボールがいくつか積まれているのを見つけた。そのまま閉じてもいいのだが、妙に気になってエリカは一箱を取り出す。そこには「四宮家 写真アルバム」と達筆な字で書いてあった。
段ボールを開けると、アルバムのほかに何冊かのノートと、茶色い封筒が幾つか出てくる。その封筒のひとつは、水辺で使われる防水用のビニール袋に包まれており、「おじいちゃんの手紙?」と表書きがある。
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「……祖父の手紙?」
幼い頃から祖母は祖父の思い出を多く語ってくれたが、手紙が残っているとは聞いていない。胸が高鳴った。そっと封筒を開き、出てきた便箋を広げる。そこには乱雑な筆跡で、こう記されていた。
この灯台には、星の音が眠っている。
あした出航したら、きっとその秘密を探し当てる。
エリカが大きくなるころには、必ず戻ってくるよ。
その文面を目で追いながら、指先が微かに震えた。祖父はあの航海に出て行ったまま、帰ってこなかった。星の音……? 祖母からは「おじいちゃんはその不思議なものを探しに行ったのよ」と言われていたが、子ども心にはどこかおとぎ話のようにも聞こえていた。それが本当に彼の手で書き残されていたとは。
文面を下まで読む。日付はエリカの誕生日の前日になっている。さらにもう一枚、別の便箋には、簡単な数式や見慣れない記号が雑多に書き込まれていた。古い海図のようなものを思わせる線も引かれていて、それが一体何を示しているのかはさっぱり分からない。
「何かの暗号……?」
思わずそんな言葉が浮かぶ。大学院で理論物理を専攻しているエリカにとって、こうした未知の符号や座標を見ると、頭を使って解き明かしたくなる衝動が湧き上がる。しかし自分の祖父が、こんなものを残していたなんて。幼い頃に想像していたよりずっと、祖父という人はロマンチストで、同時に何か大きな秘密にかかわっていたのかもしれない。
エリカは封筒の中身をすべて丁寧に確認し、もう一度封をして押し入れに戻した。この家に何か重大な手がかりが眠っていると確信しつつも、あまりの疲労感に、今日はまず身体を休めなければとも思う。
ふと居間に戻ると、開け放った窓から朝の光が差し込み、畳の上に明るい四角形を作っていた。その四角形の中を、一匹の小さな羽虫が飛び回っている。外に出ればいいのに、出られずにただ宙を舞っている。
手紙の文面、祖母の思い出、そして止まったままの古時計……さまざまなイメージが入り混じり、エリカは深く息をつく。祖父が残したメッセージは、「星の音」という得体の知れない言葉とともに、この町や灯台に向かう自分の目を引き寄せてやまない。
「もし本当に星から音が降ってくるなんてことがあるとしたら、それはどんなメカニズムなんだろう……」
自問するように呟いてみると、自分の声が不思議なくらい澄んで聞こえた。まるで、締め切っていた心にひとすじの風が通るように。
——遠い海の向こうで消息を絶った祖父。
——祖母から何度も聞かされた、謎めいた「星の音」の話。
これらがどこかで繋がっているような気がする。いや、繋がっているのだろう。大学院での多忙な研究生活から逃げ出すようにやって来た葉空の町で、自分はこれから何を探し、どんな答えを見つけるのか。
エリカは窓辺に立ち、遠くの海を見つめながら、ぼんやりとその先を思い描いた。外の空気は少しずつ暖かみを帯び、しとどに冷たい風がどこか優しげに頬を撫でる。遠くに見える灯台の白い影が揺らいだように見えたのは、気のせいだろうか。胸の奥のざわめきが、次第に高まりはじめるのを感じた。
第三章 潮騒の声
祖母の家に落ち着くと決めたものの、エリカはほとんど手つかずのままの荷物や埃まみれの部屋にため息をついた。朝から掃除をしても一向に終わる気配がない。曲がりなりにも大学院で理論物理を専攻している身としては、「単純な作業ほど遠回りに感じる」という現象を自嘲的に考察したくなるほどだ。
「星の音」の謎も気になるし、祖父が残した暗号めいた手紙のことも頭を離れない。だけど、まずは生活基盤を整えなくては。埃を吸いすぎて、早くも喉がいがらっぽい。ダンボール箱や古びたタンスから出てきた昔の着物や道具類をまとめ、ようやく居間と台所をなんとか通れる程度に片づけた。
正午を過ぎ、ひとまず外の空気を吸いたくなって玄関を出ると、町のほうから人声が聞こえてきた。古い商店街で昼時を過ごす人々のざわめきだろうか。背伸びをしてみると、坂の下にある小学校のグラウンドがちらりと見える。その向こうに商店街が続き、さらに港があるはずだ。
「なんか食べるもの、買ってこなくちゃ」
冷蔵庫を確認しても、数日前に持ち込んだ簡単な食料以外は空っぽ。すでにペットボトルのお茶も底をつきはじめている。引き出しから財布を探し出し、軽く身なりを整えて外に出た。
坂道を下りる途中、古い木造の校舎を脇目に見ながら歩いていると、ちょうど校門の前にある掲示板の横で一人の男性が立ち止まっているのが見えた。
年のころは二十代後半くらい。柔らかい髪質のショートヘアで、少し華奢な体格。薄いブルーのワイシャツと黒いスラックス姿からして、学校の先生か何かだろうか。彼は何かを考え込むように視線を掲示板に走らせている。
エリカが近づくと、彼はパッと視線を上げ、軽く会釈をした。こういう何気ない挨拶が自然に交わされるのが葉空(ようくう)の町の空気だと再確認する。
「こんにちは。……あれ? もしかして、四宮さん、ですよね?」
まったく見覚えのないはずなのに、思わぬ形で名前を呼ばれ、エリカは目を見開いた。
「え? はい、そうですけど……」
戸惑うエリカに、男は少し照れたように笑う。
「すみません、僕は藤巻(ふじまき)ヒカルっていいます。ここの高校の国語科の教員でして。実は、庄司マキってご存じありませんか? 商店街で雑貨店を営んでいる女性なんですけど、彼女から『四宮エリカさんっていうお孫さんが戻ってきた』って聞いていたんです」
「庄司……マキさん?」
言われてみれば、祖母が生前、よくお世話になっていた雑貨店の女性の名前を聞いた記憶がある。確か家が古くからこの町に根付いていて、祖母と親しかったのだと。
「彼女は高校の同級生で、昔からの付き合いなんです。で、エリカさんが町に来るかもって話を小耳に挟んでまして。まさかこんな道端で会うとは思いませんでしたけど」
エリカは思わぬところで、地元ネットワークの一端を感じる。こういう縁が勝手に広がっていくのは、都会ではあまり得られない感覚だ。
「そうだったんですね。私は東京から帰ってきたばかりで……。今日はいろいろ買い出しに行こうかなと」
「良ければ、商店街まで一緒に行きましょう。ちょうど学校が昼休みで、資料を取りに来ただけなんです。このあと、午後の授業が始まるまでに少し時間があるので」
そう言ってヒカルは微笑んだ。人当たりが良く、話しやすそうな雰囲気にエリカもほっとする。ここへ来てまともに言葉を交わす相手もいなかったので、心強いと感じた。
二人で坂道を下っていくと、やがて商店街の入り口に出た。古いアーケードが取り払われた通りは、昔ながらの魚屋や八百屋、総菜屋などが所狭しと並んでいる。最近は観光向けに改装したカフェや手工芸品の店も点在し、古さと新しさが入り混じっている。
「ここです、マキの店。『庄司雑貨店』ってそのまんまの名前なんですよ」
そう言ってヒカルが指し示す先は、古い木製の引き戸を改装した小さなショップだった。ディスプレイには手作りのアクセサリーやポーチが並び、店頭にはさまざまな色合いの布やクラフト雑貨が飾られている。
店の中から、こじんまりとした女性がひょっこり顔を出した。
「あ、ヒカルじゃん。あら、この方が噂の四宮さん?」
「はい、今日お会いしました。四宮エリカさん、庄司マキさんですよ」
挨拶を交わすと、マキはパッと表情を明るくして言った。
「ようこそ、葉空へ! おばあちゃんのお孫さん、やっぱり東京から戻ってきたって聞いてたのよ。バタバタしててご挨拶が遅れちゃってごめんなさいね。うち、雑貨店って言ってもけっこういろんな日用品扱ってるから、足りないものがあれば遠慮なく言ってちょうだい。あ、ついでに商店街の場所とか紹介してあげるわ」
威勢の良さと温かい笑顔に、エリカも自然と気が緩む。マキはカウンターの奥にある棚から店のマップやクーポンの束を取り出し、「これが今週のセール情報、魚屋はあっち、八百屋はこっち、あ、その代わり定休日とかもあるから注意ね」と、すっかり世話焼きモードだ。
エリカはひととおり必要なものを買い込むと、マキが手際よくまとめた袋を受け取った。野菜や洗剤、雑巾や米など、思ったより量が多い。
「どうやって持って帰ろうかな……。坂を登るのも一苦労ね」
そうこぼすと、マキはにっこりと笑う。
「大丈夫。ヒカルに運んでもらえばいいじゃない。ね?」
「え、それはまあ、僕は午後から授業だから、あと15分くらいなら……あ、でも」
困ったように眉を下げるヒカルに、エリカは苦笑する。こんなに親身になってもらうわけにはいかない。
「いえ、すみません。大丈夫ですよ、リュックに入る分もあるし、何往復かすれば……」
だが、エリカがそう言いかけたとき、店の奥から別のお客らしき声がして、マキはそちらへ呼ばれてしまった。
ふとヒカルと顔を見合わせ、微妙な空気に陥る。どうしたものかと思っていると、ヒカルが口を開く。
「もし重かったら、僕が坂の途中まで手伝いますよ。正門前に自転車があるんで、それに載せられますし」
「でも、お仕事の邪魔にならない?」
「大丈夫です。あと10分くらいなら。急げば学校に戻れるので」
好意を遠慮していても仕方ない。エリカは素直に「ありがとう」と礼を言った。まるで見ず知らずの自分を気さくに助けようとしてくれる。この町の人の繋がりは、やはりどこか温かい。
「じゃあ、お言葉に甘えて。あまり遠くまでは頼めないけれど……」
「もちろん。行きましょう」
そんなやり取りの中、ヒカルがふと口にした。
「ところで、四宮さん。もしかして灯台のことを調べてるって、マキから聞いたんですけど……?」
「え?」
エリカは手を止めてヒカルを見た。どうやら、マキの口から既に何か話が漏れているらしい。星の音とか祖父の手紙の話など、まだ人には詳しく話していなかったはずなのに。
「ううん、正確には“灯台に何か興味があるらしいよ”くらいの雑談レベルなんですけど。ご存じのとおり、あの灯台にはいろんな民話や伝承があって……。実は僕、そういうのをちょっと研究してるんです。もし何か気になることがあれば、いつでも声かけてください。民俗学は専門外なんですけど、地元での聞き取り調査をちょこちょこやっていて」
そう言って笑うヒカルの横顔には、どこか好奇心がきらりと光っているように見えた。
エリカの胸は、高鳴るような、戸惑うような、奇妙な感覚に包まれる。祖父が残した手紙に記された「星の音」と、あの崖上の灯台に眠る謎。その糸口が、ひょっとしたらすぐ近くにあるのかもしれない。
「……そうですね。ぜひ相談させてください」
そう小さく返事をしながら、エリカの心には一筋の期待が芽生えていた。町に帰ってきて、最初に話を交わしたヒカルとマキ。この人たちが、祖父の追い求めた“星の音”の謎を解き明かす手がかりになるのかもしれない。
買い物袋を抱え、坂の方へ足を向ける二人の後ろ姿を、商店街の人々が温かい目で見送っていた。洗剤や野菜の重みはなかなかのものだが、海辺の町の空気は軽やかに流れている。エリカはその空気を胸いっぱいに吸い込んで、そっと呟いた。
「——やっぱり、帰ってきてよかった、のかな」
第四章 静かな予兆
午後の陽ざしが少しだけ和らぎ、坂道を吹き抜ける風が涼しくなってきたころ、エリカはヒカルの手を借りて坂の途中まで荷物を運んでもらい、なんとか祖母の家へと戻ってきた。ヒカルは急ぎで学校へ戻らなくてはならないらしく、結局家の門の前で別れることに。
「何かあったらいつでも連絡を。あ、これ、僕の名刺です。携帯番号も書いてますから」
明るい笑顔とともに名刺を手渡すヒカルに、エリカは少し面食らったが、悪い気はしなかった。人の温かさをありのままに感じられるこの町ならではの光景なのだろう。
「助かりました。ありがとうございます」
エリカがぺこりと頭を下げると、ヒカルは「じゃ、また」と軽やかに坂を駆け下りていく。見送るエリカの手の中には、ほんのりと人肌のぬくもりが残る名刺。彼が少し前に言っていた「灯台の伝承研究」の話が、記憶の底で微かに光を放っている。
門扉を開けて敷地に入り、玄関先で靴を脱ぐと、朝方よりだいぶ家の中が明るい気がした。窓を開け放して掃除した甲斐があってか、少しは埃っぽさも和らいでいる。
「これだけ買い出しすれば、しばらく大丈夫かな……」
米や野菜、日用品を床に並べていると、さっそく小腹がすいてきた。だが、エリカはそそくさと軽食を済ませると、さっき頭に浮かんだあることを実行に移す。——祖父の手紙をもう一度確かめてみたいのだ。
居間の押し入れに忍ばせた封筒を取り出し、畳の上に座り込む。便箋を広げると、やはりあの走り書きの数式や、幾何学模様のような線が脳裏に引っかかる。暗号と言ってもいいほど謎めいているが、どこかで見たような既視感もある。
「天体の軌道計算……かな。円や楕円を表す数式のように見えるけど」
研究室で扱う物理数式と似たような構造もあれば、一方で何か古い文字らしき記号も混ざっている。あまりに雑然としていて、すぐには読み解けそうにない。
ふと、エリカは先ほど出会ったヒカルの言葉を思い出す。——「もし何か気になることがあれば声かけてください」。民俗学こそ専門外とは言っていたが、地元の伝承や資料には詳しいらしい。彼なら祖父の書き込みに関するヒントをくれるかもしれない。
そう思うと、昼過ぎに別れたばかりなのに、少し連絡を取ってみたくなる。だが、初対面の相手にいきなり暗号じみた資料を見せて「解読手伝ってください」などと頼むのは気が引ける。
「いや、でも……」
迷いながらも、エリカは手元の名刺を見やる。携帯番号が書いてある。聞きたいことは山ほどあるし、彼なら町の言い伝えや灯台の来歴を知っているかもしれない。
カーテンを開けると、外は少しだけ夕焼けの色を帯び始めていた。時間はどんどん過ぎていく。このまま一晩悶々と過ごすよりは、少しだけ背伸びして行動してみるのも悪くない。
そう決意すると、エリカはスマホを取り出し、名刺を確認する。そして意を決して、ヒカルへメッセージを送ってみた。
——すみません、先ほどは荷物を運んでいただきありがとうございました。もしご都合がよければ、一度お話を伺いたいことがあります。
画面をじっと見つめると、送信したメッセージが既読になった。少し間が空き、胸がどきどきしてくる。すると意外に早く返事が返ってきた。
> もちろん構いませんよ。今日は夕方まで授業がありますが、夕方以降なら大丈夫です。どこかでお会いしますか?
流れるように続くやり取りのなかで、結局、商店街近くの喫茶店で待ち合わせることになった。いつもの自分なら、こんな積極的に動くことはめったにないのに。祖父の手紙に突き動かされるように、エリカは少し高揚している。
急いで手紙や便箋、ノートなどを小さなバッグに詰め込む。暗くなる前に出ないと坂道は危ないし、喫茶店へ向かう途中で寄りたい場所もある。
玄関で靴ひもを結んでいると、家の奥からふと物音がしたような気がした。さっきとは違う、床を踏むような音……。思わず身をこわばらせ、廊下を振り返るが、人影は見当たらない。
(……気のせい?)
微妙な胸騒ぎを押し殺して、エリカは玄関戸をしっかりと閉めた。ひょっとしたら、ただの風や建付けのきしみかもしれない。そう言い聞かせながら、坂を下る道へと足を急がせる。
灯台のほうから微かに風が吹いてきて、潮の香りが一層濃くなる。まるで街の向こうから、「こっちへおいで」と呼びかけるようにも感じられた。
この静かに流れる予兆が、はたして何をもたらすのか。エリカの中で、未知の不安と興奮が入り混じったまま、夕暮れの町へと踏み出していく——。
第五章 かすかな足音
夕方の商店街はいつもより賑わっていた。仕事帰りの人々が総菜店や青果店に立ち寄り、品定めをしている。自転車のブレーキ音や、道端で交わされる挨拶が入り混じって、どこか懐かしい活気が漂っていた。
エリカは商店街のはずれにある、こぢんまりとした喫茶店の前で足を止める。店名は小さな看板に「海鳴(うみなり)」と書かれ、レトロなフォントが目を引く。扉を開けると、軽いベルの音とともに、しっとりとしたコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
木製のテーブルと椅子が並ぶ店内は、客こそ多くないが落ち着いた雰囲気がある。壁にかかったアンティーク調の時計が、小さく時を刻んでいた。入り口近くの席に目をやると、先に来ていた藤巻(ふじまき)ヒカルがこちらに気づき、手を挙げて微笑む。
「こんばんは。来てくれてありがとうございます」
そう言って軽く会釈したヒカルの隣には、見知らぬ女性が座っていた。20代後半くらいだろうか、笑顔が人懐こそうな印象だ。
「はじめまして、庄司(しょうじ)マキです。雑貨店で会ったばかりのときはバタバタしてて、ゆっくり話せなかったから。今日はヒカルに誘われてお邪魔しちゃった」
「あ、どうも……。いきなりお二人とも呼んじゃってすみません」
戸惑うエリカに、マキは「いえいえ」と軽く手を振った。
「ヒカルが、『四宮さんが何か灯台のことを調べたがってるかもしれない』って言うから、それなら一緒に話したほうが早いでしょ。私の家系、昔からちょっと灯台と縁があるみたいだから、何か力になれればいいかなと思って」
エリカは二人に軽く頭を下げつつ、席に着いた。バッグから祖父の手紙を取り出す前に、まずは店員が運んできたメニューに目を通す。深煎りコーヒーや紅茶、季節のフルーツジュースなど、シンプルながらどれも美味しそうだ。ひとまずホットコーヒーを頼んでから、改めてヒカルとマキを見る。
「実は、祖母の家で見つけた手紙やノートに“星の音”や灯台に関する書き込みがあって……どうやら祖父は、出航する前に何か探していたみたいなんです。暗号めいた数式や地図みたいなものまであって、私にはさっぱりわからなくて」
そう言いながら鞄から封筒を取り出し、古びた便箋の一部を見せる。二人は興味深げに身を乗り出し、手紙の文字を丹念に追っていく。
マキが少し目を細めて言った。
「へえ……。わりと専門的な数式が並んでるみたいね。でもこの書き込み、確かにあちこちに灯台のスケッチや、漁港周辺の線みたいなのが描かれてる。これは町外れの断崖の形じゃない?」
「うん、間違いないね。照明塔の位置と岩肌の形状を示しているようにも見える」
ヒカルも頷く。彼は資料をめくりながら、手帳を取り出して何かメモを取り始めた。
エリカは迷いつつも、思い切って祖父が残した文面の一節を読み上げる。
> この灯台には、星の音が眠っている。あした出航したら、きっとその秘密を探し当てる。
読み終わったあと、一瞬だけ沈黙が落ちる。店内のBGMがかすかに流れる中、エリカは喉が渇いて仕方なくなり、運ばれてきたコーヒーを一口含んだ。苦味のなかにやさしい香りが広がり、心が少し落ち着く。
マキが口を開く。
「星の音、かぁ……。うちの先祖、昔は『灯台守』みたいなことをしていたらしいって聞いたことがあるんだけど、そのときに“星の光が降りるとき、不思議な音が聞こえる”って言い伝えがあったんだって。でも私は詳しくは知らないの。今は町の観光化を進める中で、そういう古い言い伝えはあまり表に出てこなくなっちゃってるし」
「でも実際、今もそういう伝承が町には残ってるんですよね?」
エリカが問い返すと、ヒカルが肩をすくめるようにして言う。
「町の図書館や郷土資料館にある民俗学の文献には断片的な記述があるよ。“星の音を聞けば豊漁が約束される”“火のないところに光が宿る”みたいな、かなり寓話的な書きぶりだけど。あの灯台の建造年代や工法についても正確な記録が少なくて、まるで謎の遺跡みたいな状態なんだ」
なるほど、とエリカは大きく頷く。もともと民俗や言い伝えにはあまり関心がなかったが、祖父の手紙を起点に興味がかき立てられている。科学的にどう説明するかは別として、その謎めいたものに心惹かれるのは間違いない。
「エリカさん、ひとつ聞いてもいい?」
マキが言葉を選ぶように静かに問いかける。
「……あなたは本気で“星の音”を探そうとしてる? それとも、ただおじいちゃんの足跡を確かめたいだけ?」
不意を突かれて、エリカは少し言葉を詰まらせた。自分は何を求めて、この町に戻ってきたのだろう。祖父が残した暗号の真実を解きたい気持ちもある。けれど、たとえそれがただの神話だったとしても、その先に祖父や祖母の生きていた証を見つけたい……そんな思いも確かにある。
「正直、自分でもまだよくわからないんです。どこか科学的に解析できるものがあるかもしれないって、研究者としての好奇心もある。でも、一番には……おじいちゃんが何を見つけようとしていたのか、知りたいんです」
そう答えた瞬間、ヒカルがほっとしたように微笑んだ。
「それなら、みんなで少しずつ調べてみませんか? 僕は町の古文書とか寺社の記録をあたってみる。マキは灯台にまつわる家系の言い伝えをもう少し掘り起こしてくれない?」
「いいわよ。商店街の古い繋がりを頼って、お年寄りに話を聞いてみるのも面白そう。四宮さんはどうする?」
そう促されて、エリカは立ち止まっていた気持ちが前に踏み出すのを感じた。
「私も、一度実際に灯台に行ってみたいです。祖父の手紙の場所と、どこか符合するかもしれない。理屈抜きで、あの場所が気になるんです」
三人の言葉がまとまった瞬間、コーヒーカップを持ち上げたエリカの手が、どこか震えるように心の高鳴りを感じる。星の音と祖父の秘密。まるで遠い異国の物語だったはずの出来事が、今、目の前でゆっくり動き出そうとしている。
そのとき、店の扉が音を立てて開いた。ちらりと外を見ると、人影が逆光の向こうで細く伸びている。背の高い男があたりを見回し、エリカたちがいる席に一瞬だけ視線を投げた。そのまま彼は無言でカウンターへ向かうが、その横顔にはどこか影のある表情が浮かんでいた。
「……今の人、見たことないなあ」
マキがつぶやく。エリカとヒカルも首をかしげるが、すぐに会話を再開した。喫茶店内のざわめきのなか、男の存在はあっという間にかき消される。
一方、男のほうはカウンターでコーヒーを注文しながら、ちらりと三人の様子を窺っていた。まるで何か狙いがあるかのような、鋭い眼差しをほんの一瞬だけ向けて——そして、すぐにそっぽを向く。
エリカには、そんな視線が注がれていることなど知る由もない。ただ、胸の奥で何かがざわめいている。決意と不安、そして小さな期待。その入り混じった感情を抱えながら、彼女はあらためて二人の顔を見つめ、静かに微笑んだ。
外はすでに夕闇が滲み始めていた。どこかで虫の声がしきりに響き、穏やかな海風が町を通り抜ける。星の音の謎解きは、まだ始まったばかり。近い将来、この町に何が降り注ぎ、どんな音が響くのか——今はまだ誰にもわからない。
第六章 影をまとう来訪者
夜の帳(とばり)が下り始めた港町・葉空(ようくう)。商店街のあちこちが店じまいを終え、時折点滅する街灯のオレンジ色が石畳をぼんやり照らしていた。人通りも疎らになり、まるで人々の営みが静かに呼吸を整えるかのように、町全体がゆったりと休息の時間へと向かっている。
その夜、エリカは久々に祖母の家で明かりを灯していた。といっても、居間にはまだ古い裸電球があるくらいで、仄(ほの)かなオレンジ色の光が天井をぼんやり染めるだけだ。薄暗いが、なぜか落ち着く。
夕刻に喫茶店「海鳴(うみなり)」でヒカルやマキと話し合い、灯台探索や町の言い伝えを本格的に調べると決めたことで、胸にはいままでにない高揚感がある。一方で、先ほど見かけた「背の高い男」の得体の知れない視線が、かすかに頭をかすめる。マキもヒカルも気づいていなかったようだが、エリカだけは、ほんの一瞬とはいえ自分たちのテーブルに視線が投げかけられた気がしてならない。
(気のせい……だと思いたいけど)
そう心の中で打ち消しつつも、エリカは祖父の残したメモや書き込みを改めて確認していた。
ところが、封筒から取り出した便箋を机に広げた途端、何か違和感が走る。先ほどまで喫茶店で見せたページ以外に、まだ見ていなかった紙が一枚、増えているように感じたのだ。改めて数えてみると、確かに最初に発見した時より一枚多い。
「これ……なに?」
見覚えのない紙には、薄っすらと地図の断片らしき線が記されている。灯台のある岬の海岸線を描いているようにも見えるが、線が雑に途切れていてよく分からない。一方の隅には数字の羅列が書かれ、まるで座標か暗号のようだ。
(こんなもの、いつの間に……?)
混乱と不安が入り混じり、エリカは居間でぐるりと周囲を見回した。しかし窓はしっかり施錠されているし、戸締まりにも問題はない。誰かがこっそり忍び込んで紙を入れたわけでもないだろう。
ただ、この紙の質感は他の便箋とまったく同じように黄ばんでいて、筆跡も祖父が残したものに似ている。もしかしたら埃まみれの押し入れの中でくっついていて、後からはがれたのかもしれない。それなら辻褄は合うはずだ。
そう自分を納得させながらも、先ほどの「カウンターの男」の不穏な空気と結びつけてしまいそうになる。いつの間にか、星の音をめぐる探究はエリカの知らない誰かの関心も引き寄せているのでは……そんな疑念が頭をもたげた。
その夜はどうにか眠りに就いたものの、深夜に家の奥から軋(きし)むような音が聞こえた気がして、何度も目が覚めてしまった。けれども翌朝、起き出して調べてみても、やはり侵入の形跡はない。
「ただの気のせい……。そうに決まってる」
自分にそう言い聞かせ、枕元に置いてあった祖母の写真立てをそっと手に取る。笑顔の祖母がどこか温かい眼差しでこちらを見ているようだ。子どもみたいに弱気なところを見せるのはよそう、とエリカは胸を張って支度を始めた。
1. 不意の訪問者
前夜にろくに眠れなかったせいで頭がぼんやりしていたが、午前中のうちに家でできる限りの掃除を済ませる。すると玄関先でチャイムもノックもないまま、すうっと扉が開く音がして、エリカは慌てて振り返った。
「……失礼します、四宮さん。お邪魔して大丈夫ですか?」
見ると、そこには雑貨店のマキが立っていた。鍵をかけ忘れたらしい自分に罪悪感が募るが、それ以上にマキの軽やかな登場に拍子抜けしてしまう。
「ごめんね、急に。玄関が開いてたものだから心配になって。あたし、朝イチで商店街を回ってきたところなの」
そう言いながら、マキは小さな袋を差し出す。中にはパンやおにぎりが数種類、「昨日はバタバタしてて夕飯もままならなかったでしょ?」と気遣ってくれたらしい。
「ありがとうございます……。助かります」
素直に礼を述べ、エリカはパンの袋を開いてかじりつく。空きっ腹にほんのり甘い香りが染み渡る。こうした細やかな優しさが、祖母の思い出とも重なって、なんとも言えず胸を温めた。
「あのね、昨夜ヒカルと連絡取り合ってたんだけど、灯台に行くなら今週末がちょうどいいかもって。天気もよさそうだし、ヒカルは土曜日なら午後に時間が作れるって言ってたわ。あなたはどう?」
マキが顔をのぞき込むように尋ねる。
「もちろん、私も空いてます。というか、ぜひ行きたいです」
食べかけのパンを置き、エリカはすぐに答えた。どうせしばらく大学に戻る予定はないのだし、手伝いを期待されている研究室には申し訳ないが、今はこの町のほうが優先だとさえ思う。
「それじゃあ、灯台の入り口あたりで昼過ぎに合流ね。細かい時間はまた連絡するわ」
そう言ってマキが帰ろうとしたとき、ふと何かを思い出したように振り返る。
「そうだ、ちょっと気になる人に声をかけられたの。昨日の夜、商店街を片付けてたときにね、初めて見る男の人が『ここら辺に古い灯台があるって聞いたんですが』って尋ねてきてさ。でも見慣れないよね? 観光客にしては雰囲気が違うし、なんとなく気になって」
昨日の喫茶店の光景が脳裏に蘇り、エリカは思わず身構える。
「その人、背が高くて、ちょっと鋭い目つきじゃなかったですか?」
「そうそう、そんな感じ。紳士ぶってたけど、妙に探るような口調だったよ。『あの灯台は開放されてるんですか』とか『中に入るには許可がいるんですか』なんて。変な人じゃなければいいけど……」
マキが気にかけているのも無理はない。観光客にしてはよそよそしい——まるで“何か”を狙っているような雰囲気を感じさせるのだから。
2. 町の記憶を辿る
マキが帰った後もエリカはなんだか落ち着かず、やたらと窓の外を気にしてしまう。けれども“星の音”の謎を追う決心をした以上、誰かに後をつけられても、そう簡単に諦めるわけにはいかない。
午後になると、図書館や郷土資料館をひとりで回ってみることにした。近くのバス停から町の中心部に出て、そこから歩いてすぐのところに葉空町立図書館がある。モダンなコンクリート造りで、外観は新しいが、2階の一角に郷土資料コーナーが併設されていた。
古い民俗資料や町史の文献をめくってみると、灯台に関する記述は意外に少なく、その大半が明治以降の改築や修繕の記録に留まっていた。「星の音」という単語はおろか、似たような言い伝えも見当たらない。
がっかりしかけたところで、一冊の古い紀行本を発見する。昭和初期に書かれた随筆のような内容で、その一節に「漁港のはずれの断崖に聳える灯台を訪ねし折、地元民に“時折、空より響く音あり”と聞かされ、海風の幻をこそ面白しと思いきや……」という記述が出てきた。
短い記述ながら、エリカの胸ははっと高鳴る。やはりこの町には“星の音”に関連する何かが昔から語り継がれてきた可能性がある。あの随筆家は「迷信の類」と断じていたが、それでも“事実”として伝わっていたということだ。
さらに郷土資料館の閲覧室を訪ねてみると、受付の老人が「あの灯台は元々江戸よりも前からあったんじゃないか」と話しはじめる。
「どこかの殿様が作ったって言う人もいれば、それ以前は航海安全の祈祷所だったって言う人もいる。定かじゃないんだよ。戦争で記録が焼けちまったって話もあるしね」
エリカが熱心に聞き込もうとすると、老人は「そこまで知りたいなら、骨董屋のカシワギさんにでも訊いてみな。あの人は町の生き字引だ」と言う。どうやら駅前近くにある古い骨董店の店主らしい。
「カシワギ……?」
マキやヒカルからはまだ聞いていない名前だ。だが、こういうときこそ地元に根づく長老的存在が頼りになるのかもしれない。エリカは資料館を後にして、駅前まで足を伸ばしてみることにした。
3. 骨董店にて
町の中心部にある駅前通りは、古い建物と新しいビルが入り混じり、少し雑然とした印象を与える。観光客向けのお土産屋が点在する一方、昔ながらの酒店や和菓子屋もひっそりと営業している。
「カシワギ骨董店」と書かれた小さな看板の下に、木製の引き戸が見えた。ガラス越しに店内を伺うと、茶器や古びた掛け軸らしきものが並んでいる。エリカがそっと戸を引くと、からりと音がして、薄暗い店内に涼しい空気が流れ込んだ。
「すみません……」
声をかけると、店の奥から低い声が返ってくる。
「ああ、いらっしゃい。……見ない顔だね。観光かい?」
そこにいたのは、白髪混じりの短髪で小柄な老人だ。皺(しわ)の深い頬と鋭い目つきが印象的。杖をついていながら、姿勢はまっすぐで威圧感すら感じさせる。
「わたし、四宮(しのみや)エリカっていいます。実は、この町にある灯台について調べていて……」
簡単に自己紹介と、祖父の手紙や“星の音”の話をしようとしたが、老人はその前に頷く。
「灯台……ああ、あんた、あの古い家に住んどる四宮の孫か。なるほどね。もう随分前になるが、あんたの祖父さんがここに来たことがあったよ」
思わぬひと言に、エリカは胸がぎくりとする。
「祖父が? ここで何を……?」
「妙な海図や古文書を持ってきて、いろいろ聞いてきたんだよ。灯台の歴史はどうなっているとか、江戸時代以前にあの断崖に塔が建っていた証拠はないか、とかな」
老人は奥の棚から小箱を取り出し、埃を軽く払いながら言葉を続ける。
「星の音の伝承を本気で追いかける船乗りなんて、そうはいない。わしは面白い男だと思ったがね。……あんた、今はその続きを調べようってことか?」
エリカは無言で頷いた。そうだ、祖父がこの店を訪れていたのなら、もっと早く足を運べばよかった。老人——カシワギさんの言葉には、まだ何か隠された含みがありそうだ。
「ならば、あんたに渡しておくものがある」
小箱を開き、中から何かの金属片を取り出す。丸い歯車のような形状で、中心部に穴が開き、外縁には微細な刻み目がある。一見して時計の部品かと思ったが、少し時代が合わないような印象だ。
「これはお祖父さんが、わしのところに一時預けたままになってるもんだ。灯台のどこかに合うパーツだとか言っとったが……結局、取りに来る前に行方が知れなくなったんだよ」
エリカが慎重に受け取ると、ずしりと金属の重みが手に伝わる。表面にかすかな文様が彫られているが、錆(さび)や汚れがこびりついていて判読しにくい。
「これ、いったい……」
「わしにもわからんさ。ただ、この歯車の縁には古い文字が刻まれとる。西洋か中東か、あるいはもっと古代の文字かもしれんがね。星読みの装置に関係があるんじゃないかと、あんたの祖父さんは言っておった」
そう言いながら、カシワギはフッと笑う。その笑みは、どこか厳しくもあり、同時に優しさも感じさせる不思議なものだ。
「星読みの装置……」
エリカの背筋が、ぞくりと粟立(あわだ)つ。祖父が灯台の地下に隠された仕掛けを探していたという話は噂程度に聞いていたが、こんな具体的な形で証拠が目の前に現れると、想像以上の現実感が押し寄せてくる。
「もしあんたが、その謎を本気で解くつもりなら、これを持って行きな。だが気をつけろよ。興味本位で踏み込むと、怪我じゃすまんこともあるかもしれん」
そう言うカシワギの声には、警告めいた響きがあった。エリカが礼を言うと、彼は無言でうなずき、埃をかぶった扇風機をカタカタと回し始める。もうこれ以上話すことはないとでも言うように。
扉を閉めて店を出ると、夕刻の光が駅前通りを赤く染めていた。エリカは手のひらにある金属パーツを見つめ、そっと息を吐く。まさか祖父がこんなものまで追い求めていたとは。
——何かが確実に動き始めている。もし、このパーツが“星の音”の謎を解く鍵になっているのだとしたら、いよいよ後戻りはできない。
4. 風に揺れる予感
歩き慣れない道を通って坂を登り、祖母の家へ戻る頃には、すっかり空が茜色(あかねいろ)に染まっていた。
玄関を開けて中へ入り、金属パーツを丁寧に布で拭いてみる。少し錆が取れてきたのか、縁に刻まれた文字らしき模様が辛うじて見て取れるようになる。しかしエリカには、その文字が何語かも検討がつかない。
「専門家に見てもらうしかないか……。でも、土曜日の灯台探索が先ね」
明後日に迫った週末の予定を思うと、期待と不安が入り混じった気持ちがふくらむ。どんな場所なのか、何が見つかるのか。祖父も、この部品が灯台の内部と関わりがあると考えていたのだろうか。
ふと廊下の奥から、不意に足音のようなものが聞こえた気がして、エリカはハッと身をすくめる。昼間も似たような音を耳にした気がするが、その正体はいまだわからない。
「……やっぱり、ただの家鳴(やな)りだよね」
古い木造家屋だし、風が吹いただけで軋(きし)むことはよくある。そう思いつつも、何かが自分を見張っているような感覚が拭いきれない。
もしかしたら、あの骨董店で警告されたように、深く突っ込めば突っ込むほど、祖父と同じ道を辿ることになるのかもしれない。いや、それでも……。
エリカは目を閉じて深呼吸した。怖れと同時に、なぜか昂揚(こうよう)感が湧いてくる。祖父の足跡を追いかけるのは自分しかいないという小さな使命感と、未知の謎を解く研究者の血がうずいているのだ。
夜風が窓を揺らし、遠くから汽笛に似た音がかすかに響く。海辺の町で暮らす日々は、まだ始まったばかり。けれども、エリカはもう自分がただの客寄せパンダのように戻ってきたのではないと、はっきり感じ取っていた。
星の音の伝説、祖父の遺した暗号、そして見知らぬ男の影。それらが葉空(ようくう)の町に複雑に絡み合い、まるで“呼び声”のようにエリカを導いている。
次に灯台へ足を踏み入れるとき、何が待っているのだろう。そして、この家の奥でひそやかに響く“足音”の正体は——。
薄暗い廊下を見つめるエリカの背に、そっと夜の風が吹きかける。海からの潮の香りが微かに漂い、まるでこの町全体が、これから訪れる何かを予感しているかのようだった。
第七章 ためらいの潮騒
土曜日の午前中、青空にわずかな雲が浮かぶ程度の好天が訪れた。波止場には漁船が戻り、海鳥の鳴き声がやかましいくらいに響いている。潮風が頬を撫で、夏の入り口を思わせる穏やかな日差しが港町をつつむ。
エリカは祖母の家から坂道を下り、待ち合わせの場所である商店街のはずれにやって来た。少し早めに着きすぎたかなと思いつつ、古びた路地を抜けていくと、雑貨店「庄司(しょうじ)雑貨店」の前でマキの姿を見つける。
「おはよう。いい天気になったね」
マキが笑顔で手を振ってくれた。その隣では、藤巻(ふじまき)ヒカルが地図らしきものを鞄から取り出そうとしている。二人ともカジュアルな格好で、どこか行楽に行くような雰囲気だ。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
エリカが挨拶すると、マキは「もうヒカルが灯台までのルートを確認してるから、あとで見せてもらうといいわ」と頷く。
「うちの雑貨店にも観光客向けの簡単な地図はあるんだけど、あそこまでちゃんと行けるルートは正式には載せてないの。崖沿いの道は柵が壊れてたりして危ないって理由で、町が許可を出してないみたい」
すると、ヒカルが広げていた地形図を指しながら言う。
「実際には、そこまで危険ってわけじゃないらしいけどね。地元の釣り人や散策好きは普通に通ってる。急勾配だけど足場はしっかりしてるし、岩場のルートを踏み外さないよう気をつければ問題ないはず。僕らも、無理はしないようにしよう」
やがて、三人は歩きやすいスニーカーや帽子、飲み物などを準備し、商店街を抜けて海沿いの道へ向かった。初夏の陽ざしが少し眩しいが、潮風のおかげで暑さはそれほどでもない。
坂を一つ越え、トンネルの横を通り過ぎると、道は徐々に荒涼とした崖の上へと近づいていく。遠く下に目をやれば、白い波頭が岩に砕け散り、その先には果てしない水平線が広がっている。
1. 灯台への道すがら
「ヒカル、地図によればここを右に折れて、崖沿いの小道に入る感じかな」
マキが指差す先には、小さな木製の案内板が斜めに倒れかけている。字はほとんど消えかけているが、かろうじて「灯台→」という矢印が読み取れた。
「この先が例の“非公式ルート”というわけね」
エリカがそう言うと、ヒカルは小さく笑う。
「町としてはあんまり推奨していないけど、昔ながらの近道だって地元の人は皆知ってる。崖下には洞窟のような地形もあって、地質学的にはおもしろい場所なんだ」
足場こそやや不安定なところもあるが、三人で協力し合いながら進むと、それほど苦労せず歩ける道だ。途中、ヒカルが町の古い言い伝えや、地元の祭りについて話してくれる。マキはマキで、祖先が「灯台守」に近い役割を担っていた可能性があると打ち明ける。エリカはその話に聞き入りながらも、祖父が追い求めた“星の音”と、この海辺の景色がどう繋がっているのかを想像していた。
そうして崖沿いの小道をしばらく進むと、目前に白い石造りの塔が見えはじめる。頂上には灯火台のドーム。すでに明かりは灯されていないが、古い年代物の風情を漂わせてそびえ立っている。
「……大きいね」
エリカは思わず呟いた。遠目で見ていたときはもっと小さい印象だったのに、いざ近づくと想像以上に背が高い。海風にさらされた壁面は少しくすんでいて、コンクリートというより石積みに近い質感だ。
「町の公式資料には『明治時代の建造』って書いてあるけど、本当のところは分からないんだよね」
ヒカルが遠慮がちに言う。
「ある一説では、江戸後期の異国船の来航に備えて作られたとも言われてる。でも、さらに古い伝承を信じる人は『もっと昔からあった』って言うんだ。まるで“星を読む塔”だったとされてるけど、詳しい資料は残っていない」
2. 崖の上の灯台
塔の基部には古びた扉があり、鍵がかかっているようだ。まさか無断で中に入るわけにはいかないが、エリカは扉の周辺をくまなく観察する。
「鍵は閉まってるけど、町で管理している人がいるんじゃないかしら。漁協とか役場とか」
マキが扉を軽く押すが、びくともしない。近くに貼られた小さな看板には「関係者以外立入禁止」の文字。
「やっぱり正式には立ち入り禁止なのかな。まあ、とりあえず外観を調べてみよう。ここに怪しい跡や碑文なんかがあるかもしれないし……」
ヒカルがそう提案し、三人はあたりをぐるりと回ってみる。灯台の背面側には海に面した崖がすぐ近くに迫り、転落の危険がありそうな岩場へと続いている。壁面をよく見ると、一部にひび割れが走り、苔(こけ)や小さな雑草が付着していた。
「この辺り……なんだか、空気がひんやりしてない?」
エリカは壁の一部に手を触れ、思わず鳥肌が立つ。表面の石が予想以上に冷たいのだ。日差しを受けているはずなのに、まるで冷気を溜め込んでいるかのよう。
マキも同じように石壁に触れながら首をかしげる。
「うん、確かに。海風が当たってるからかもしれないけど、それにしても……」
そんな二人をよそに、ヒカルは灯台の土台部分をじっと観察していた。
「ここ、周囲の地層と塔の土台が噛み合ってないような……。まるで上に乗っかっただけに見える。もしかして、もともとあった岩盤をくり抜いて塔を建てたのか、あるいは後付けで土台を拡張したのか……」
そのとき、エリカはふとバッグの中に入れていた“歯車のような金属パーツ”の重みを感じた。カシワギ老人から託された、祖父が残していたという謎の部品。これが本当に灯台のどこかに合うパーツだとしたら——。
「ねえ、こんなところに、何か昔の隙間みたいな跡があるよ」
マキが足元の地面を指差す。よく見ると、石段の脇に古びた鉄枠のようなものが埋まっている。今は土と苔に覆われているが、引っ張れば鉄板が動きそうな雰囲気がある。
「まるで地下へ通じるハッチみたいにも見えるけど……。錆びていて開かなさそうだな」
ヒカルがそっと手をかけるが、びくともしない。エリカも加勢してみるが、完全に固着しているようだった。
「もしかして、昔はここから灯台の下へ降りられたのかもしれないね。あとで役場に確認してみる?」
マキの提案にエリカは頷く。そうだ、まずは合法的に調査の許可を取る方法を模索しないと、このままじゃ外側をウロウロして終わりだ。
しかし、心のどこかでこの場所に「まだ何かある」という直感が強く疼(うず)いている。祖父の残したメモには“灯台の下には秘密がある”とも取れる記述があったし、カシワギ老人の言葉も無視できない。
3. 静かな来訪
そんなふうに三人があれこれ話し合いながら崖寄りのスペースを探っていると、不意に足音が近づく気配がした。振り返ると、そこには見覚えのある長身の男が立っている。
“背が高く、鋭い眼差しを持つ、よそ者めいた男”——そう、あの喫茶店で一瞬だけ目が合った人物だ。
「……灯台を見学ですか?」
低い声が海風に乗って届く。エリカ、ヒカル、マキの三人は、思わず互いに視線を交わす。いったい何の用だろう。
男は黒いシャツにジーンズというシンプルな服装だが、不思議と威圧感がある。年齢は30代半ばか、それとももう少し上か。足元はトレッキングシューズのようで、ここまで歩いて来たのだろうか。
「すみません、急に声をかけて。わたし、この町に興味があって少し見て回ってるんです。灯台って、入れないんですね」
そう言いながら男は扉の方へ目をやる。言葉遣いは柔らかいが、その目には探るような色が消えない。
ヒカルが先に応じる。
「そうですね。町の管理下にあるので、勝手に入れないんです。中はもう使われてないらしく、老朽化もあるとかで」
「なるほど……。ところで、あなたがたも同じく観光で? 地元の方ですか?」
その問いに、マキが短く答える。
「まあ、ほぼ地元です。久々に友人を案内してるんですよ」
エリカは口を挟まず、男の表情を観察していた。男はどこか無機質な笑みを浮かべるだけで、深くは踏み込まない。
「そうでしたか。失礼しました。じゃあ、せっかくですし、ここからの景色を眺めさせてもらいます。……邪魔はしませんので」
そう言って、男はその場を去るでもなく、灯台の外壁のほうへゆっくり回り込む。三人も無視して続きの調査をするわけにはいかない。なんとなく気まずい空気が流れ、エリカとマキ、ヒカルは顔を見合わせて固唾(かたず)を飲んだ。
(何が目的なんだろう。この人……)
エリカはバッグの中にある歯車の部品を思い出し、胸をひやりとさせる。下手に見せるわけにはいかない、そう感じ取った。
4. 夕闇への不安
しばらくして、男は灯台の背面から戻ると、「それでは」とだけ言い残し、海沿いの崖道を引き返していった。まるで情報を得たのか何なのか、よくわからない。
マキが吐息まじりに言う。
「どうにも背筋がぞわっとするタイプね。商店街にも夜遅く現れたっていうし……」
ヒカルも腕組みしながら難しい顔をしている。
「まぁ、こっちから問い質すわけにもいかないしね。何かを調べている感じはする。灯台に興味があるのかもしれないけど……」
エリカは無言のまま、再び灯台の扉を見つめた。戸締まりされ、古びた状態で放置された空間。その中に何が眠っているのだろう。もしかすると、この男も自分たちと同じように、祖父が残した“星の音”の真実を探しに来ているのではないか——そんな考えが頭をよぎる。
日は徐々に西へ傾いてきて、崖の上には長い影が伸び始めていた。あまり遅くなると帰り道も危ないし、続きは役場に問い合わせてからのほうがいいということになり、三人はしぶしぶ引き上げることにする。
灯台をあとにして来た道を戻りながら、エリカはカシワギ老人の警告と、祖父が遺した歯車の意味を考えずにはいられなかった。もしかすると、あの男は古文書や伝承に通じた組織の一員で……という想像まで膨らんでいく。根拠は薄いが、肌で感じる不穏さは確かにある。
「ねえ、今日わかったことは少なかったけど、灯台の地下や土台がどうなってるか、もっと調べる必要があるね」
マキが歩きながら言うと、ヒカルがうなずく。
「僕が来週、役場に問い合わせてみるよ。町の条例とか、鍵の管理がどうなってるのか。どこかで正式に入れるルートがあればいいけど……。それに、ある程度きちんと手続きしておいたほうが、安全面でもいい」
エリカは二人の会話を聞きつつ、再び祖父の手紙を思い浮かべる。あの暗号めいた数式と地図の断片には、もっと具体的な手がかりがあったかもしれない。自分の目が節穴だっただけで。
(やっぱり、もう一度じっくり読み返さなくちゃ)
崖道を抜けると、視界が開けて町並みが見渡せる高台に出た。そこから見下ろす港の風景は、黄昏時の光に染まり、船のシルエットが淡く浮かび上がっている。少し離れた場所には、不自然なほどに背の高い男の姿が微かに見えた——先ほどの男だろうか。こちらを振り返るでもなく、ただ一人、町の方角へ歩いていくように見える。
エリカの胸に、言いようのない不安と期待が混じった感情が押し寄せる。次に灯台へ挑むとき、あの男との接触を避けられるかはわからない。でも、祖父の足跡を追う以上、立ち止まることはできない。
「帰ったら一旦休もう。そして改めて作戦を立て直そう」
ヒカルがそう言うと、マキもうなずき、三人はゆっくりと坂道を下っていく。まるで町全体が夕闇に包まれるのを待っているかのようだ。
その風景はどこか穏やかでありながら、底知れない闇をはらんでいるようにも感じられる。灯台が“星の音”を秘める場所だとしたら、その音は一体、どんなふうに海と空にこだましているのだろう。
やがて街灯がともり始めるころ、エリカたちはそれぞれの帰路についた。坂道を登るたびに息が上がるが、海からの風が火照った頬を冷ましてくれる。祖母の家に到着して、重い扉を開けた瞬間、エリカはまた廊下の軋(きし)むような音を聞いた気がした。
(気のせい、だよね……)
そう思いながらも、意識がどうしてもそちらへ向いてしまう。残照が差し込む居間に、積み上げたノートや手紙が待っている。戸を閉めると、しんと静まり返る古い家の空気に、エリカは小さく息をついた。
「次は、何が見つかるんだろう……」
バッグから歯車のパーツを取り出し、そっと手のひらに載せてみる。金属の錆の匂いが鼻をかすめ、夕闇の中でその光沢がかすかに光を反射する——まるで、星明かりを宿すかのように。
どこか遠くの空には、うっすらと星が瞬きはじめている。もしかすると、遠い昔に祖父もこの景色を眺めながら、同じように手がかりのパーツを見つめていたのかもしれない。
外では町の夜が静かに深まっていく。彼方から波の音が小さく響き、まるで「ここにいて」と囁(ささや)くようだ。そう、星の音はまだ遠い先かもしれないが、確かにこの場所に存在する。
その思いが、エリカの胸に小さな決意の灯をともした。
明日から再び、祖父の手紙を徹底的に読み込み、ヒカルやマキと協力して、灯台への正式な調査ルートを探す——そして、もし必要ならば、あの背の高い男の正体を突き止めることだって辞さない。
半ば覚悟を決めながら、エリカは歯車を握りしめる。やがて空には、星々の瞬きがその輝きを増していく。まるで彼女の決心を見守るように。
第八章 海鳴りの暗示
翌朝、エリカは目覚まし代わりに設定していたスマホのアラームで起きると、まず真っ先に祖父の手紙を広げた。風通しの悪い居間に差し込む朝の光が、古びた便箋の文字を照らす。
昨日、灯台での調査は思うように進まず、しかも得体の知れない男に出くわしたことで、不安が頭の片隅にこびりついている。しかし、それに屈して諦めるわけにはいかない。改めて手紙の端々に書き込まれたメモや数式を丹念に追いかけながら、エリカは自分なりの仮説を組み立てようとしていた。
「……やっぱり、これは軌道か波動を表す数式だわ」
便箋の隅に走り書きされている数式のいくつかは、天体の運行や周期性を示すモデルに近い。流星群の予測式、あるいは潮汐の干満を計算するための古い海洋学的データなのかもしれない。
さらに、灯台の断面をスケッチしたような図には、円弧が重なり合う線が描かれている。そこに小さく「鏡」や「レンズ」と書かれているのが興味深い。
「レンズ……灯台のレンズとは違う意味かな。もしかして、光を増幅するための仕掛け? それとも“音”を増幅するための反射構造……?」
うっすらとした直感が、祖父が言い残した“星の音”の正体が単なるオカルトではなく、何らかの物理現象である可能性を示唆してくる。理屈としてはあり得る。特定の周波数が共鳴すれば、光ではなく“音”として人の耳に届くことがあるかもしれない。
そうした思索に耽(ふ)けっていると、スマホが振動し、メッセージの着信を告げる。画面をのぞくと、ヒカルからだった。
> 「今日は午後、役場で話を聞けることになったよ。15時に正面ロビーに来られるかな? マキも来るって」
途端に胸が高鳴る。すぐに返事を打ち込み、エリカは急いで身支度を整えた。これで灯台の内部調査への道が少しでも開ければいいのだが。
1. 役場での打ち合わせ
午後になり、エリカが指定の時間に葉空(ようくう)町役場に着くと、入口のソファでヒカルとマキが待っていた。二人ともやや緊張の面持ちだ。
「ごめん、ちょっと早く着いちゃって。ヒカルは先に担当者の人に挨拶してきたみたい」
マキが小声でそう告げる。ヒカルはちらりと時計を見て言った。
「町の文化財担当の方に、灯台のことを聞かせてもらえるかもしれない。あそこは一応“危険区域”扱いで、普段は立ち入り禁止なんだって」
そうこうしているうちに、中年の職員らしき男性が声をかけてきた。短く自己紹介をすると、フランクに「どうぞこちらへ」と会議スペースへ通してくれる。
職員の話によれば、灯台の正式名は「葉空岬灯台」。書類上は明治中期の建造とされ、何度か改築された形跡があるものの、昭和に入ってからは使用頻度が激減し、戦後はほぼ放置同然。国や県の指定文化財にもなっていないため、予算も割けずに現在まで至っているらしい。
「ただ、町としては老朽化の問題があるので、正直、内部調査には乗り気じゃないんですよ。崩落のリスクもゼロじゃないし、観光客が怪我をしたら困るし」
職員の言葉に、エリカたちは視線を交わしあう。もちろん安全は大事だが、何かしらきちんと調べないまま放置していいのだろうか。
「僕らは町の歴史や文化を調査したいんです。もし老朽化が進んでいるなら、なおさら専門家を交えて保存や修復の方向も検討できるかもしれません」
ヒカルが言葉を選びながら説得を試みる。職員は眉をひそめつつも、「それもそうですね」とうなずいた。
結局、当面は役場から正式な鍵の貸し出しは難しいが、内部の様子を把握するために「一度だけ担当者立ち会いで見学する」という妥協案を得る。日時は早くても来週以降になりそうだが、少なくとも正式ルートで中に入れる可能性が開けた。
「よかった……とりあえず第一歩ね」
部屋を出ると、マキがほっと安堵の笑みを浮かべる。エリカも「うん」と頷きながら、もっと早くこの方法を試せばよかったと感じていた。何にせよ、一人で突撃するよりずっと安全だ。
2. 不穏な報せ
打ち合わせを終え、三人で役場のロビーに戻ろうとしたとき、どこからか怒鳴り声が聞こえてきた。何事かと音のする方に目をやると、役場の一角で誰かと職員が口論をしているらしい。
エリカたちが通りがかると、ちらりと見えたのは、先日灯台で出会った“背の高い男”だった。男は職員相手に低い声で何かをまくし立て、職員は明らかに困惑気味に頭を下げている。
「えっ……あの人、どうしてここに」
マキがささやく。男の怒声ははっきりとは聞こえないが、「観光案内は嘘だったのか」だの「話が違う」といった断片的な言葉が耳に飛び込んでくる。
男は職員を鋭い目つきで睨みつけながら、一方的に苦言を呈しているようだ。しかし、こっそり聞き耳を立てるのも気が引ける。三人は顔を見合わせ、急いでロビーへ向かった。
「なんなんだろう、あれ。役場にクレームでも入れてるのかしら」
マキが心配そうに言うと、ヒカルは腕を組んで思案顔だ。
「もしかして灯台関連で何か文句を言ってるのかも……。さっきの職員さん、大丈夫かな」
「下手に首を突っ込んでもややこしくなるだけかもね」
そう言いながらも、エリカもマキもなんとなく胸騒ぎを覚えている。あの男は単なる観光客ではない——ほぼ確信に変わりつつあった。
3. 海鳴の夜
その日の夕方、三人は一旦それぞれ帰宅して落ち着くことにした。役場での話はひとまず前進したが、あの男の存在感がじわじわと不安を刺激してくる。
帰り道、エリカは商店街を通って食料品を買い込み、坂道を登って祖母の家へ戻った。玄関を開けた瞬間、部屋の中にかすかな潮の匂いが漂っているのを感じる。窓を開けて風を通すと、すぐに消えてしまったが、どうも外から風に乗って入ってきたのではなさそうだ。
「また、気のせいかな……」
そう自分に言い聞かせながらも、いつものように廊下の軋む音が聞こえた気がして、エリカはぎゅっと拳を握った。住み始めてからまだ日が浅いとはいえ、これほど頻繁に家が鳴るものだろうか。
夜になると、天気が下り坂なのか雲が増えてきて、風が次第に強くなった。港から聞こえるはずの汽笛も、今日は聞こえない。かわりに、遠くで波が荒れ始めたような低い轟音が、断続的に耳に届く。
「海鳴(うみな)り……?」
海鳴りとは、海岸から離れた内陸でも響くことがある、波の衝撃音のことだ。気圧や地形の条件が重なると、まるで大地の底から響く雷鳴のように聞こえると言われている。特に昔の人々は、これを神秘的な徴兆と捉えていたらしい。
エリカは窓を少し開けて外をのぞいた。辺りは暗闇に溶け込み、薄い雲が空を覆っている。星の姿はどこにもない。
「星の音じゃなく、海鳴りってわけか……」
自嘲気味に呟いた刹那(せつな)、背後からバタンと戸が揺れる音がして、思わず振り返る。廊下の戸が風で動いたのかと思いきや、閉まっているはずの襖(ふすま)がほんの少し開いていた。そこは祖母が使っていた奥の部屋。先日、段ボールやアルバムを入れたまま放置している部屋だ。
(また風……?)
おそるおそる足を踏み入れ、襖を閉じようとすると、なぜか畳の上に一枚の紙が落ちているのに気づく。拾い上げてみると、それは祖父のノートの一部らしい。一体、いつからここに落ちていたのだろう。
ノートには雑多なスケッチが書き連ねられているが、ページの片隅に鉛筆で大きく「潜り戸」と書かれている。灯台の地下への入口なのか、それとも何か別の仕掛けなのか……。
「これって……灯台近くで見つけた、あの鉄枠のハッチのこと?」
ゾクリとするほどの既視感が走る。崖沿いで見つけた錆びついたハッチのイラストによく似ている。まさか祖父は、あのハッチをこじ開けて中に入ろうとしていたのでは……。
そして同じページの片隅に、細い文字でこう書かれていた。
> 「満潮の海鳴り…… 星の音との共鳴…… そのとき、扉は開く」
読んだ瞬間、まるで遠くから轟く波の音が一段と強まったかのように感じた。満潮時の海鳴りが“星の音”と結びつく? 一体どういうことなのか。理屈では理解しきれないが、体の奥底で何かがうずくようだった。
夜風がひゅうと家の隙間を抜け、ふと外を見れば、この町を覆う闇がいっそう深くなっている。今夜は星も見えないし、灯台へ行くこともできない。けれど、祖父が記した言葉が、まるで次の行動を暗示しているようだ。
「……いつか“そのとき”が来るのかな」
紙を握りしめながら、エリカは廊下に戻った。背後で襖がきしみ、微かな海鳴りが胸の鼓動とシンクロする。星の音を探し求める旅路は、いよいよ深い夜の奥へと導かれていくのかもしれない。
あの謎めいた男の動き、灯台の内部調査、そして祖父のノートにある“潜り戸”——全てがどこかで繋がっていく気配がある。エリカは濡れた唇をかすかに舐めると、もう逃げ場はないのだと改めて思い知らされる。
その夜、外の海鳴りはやむ気配もなく、遠く遠くで鳴り続けていた。
第九章 潮満ちる予感
翌日、海鳴(うみな)りの音は嘘のように止んでいた。空には重たい雲が低く垂れこめ、今にも雨が降り出しそうな灰色の世界。まばらな小雨が街路を濡らし、商店街のアーケードに人影は少ない。
エリカは朝から落ち着かず、祖母の家で何度も祖父のノートや便箋を見返していたが、夜中に拾った「潜り戸」の書き込みが気になって仕方ない。暗い海と、灯台の地下に隠された扉。そのイメージが頭から離れず、知的好奇心と漠然とした恐れが入り混じる。
(満潮の海鳴りと“星の音”が結びつく——どういうことなんだろう?)
外の風が急に強まると、廊下のどこかがギシッと鳴る。家の中にいるのに、まるで潮の匂いが押し寄せてくるような錯覚を覚える。
「こんな日に、灯台へ行くわけにもいかないし……」
そう呟きながら、スマホを手に取ると、ちょうどメッセージが届いていることに気づいた。ヒカルからだ。
> 「おはよう。今日の午後、商店街近くの喫茶店『海鳴(うみなり)』でマキと打ち合わせすることにしたよ。14時ごろでどうかな?」
思わず吹き出しそうになる。あの喫茶店が“海鳴”という名前なのを今さら思い出し、昨夜の不気味な響きと偶然重なって胸がざわつく。
(何かの暗示みたい……)
少し躊躇しながらも、エリカはすぐに「行ける」と返事を打ち込む。家に閉じこもって悶々としていても仕方ない。二人と合流して、この不安と期待を共有したほうがいいだろう。
1. ざわめく喫茶店
午後になっても雨は本降りにはならず、しとしとと湿った風が街路を流れている。坂道を下って商店街を抜け、喫茶店「海鳴」へと足を運ぶ。店の扉を開けると、相変わらず落ち着いた空気が漂っていた。アンティーク調のインテリアとコーヒーの香りが、外の湿気を忘れさせてくれる。
中を見渡すと、奥の席にヒカルとマキが集まっており、すでに何やら話し込んでいる様子だ。エリカは軽く会釈してテーブルについた。
「今日は平日なのに、けっこうお客さん多いね」
マキが言うとおり、店内には数名の客がいて、その中には役場の制服を着た職員らしき人もいる。皆それぞれの時間を過ごしており、エリカたちに注目する者はいない。
ヒカルが小声で尋ねる。
「ねえ、あれから家のほう、何か変わったことはなかった?」
その問いに、エリカはほんの一瞬迷った。昨夜の“海鳴り”や「潜り戸」のメモをどう話したものか。結局、包み隠さず伝えることにする。
「実は、祖父のノートの切れ端みたいなものが急に出てきて……“潜り戸”とか“満潮の海鳴り”って書き込みがあったの。どうやら灯台の地下に行くための鍵みたいなイメージが連想されるのよね」
エリカが一通り説明し終えると、マキは目を丸くして聞き入っている。ヒカルは顎(あご)に手を当て、眉をひそめながら沈思黙考している様子だ。
「なるほどねえ。灯台には地下へ通じるハッチがありそうだし、それが“潜り戸”ってことかしら。……何か起きたタイミングで、その戸が開く?」
マキが呟き、ヒカルも頷く。
「満潮時の海鳴りと連動する装置だとしたら……そりゃなんというか、SFめいた話だけど、時代が下るほどに忘れられてきた可能性はあるよね。昔の日本には潮の干満を使って仕掛けを動かす施設とか、水位の差で開閉が変わる扉の伝承とか、意外とあるかもしれない」
そう言いつつも、これらはあくまで仮説。三人とも確たる証拠を持ち合わせていない。エリカは新たに見つかったノートの切れ端をバッグから取り出そうかと迷ったが、周囲に人目もあるため、いったん自制しておく。
そこへ店員が近づき、注文を聞いてくる。エリカは温かいカフェオレを頼み、気持ちを少し落ち着かせる。
2. マキの秘密
ドリンクを受け取り、一息ついたところで、マキが切り出した。
「……実はね、うちの曾(ひい)おじいさんの代くらいに、灯台を管理していた人がいたって話をおばあちゃんから聞いたことがあるの。わたし自身はほとんど覚えてないけど」
言いづらそうに口を開くマキに、エリカとヒカルは顔を見合わせる。
「“灯台守”みたいな役割、だよね」
ヒカルが補足すると、マキは小さく頷いて言葉を続ける。
「ただ、うちは別に代々公的な役職に就いてたわけじゃないのよ。どちらかと言えば、一部の家族が“あそこ”に関わっていたってだけ。戦後には完全に途絶えちゃったらしいし、家系の誇りにしていたというより、むしろ“訳あり”だったみたい」
「訳あり?」
エリカが首を傾げると、マキは遠い目をする。
「曖昧な言い方でごめん。ただ、おばあちゃんは生前、『昔の庄司家は、海の神様と星を繋ぐ役を担っていたんだよ』ってぼそりと話すことがあったの。まるで何か怖いものを思い出すような顔でね。詳しく聞こうとしてもはぐらかされたんだけど、子ども心に“灯台には近づくな”って言われてた記憶がある」
星を繋ぐ。海の神様。まるでファンタジーの世界のようだが、そこに何らかの民俗的・宗教的慣習があったのだろうか。
ヒカルは自分の手帳を開き、何やらメモを書き込み始める。
「星の音が“神事”と結びついていた可能性はあるね。そうなると、これは民俗学の範疇に近いかもしれない。あの灯台がただの航海用の施設じゃなく、祭祀(さいし)や祈祷の場でもあったとか……」
マキは苦笑いする。
「そんな大袈裟に考える必要があるのかどうか。でも、わたしたちがいま見聞きしてることは、ちょっと普通じゃないのかもしれないわね」
3. 感じる視線
マキの家系にまつわる秘密に、エリカは深く興味をそそられる半面、自分たちだけでは荷が重いかもしれないとも感じ始めていた。辺りを見回すと、喫茶店は満席に近くなっていて、低いざわめきが広がっている。
そのとき、ふとエリカは入り口付近に妙な視線を感じた。人混みの中に、見覚えのある長身の男のシルエット——先日から気にかかっている、あの謎の男だ。
「……また、いる」
思わず小声でつぶやくと、マキとヒカルもそちらを見やる。そして即座に、それが本当に彼であると気づいた。男はカウンター席に腰かけ、こちらには目もくれない風を装っているが、あきらかに三人の存在を感じ取っている。
「なんでこんなにタイミングよく……」
マキが低く息を吐く。ヒカルが眉をひそめ、「偶然じゃない気がする」と応じる。
無理に動揺を隠そうとしても仕方ない。エリカたちは静かに話題を切り替え、灯台の話からは一旦離れ、当たり障りのない世間話をすることにした。男が盗み聞きしているかもしれない状況では、祖父のノートを見せ合うわけにもいかない。
そうこうしていると、男は飲み終えたコーヒーカップを置き、伝票を手にして席を立った。ちらりと三人の方を一瞥(いちべつ)すると、すぐに表情を消して店を出ていく。扉のベルがチリンと鳴り、店内に静寂が戻る。
「いったい何者なんだろう……」
マキが気味悪そうに呟く。ヒカルも深刻そうにうつむいたまま。エリカは男の背中がドアの向こうに消えていった光景を思い浮かべ、胸がざわざわしている。
「……ねえ、わたしたち、もしかしたら誰かに見張られてるかもしれないよね」
エリカは意を決して口に出す。あの男の行動は“偶然”では説明しにくいし、役場でのトラブルや灯台付近での出没を考えても、何かしら目的があるとしか思えない。
ヒカルは小さく頷きながら、声を落とす。
「そうだね。下手したら、“星の音”の秘密を手に入れようとしてる誰かの一員かも。……ああ、オカルトみたいに聞こえるけど、実際、町の外には資材や遺物を狙う動きもあるからね。歴史的な遺産を勝手に発掘して転売するとか。ひどい場合は組織が動いてることもあるらしい」
「ならば尚更、役場や商店街の人たちにも協力してもらいながら、ちゃんと探ったほうがいいかもしれない。下手に単独で動いて、危ない目に遭うのはごめんだし……」
マキがしっかりとした口調で言うと、エリカは自分の中に芽生えた不安が少しだけ和らいでいくのを感じた。
4. 遠ざかる雨音
結局、喫茶店「海鳴」での打ち合わせは、具体的な“潜り戸”の確認方法を探るところで終わりとなった。灯台を正攻法で調査できるようになり次第、地下の構造をしっかり確認する——それが三人の共通認識だ。
エリカは店を出て、マキとヒカルに別れを告げたあと、小雨の降る商店街を歩きながら考える。祖父のノートは「満潮の海鳴り」をヒントにしていたが、そのタイミングで本当に扉が開くのかどうかは不明だ。もしそれが真実なら、科学的な仕掛けの応用かもしれないし、あるいは宗教や祭祀(さいし)的な“奇跡”なのかもしれない。
ともあれ、あの男の暗躍が何を意味するのか、簡単には分からない。場合によっては、こちらも複数人で行動し、情報を共有しながら進めるほうがいいだろう。
坂道を登って祖母の家に戻るころには、雨がだいぶ弱まっていた。空は依然どんよりとしているものの、雲の切れ間からかすかな光が漏れている。
玄関を開けると、湿気を帯びた空気が迎えてくれる。廊下の軋(きし)む音は聞こえない。やや安心して部屋の灯りをつけると、埃に覆われた鏡台の上に祖母の写真立てがあるのが目に留まった。
エリカは思わず写真に手を伸ばす。祖母の穏やかな微笑み——と同時に、祖父の面影が脳裏に去来する。
「……おじいちゃん、どうしてそこまで執着したの?」
小さく問いかけても、答えは返らない。でも、ノートや手紙から伝わる彼の情熱は、まるで星の光のように孤高にきらめき続けているように思える。
バッグの中には、“潜り戸”を描いたメモがある。それをそっと取り出して見つめると、不思議な既視感が再びこみ上げてくる。じっとりとした空気のなか、外からは微かな風の音しか聞こえない。
やがて夕暮れが訪れ、雨の雫(しずく)が瓦(かわら)に当たっては小さく弾ける音が響く。今日は激しい海鳴りも起こっていないようだが、これから満潮の時間が近づけば、またあの轟音が遠くから聞こえてくるのかもしれない。
エリカは灯りを消した部屋に立ち尽くし、窓の外を見やる。夜の帳(とばり)がゆっくりと下りつつあり、町の家々にもぽつぽつと灯りがともり始める。
“星の音”と“海鳴り”が交わる瞬間を、祖父は追い求めていた。もしかすると、それはほんの一瞬だけ現れる扉かもしれない。暗号めいた数式や記号は、その時空間を示す鍵になるのだろう。
そのとき、思いがけずスマホに着信が入った。画面を見ると、マキからだった。急いで応答すると、少し慌てた声が耳に飛び込む。
> 「もしもし、エリカさん? ちょっと……ヒカルから気になる連絡があったの。あの男、また役場に来たらしいわ。なんか騒ぎになってるみたいで……」
「えっ……?」
雨音の中で、胸がドキリと跳ねる。どうやら今度は本格的に何かトラブルを起こしているようだ。それが灯台に関係しているかは分からないが、彼が動けばこちらも動かざるを得ない。
エリカは写真立てをそっと元の場所へ戻すと、バッグにノートを突っ込む。夜の海と星の音が交錯するこの町で、今まさに新たな波が押し寄せようとしているのかもしれない。
窓の外には、雨を含んだ重い雲が立ち込め、遠くの海の向こうには一筋の光も見えない。エリカは小さく息をのんだ。潜り戸、灯台、そしてあの男の真意——次に何が起こるのか、闇のヴェールはますます濃くなるばかりだ。
第十章 嵐の前触れ
夜の帳(とばり)が降り、雨がしとしとと瓦(かわら)を叩く頃。坂の上にある祖母の家を飛び出したエリカは、開きかけた傘を手に、真っ暗な路地を駆け下りていた。先ほどマキからの電話で知らされた「役場に男が来ている」という一報が胸をざわつかせる。
「何があったの? マキさん、詳しく教えて!」 電話の向こうで慌てた声を押し殺すように、マキが返す。 > 「ヒカルからの話なんだけど、あの男——ほら、灯台のときも喫茶店でも見かけた背の高い人、覚えてるよね? 彼がまた役場に来て、鍵を渡せとか、灯台を開放しろとか何か怒鳴ってるらしいの。ヒカルは一旦止めに入ったんだけど、職員の人とも揉(も)めてるみたい……」
歯がゆさと危うさがないまぜの感情が、エリカの胸を乱打する。あの男がなぜこれほど強引に灯台へ入りたがっているのかは不明だが、事情はどうあれ不気味な執着が透けて見える。エリカにとっても他人事ではない。祖父が遺した“星の音”の秘密をめぐって、何か大きな思惑が動いているのかもしれない。
1. 夜の役場へ
商店街を抜け、町役場の建物にたどり着く。普段なら夜間は閑散としているはずだが、今日は入口近くの灯りが妙に明るく感じられる。建物の前には、ヒカルらしき人影とスーツ姿の職員が二人。もう一人、長身の男が鋭い眼差しで彼らを見据えていた。
男の姿を認めた途端、エリカの背筋がひやりとする。雨脚が弱まったとはいえ、湿った夜気が周囲を包み込み、いつにも増して重苦しい雰囲気を醸し出している。
「エリカさん!」
ヒカルが彼女に気づき、手を振って呼び寄せる。小走りに駆け寄ったエリカは、男と向き合う形になった。少し距離を置いて立つマキが、ほっとしたように安堵の表情を浮かべる。
「すみません、この方々は……」
職員の一人が困惑しているが、ヒカルが低い声で説明する。
「ぼくの友人です。今、灯台の文化的価値を調査できないかって、役場に協力を申し出てるところなんです。……ですから、そちらの方も落ち着いて話しましょう」
ヒカルは男に向き直り、静かに言葉を繋げる。
「あなたは灯台に何を求めているんですか? 正式な手続きを踏まずに暴言を吐いても、受け入れてもらえませんよ」
男は深く息をつき、雨に濡れた髪から雫が滴る。少し痩せた頬の奥で、眼光がぎらりと光った。
「……観光客向けに閉ざしているのは知っている。けど俺には急ぐ事情があるんだ。町が渋るなら、ここの人間(職員)に金を払ってでも鍵を開けてもらおうと思った。それを断られたから、不満を述べただけだ」
言葉は丁寧に装っているが、声にはとげが含まれ、周囲への威圧感が消えない。
「鍵を買おうとするなんて……そんなの、非常識です!」
マキが口を挟むと、男はちらりと彼女を見やった。
「あなたは、庄司(しょうじ)マキさん……だったか。雑貨店の経営者で、昔から灯台に縁がある家系らしいじゃないですか。ならば俺の目的も分かるはずだ。あそこには価値があるんですよ」
マキは瞬間的に眉根を寄せたが、何も言い返せない。男の言う「価値」とは、いったい何を指すのか——文化財としての価値か、それとも金銭的な価値か。
エリカが意を決して口を開く。
「……あなたは何者なんですか。どうしてそこまで灯台に固執するの?」
男は黙ってエリカの顔を見つめる。雨上がりの夜の空気に、しんとした緊張が走る。一拍置いて、彼は小さく笑った。
「誰かに雇われてる探偵……とでも思ってくれてかまわない。調べ物を頼まれたんだ。もちろん報酬も出る。だからこそ、一刻も早く灯台の中に入る必要があるんだよ」
「雇われている……? 誰に?」
「さあ、そいつは言えない。それよりも、そっちこそ焦らないと、出し抜かれるかもしれませんよ。——“星の音”を探してるんでしょ?」
その言葉に、エリカの心臓が跳ね上がる。男は確かに“星の音”と口にした。祖父が追い求めていたあの謎の響き。それを知っているどころか、情報を得て行動しているらしい。
「ど、どうしてあなたがそのことを……」
声が震えるのを抑えきれない。男は軽く肩をすくめ、職員たちに背を向けるように少し歩み寄る。
「最近、この町の骨董屋なんかを回って情報を集めてみたら、面白い噂が聞けてね。灯台には“星の音”という神秘が潜んでいるとか。偶然、あなた方が同じように調べていることを知って、ちょっと様子を探らせてもらったんだ」
やはり、ずっと見張られていた……。エリカは先日の喫茶店や灯台での違和感に合点がいく。彼は祖父の探索と同じルートを辿っているのかもしれない。骨董店のカシワギ老人、郷土資料館、そして役場——彼女たちが訪れた先をなぞるように。
「……どうして、それを金にしようとするわけ?」
マキが唇を噛みながら問いかける。男はどこか冷たく笑みを浮かべた。
「誰も金なんて言ってないさ。ただ、“星の音”がもたらす価値を求めてる人は少なくない。科学的な解析に興味がある者もいるし、オカルト的に珍しがって手に入れようとする人間もいる。俺はただ、依頼人の望む情報を手に入れるだけ。そこに金が転がるなら拒まない、というだけの話だ」
2. 交錯する思惑
硬直した空気を感じ取ってか、町役場の職員たちが「夜分なのでここまでに」と促し、玄関先から奥へと姿を消す。もう業務時間は終わっているし、これ以上の交渉はできないという意志表示だろう。
残されたのは、エリカ・マキ・ヒカルと、例の男。それから少し離れたところで状況を見守っていた警備員が一人いるだけ。
「このまま押し問答を続けても仕方ないわね」
マキが小さく嘆息する。ヒカルも同調するように静かに言った。
「僕らは正式に町から調査許可をもらおうとしてる。あなたが違法行為に踏み込めば、いずれ警察沙汰になるかもしれないよ」
「それは承知してるさ」
男はまるで涼しい顔で受け流し、「これ以上の時間は無駄だ」と言わんばかりに踵を返した。
「……俺も悠長にしているつもりはない。今度こそ灯台へ入れる段取りがついたら、邪魔をさせてもらうよ」
最後にそう言い放つと、夜の闇へと足早に去っていく。その背中が通りの向こうへ消えるまで、エリカたちは言葉を失って見送るしかなかった。
3. マキの決断
雨が再びぱらつき始めた。傘をさすのも面倒に感じながら、三人は役場の軒先に身を寄せる。嵐のような男が去っていった今、残るのはひたひたと降る雨音と、ざらついた心の感触だけ。
「やっぱり、あの男は“星の音”を手に入れようとしてるのね」
マキの声に、ヒカルが小さく頷く。
「依頼人が誰なのかもわからないし、何に利用されるのかも不透明だ。……ただ、これまで以上に気をつけないとまずいだろうね。今の調子じゃ、手段を選ばない可能性もある」
エリカは言葉にならない感情を飲み込みながら、鞄の奥にしまった祖父のノートの存在を思い出す。あれをもし盗まれでもしたら、祖父が命を懸けて追い求めたものが、闇から闇へと流れてしまうかもしれない。そんな思いが胸を締めつける。
「……わたし、灯台のことはもう他人任せにしたくない」
不意にマキが口を開いた。視線は雨の路面に落ちているが、その声には確かな意志が宿っている。
「自分の家系が灯台を守ってきたとか、昔からの言い伝えがどうとか、ずっと敬遠してきたけど……。こうなった以上、逃げるわけにはいかない。エリカさんやヒカル、それに町の人たちと一緒に、正面から向き合いたいの」
エリカはマキの横顔を見つめる。決して大柄でもない彼女が、雨に濡れつつも堂々と自分の役割を受け入れようとしている。その姿が力強く映り、同時に心強い。
「わたしだってそう。祖父が残したものを、あの男たちに好き勝手に奪わせたくない。……灯台の正体を確かめて、“星の音”がどういう存在なのかを自分の目で見たいの」
ヒカルは二人の決意を聞き、微かな笑みを浮かべながら小さく頷く。
「うん。僕も、民俗学者として地元の文化遺産をこんな形で踏みにじられるのは見過ごせない。危険があるかもしれないけど、やるしかないね」
そう言って三人が向かい合ったとき、まるで合図をするかのように風が強まって雨を斜めに吹き付ける。どこか遠くで雷鳴のような音が響き、一瞬空が白く光った。
「嵐になるかもしれない。……帰り道、気をつけてね」
マキが肩をすくめて笑う。ヒカルは時計を確認しながら言った。
「そろそろ夜も遅いし、一度解散しよう。役場の鍵の件は来週以降に担当者から連絡をもらえるはずだから、それを待つ。あと、あの男がこれ以上強行突破を図らないよう、僕も警戒しておく」
4. 雨夜に揺れる決意
三人はそれぞれの家へ帰るため、町役場の軒先を後にした。エリカは坂道を登りながら、荒れ始めた天候に足元を取られそうになる。夜の闇が深まるにつれ、風が唸(うな)り声を上げている。
(まるで、この町自体が警鐘を鳴らしてるみたい……)
そんな思いが頭をよぎる。頬に当たる雨粒が冷たく、祖母の家の門扉を開けるまでに体はすっかり濡れてしまった。
玄関戸を開けると、しんとした静寂が迎えてくれる。だが、その静寂の奥底には、ざわついた気配が潜んでいるように思えてならない。背を向けるといつもの廊下が軋み——いや、今は聞こえない。むしろ、いつもより静かすぎるのが不気味だ。
居間の明かりを点けて、鞄から祖父のノートと金属パーツを取り出す。濡れた髪から垂れる水滴を拭いながら、エリカは静かに誓った。
「負けない。こんな脅しなんかに……」
祖父が残した数式やスケッチ、そして「満潮の海鳴り」と書かれたページ。これらは単なる観光アトラクションでも、オカルト雑学でもない。何か本質的な謎があると確信している。そしてその謎を解き明かすのは、雇われ探偵のような男ではなく、自分自身であるべきだ。
夜の家に雨音が降り注ぐ。遠くでは雷鳴がとどろき、幾度か閃光が窓を白く染めた。海岸では、ひょっとすると強い潮騒が轟音を立てているかもしれない。
あの男に先を越されるわけにはいかない——その決意が、暗闇の中でエリカの胸に灯火をともす。まるで星の見えない空にも、見えない輝きが隠されているかのように。
“星の音”はどんな音なのだろうか。激しい嵐の夜、もしその音が響くとしたら、それはこの世界を揺るがすような、美しくも恐ろしい響きなのかもしれない。けれど、ひるむことはできない。
雷鳴が一段と近くで炸裂し、窓ガラスがびりびりと振動する。エリカはノートとパーツをそっと押し入れにしまい、覚悟を新たに息を吸い込んだ。
いつか嵐が過ぎ去った後には、灯台へと至る道が必ず開ける——そう信じて。空には見えない星たちが、いまも静かに瞬いているはずだ。
第十一章 暁のかがり火
夜を引き裂くような雷鳴の轟音が、まるで大地を震わせるかのように鳴り響いた。雨が窓ガラスを打ちつけ、風にあおられて家屋が軋(きし)んでいる。エリカが祖母の家へ戻ってからしばらくして、天候はいよいよ嵐の様相を呈していた。街灯はぬれた路面にぼんやりとした光を投げかけるだけで、人影はすっかり途絶えている。
(まるで、この町全体が息をひそめているみたい……)
エリカは居間の灯りを消し、窓辺に立って外を窺(うかが)う。暗雲が空を覆いつくし、ときおり閃光(せんこう)が走って夜空を白く染める。遠くの海からはごうごうという音が響き、もしこれが“海鳴(うみな)り”という現象なら、今宵は特別に激しいのかもしれない。
一瞬、祖父の手紙にあった「満潮の海鳴り……星の音との共鳴……そのとき、扉は開く」という一節が頭をよぎり、思わず喉が渇く。まさか、今この嵐の夜に、何かが起こりはしないだろうか——そんな淡い期待と不安が混じり合う。
だが、外へ出ようにも、どの道も冠水寸前で危険だ。嵐のなか灯台へ向かうなど無謀そのもの。ここはただ落ち着くしかない……そう自分に言い聞かせ、深いため息をつく。
1. 夜を断ち切る光
ところが、そんな静寂を一瞬でかき乱す出来事が起こった。
ごろごろと続く雷鳴の合間に、ふいに“ぴかっ”と明るい光が走る。稲光ではない。外から見えるわずかな視界の端、家の裏手の方角で強烈な閃光が放たれたように見えた。
「何……今の?」
思わず口をつくと、ほぼ同じタイミングでまたもう一度、ぱきっとした白い光が瞬(またた)く。雷と違って、空ではなく地上近く、さらに距離もそれほど遠くなさそうだ。何かトラブルが起きたのだろうか——電柱がショートでもしたか、あるいは不審者のライトが走ったのか。
エリカの胸は嫌でもざわつく。もしやあの男が無茶をしているのではないか、そんな疑念が頭をかすめる。ここ数日の出来事と結びつけるのは早計かもしれないが、予感を拭えない。
「……家の裏手って、あの林のほう?」
祖母の家の背後には茂みを抜ける細い山道があり、その先には確か町外れへと通じるもう一本の坂道がある。街灯もほとんどなく、地元の人間でも滅多に通らない裏道だ。
外は嵐。今から裏手を確認しに行くなど狂気の沙汰だが、どうにもじっとしていられない。しばらく窓際で迷ううち、またもう一度、閃光が見えた。雷の稲妻の白さとも違い、何か強烈なライトを誰かが振り回しているかのような不自然さがある。
「……行くしかない、か」
荷物は最小限、スマホとライトだけ手にして、急いで雨具を引っかける。背筋が震えるほどの暴風雨の中へ、エリカは踵(きびす)を返して突き進んだ。
2. 暗闇への踏み出し
家の横をぐるりと回り込むと、細い裏道へ続く踏み石がある。嵐のせいで足元が滑りやすく、懐中電灯の光で照らさなければ一歩も進めないほどだ。木々がざわめき、枝が折れる甲高い音が聞こえる。
懐中電灯を握る手が、強風で震える。雨が横殴りに顔面を叩き、視界は最悪だ。頭上で枝が揺れる度に心臓が跳ね上がる。この状況の中へ飛び込むことがどれほど危険かは分かっている。それでも、あの閃光の正体を確かめずにはいられない。
(落ち着いて、落ち着いて……)
嵐の合間から、遠くで雷鳴が再びとどろく。その一瞬、まるで白昼のように道が照らされ、山道の先にかすかに人影が動いたように見えた。
「——誰か、いる……!」
声にならない息が漏れる。いや、見間違いかもしれない。けれど、もし誰かがこの道にいるとすれば、あの閃光も人為的なものだという可能性が高まる。思わず足を早めようとするが、ぬかるんだ地面に足を取られて転びそうになる。
(まずい、冷静にいかないとケガする……)
嵐の轟音にかき消されながら、エリカはなんとか踏み石をたどって上へと進んでいく。坂を少し登ったところで、藪(やぶ)の切れ目からかすかに光がちらついた。先ほどの白い閃光よりは弱く、何か懐中電灯より強い照明を照らしているのかもしれない。
心臓の鼓動がはげしい。ライトを持つ手が汗ばみ、雨具のフードがずり落ちて髪を濡らす。
3. 見つけた背中
道が小さな開けた場所へ抜けた瞬間、エリカは稲光の一閃とともに、男の後ろ姿をとらえた。例の長身の男——あの“探偵”を名乗る人物だと即座にわかる。黒いレインジャケットの背中がシルエットとなって浮かび上がり、手には何やら大きなライトか装置のようなものを構えている。
(やっぱり……!)
喉が強張り、どう声をかけていいかわからない。男は林の傾斜を見据えているようで、その先には木々が揺れ、崖の上の暗闇が広がっている。
雨音と風の音が激しく、相手もエリカの存在に気づいていない様子だ。この状況で迂闊(うかつ)に近づけば危険なのは明らか。けれども放っておけば彼は何をするのか。数秒の躊躇が、まるで永遠のように感じられる。
すると不意に、男がこちらに振り返った。閃光が雷光と交差し、夜空が白く染まる。相手は一瞬ぎょっとした顔を見せるが、すぐににやりと笑った。
「……こんな嵐の夜に、物好きだな」
低い声が轟音のなかでかろうじて届く。男の表情はまるで「計算外だったが悪くない」とでも言わんばかり。
「……あなたこそ、何をしてるの……!? こんな場所、しかも夜中に……!」
エリカが声を張り上げると、男はライトのスイッチを押し、さらに強い光束をあたりに放った。強烈な光が雨のしぶきを照らし出し、視界がちらつく。
「灯台へ繋がる別のルートを探していたのさ。こっちの山道を抜けて崖沿いに回れば、正面から行けないときでも近づけると聞いてね。嵐の夜だろうが何だろうが、待ってられないんだよ」
男の口調は苛立(いらだ)ちをはらみつつも、どこか余裕すら感じさせる。まるで嵐を嘲笑(ちょうしょう)するかのように、強行突破を図ろうとしているのだろうか。
雷鳴が近づき、ぴかっと青白い光が再び闇を裂く。その一瞬の煌(きら)めきのなかで、男の背後の木立のさらに向こうに、“何かの影”がかすかに動いたように見えた。
(……人影? それともただの揺れる枝?)
混乱の中、エリカは思わず男を睨(にら)みつける。
「こんな荒れた天候、あなただけじゃなく、だれだって危ないのに……。危険な行動を取る前に、どうして待てないの!? あなたが求めてる“星の音”がどういうものか、分かってるんですか?」
男はわずかに顔をゆがめて、そっぽを向く。
「わかるわけがないだろう。だが、俺が関心があるのは、その音が実在するかどうか。そして、それを調べれば得るものがある——ただそれだけだ。あんたとは違う目的だが、少なくとも待つ余裕はない」
その言葉が終わらないうちに、猛烈な風が吹きつけ、木々がしなる。エリカは体勢を崩しかけ、「キャッ」と声をあげてしまう。ぬかるんだ地面でバランスを失い、ライトを放り投げそうになると、ふいに男の腕が伸びて彼女の腕をとらえた。
「……こんなとこで死なれると面倒だ」
語気は荒いが、男の手にはある種のためらいが感じられる。助ける気がまったくなければ、見殺しにしてもいいはずだ。それなのに。“探偵”の肩書を自称するだけあって、ただの凶暴な男ではないらしい。
4. 稲妻の彼方
あたり一面、風が猛威を振るい、雨脚がさらに激しくなる。雷鳴が近づき、木立が大きくうねる中、二人はどうすることもできず立ち尽くす。灯台まで行くなど不可能に近い。ここで引き返すべき——だが、男はまだ進む気でいるのか。
「まさか、本当に灯台へ向かう気? 海沿いは崖崩れが起きてもおかしくない状況よ。やめてよ、死んじゃうわよ!」
叫ぶエリカの声に、男はしばし沈黙したまま、暗闇の先を睨んでいた。しかし、次第にその肩から力が抜けていくように見える。やがて彼は無言のまま大きく息を吐き、手の中のライトを一段階弱める。
「……さすがに無理か。そうだな。こんな状態じゃ調査にならん」
荒い息の合間からこぼれる言葉には、かすかな諦(あきら)めが混じっていた。エリカは胸をなで下ろしかけたが、男が視線を自分に戻したその刹那、背後に巨大な閃光が炸裂する。
稲妻が頭上近くに落ちたのだろうか。激しい衝撃音とともに、大気が震え、木立の向こう側がまばゆい光に一瞬包まれた。雨しぶきが霧のように立ち上がり、まるで夜空に真っ白な孔(あな)が開いたかのよう。
男もエリカも、一瞬呼吸が止まる。視界を奪う閃光のなかで、僅(わず)かに見えたのは——崖の方角から立ち上る蒼白い炎のような揺らめき。いや、実際に何かが燃えているのか、それとも雷で大気が乱反射しただけなのか。
どちらにせよ、このまま山道を進めば命の保証はない。男もさすがにそれを悟ったのか、懐中電灯を一度オフにし、エリカに向き直る。
「危ない。戻るぞ。あんたがどうしてここに来たのか知らないが、もはや探索どころじゃない」
押し殺した声でそう言うと、男は転びそうになるエリカの腕をしっかりと支えながら、来た道を引き返しはじめる。雨に打たれ、風に揺さぶられながら、二人は互いの存在を確認するようにして山道を下った。
闇のなか、また一度だけ空が白く光る。稲妻の閃光に浮かび上がるのは、木々の影と、嵐に巻かれた町の遠景。灯台はここからは見えないが、あの場所も同じように嵐の猛威の下にあるはずだ。星の音どころか、命さえ危うい夜だというのに。
5. 暁のかがり火
どうにか祖母の家の裏手まで戻ってきた頃には、二人ともずぶ濡れで息が上がっていた。男はすぐに踵を返して去るかと思いきや、少し外れた場所で荒い息を整えている。エリカも動悸がおさまらず、膝に手をつきながら深呼吸を繰り返した。
「……あんた、どうして俺を止めたんだ? 放っておけば自由に行かせただろうに」
風と雨の音に混じって、男の低い声が問う。エリカは息を切らせたまま、乱れた髪を拭いながら、必死に答える。
「……そんなの……誰かが死んじゃうかもしれないのを見過ごせるわけないでしょう……」
「……そうか」
男はわずかに眉を動かしただけで、それ以上は何も言わない。ひときわ強い風が吹きつけ、二人の間を冷たい空気が走る。
やがて男は雨宿りのように家の軒下に身を寄せていたが、雨が少し弱まったのを見計らったかのように背を向ける。
「世話になった。……この借りは返すかもしれん。あんたらがどんな動機であれ、灯台に入る気なら、そのときにまた会うことになるだろう」
かすかな声でそれだけ告げると、男は暗闇の下へと走り去った。さっきまで見せていた焦燥感とは違い、どこか妙に落ち着いた足取りだった。
エリカはしばらく玄関前でぼうぜんとし、雨音と風のざわめきに身を委ねる。夜はまだ深く、雷鳴は遠ざかっても時折稲妻の光が空を裂く。
この嵐が過ぎ去った後、町はどんな朝を迎えるのだろう。灯台がどうなっているのか、あの男が再び動き出すのか——何もかもが不確定なまま、夜は続いていく。
かじかむ指先で鍵を開け、家の中へ滑り込む。びしょ濡れの雨具や靴を脱ぎ捨てると、まるで全身の力が抜けるように座り込む。
(“星の音”……そんなもの、本当にあるんだろうか……)
激しい疲労と、妙な空虚感が胸を占める。けれども、祖父が追い求めたものが“ただの幻想”で終わるとは思えないし、あの男さえ本気でそれを探しに来ている。
思い返せば、あの雷鳴の閃光に、一瞬だけ蒼白い炎のような揺らめきが見えた——まるで、夜の海を照らす火柱のような、幻想めいた光景が。疲れ果てた脳が見せた幻覚かもしれないが、もしあれが何かしらの“兆(きざ)し”なら……。
雨音を子守唄にして意識が薄れていく。いつの間にか瞼(まぶた)が重くなり、思考は浅い眠りの淵へ沈み始める。嵐は夜明け頃まで続きそうだ。きっと朝になれば、町にも人々にも大きな爪痕(つめあと)が残るだろう。
ふと、祖父の声が遠い夢の中から呼びかけるように耳に響いた気がした。——「星の音は、嵐の後にこそ聴こえる」。それがただの夢か、祖父の本心かすら分からないまま、エリカの意識は深い闇に溶けていく。
嵐の夜がやがて静まり、朝の光が町を照らしたとき、はたして何が変わっているのか。それはまだ誰にも分からない。けれども、胸の奥で小さく灯り続けるものがある。
その名を希望と呼ぶのか、あるいは宿命と呼ぶのか——いずれにせよ、星々のセレナーデは終わりではなく、いままさに幕を開けたばかりなのだから。
第十二章 嵐の朝
激しい雷と雨音が続いた嵐は、夜明け前に徐々に弱まり、そして朝には嘘のように雲が途切れ始めていた。まばらに射し込む太陽の光が、水滴を纏(まと)った町の屋根や路面を淡く照らす。
エリカが気がつくと、祖母の家の居間には朝の光が差し込んでいた。夜中の出来事が現実かどうか迷うほどの静寂——外ではカラスや小鳥の声が混ざり合い、まるで嵐の惨劇を浄化するかのように鮮やかだ。
「……ん、何時……?」
とっさにスマホを見ると、もう朝の九時を回っている。身体中がだるくて重く、あちこち筋肉痛のような痛みが走る。夜中、あの猛雨のなかで山道を駆け回り、男とやり取りをしたせいだろうか。
ふと窓越しに外を見やると、庭の雑草や小さな畑はすっかり倒れ、雨水がところどころに溜まっている。玄関先に回ってみると、落ち葉や小枝が散乱していた。家の周囲こそ大した被害はないようだが、町のほうはどうだろう。気づけば、あまりの疲労で朝まで眠りこんでしまっていた。
1. 嵐の爪痕
支度を整え、外へ出る。坂道を少し下るだけで、嵐の影響がはっきりと分かった。路上には折れた枝や吹き飛ばされた看板らしきものが転がり、溝(どぶ)は溢れかかった水がまだ音を立てて流れている。近所の家々でも掃除に追われる姿がちらほら見える。
「……おはようございます、大丈夫でしたか?」
顔見知りの住人に声をかけられ、エリカは「はい、大丈夫です」と答える。口には出さないが、夜中に外へ出ていたことを思うと、冷や汗が戻ってくる気がした。
さらに坂を下って商店街まで行くと、一部の店は雨漏りや看板の破損で営業を見合わせている様子。けれども人々はそこまで慌てた様子もなく、顔を合わせれば「今年一番の嵐だったねえ」と苦笑を交わしている。町の人間には、この程度の災害はまだ許容範囲なのかもしれない。
エリカはまず、庄司(しょうじ)雑貨店にマキがいるだろうかと思い、足を向ける。昨夜あれだけの嵐があったのだから、彼女も心配だ。店のシャッターは開いており、店先ではマキが床を拭き掃除している姿が見えた。
「あ、エリカさん! よかった、無事だった?」
マキは心底ほっとしたように笑いかける。髪を軽く後ろで束ねて、長靴を履き、雑巾で店内の雨漏りの跡を拭いている。どうやら店そのものには深刻な被害はなさそうだ。
「ええ、何とか。……マキさんは大丈夫でしたか?」
「うん、うちは大丈夫。でも街灯が倒れかけて商店街の通りが少し荒れたから、朝から片づけやら手伝ってるの。いやぁ、ひどい夜だったね……」
そう言ってマキは雑巾を一度絞り、ため息をつく。その先にはシャッターの奥で少し水浸しになった段ボール箱が山積みになっていた。
ちょうど会話していると、スマホが振動した。画面を確認すると、藤巻(ふじまき)ヒカルからだ。
「もしもし、エリカさん? よかった、つながった。今、町の見回りを手伝ってるんだけど、そっちも被害は最小限って感じかな?」
ヒカルの声に安堵が滲(にじ)んでいる。昨夜の嵐で電話も不通になったりしていないかと気にしていたようだ。エリカは店先に視線を向けながら事情を説明し、無事を報告する。
「それはなにより。実は、灯台のほうが少し気になってるんだ。役場の人から『灯台付近の崖で土砂崩れが起きたかもしれない』って連絡があって、いま漁協や消防団の人たちが現場を見に行ってるみたい」
「えっ……灯台が……?」
マキも思わず耳をそばだてる。嵐で地盤が緩み、崖沿いの道が崩れたかもしれないという話は、じゅうぶんあり得る。となれば、灯台までのルートが使えなくなるか、あるいは灯台自体が被害を受けている可能性も否定できない。
2. 灯台への行方
ヒカルの話によれば、まだ正式な被害状況は分かっていないが、役場や消防団が実地調査をして安全が確認できるまでは、あのあたりに近づかないほうがいいらしい。いずれ詳細が分かり次第、改めて連絡をくれるという。
「そっか……。何か進展があれば教えてください。私も手伝えることがあれば行きます」
そう言って電話を切ると、マキが心配そうに眉を寄せる。
「これじゃ、しばらく灯台の調査はできないわね。せっかく許可を待ってたのに」
「うん……。でも、崖が崩れてたら危険だし、現場検証を待つしかないか」
そう言いつつ、エリカの胸には別の疑問が浮かんでいる。昨夜、嵐の最中にあの男が裏道を経由して灯台に近づこうとしていた。もし強行していたらと思うと、恐ろしい。彼が命の危険を承知で突っ走らなくて本当に良かったと感じる。もっとも、その余波で何かしらのトラブルを起こしていないだろうか、と不安は拭えない。
「とにかく、きょうは町の復旧作業が最優先だね。わたしも店の片づけが落ち着いたら、商店街の被害状況を見てくるわ」
マキがそう言ってシャッターを開け直し、床に広がる水たまりをぞうきんで拭く。エリカも「手伝います」と申し出ると、ちょうどよくタオルやゴミ袋が必要だと聞き、買い出しに行くことを引き受けた。雑貨店は日用品も扱っているが、自分で外回りついでに、どれだけ被害があるのか確かめてきたいという気持ちもある。
3. 水たまりの中の影
エリカは商店街を一通り巡り、スーパーやホームセンターでタオルや清掃用品を買い込む。通りは朝のうちよりも活気が戻ってきているが、やはり台風一過に近い雰囲気で、皆が総出で掃除に追われている。
道端の大きな水たまりを避けて歩き、ちょうど骨董店のカシワギ老人の店の前を通ったとき、ひときわ大きな水はけの悪い場所に出くわす。そこに立ち止まったとき、エリカはかすかに奇妙な視線を感じた。
ふと横を見ると、見覚えのある長身の男が路地の奥からこちらを見ている……気がする。が、すぐに小走りで角を曲がって姿を消した。
(また……?)
昨夜、嵐の中で別れたばかりの男。まさかもう行動しているのか。エリカは心臓がどきりとするが、追いかけるには両手が買い物袋でふさがっているし、この辺りで声を上げれば商店街の人を巻き込む騒ぎになるかもしれない。
(あの人、無事だったんだ……)
まずはその事実に、どこか安堵している自分に気づく。命の危険は回避したとはいえ、彼の目的は依然不透明。町の目が行き届かないうちに、何かよからぬ行動を取る可能性はある。
エリカは一旦、カシワギ骨董店に立ち寄ろうかとも考えたが、店は雨戸が閉まっていて営業している気配がない。連日散々な天候や騒動があったから、さすがに今日は休みなのかもしれない。
(とりあえず、必要なものを届けて、あとでヒカルにも連絡しよう……)
そう思い直して商店街の中央へ戻る。曇り空はまだ多めだが、白い日差しが時折こぼれ落ちて、濡れた石畳がきらめいている。
4. 再会と報せ
雑貨店に戻ると、マキがちょうどシャッター前の床を拭き終えたところだった。雑巾を絞っている彼女の背中には、疲労の色がにじんでいる。
「ごめんね、助かるわ。重かったでしょ?」
エリカが差し出した買い物袋を受け取りながら、マキは笑みを返す。少し肩の力が抜けたのか、うっすらと安堵した表情だ。
「大丈夫です。商店街も、みんな頑張って片づけてましたよ。……あ、そういえば、カシワギさんの店は閉まってました。大丈夫なのかな」
「うん、昨日から店は開いてないって人づてに聞いたけど、老人だから無理に出歩くこともないんじゃないかしら。ちょっとあとで様子を見に行こうかな」
そんなふうに話していると、入り口のほうで「あ、いたいた」とヒカルが姿を見せる。どうやら役場の人たちとの打ち合わせが終わったらしい。
「やあ、二人とも。手伝いに来たよ。……大きな被害はなさそうで何よりだね」
そう言いながら店内を見回し、ヒカルはほっと息をつく。
「町外れの崖はやっぱり一部が崩れたみたい。灯台の入り口あたりまで確認してないけど、現地調査をする人が足止めを食ってるそうだ。正規ルートは今のところ完全に通行止めだって。僕らの調査も、しばらくは見合わせになりそうだね」
やはりそうか、とエリカは内心で嘆息する。嵐の影響で、当面は灯台への正式な道が使えない。役場の許可が下りる前に裏道から侵入しようにも、この状況じゃ危険すぎる。かといって、あの男が何らかの抜け道を狙っているとしたら、どうすれば止めることができるのか。
「今は町の安全確保が最優先。ひとまず落ち着くまで、僕らは大人しくしてたほうがいいかもしれない。災害現場に余所者が入り込むと逆に迷惑かけるから……」
ヒカルが真面目な調子で言う。マキもうなずく。
「そうね。わたしも先祖伝来の云々(うんぬん)を引き合いに出して変に主張したくないし、とりあえずは日常を守りながら、進展を待つしかないわね」
エリカはそうした理性の声を理解しながらも、胸に宿る焦燥感を抑えられない。あの男が独断で動き出す前に、祖父の手がかりを生かして何かできることはないのだろうか。人目を避けてこっそり何かを試す……それも危険すぎる。一人で背負いこむにはリスクが大きすぎる。
「……お腹すいてない? おにぎりでも買ってきたわよ。ちょっと休みつつ作戦を考えましょ」
マキが気を利かせてビニール袋からコンビニおにぎりを取り出し、ヒカルとエリカに手渡す。二人とも朝食をまともにとっていなかったのか、ほっとしたように受け取る。
閉店状態の雑貨店の奥にあるカウンター裏で、簡易的に食事をとりながら、エリカの頭にはまだ昨夜のあの光景——雷鳴の閃光に包まれた「蒼白い炎」のイメージがちらついていた。
5. “星の音”への微かな道筋
ほんの少しの休息のあと、三人はそれぞれ手伝いや用事をこなしに出かけていくことにした。マキは商店街の被害状況を確認し、ヒカルは学校や町内会の要請を受けて支援に回る。エリカは買いそびれた日用品を補充しがてら、町の様子をもう少し見て回るつもりだった。
店先で別れ際、ヒカルがあらためて言う。
「当面、灯台には近づけないと思うから、その間に過去の資料とか、祖父のノートをさらに読み込んでおくといいかもね。あとはカシワギさんが店を開けたら、もう少し古い情報を聞けるかもしれない。彼は鍵になる人物だと思うよ」
エリカは素直に頷(うなず)く。幸い、この嵐でノートや手紙を失ったり濡らしたりはしていない。むしろ今がチャンスかもしれない。じっくり暗号や図面を解き明かす時間を確保できるのだから。
「分かりました。二人も気をつけて。……あの男の動向も怪しいし、何かわかったら連絡しますね」
雨上がりの空は、まだ薄暗い雲がたなびいている。時折差し込む日差しに、濡れた町並みが鈍く反射し、どこか幻想的な光景を生み出していた。まるで嵐が浄化したかのように空気は澄んでいるが、一方で灯台に通じる道が塞がれた事実は、エリカたちにとって痛手だ。
だが、祖父のノートに残された「潜り戸」の記述、“海鳴り”と“星の音”を結びつける言葉、そして歯車の金属パーツが指し示す未知の仕掛け——これらの手がかりを手繰(たぐ)り寄せれば、きっと何かが見えてくるはず。
昼過ぎ、買い物を終えて祖母の家に戻ったエリカは、玄関で改めて大きく息をつく。疲れた身体を落ち着かせるかのように、台所でお茶をいれ、居間の畳の上に正座して、祖父のノートを取り出す。
ページを開くたびに、薄い紙がわずかに擦(す)れる音が耳につく。走り書きされた数式やスケッチに、灯台や崖の形状を示すような図面——これまでは漠然としか見えてこなかったものが、嵐の夜を経てわずかに意味を帯び始めているような気がする。
「……『潜り戸』って、いったいどんな仕掛けなんだろう」
昨夜のあの騒動、そして夜明けの静寂。まるで必然のように繋がっている気がする。奇妙な男、嵐、崖崩れ……すべてが“星の音”をめぐる道を複雑に絡ませているかのようだ。
表紙裏のメモを指でなぞりながら、エリカは小さく呟(つぶや)く。
「おじいちゃん……あなたは、次に何をしようとしていたんだろう。あの潜り戸を開けて、いったい何を見たかったの……?」
風が開け放った窓をかすかに揺らす。昨日とは打って変わって落ち着いた空気が、埃(ほこり)をほんの少し舞い上げる。あれだけの嵐が嘘のように、今は静かな時間が流れているが、これが永遠に続くわけではない。
嵐の後の穏やかな朝——その裏側にある危うい綻(ほころ)びを、エリカは敏感に感じ取っていた。いつか再び吹き荒れるかもしれない嵐と、そのときに鳴り響くかもしれない“星の音”の予兆。
深呼吸をして、エリカはノートをさらにめくっていく。ページの彼方から、祖父の筆跡がまるで歌うように訴えかけている気がする。もしそこに答えがあるのなら、どんなに時間がかかっても読み解いてみせる——そう、エリカは改めて心に誓った。
外の空では、まだ小さな雲が風に流されている。遠くの水平線の先には、きっと穏やかな光が広がっているはずだ。迫り来る未知の脅威と、祖父の願いが交差するなかで、物語はゆっくりと、しかし確実に次の扉を開こうとしている。
第十三章 封じられた記憶
嵐の去ったあとの町は、打ち水をしたように空気が澄んでいた。折れた枝や吹き飛ばされた看板の片づけはまだ続いているが、少しずつ日常を取り戻しはじめている。
エリカは午後の静かな時間を利用して、祖父のノートに書かれたスケッチや数式を丹念に見直していた。外の風は穏やかで、さわさわと草木を揺らし、開け放した窓から明るい日差しが差し込んでくる。
(嵐の夜、あの男に遭遇したなんて、まだ信じられない……)
思考の片隅で昨夜の出来事が蘇る。彼はきっと、灯台の“本当の姿”を自分なりの目的で手に入れようとしている。だが、崖が崩れてしまった今、正攻法での接近は不可能だろう。危険を冒して裏道から行くにしても、あの荒れ模様では満足に調べられないはず。それでも何かしら別のルートを探してくるかもしれない……。
ペラリとめくったノートの一ページに、幾何学模様のような線と、流星群らしきシンボルが描かれている。周囲には「共鳴」「波動」「反射」「水位」「扉」などの文字が、メモ書きのように散りばめられていた。何度見ても漠然としているが、何か単なる迷信とは呼べない、科学的な仕掛けを示唆している気がする。
やがてページをめくる手が止まる。ノートのほぼ最後の方に近いところ、祖父がいかにも書きかけで途絶えたような文章が目に留まった。
星の音——それは恐らく、光ではなく音として届く波動。
潮の干満による水圧または空洞共鳴が関係する可能性。
灯台の下部(地下空間)は、外海と間接的に繋がっているのか?
庄司家の一族が儀式として守り続けてきた、と言われるが、実情は……?
エリカは息を呑み、庄司家の名を見つけて背筋が寒くなる。マキが言っていた「かつて先祖が灯台を守っていたかもしれない」という話とも奇妙に符合している。まるで祖父は、マキの家系が担っていた“儀式”の秘密へ迫りかけていたかのようだ。
(封印、儀式、空洞共鳴……。祖父はいったいどこまで突き止めていたんだろう?)
ページの角には、幾つかの数式と共に「72°」「108°」という角度の数字や星座の略号、さらに「A.M. 3:14」「満潮」などと書かれている。星座の略号は「Per」(ペルセウス座)か「Aqr」(みずがめ座)を示唆しているのかもしれないが、素人の目には判然としない。
(天文現象との関連……。特定の流星群が来る季節、夜の満潮、そして星の音——それが“封印された空間”を開く合図になる?)
漠然とした思考がめぐるなか、エリカは一つの仮説を立てる。星の音とは、ある種の自然現象によって引き起こされる波動であり、それを察知できる仕掛けが灯台の地下にある。そして“庄司家の儀式”は、過去の人々がその波動を神聖なものとして受け入れ、守り続けてきた。
(もしそれが金銭的に利用できるとしたら……あの男の依頼人は、それを独占したいのかもしれない。考古学的価値や観光資源、あるいはもっと別の利用法……)
1. 訪問者ふたたび
そんな考察に没頭していると、玄関のほうでノック音がした。出てみると、そこには雑貨店のエプロンをつけたマキが息を弾ませて立っている。
「ごめん、エリカさん。急いで来ちゃった……。ちょっと見てほしいものがあるの」
表情が固く、何かただならぬ気配を感じる。エリカが家へ招き入れると、マキは小さなビニール袋を取り出した。中には、すりガラス状の古い瓶の破片のようなものが入っている。
「これ、商店街の片づけをしてたら、植え込みの隙間から見つかったの。たぶん、何かの器具を分解したガラスみたいで、どうも普通の瓶じゃない感じがするの。で、よく見たら、端のほうに微妙な凸レンズ状のカーブがあって……」
マキの指が示す先を見ると、確かに小さな曲面が残っている。さらにゴミを捨てるわけでもなく、丁寧に袋に入れて保管したのは何か引っかかりがあったからだろう。
「商店街ではレンズなんて使わないし、少なくとも災害ゴミとしては妙に特殊。まさかと思うけど、灯台のレンズの一部……とか?」
灯台——レンズといえば、かつて航海のための灯火を増幅するためのフレネルレンズ(註: 光を集光する特殊なレンズ)がある。だが、それが簡単に街中まで転がってくるとは考えにくい。
エリカは破片を光にかざし、覗き込んでみる。確かに加工の痕跡らしき線が見え、高品質のガラスのようにも見える。
「これがもし灯台のレンズだったら……いったい誰が何のために取り外して、こんな街中に落ちてるんだろう? あの男がバラした? それとも、昔の灯台から流出した何かが今回の嵐で飛んできた……?」
マキはため息まじりに首を振る。
「分からないわ。嵐と関係してるかどうかも不明だし。でも、街でこんな部品が見つかったのは初めて。あの男が何かやったのか、あるいは昔から誰かが隠し持っていたのか……。町の人に聞いても『知らない』って言われたし」
確かに、外灯のガラスならもっと薄く、瓶ならもっと形状がわかりやすい。こうした特殊な素材が転がっているというのは、どうにも不自然でならない。
2. 思わぬ証言
そのとき、ふいにマキのスマホが振動する。画面を見ると「庄司雑貨店(自宅)」の表示。マキは「あ、おばあちゃんだ」と小声で言い、電話に出る。どうやら高齢の祖母が何か要件があるらしく、耳を澄まして聞いていると、マキの表情が一瞬強張った。
「え……? ちょっと待って、おばあちゃん、もう一度言って!」
マキは真剣な口調で問う。やがて話を終えると、顔には驚きと戸惑いが入り混じった色が浮かんでいた。
「どうやら、うちの祖母の家に“カシワギさん”が来たらしいの。あの骨董店の……。わたしの留守中にやって来て、おばあちゃんと何か話していったみたい。灯台と庄司家に関する昔の記録を借りたいって……。でも祖母は体調が悪くて詳しいことまでは覚えてないって言うんだけど」
「カシワギさん、マキさんのおばあちゃんのところへ……?」
エリカは思わず身を乗り出す。カシワギ老人は、たしかに町の古い資料に通じている“生き字引”のような存在だが、なぜ今さらマキの祖母と直接接触を?
マキも混乱ぎみだ。
「昔、庄司家が灯台を管理していたころの古文書が家に残ってるんじゃないかって聞かれたらしいの。結局、おばあちゃんは“私には分からない”って答えたらしいけど……カシワギさんって、そういうのを持ってそうなのに、わざわざうちに来るなんてね」
カシワギ老人が行動を起こした理由はわからないが、少なくとも灯台の秘密をめぐって“庄司家の記録”を探しているのは明白だ。しかも今のこのタイミングで。
「……わたし、これからおばあちゃんのところに行く。もし体調が大丈夫そうなら、もう少し詳しく聞いてみる。カシワギさんが何を求めていたのか、鍵になるかもしれない」
マキが決心したように言うと、エリカもうなずき、立ち上がった。
「わたしも行くよ。家にいてもノートを読み解くだけじゃ限界があるし、庄司家に昔から伝わるものがあるなら、見せてもらえないかな」
「うん……。そうしましょう。もしかしたら、おじいちゃんおばあちゃんの世代が、昔の儀式のことを何か知ってるかもしれないし」
そう言い合い、二人は急ぎ支度をして玄関を出た。空はまだ薄曇りだが、雨の気配はもうない。町を包む空気はどこか人々のざわめきが落ち着き始めたようで、災害後の処理も一段落しつつある。
3. 庄司家の古い屋敷
マキの祖母が住んでいるのは、商店街から少し離れた路地をさらに奥へ進んだ、古い屋敷だった。大きな敷地に母屋と蔵(くら)があり、築百年以上とも言われる伝統的な造りを持つ。
「昔は庄司家といっても分家がいくつかあって、今はこの本家だけが残ってるの。わたしは若いうちに分家筋へ行ったから詳しいことは知らないのよって、祖母はよく言うけど……」
そう言いながら、マキが玄関を開けると、奥の座敷で祖母が布団にくるまって休んでいるのが見えた。高齢ということもあり、どうも一昨日から体調を崩しているらしい。
「おばあちゃん、今日はマキの友だちも一緒に来たの。大丈夫?」
マキが優しく声をかけると、布団の中からかすれた声が返ってくる。
「ああ、マキかい……。体はひどくはないが、起き上がるとふらつくんだよ。昨日も突然カシワギさんが来てね……。びっくりして腰が抜けそうだった」
挨拶を済ませたエリカも、祖母の枕元に寄り、小さく会釈をする。やや痩せた顔立ちの、品の良さそうな老婦人だが、体調が悪いせいか少し気力が落ちているように見えた。
「おばあちゃん、カシワギさんは何を言ってたの? 家に古い書物や巻物はないか、とか聞かれたんでしょ?」
マキが問いかけると、祖母はうっすら目を開け、遠い記憶をたどるように小さく首を振る。
「あまりはっきり覚えていないが、そう言われた気がするよ。灯台の歴史がどうだとか、庄司家が担っていた役目だとか……。わたしは詳しいことなんて知らないんだよ。物心ついた頃には、もう灯台とは縁がなくなってた」
エリカは祖父のノートにあった“庄司家の儀式”の言葉を思い浮かべながら、ゆっくりと尋ねてみる。
「庄司家が、昔“灯台を守っていた”って話をご存じないですか? 儀式みたいなものがあって、神事のようなことをしていたとか……」
すると、祖母はかすかなため息を漏らした。
「さあ、儀式と言えるほど大げさなものかは分からない。ただ、わたしのおじいさんの代までは、“星の夜”に海へ出て何かを祈る習わしがあったと聞いている。女性や子どもは参加できないから、何も見ていないんだけどね……」
“星の夜”に海へ出る。やはり何かの神事があったのだろうか。エリカとマキは目を見合わせる。もしそれが“星の音”に結びついているとすれば……。
4. 蔵に眠るかもしれない書物
病床の祖母をこれ以上問い詰めるわけにもいかず、エリカたちは座敷を離れようとした。そのとき、ふと思いついたように祖母が口を開く。
「……ああ、そういえば、蔵の奥に昔の道具や書付が山積みになっているはずだ。先代が亡くなったときに整理しきれなくてね。ひょっとしたら、カシワギさんはそれを探していたのかも……」
マキは「蔵?」と眉を上げる。
「確かにうちには大きな蔵があるけど……物置同然で、わたしも中身を全部把握してないんだ。封を切ってないダンボールが山ほどあって、何代も昔の紙束が入ってるらしいんだけど」
祖母が言うには、そこには先祖代々の古文書や日用品が無造作に詰められているらしい。庄司家が「灯台守」を担っていた時代の痕跡が眠っているかもしれない。
「もし体調が良くなれば、カシワギさんがもう一度来るかもしれないが……。あの人は骨董や歴史のことに詳しいし、変に疑うわけじゃないが、なんとなく落ち着かなくてね。マキやお友だちが一緒に整理してくれるなら助かるんだけど」
祖母はうつ伏せ気味にそう呟き、今にもまぶたが閉じかけている。どうやら、しんどくて限界のようだ。マキが布団のかけ直しを手伝い、エリカもそっとお礼を言って座敷を離れた。
5. 蔵の扉の向こう
二人は蔵の前に立ち、重厚な木の扉を見上げる。屋敷の離れに位置するこの建物は、外観からして相当古い。鍵はかかっているが、マキが管理しているスペアキーがあるらしく、ガチャリと錠を外すと扉が重々しく開いた。
「久しぶりに入るわ。子どものころ、探検みたいに覗いたきり……」
扉を開けた途端、閉ざされていた空気の匂いがむわっと鼻をつく。埃と古紙、木の香りが混ざり合い、薄暗い蔵内が視界に広がる。
懐中電灯を照らすと、床から天井近くまで段ボールや木箱が積まれ、ところどころ布がかぶせられている。スチール棚や箪笥(たんす)、古い茶箱などが入り乱れていて、確かに“蔵の宝庫”と呼んでも差し支えないほど雑多だ。
「うわあ……。これはちょっと、一日二日じゃ整理できなさそうね」
マキが呆れた声を漏らすが、エリカは逆に興奮を覚える。ここに庄司家の歴史が詰まっているなら、灯台の謎を解く決定的な資料が眠っているかもしれないのだ。
埃よけのマスクをし、手袋を装着して木箱の一つを開けてみる。古びた書類や帳面がびっしりと詰まっている。筆まめだったのか、収支帳や日記のようなものも多いが、どれも昭和初期や大正時代のものばかり。さらに奥には、もっと古い和綴(わとじ)じ本らしきものも見える。
「……これ、本気で調べるならけっこう時間かかるよ。とりあえず目立つものから順番に見てみる?」
エリカが提案すると、マキもうなずいて懐中電灯を棚へ向けた。
「そうだね。いずれにしても、今日は全部は無理だし、焦らずできる範囲で。カシワギさんが求めてる何かがあるなら、その痕跡くらいは見つかるかもしれない」
6. 祖先の手記
埃を払いながら数箱を開けてみたところで、エリカは「あっ」と小さく声を上げる。和紙を綴(と)じた手記のような冊子の表紙に、墨文字で「庄司家歴代記録」と書かれているのを見つけたのだ。
開いてみると、最初の数ページは家系図のようになっているが、かなり断片的で、かつ古文書風の記述が混じる。真ん中あたりをめくると、江戸末期に書かれたらしい日記のような文章が出てきた。どうやら筆者は庄司家の当主だった人物らしい。
「ええと、読める範囲で解釈すると……『海神(わだつみ)に供物(くもつ)を捧(ささ)ぐ』、『星の夜に海面(うみも)の音を聴く』ってところかしら。むずかしい文体だけど、“灯台”という単語も見えるわ」
マキが懐中電灯の光を当てながら、ゆっくり言葉を拾う。エリカも目を凝らして一緒に読むと、確かに「海神への祈り」「星の夜」「音を聴く」という記述が頻出している。
さらに読み進めると、「当家ハ地ノ神ト星ノ神ヲ結ブ」といった難解なフレーズや、「廟(びょう)ヲ守リ、風雨ヲ鎮ム」「塔下(とうか)ノ扉ヲ開ク」などの言及がある。どうやら庄司家は、海の神と星の神の間を取り持ち、灯台に付随する何らかの“塔下”を管理していたらしい。
「……塔下の扉、だって。これって祖父のノートにあった“潜り戸”と同じかも」
エリカがページの端を指す。そこには小さな筆文字で「潜戸(せんこ)」の二文字が見える。読み方ははっきりしないが、「潜り戸」と音が近い。
マキも食いつくように見つめ、「やっぱり庄司家は灯台の地下か何かを守っていたんだ……」と呟(つぶや)く。祖先が果たしていた役割が徐々に具体的になってきた。
ページをさらにめくると、“星の夜”にまつわる詳細が散文的に書き残されていた。そこには「満潮の刻」「夜半過ギ、空ニ声アリ」「扉ヲ開キ、海ノ深部ニ音ガ響ク」など、断片的なフレーズが並ぶ。確かなことは分からないが、少なくとも昔の庄司家は「星の音」と呼ばれる現象を神聖なものとして扱い、そのための扉を守り続けていたようだ。
7. 受け継がれる秘密
何時間も蔵の中で埃と戦いながら、エリカとマキはこの「庄司家歴代記録」を中心に古文書をざっと確認していく。体系立てた史料というより、代々の当主が断片的に書き足してきた寄せ集めのようだが、それだけに生々しい記録が残っている。
やがて薄暗い蔵の中で、マキが深い息をついた。
「ねえ、エリカさん……わたし、こんな大変なことを背負ってる家系だなんて、今さらながらショックかも。灯台を巡る儀式とか、星の音がどうとか、子どものころはただの昔話だと思ってたけど……」
マキの声には戸惑いと決意が交じっている。エリカは静かに目を合わせる。
「マキさんは逃げずに向き合おうとしてるでしょ。それに私だって、祖父のノートを辿ってここまで来た。二人で力を合わせれば、きっと何か見えてくると思う。……大丈夫、私もいるから」
その言葉にマキは小さく笑みを浮かべ、「ありがとう」と呟く。蔵の中での一瞬の会話は、埃にまみれながらも小さな連帯感を生んでいた。
外ではいつの間にか夕方に近い光が射している。そろそろ座敷に戻って祖母の様子を見て、帰り支度をしなければならない。今回の調査で“潜り戸”や“星の夜の儀式”に関する手がかりが得られたが、その全容を解明するにはまだ道のりは長い。
(でも、確信が持てた。この家系と灯台は深く結びついていて、あの男の動きも含め、まだまだ明らかになっていないことがあるはず……)
エリカは和綴じの手記を袋に入れ、外へ持ち出すことにした。後でヒカルにも見せて、解読の手がかりを探してもらおう。
8. 黄昏に揺れる決意
屋敷の外へ出ると、オレンジ色の夕日が田畑や町並みを優しく照らしていた。たった一日で、嵐の荒々しさはほとんど影を潜め、まるで穏やかな秋の日常が戻ったかのようだ。
マキは祖母に声をかけるため家の中へ戻り、エリカは少し敷地の庭先を歩き回る。そこには古めかしい石造りの井戸や、半ば朽ちかけた鳥居(とりい)のようなものがあり、いかにも歴史を感じさせる風景だ。
(庄司家は灯台の扉を守り、星の音の儀式を担っていた。じゃあ、あの男たちが求める“星の音”って、何なんだろう……)
ふと、その儀式が「悪意をはらんだ誰か」に利用されたらどうなるか。祖父が懸念した封印の存在とは? 頭に浮かぶ疑問は後を絶たない。
(もし暗号や地図を解読すれば、灯台の地下へ通じる“潜り戸”に辿り着けるかもしれないけど、それこそあの男が狙っているんじゃ……)
エリカは空を見上げる。夕焼けに染まる雲は風に流され、ゆっくりと形を変えていく。人の思惑も、自然の摂理の前ではほんの小さな波にすぎないのかもしれない。
しばらくしてマキが戻り、「おばあちゃんは大丈夫そう。明日には少し落ち着くはずよ」と言う。二人は重い蔵の扉を閉め、鍵をかける。手元には歴代記録の和綴じ本と、いくつかの紙資料。すぐにでもヒカルに見せたいが、今日は時間も遅いし、ひとまず家に持ち帰って自分たちで検証してみることにした。
門を出る前、マキが名残り惜しそうに蔵のほうを振り返った。
「もっと早く知ってれば、こんな騒ぎになる前に整理できたかもね……」
「ううん、今だからこそ分かることがあるんじゃない? これだけ物事が重なったタイミングで蔵に入ることになったんだし」
エリカの言葉に、マキは小さく笑みを返す。宵闇が近づき始める町の風景を背に、二人はそろって屋敷を後にした。
灯台への道は塞がれているが、新たに「庄司家の記録」という心強い手がかりを得た。あとはどこまで読み解けるか——そこに“封印”の実態や“星の夜”の秘密が隠されていると信じたい。
夕日が徐々に山影へ沈み、空気がひんやりしてくるころ、二人は互いを励ますように言葉を交わしながら別れた。あの男やカシワギ老人、役場の動向など、気がかりは山積みだが、焦っても仕方ない。やるべきことははっきりしている。
遠くの海には赤と紫が混ざり合うような夕焼けが広がっていて、まるで天空が深い夜へと滑り込む準備をしているようだ。星が夜空に顔を出すのは、もう少し先。だが、その星々があるいは“音”を奏でるとしたら、それは人々の祈りや封印とどう結びついているのだろう。
胸に広がる期待と不安を抱えながら、エリカは再び祖母の家へ向かって歩みを進めた。夜が訪れるたびに、灯台の謎は深まり、そして“星の音”が静かに呼びかける——そんな予感が、夕闇の風に乗ってささやいている気がしてならない。
第十四章 古文書の夜
その夜、エリカは、庄司(しょうじ)家の蔵から持ち帰った古文書の和綴(わとじ)本を机に広げ、蛍光灯だけでは足りない光量を補おうと卓上スタンドを点けた。夜気が肌寒くなってきたが、古文書のかすかな和紙の香りがどこか懐かしさを伴って部屋に満ちる。
(いったい、どんな秘密が眠っているのか……)
不意に、廊下の軋(きし)む音が聞こえた気がして、思わず首をすくめる。あれ以来、祖母の家の中で響く微妙な足音のような気配には慣れずにいる。嵐も去り、あの奇妙な男と山道で対峙した直後のせいで、神経が過敏になっているのかもしれない。
(……落ち着いて。今夜はとにかく、この和綴じ本を読み解くことに集中しよう)
深呼吸をして、エリカは新しく買ったクリアファイルや付箋(ふせん)を準備する。ページをめくると、ときおり江戸期のような文体が出てきたり、大正期に書き足されたメモが挟まれていたりして、一つの書物というより「寄せ集めのスクラップ」的な趣(おもむき)がある。
昼間、マキと二人で見つけた「塔下の扉」「海神への祈り」「星の夜に海面(うみも)の音を聴く」などのフレーズを中心に、もう少し深掘りできる部分がないかを探す。
1. 潜り戸(せんこ)の由来
しばらく読み進めたところ、明治の頃とおぼしき筆跡で書き込まれたページに、次のような記述が現れた。
先々代ハ灯台ノ下ニ在ル「潜戸(せんこ)」ヲ守リ、星ノ音ガ聴コエル時期ニ扉ヲ開ク儀式アリ。
然(しか)シテ、其ノ儀式ハ明治維新ノ変革ニテ途絶エ、書付モ或(ある)イハ散逸セリ。
庄司家ノ祖(おや)ノ跡ヲ継グ者ハ、封印ノ要(かなめ)トナル歯車ヲ管理シ……
エリカは思わず息を止める。「封印の要となる歯車」。まさに、カシワギ老人が「エリカの祖父が預けた」と言って渡してくれた、あの金属パーツではないのか。先祖代々、庄司家が“歯車”のような部品を受け継ぎ、灯台の下にある仕掛けの封印を守っていたのだとすれば——祖父が灯台の謎を追うなかで、どうやってその歯車を手に入れたのかも気になるところだ。
(あの男が狙っているのは、この封印を解く“歯車”の可能性が高い……?)
さらに先を読み進めると、「儀式」は星の音が最大限に響くタイミング、つまり「特定の流星群と満潮が重なる夜」に行われるという。昔の暦(こよみ)や潮汐(ちょうせき)の周期を照らし合わせながら、庄司家の当主が夜半に潜り戸を開き、海神に捧げ物をしてきたと書かれている。
(祖父のノートにも、たしか「満潮」「星座の略号」「AM3:14」なんていう断片があった……。)
あらためてノートを引っ張り出し、古文書の記述と照らし合わせてみると、どうやら星座は「ペルセウス座流星群」を示しているらしく、夏の終わりから秋にかけて見られる流星群のピーク時刻が関係しているようだ。
2. ペルセウス座流星群との結びつき
ノートの走り書きには「Per G.8〜14」なるメモがあり、これはおそらく毎年8月から9月にかけて活発化するペルセウス座流星群を意味するのだろう。加えて「A.M. 3:14」という具体的な時刻。
エリカは自分のスマホで潮汐表のアプリを開き、この時期の満潮時刻をざっくり調べてみる。地域差はあるが、真夜中から明け方にかけて大潮が重なれば、ほぼその時刻に近い満潮もあり得るとわかる。
(なるほど……祖父もこれを狙っていたのかもしれない。ペルセウス座流星群のピークと満潮が重なる夜こそ、「星の音」を聴くための絶好のタイミングだと。)
さらに古文書には、「海鳴(うみな)りガ鳴ル夜半、海底ヨリ響ク声ヲ塔ノ下ニテ受ク」という、ややオカルトじみた一節さえある。科学的には単なる自然現象とも考えられるが、昔の人々にとっては神の音として崇められていたらしい。
3. 庄司家が封印せし理由
読めば読むほど、庄司家は灯台そのものよりも「灯台の地下にある空洞」と「扉」の管理に大きな関心を寄せてきたことが分かる。古文書のあちこちには「灯台守」というより、「塔下の封印を守る一族」というニュアンスが色濃い。
(封印というからには、“星の音”の正体があまりにも強力で、危険を伴う可能性がある? それともそこに何か金銭的価値を狙う者が昔からいたのだろうか?)
祖父のノートには、灯台の地下に“エアポケット”のような空洞が存在し、そこに海水が満ち引きすることで特定の周波数が増幅され、音として聞こえるのではないかと推測する一節がある。これこそが「星の音」の物理的メカニズムではないか、と。
だが、その空洞を維持するために複雑な仕掛けがあり、一定の周期で歯車を調整しないと崩落や水没の危険がある——そんな仮説も書かれていた。もし一度でも失敗すれば、海水が一気に流れ込み、灯台自体が崩壊するリスクがあるかもしれない。だからこそ、「扉を開く儀式」は気軽に行えるものではなかったのだろう。
4. 失われた継承
ページをめくる手が止まり、エリカは深い溜息(ためいき)をつく。
「……わたしが知らないだけで、こんなにも庄司家の歴史が深いなんて」
マキの言葉が脳裏をよぎる。彼女は祖母のもとで何も教わらないまま育ったし、儀式が廃れてしまった時代に生まれたから、仕方ないといえば仕方ない。
しかし、だとすれば、あの男が裏道から灯台へ強行しようとしているのは、まったく危険な行為でしかない。歯車の調整もせず扉を開ければ、最悪の事態になりうるということだ。祖父が必死に解読を続けていたのも、「星の音」を聞くためだけでなく、扉を誤って開いてしまう危険を防ぐ意図があったのかもしれない。
さらに読み進めると、庄司家の記録には大正時代以降、灯台の運営が政府や町の管理に移行し、正式な「灯火台」として登録されたとある。その際、伝統的な「塔下の封印」はすでに途絶えていたが、わずかに口伝として残った情報を守り通したのがマキの祖父母世代だったのだろう——そう記されたメモが、走り書きで貼り付けられていた。
(つまり、マキさんの祖母が知らないのも当然かも。それより上の世代が断絶してしまったんだ……。)
5. 記述の終わり、そして余白
やがて和綴じ本の最後のほうは、全く白紙のページが続く。一部、切り取られた痕(あと)があり、「いつか再興の兆しあらば書き継ぐべし」といった筆跡だけが残っている。どうやら封印や儀式が完全に途絶えたあと、後世のために追記しようとした形跡はあるものの、何も書かれぬまま時間が流れたらしい。
エリカはゆっくりと本を閉じ、机の上で両手を組み合わせて考え込む。庄司家の先祖が守ってきたもの——星の音と海の空洞を繋ぐ「潜り戸」。これを制御するのに必要なのが「歯車」という仕掛け。そしてその歯車は、なぜか祖父の手によってカシワギ老人のもとに預けられ、エリカの手に戻ってきた。
(きっと、灯台を正しく開放するためには、あの歯車を取り付けて、星と海が響き合うタイミングを待たなければならない。……でも、どうやって?)
灯台の崖ルートは崩れて通れないし、役場の許可が下りたとしても、危険を伴う。さらに、あの男が同じ歯車を狙っている可能性は高い。
(祖父も、星の音を聞きたかったのと同時に、その扉が悪用されないように必死で調べていたんじゃ……。)
時計を見れば、すでに夜の10時を回っている。肩や目の奥に強い疲労を感じ、これ以上の読書は難しそうだ。エリカはノートと和綴じ本をそっとまとめ、押し入れの奥深くにしまい込む。たとえ誰かが忍び込もうとしても、すぐには見つからないはずだ。
明かりを消して布団に横になると、頭の中で歯車が回っているような錯覚がする。夜の静寂のなか、廊下の奥から微かな家鳴りが聞こえ、まるでだれかが歩いているかのように思えるが、恐らく気のせいだろう。
ときどき、窓の外にほのかに星が瞬(またた)いている気配を感じる。しかし、眠気に意識を奪われてゆっくり見上げることもできないまま、浅い夢へ落ちていく。祖父と海の音、マキと庄司家の儀式、探偵のような男、カシワギ老人……様々なイメージが混ざり合い、脳裏で星々が翻弄される。
(星の音……もし本当に聴こえるとしたら、どんな音なんだろう……)
その疑問が最後の思考となり、意識は深く沈む。祖母の家は夜気に包まれ、ささやかな静寂を取り戻していた。外では風がそっと吹き、遠い海の向こうで波が暗闇に消えていく。星の光がわずかに雨上がりの空気を反射しながら、新しい夜を描いていた。
(次回へつづく)
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**<連載第十五回>** ### 風と星々のセレナーデ --- ## 第十五章 星の響き 夜が深まり、暗闇に包まれた祖母の家。エリカは布団の中でまだ完全に眠りに落ちきれずにいた。昼間に読んだ古文書や祖父のノートの内容が頭の中で反響し、どうしても眠りにつけなかった。祖父の研究がどれほど大きな秘密を抱えていたのか、そしてその中に織り込まれた「星の音」の真実とは。 (封印された空間……歯車……潜り戸……) 頭の中を駆け巡る言葉を一つ一つ整理しながら、エリカは自分の直感に頼ろうとしていた。もし、あの男が加われば、全てが危険に晒されることになる。でも、彼が求めていたものが本当に「星の音」なのか、それとも別の何かなのか。 そのとき、もうひとつの存在感がエリカの意識に忍び寄る。眠ることを妨げるように、空気がひんやりとしてまた体を包む。布団を少し引きだして、ゆっくり目を開けると、微かにだが廊下から音が聞こえた。 --- ### 1. 微かな音 風が吹き込んでいるのだろうか。それとも、家鳴りか。エリカはじっとその音を聞いてみる。静寂の中でうっすらと異音が混ざっているように感じた。数秒と待たずに、また再び、その音は忍び寄ってきた。 ドアの隙間から微かに室内が現れる光景。もし誰かが家の中にいるなら、その影を感じ取れたかもしれない。 驚くほど静けさを破るような不規則な音が、数歩分近づいてきた。エリカは心臓がそのたびに急激に打ち始める。 「誰……!」 エリカは布団を蹴るようにして勢いよく起き上がり、音がすると予感を感じていたその場所へ動きを止めない勇敢さを持つ。 財布と携帯も持っていないまま、素早く影が差しこむ廊下の総換気部。
第十五章 迷いの足音
夜が深まるにつれ、海辺の町・葉空(ようくう)はしんと静まりかえっていた。祖母の古い家の廊下では、やはりかすかな家鳴(やな)りが響き、ときおり埃(ほこり)の舞う気配がする。エリカは浅い眠りと覚醒を行き来するように、床の中で微睡(まどろ)み続けていた。
夢うつつの中、まるで父や祖母とは違う、もっと昔の時代に属する“誰か”の足音がする気がして、何度も目を開けかける。しかし、その都度ただの風だったり、梁(はり)の軋(きし)みだったりして、はっきりとした正体は分からない。
(……きっと気のせい……。今日は一日ずっと古文書を読んでたし、疲れも溜まってるんだ……)
エリカは再び瞼(まぶた)を閉じる。布団をかけ直した瞬間、時計の秒針が大きくひとつ音を立てたように感じられて、胸がぎゅっと締めつけられる。だが、眠気には逆らえない。いつの間にか意識は沈み、静かな暗闇に溶けていった。
1. ささやかな朝の光
翌朝、目が覚めると、外は雨上がりの澄んだ空気に包まれていた。窓の隙間から差し込む朝の光が、畳の上に柔らかな四角形を描き、部屋をゆっくりと温めていく。昨夜の奇妙な足音は、もう影も形もない。
エリカは布団を畳みながら、昨夜読み込んだ古文書の内容を思い返す。庄司(しょうじ)家の先祖が守っていた「潜り戸(せんこ)」と「儀式」、そして「星の音」が聞こえる時間帯のこと……。さまざまな疑問や不安が、朝の光の中でなおさら鮮明になる。
(やるべきことは山ほどある。それに、あの男の動きも気になる……)
さっと顔を洗い、着替えを済ませる。まだ早い時刻なので、いつもより空気がひんやりと感じられるが、不思議と落ち着いた気分だった。階段を降りて台所へ向かうと、簡単な朝食を作るついでにコーヒーを淹(い)れる。祖母の家には古い急須や茶器もあるが、エリカはつい東京の暮らしの感覚でコーヒーを飲みたくなるのだ。
窓を開け放つと、海風に乗ってどこか潮の香りが混じる。かつては煩わしく感じていたこの匂いが、今はエリカにとって安心感をもたらすようになっていた。
2. 小さな約束
スマホをチェックすると、マキから「今日は朝イチで商店街の用事があるから、お昼前に一度、例の古文書の解読を手伝いに行っていい?」というメッセージが届いていた。もちろんエリカは「大歓迎」と即答する。
蔵で見つけた和綴(わとじ)本の解読は、まだ半分も進んでいない。マキが持ち帰ったメモや資料の類もあるはずなので、一緒に作業したほうが捗(はかど)るだろう。
(それに、あの金属パーツ——歯車のような部品についても、二人で話し合って整理したい)
しばらくして、ヒカルからもメッセージが来ていた。「今日は午前中は高校の用務で動けないけど、午後には顔を出せるかも」とのこと。彼もまた、灯台の崖崩れの情報を集めているようだが、危険区域はまだ解除されていないという。
(ならば、今日の午前中はマキさんと二人で文献を読みこむチャンスか……)
エリカはそう考え、ダイニングテーブルをざっと片づけ、和綴本や祖父のノートを広げるスペースを確保する。ついでにコーヒー豆やお茶の準備もしておこう。マキが来たら、こぢんまりと“ミニ調査会”を開くのだ。
3. 訪問者の影
それからしばらく、エリカは机に向かいながら昨日読み残したページをもう一度確認していた。庄司家に伝わる儀式や、灯台の「塔下」に隠された仕掛けについての記述を、付箋やメモ用紙にまとめ、見取り図を簡単にスケッチしてみる。
そうしているうちに、ふと玄関から人の気配がする。まだマキが来るには少し早い時間だ。もしかしたら新聞配達か、近所の人が何か用事を……と思い、エリカは立ち上がり廊下へ向かう。
扉を開けると、そこには予想外の人物が立っていた。
「……カシワギさん!」
古びた骨董店の店主・カシワギ老人が、杖をつきながら玄関先でこちらを見上げている。深い皺(しわ)の刻まれた顔に鋭い眼差しが宿り、一瞬エリカの胸がどきりと跳ねる。
「おはようさん。……朝早くにすまんな。ちょっと、あんたに話があってね」
エリカは戸惑いながらも、どうにか笑顔で応対する。
「いえ、大丈夫です。どうぞ、上がってください」
カシワギ老人を家へ上げるのは少し緊張するが、外で話すわけにもいかない。居間に案内し、畳の上に座布団を勧めると、彼はゆっくり腰を下ろしながら、エリカの机の上に並んだノートや古文書に目を留める。
「ふむ……やはり、そっちを調べているか。庄司家の蔵から、何か持ち出したようだね」
まるで全てお見通しだと言わんばかりの言葉だが、その口調に咎(とが)めるような色はない。ただ、底知れない洞察力が感じられるだけだ。
4. 彼が求めるもの
エリカが促してお茶を差し出すと、老人は少し口を湿(しめ)らせてから、静かに口を開いた。
「ここ数日、町のあちこちであの厄介な男が動き回ってる。灯台の鍵だか情報だかを手に入れようとしてるらしいね。……あんたも知ってのとおり、昨夜の嵐の前に裏道を探してたとか」
「あの……男は、カシワギさんにも接触してるんですか?」
老人は小さく首を振る。
「直接はない。ただ、骨董店に来ていた形跡がある。いつの間にか店先の道具が動かされててね。まあ、あれほど執着してるなら、いずれ“星の音”の鍵を狙うのも無理はない」
エリカはゴクリと唾を飲む。今まさにエリカたちが追っている「歯車」こそ、その鍵ではないだろうか。祖父が託したあの金属パーツが、男の次の標的になるおそれは大きい。
「カシワギさんは、なぜいま庄司家の蔵を探していたんです? マキさんの祖母にも会いに行ったんですよね」
問いかけると、老人は一瞬、視線を机の上に移し、うっすらと苦い笑みを漏らす。
「それが、あんたの祖父さんから頼まれていた“調査”と関係する。わしは生前、あんたの祖父さんに頼まれて、町中の古文書や遺物を探していたんだ。彼は“星の音”をただのロマンではなく、“真に解き明かすべき謎”として追っていたからね。……だが途中で消息を絶ってしまった。その続きを、わしが勝手にやってるだけの話さ」
エリカの胸が熱くなる。祖父が思い抱いていた探究心、そしてカシワギ老人の協力。そこには単なる骨董趣味では済まない深い因縁を感じる。
「……庄司家の蔵には、もしかしたら鍵となる資料が残ってると思ったわけですね」
「そういうことだ。実際、あの家は昔からいくつかの祭事を管理していたらしい。灯台がいま国や町の管理下にあるといっても、本当の核心は庄司家が握っている。だから、わしはマキの祖母さんに訊ねたんだが、体調が悪いと聞いてね……あまり踏み込んだ話もできなかった」
5. 交錯する目的
話の流れで、エリカは蔵から持ち出した古文書の存在を隠すつもりもなく、「一部読んでみたが、儀式や封印についての断片がたくさん出てきた」と正直に明かす。
すると、カシワギ老人は杖を片手につきながら少し身を乗り出す。
「ふむ。どこまで読めた? “潜戸(せんこ)”とか“歯車”といった単語もあったろう」
やはり何もかも見透かされているようだ。エリカは肩の緊張をほどきながらうなずく。
「はい。どうやら星の音と海鳴(うみな)りが重なったとき、あの扉を開く儀式があったらしくて……。そのためには特別な歯車が必要みたいですね」
老人は薄く笑みを浮かべる。
「そうだ。その歯車こそ、あんたの祖父さんが追い求めていた“封印の要(かなめ)”だ。星の音がただの自然現象で終わらないのは、この歯車と仕掛けが鍵を握っているからにほかならん。だが、誤った手順で扉を開くと崩壊の危険もある……。歴代の庄司家が守ってきた理由もそこにある」
やはり、あの金属パーツは正しい使い方をしない限り、灯台や町に甚大な被害をもたらす恐れがあるのだ。男が安易にそれを手に入れ、力ずくで“潜り戸”をこじ開ければ、悲劇しか生まないだろう。
6. 老人の願い
ふいに、カシワギ老人が小さくため息をつく。
「わしは、できれば“星の音”がどういうものか、最後まで見届けたいと思っていた。あんたの祖父さんと約束していたからな。でも同時に、それが町を巻き込む形で顕現(けんげん)してほしくはない。あの男の行動は、それを踏みにじりかねん」
その声には、使命感とも後悔ともつかない複雑な響きがあった。エリカは自然と背筋を伸ばし、まっすぐ老人の目を見返す。
「わたしも同じです。祖父が追いかけていたものを知りたい。でも、もし危険があるなら、むやみに扉を開きたくない。……どうすればいいんでしょう」
カシワギ老人はわずかに首を振り、視線を窓の外に移す。外では朝の陽射しが瓦(かわら)屋根を淡く照らし、海からの風がゆるやかに吹き込んでいた。
「最終的には庄司家の正当な後継者であるマキが主導して、封印を解くかどうかを判断するしかないだろう。あんたはその補佐をする形になる。わしは手を貸すが、実行に移すのは若いあんたらの役目だ」
老人の言葉は、ある種の“次世代への託(たく)し”のようでもあった。
「灯台は崖崩れで当面近づけないが、やがて修復と安全確認が進めば、町の人間の立ち合いで内部調査が行われるかもしれん。そのときが来るまでに、できるだけ多くの情報を整理しておくんだ。そうすりゃ、余計なトラブルに巻き込まれずに済む」
7. もう一つの足音
話が一段落すると、カシワギ老人は腰を上げる気配を見せる。エリカが慌てて「お茶をもう少し」と勧めようとするが、老人は杖をつきながら緩やかに頭を振る。
「世話になった。そろそろわしも店に戻らないといけない。……あんたらがどう進めるか見守らせてもらうよ」
言い終えるや否や、老人はまるで迷いのない足取りで玄関へ向かう。さっきまで杖を頼りにしていたのが嘘のようにも見えるが、エリカは深く考える余裕もなく、見送るために後を追う。
扉を開け、外へ出ると、朝の町は少しずつ忙しなくなってきていた。配達バイクの音や、ごみ出しに向かう住人の姿などが目に映る。そんななか、カシワギ老人は無言で小さく手を振り、坂道を下っていく。
「あ……」
わずかな違和感がエリカの胸をかすめる。彼の背後、ほんの数軒先の路地に、長身の男らしき人影がちらりと見えた気がする。すぐに曲がり角の向こうへ消えたので、はっきり確認はできないが、視線の先がカシワギ老人に向いていたように思えた。
(やっぱり……あの男、カシワギさんの動きを探ってるの?)
胸騒ぎを覚えながらも、どうすることもできずにエリカは戸を閉める。万が一、男がここを訪れることがあっても、情報を渡すわけにはいかない。そして間もなくマキが来る予定だ。今日は文献整理に集中するはずだったが、波乱の予感は拭えない。
8. 朝の幕間(まくあい)
廊下へ戻り、居間を軽く片づける。カシワギ老人の話を聞いた後では、なんとなく身体が落ち着かず、そわそわする気持ちが収まらない。
(星の音、歯車、封印……。マキさんは、いったいどんな思いでこの現実を受け止めるんだろう)
ふと背後で、軋むような音が聞こえた。今朝は風も弱いし、気のせいではなさそうだ。急いで廊下を見回しても、人影はない。
(……また家鳴り? それとも本当に誰かが……)
少し背筋が寒くなるが、恐らく古い家が立てる音だと自分に言い聞かせる。この家自体が何十年もの時を経て、様々な声を宿している——そう考えたら、むしろロマンを感じなくもない。
それよりも今は、マキが到着する前にコーヒーでも淹れておこう。作業には長丁場(ちょうちょうば)が見込まれるから、何か糖分もあったほうがいいかもしれない。
エリカは台所へ向かいながら、自分の中に芽生えつつある“小さな使命感”を改めて意識する。祖父がやり残した研究を継ぎ、灯台と「星の音」の謎を解き明かし、その力が悪意ある者に利用されるのを防ぐ——それが自分にしかできない役割なのかもしれない、と。
カシワギ老人も、そう思って後押ししてくれているのだろう。柱時計がちょうど朝の9時を打つ。
外では街路を行き交う車のエンジン音や、人々の声が少しずつ増え始めている。朝日が古いガラス戸を透かして、居間の畳を斜めに照らしていた。
今日も何かが始まろうとしている——そんな気配を感じながら、エリカはコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込み、静かにマキの到着を待つのだった。
第十六章 潮騒の呼び声
朝の光が古いガラス戸を斜めに透かし、居間の畳をやわらかく照らす。エリカは台所でコーヒーを淹(い)れながら、マキの到着を待っていた。
カシワギ老人が不意に訪ねてきたことで、今後の方針がある程度見えた。庄司(しょうじ)家の“正当な後継者”であるマキを中心に、灯台の地下空間をどう扱うかを決めていく。だが、あの得体の知れない男が歯車を狙っている以上、ことはそう簡単でもない。
ドリッパーからポタリポタリと落ちるコーヒーの音を聞いているうちに、いつの間にか玄関のチャイムが鳴った。やはりマキの姿だ。
「おじゃまします。朝早いのにごめんね。——あら、いい香り」
マキは紙袋を抱えながら上がってきて、居間に通されるとすぐに目を輝かせる。紙袋の中身はサンドイッチらしく、「昨日の残り物だけど、一応朝食を買ってきたの」と差し出してくれた。
「助かる。ちょうどコーヒーを淹れたから、一緒に食べよう。わたしも朝はパンかおにぎりくらいで適当に済ませるから、こういうのうれしいな」
エリカがコーヒーカップを二つ用意すると、マキは手を合わせて「いただきます」とつぶやき、紙袋からサンドイッチを取り出す。卵や野菜がふんだんに詰まったそれを一口かじると、ほっとした表情が浮かんだ。
1. 朝の情報交換
「ところで、エリカさん。朝から玄関先に人の気配があったような……誰か来てた?」
「うん、カシワギさんが急に来てね。少し話をしてたの」
マキは驚いたように顔を上げる。
「え、カシワギさんが? うちの祖母のところにも行ったらしいって聞いてたけど……。どうだった?」
「あの男の動きがあちこちで確認されてて、骨董店も荒らされた痕(あと)があるみたい。星の音の“鍵”を狙ってるだろうって話だった。あの歯車が見つかったら厄介なことになるかもって」
マキはサンドイッチを置き、眉をひそめる。
「やっぱり……。カシワギさん、確かに祖母にも『封印と儀式のことを調べたい』って言ってた。うちの蔵にも本当はもっと入りたかったんだろうね。自分で調べるより、まずはエリカさんに情報を託そうと思ったのかな」
それがカシワギ老人なりの“次世代に任せる”という意図なのだろう。エリカはコーヒーをすすりながら、昨日読み込んだ古文書のページを思い返す。
「マキさん。今後、あの地下空間をどうするかは、やっぱりあなたが最終的に決めるしかないんだって。——カシワギさんもそう言ってた。庄司家の封印を解いて星の音を探るのか、それとも封印を守り続けるのか」
マキは少しうつむき、カップの縁をなぞる。
「そう……正直、わたしにそんな重たい責任を背負えるのかって不安になる。でも、今さら逃げるわけにはいかないよね。あの男に先を越されて、町中を巻き込む最悪の事態だけは避けたいし」
2. 資料整理再開
ひととおり朝食を終えて、二人は居間のテーブルに張り付くように文献の整理を始めた。マキが蔵から持ち帰ったメモ類も合わせて、謎のキーワードや言葉を改めて洗い出す。
「‘潜戸(せんこ)’, ‘歯車’, ‘星の夜の儀式’, ‘封印’, ‘海鳴(うみな)り’——これらはほぼ確定で出てきた単語ね。あと祖父のノートには‘AM3:14’とか、潮汐の周期みたいな数値もあった」
「わたしの家系の記録では、“特定の流星群と満潮が重なった夜”に儀式をするって書いてあった。ペルセウス座流星群のピークあたりが怪しいかも」
頭を悩ませるのは、具体的な“手順”がどこにもはっきり書いていないことだ。古文書も祖父のノートも、「封印を解くには歯車を使って仕掛けを動かす」という抽象的な表現しかなく、どこに差し込むのか、どんな操作が必要なのかは不明のまま。
「灯台の中に入らないと分からない部分が多いのは確かだね。まあ、崖崩れの件が片づかないとどうしようもないけど……。その間に、もっと細かく調べるしかなさそう」
そう言ってエリカはノートを指しながら、ディテールのすり合わせを始める。祖父が書き残したスケッチには、灯台基部の地下へ下る螺旋階段のイメージらしきものと、歯車をはめ込む円形の機構が描かれていた。
「ここ、‘円形の穴’みたいな絵があるけど……何かのプラットフォームっぽく見えるよね。歯車を中央にセットして、歯車同士が噛(か)み合ったら仕掛けが動く、みたいな」
マキが指さした線はやや乱雑に描かれており、はっきりした形状が見えない。ただ、歯車だけは三重のリングをもつような構造で記されている。
「実際に見ないと確かめようがない……。でも、歯車はカシワギさんから預けられたあれしか思い当たらないし、きっとこれを差し込むんだと思う」
エリカはカバンの奥に隠してある金属パーツを思い浮かべる。そう遠くないうちに、この歯車を灯台に持ち込む日が来るのだろうか。
3. 思わぬ報せ
そんなふうに二人で頭を突き合わせていると、突然スマホが振動し、エリカは画面を覗き込んだ。着信の相手は藤巻(ふじまき)ヒカル。
「もしもし、エリカさん? ちょっと急ぎで報せが入った。灯台周辺の調査が思ったより早く始まるみたいなんだ。町役場と漁協が崖の安全確認を優先して、専門業者を呼ぶことにしたらしくて……一両日中に現地を見に行く可能性があるって」
エリカは思わず声を上げそうになる。まさかこんなに早く手が回るとは思っていなかったからだ。
「それって、灯台の入り口まで行くってこと?」
「詳細は分からないけど、土砂が流れたルートを塞ぐかどうかとか、崩落範囲を調べるとか、そういう意味で灯台の基部まで行く可能性は高いんだ。もし安全が確認されれば、近いうちに内部調査の話も出てくるかも……」
エリカが通話を切ると、マキも緊張した面持ちでこちらを見つめる。
「灯台の調査が動き出す……ってことは、わたしたちにもチャンスが巡ってくる。けど、そのぶんあの男も動き出すかもしれない」
「うん。今こそ、町が正式に動く前に、“庄司家の後継者”としてしっかり立ち回っておく必要があるかも。あの男が強行手段に出る前にね」
4. 新たな決断
背を伸ばし、マキは決意したような眼差しを向ける。
「エリカさん。もし役場や漁協の人たちが本格的に灯台に入るなら、わたしは“庄司家として情報を提供したい”と申し出ようと思う。ずっと放置されてた封印や儀式のことも、ちゃんと伝えて、勝手に壊されないようにしたいんだ」
エリカは一瞬言葉を失い、その後、ゆっくり頷く。
「それがいいかもしれない。隠していても、あの男に先手を打たれたら元も子もないし……。町の人に黙って開封するなんてリスクが高すぎる。だから“庄司家が灯台の地下に仕掛けがあるのを知っている”って公表しておけば、少なくとも勝手に壊される可能性は減るはず」
ただ、その行動には勇気と覚悟がいる。町の人々に「星の音」や「潜り戸」の存在をどう説明するか、面倒な誤解も生まれるかもしれない。マキは表情を曇らせるが、もう逃げるわけにはいかないことを理解しているのだろう。
「わたしも協力する。もし役場との話し合いが必要なら、祖父のノートや古文書のコピーを示して、灯台がただの廃墟じゃないって証明できるし」
エリカがそう言うと、マキの口元にうっすら微笑みが戻る。互いに大きく息をつき、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
5. 不意のさざ波
その後、二人は一旦休憩を挟んで、サンドイッチの残りをおやつ代わりにつまむ。文献の解読は一通り区切りがついたが、次の行動に向けてどこかそわそわした空気が漂っている。
「……ヒカルにも連絡して、早めに三人で町役場に顔を出しておきたいね。漁協や消防団の人たちとも繋がっておいたほうがいいかもしれない」
マキがそう提案すると、エリカは賛同の意を示してスマホを手に取る。ちょうどそのタイミングで玄関の戸がコンコンと叩かれた。
(……こんな時間に、また誰か? ヒカルは午後になるって言ってたし)
胸騒ぎを感じつつ、エリカとマキは顔を見合わせる。さっきカシワギ老人が帰ったばかりなのに、連続して来客があるのは妙な気がする。
「エリカさん、わたしが出てみるね」
マキが腰を上げ、玄関まで向かう。エリカは緊張しながら廊下の陰から見守っていると、戸を開けたマキが一瞬硬直したように見えた。
「……あ、あなた……」
嫌な予感が走る。 すぐにマキの背後から覗き込むと、そこにはやはり、あの長身の男が立っていた。前に見かけた黒いジャケット姿のまま、鋭い目つきで二人を見下ろしている。
「…………こんにちは。お邪魔していいかな? ちょっと話があるんでね」
静かながら底冷えする声。どこか笑みを浮かべているような口調が、二人の神経を逆撫(さかなで)でする。
「勝手に人の家を……」
マキが唇を噛むが、男はひょうひょうとした態度を崩さない。玄関の奥まで踏み込む気配は見せないものの、すぐ帰る気もなさそうだ。
エリカは廊下から一歩前へ出て、深く息を吸う。
「何の用です? あなたには言うことなんて……」
「まあまあ、そう邪険にしないでくれ。……こちらとしても、ただ言いたいことがあるだけだ。大事な歯車のこととか、庄司家の儀式とか。色々気になってね」
男はポケットから何か紙片を取り出し、ちらりと見せる。そこには“海鳴(うみな)り”“潜り戸”“歯車”といったメモ書きが見え隠れした。
(どうやって手に入れたんだろう……!)
マキの表情が驚愕(きょうがく)に変わるのを横目で見ながら、エリカは冷静に言葉を探そうとする。男の真意が何なのか、彼は今ここで何をしようとしているのか。
先ほどまでの穏やかな朝の空気が、一気に張り詰めた。テーブルの上には半端に読みかけの古文書やノートが広がっている。もしこの男がそれを奪い取ろうとすれば、どう防げばいいのか——思い悩む間にも、彼の視線は鋭く、あたりを見回している。
「じゃあ、早速聞こうか。……“歯車”はどこにある? あんたら、知ってるんだろ?」
ドクン、と心臓が大きく鳴る。エリカとマキは思わず目を合わせ、そして警戒を強める。嵐が過ぎても、なお波乱はこれからかもしれない——そんな予感が一気に胸を支配する。
すぐ近くに海鳴りこそ聞こえないが、代わりに廊下の奥から家が軋むような音がかすかに響き、まるで何かが警告を発しているかのように思えた。
第十七章 揺らぐ静寂
玄関先に立つ長身の男の姿が、部屋の空気を一気に緊張させる。マキは思わず身を強張(こわば)らせ、エリカは心臓が早鐘を打つのを抑えられない。いつもの穏やかな朝とは打って変わって、冷たい空気が流れ込むような錯覚さえ覚える。
「——歯車はどこにある? あんたら、知ってるんだろ?」
男はポケットから取り出したメモ用紙をヒラつかせながら、どこか皮肉めいた口調で問いかける。そこには「海鳴(うみな)り」「潜り戸(せんこ)」「歯車」「封印」などの単語が殴り書きされていて、彼が本気で“星の音”の鍵を手に入れようとしているのが見て取れる。
エリカは廊下の奥にある居間を一瞥(いちべつ)し、テーブルの上に開きっぱなしの古文書やノートがあるのを思い出す。もし男が玄関から奥へ踏み込めば、面倒なことになる。
「……あなたに話すことなんてありません。ここは私たちの家です。勝手に押し入るつもりなら、通報しますけど?」
冷静に言おうと心がけても、声がわずかに震える。けれど、男は意に介さない様子で苦笑を浮かべる。
「“歯車”を見せてくれれば、何も荒立てる気はないさ。何なら、対価を払ってもいい。金でも情報でも、あんたらが望むものがあれば言ってくれ」
その言葉の裏には、ある種の焦りすら感じる。彼自身が依頼主に急かされているのか、あるいは自分の報酬を得るために必死なのか。いずれにせよ、こちらとしては門前払い以外の選択肢はない。
「どうしてそこまで“歯車”にこだわるんです?」
マキが気丈に問い返すと、男は一瞬、口を引き結んだ。
「言っただろう、依頼人がいるんだ。俺もそれ以上詳しくは言えない。だが、もしあんたらがろくに扱い方も知らないまま封印を解けば、かえって危険なことになる。実際、江戸の頃から事故例もあったらしいじゃないか」
——事故例?
エリカとマキは顔を見合わせる。古文書にも確かに、「不備ニヨリ死者アリ」など、匂わせる記述があった。
「だからこそ、俺が安全に“潜り戸”を調べてやろうってわけだ。あんたらが開けるより、プロに任せた方がいい。そうすりゃ町も被害なく、星の音がどうとかいうロマンを追いかける必要もないだろう?」
彼の声は一見理路整然としているが、結局は鍵を奪い取りたいだけなのは明白だ。
「……あなたに預けるわけにはいかない。ここは庄司(しょうじ)家の問題なんです。どうかお引き取りを」
そう言ったマキの瞳はわずかに揺れつつも、決然とした意志を宿している。男は苦々しそうに唇を噛み、玄関の框(かまち)を軽く蹴って奥へ入ろうとする素振りを見せた。が、エリカが思わず大きな声を上げる。
「入らないで! ……本当に通報しますよ。カシワギ老人もあなたの動向を警戒してる。少しは分別をわきまえて」
男は立ちすくみ、しばし沈黙。外からは朝の町のざわめきや風の音が微かに聞こえるだけだ。やがて彼は溜息まじりに首を振った。
「……わかった。今日は引き下がろう。だが、あんたらが“星の音”を独占するつもりなら、黙って見ているわけにはいかない。依頼人はこの町の騒動ごと買い取る気でいるからな」
凍りつくような言葉を残し、男は踵(きびす)を返す。ドアが閉まる寸前、一瞬だけ振り返り、低い声でこう付け加えた。
「海鳴りが鳴く夜は近いぞ。ぼさっとしてると、痛い目見るからな」
バタンと玄関戸が閉まり、エリカとマキは動けずに立ち尽くした。呼吸が乱れ、心拍数が異様に高い。まるで短い悪夢を見た後のようだ。
1. 取り残された不安
ようやく意識が戻り、エリカは玄関鍵をしっかり掛ける。ドアの向こうからはもう足音は遠ざかっているらしく、静寂だけが戻ってきた。
マキは玄関脇の壁にもたれかかり、小さく息をついている。
「……こわかった。ごめん、わたし、何もできなくて」
「ううん、わたしだってビクビクしてたよ。でも、どうにか追い返せただけでも上出来じゃないかな」
エリカはそう言いながらも、胸の奥に暗い影が広がるのを感じる。あの男は今後ももっと強引な手段に出るかもしれない。依頼人が金や権力を動かせる存在なら、町の有力者や外部の企業を巻き込む可能性だってある。
「どうしよう……。早く役場や漁協に動いてもらわないと、あの男が先に潜り戸に辿(たど)り着くかもしれない」
マキが不安げにつぶやく。エリカは思考を巡らせながら、深く頷く。
「あの男が言った“海鳴りが鳴く夜は近い”って、やっぱり星の音に必要な流星群や潮汐のタイミングを把握してるのかもしれない……」
星の夜と満潮が重なるタイミング。それはこの町に古くから伝わる“星の音”の謎を解く鍵でもあり、同時に大きな危険が潜む。それを男が突き止めているなら、のんびりはしていられない。
2. 小さな打ち合わせ
とりあえず落ち着こうと、エリカはマキを居間へ連れ戻す。まだテーブルの上には資料が散乱している。もしこのまま男が押し入っていたら、すべて持ち去られた可能性すらある。
「とにかくヒカルにも伝えよう。灯台の調査が早まるらしいってことと、あの男がもう牙(きば)を剥(む)きはじめてるってこと」
マキはうつむいたまま、弱々しく頷く。けれど、その瞳の奥には闘志にも似た光が宿っている。
「うん……。わたし、もう一度商店街とか役場に掛け合ってみるよ。庄司家として正式に資料を提出して、灯台の地下には危険な仕掛けがあるってことを周知したい。そうすれば、あの男が勝手にこじ開ける余地は少なくなるはずだよね」
「そうだね。わたしも古文書の要点をまとめるよ。祖父のノートもコピーして、ちゃんと説得材料にしなきゃ」
そう言い合いながら、二人は早速行動に移すことを決めた。昼前にはヒカルとも合流し、町役場への相談を検討しよう。緊張感で胃が痛むような思いだが、ここで動かなければ、あの男に先を越されるだけだ。
3. 同時刻の裏通り
一方そのころ、男は町の裏通りを歩いていた。整然とした商店街から少し外れた路地裏は、古い民家や物置が建ち並び、人通りも少ない。男の足取りは早く、スマホを耳に当ててなにやら報告するように小声で話している。
「……ええ、歯車はまだ見つけていません。が、庄司家と四宮(しのみや)エリカという女が持っている可能性大。彼女らは役場と組んで正式に調査しようとしているようです」
相手の声は聞こえないが、男の表情は苛立ちの色を濃くしている。
「はい、分かってます。なるべく穏便に済ませるつもりですが、こっちも猶予がありません。潮汐と流星群のピークが来るまでに、なんとしても扉を開く準備を……」
言い終えるや否や、ガチャリと通話を切り、舌打ちを一つ。路地の向こう、骨董店の看板がチラリと見える。カシワギ老人にも思惑がありそうだが、今はまだ見当がつかない。
「もうあんな連中に遠慮はいらない。やり方を変えるしかないか……」
男はそう呟(つぶや)き、煙草の火をつける。焦げ臭い煙が湿った朝の空気に溶け込み、どこか不安定な町の空気をさらに重苦しくした。
4. 新たな一歩
再びエリカの家。閉めた戸に鍵をかけ直し、用心のためチェーンもしっかり掛ける。マキは居間のテーブルに散らばる文献とメモを片づけながら、時折窓の外を気にしている。
「もう大丈夫だよ。たぶん、さっきああ言って退散したなら、しばらくは来ないと思う」
エリカがそう言っても、マキの表情はまだ曇りがちだ。けれども、何もしなければ状況は変わらない。
「ヒカルを呼ぼう。三人で一緒に役場に行って、庄司家の資料を見せながら“潜り戸”や封印についてちゃんと説明するんだ。あの男が入ってくる隙を作らないようにしよう」
エリカが改めて提案すると、マキは意を決したように顔を上げる。
「うん。わたしももう心を決めた。庄司家が何を守ってきたか、町のみんなに知ってもらう時が来たんだと思う。もう外部の人間に勝手に持っていかれるわけにはいかない」
そうして二人は急いでメモやコピーをファイリングし、必要最低限の古文書をバッグに詰める。もし灯台の安全調査が正式に始まるなら、それに先んじて役場にアプローチしておきたい。その大事な第一歩が、今日これから踏み出されるのだ。
5. 光と影
遠くからは昼の喧騒(けんそう)が聞こえ始める。商店街の人通りも増えてきただろう。町の声が徐々に活気づいていくなか、エリカとマキは緊張を振り払うように支度を進める。
ふと、エリカはテーブルの上で微かに光を反射する「歯車のパーツ」に目を落とす。カシワギ老人が預けてくれた、祖父の形見にも等しい金属部品——これが運命を握る鍵だ。
(あの男は必ず、これを狙ってくる……。でも、わたしも、マキも、そしてヒカルもいる。祖父や庄司家の先祖が守ってきたものを、絶対に諦めるわけにはいかない)
大きく息を吸い込む。部屋の奥から廊下が軋む音が聞こえるが、もう慣れたものだ。むしろ古い家が「がんばれよ」と声援を送ってくれているかのように思えた。
戸を開け放つと、外の空気はさわやかに感じられ、先ほどの冷え切った雰囲気が嘘のようだ。朝の日差しは少し傾きかけ、町全体に昼の活気を注ぎ込みはじめている。
「行こう。ヒカルと合流して役場へ」
エリカの言葉に、マキは「うん」と短く返事をする。こうして二人は、庄司家と灯台をめぐる封印の真実を堂々と明かすための行動を起こそうとしていた。あの男の脅しと不穏な影に負けないために、そして祖父や先祖が守ってきた“星の音”を正しく解き明かすために。
町の風が吹く。雨上がりの澄んだ空には、うっすらと雲が流れている。遠い海の彼方(かなた)では、いずれ星の夜が近づけば、また海鳴(うみな)りが響くのだろう。
膨れ上がる不安とともに、二人の胸には確かな決意が芽生えていた。あの男の冷たい眼差しに怯(ひる)むことなく、次のステージへ踏み出す時が来たのだ。何があっても、“潜り戸”と“歯車”を正しく扱い、星の音の封印を守り抜く——そんな小さな使命感が、風に乗って未来への道を照らしはじめている。
第十八章 動き始める歯車
静謐(せいひつ)な朝から一転、あの長身の男の来訪によって一気に緊張感が高まったエリカとマキ。だが、迷っている暇はない。彼の言う“海鳴(うみな)りが鳴く夜は近い”——星の夜と潮汐が重なる時期が迫っている以上、先手を打つしかない。
「よし、ヒカルに連絡して、役場へ行こう」
エリカの言葉にマキもうなずき、二人で大急ぎで資料を整え始めた。祖父のノート、庄司(しょうじ)家の古文書、そしてこれまで読解したメモ類をコピーし、クリアファイルに収める。いつでも提示できるよう、要点を簡単にまとめたメモも用意しておく。
「灯台の下には危険な仕掛けがある、封印を軽々しく解いてはいけない、という話をしっかり伝えなきゃね。あの男の行動にも注意喚起を……」
マキがそうつぶやきながら、紙をはさむ指先が少し震えている。あの男の鋭い眼差しを思い出すと、恐怖が蘇ってきても無理はない。それでも彼女の目には不退転の決意が浮かんでいる。
1. 役場の玄関にて
数十分後、二人は商店街で待ち合わせしたヒカルと合流し、三人そろって町役場へと向かった。ヒカルはすでに連絡を受けており、二人が抱える事情を大まかに把握しているらしく、緊張感を共有している。
「庄司さん、本当に大丈夫? 顔色が少し悪いみたいだけど……」
ヒカルが小声でマキに問いかけると、マキは苦笑しながら首を振る。
「ううん、平気。ちょっと緊張してるだけ。わたし……今日は本気で“庄司家が守ってきたもの”を開示するつもりだから」
エリカが背を伸ばし、二人を見回す。ここで尻込みしてしまえば、あの男に好き放題やられかねない。町全体を巻き込む前に、正しい手順で灯台調査を進める道を切り開くしかないのだ。
役場の玄関をくぐると、いつものように受付カウンターがあり、職員が忙しそうに応対している。先日の嵐による被害処理で慌ただしい空気が漂っていたが、三人は意を決して案内板の前へ進む。
「とりあえず、防災関連とか建設関連の部署に行ってみよう。そこから灯台の話を誰が担当してるか聞こうか」
ヒカルが小声で指示を出すと、エリカとマキも頷(うなず)き、三人でカウンターに向かった。
2. 紙の山と焦り
ところが、町の防災担当セクションは人でいっぱいだ。嵐による土砂崩れの処置や道路封鎖の対応に追われ、職員たちは書類の山を抱えている。そんな中でもヒカルが学校関係者の立場を活かし、顔見知りの職員に声をかける。
「すみません、いま少しお時間よろしいですか? 灯台の件で、お伝えしたいことがありまして……」
その言葉に職員は書類を抱えたまま「ああ、灯台ね」と目を丸くする。
「ちょうど崖崩れの現地調査をどうするかって話が盛り上がってるところなんですよ。漁協や消防団と協力して安全確認をするって決まったばかりで……。もし何かご存じなんですか?」
そこでマキが意を決するように一歩前へ出た。
「わたし、庄司マキといいます。祖母の家系が昔から灯台の地下を管理していたかもしれないって話を聞かされて……実は大事な資料があるんです。勝手に壊したり、封印を解いたりすると危険が大きいかもしれないので、一度きちんと確認していただきたくて」
差し出されたクリアファイルの中身を見て、職員はまじまじと目を通し始める。「潜り戸」「歯車」「封印」「星の夜」などの文字が散見され、戸惑いながらも興味を示している様子だ。
「え……ええと、これは歴史的な資料……ですか? 確かに何やら灯台の地下に関する記述みたいですが……」
となりで別の職員が声をかけてくる。
「すみません、灯台は文化財指定も受けてないし、ずっと放置状態だったんですよ。もし本当に地下に仕掛けがあるなら、大問題ですね。俺も上司に報告します。少しお待ちください」
こうしてバタバタとした職員の動きに巻き込まれ、三人は待合用の椅子に腰を下ろすことになった。通り過ぎる人々の視線を感じつつ、エリカは胸中で(頼む、どうか真面目に取り合ってくれますように)と祈る。
近くには嵐の被害報告用の張り紙が貼られ、他の住民も書類を持って順番を待っている。焦りばかりが募るが、ここで感情的になっても仕方ない。
3. 担当者との面談
しばらくして、先ほど対応してくれた職員が戻り、「担当課の人間と話せるよう手配しました」と声をかけてきた。通されたのは役場の奥にある小会議室。そこには建設課の係長と思(おぼ)しき中年男性が一人、椅子に座って待っている。
「どうも、はじめまして。町の建設課で崖崩れと灯台の安全対策を担当している三浦(みうら)です。……庄司さんと四宮さん、そして藤巻先生ですね」
人当たりの良さそうな口調だが、微妙に目が泳いでいるのは、急な事態に少々戸惑っているのだろう。
マキが改めて自己紹介し、資料を説明する。エリカも祖父のノートやコピーを机に広げながら、「灯台の地下に封印や儀式の仕掛けがあった可能性が高い」ということを伝えた。ヒカルは横からフォローしつつ、「もし勝手に地下を壊してしまったら、崩落や水害のリスクがある」と強調する。
三浦係長は最初こそ半信半疑だったが、何枚かの古い図面らしき紙や暗号的な記述を見て、徐々に表情が変わっていく。
「うーん、確かに、灯台って町の管理下にあるとはいえ、あまり詳しく調べてこなかったんですよ。築年数が曖昧で、明治期以降に建て増しがあったらしいくらいしか資料がなくて……。地下に空洞があるかもしれないというのは、もし事実なら大問題ですね。崖崩れの影響も無視できない」
エリカは重ねて強調する。
「それで……近いうちに町が漁協や消防団と現地調査をするらしいと聞きました。その際、わたしたちにも立ち会わせてほしいんです。庄司家の古文書やノートが示す“仕掛け”を確認しながら、安全に調査を進めたいので」
三浦係長は困惑しつつも頷(うなず)いてみせる。
「分かりました。上と掛け合ってみましょう。正直、この情報が本当なら放っておけない。とはいえ、公的な“正式調査”に外部の方を入れるには手続きもあるので……すぐにOKとはいかないかもしれないけど、なるべく早く検討させてもらいます」
4. 町の“外部”という存在
再び廊下に出ると、三人とも心なしか肩の力が抜けていた。町が動き出せば、あの男が勝手に割り込んでくる余地は小さくなる……と思いたい。
「まあ、こんなもんだよね。でも、役場がちゃんと対応しようとしてくれてるのは分かったよ」
ヒカルがため息交じりに言うと、マキもほっとしたようにうなずく。
「うん……。わたしなんか急に役場の人にこんな話をして、相手にしてもらえないかもと思ってたけど、きちんと聞いてくれてよかった」
エリカはまだ落ち着かない気分だが、一歩前進した感覚はある。あの長身の男が再び奇襲をかけてきても、町ぐるみで取り組むなら容易には崩れないはず。
ところが、廊下の先で先ほどの職員と話している男の姿がチラリと見えた。背の高さは普通だが、スーツを着込み、落ち着いた身のこなしをしている。妙に外部の企業マンっぽい雰囲気だ。
「……あの人、誰だろう? 他所の会社の人かな」
マキがつぶやく。ヒカルも目を細めて、さりげなく観察する。声までは聞こえないが、職員との会話には「灯台」の単語が混じっているように見受けられた。
(まさか、あの男の依頼主って、こういう会社? それとも資材調達か測量関係の人?)
エリカの胸に嫌な予感が走る。いずれにしても、これまで放置されてきた灯台が急に注目を集め始めている事実は揺るぎない。
5. 三人の微妙な焦燥
役場を出る頃には正午を回っていた。さすがに空腹を感じた三人は、近くの定食屋で簡単に昼食を済ませることにする。店に入り、メニューを広げながらも、誰もが落ち着かない心を抱えている。
「町が動いてくれれば、あの男の強行は防げるはず。でも、だからって完全に安心とはいえないし……」
エリカがぽつりと漏らすと、ヒカルが頷く。
「そうだね。利権争いとか大きな利害が絡むと、役場も一枚岩ではいられなくなることもある。灯台を取り壊して観光施設にしようとか、逆に全面的に封鎖して無視しようとか……考え方は人それぞれだから」
マキは箸(はし)を置き、視線をテーブルに落とす。
「だけど、わたしがきちんと説明する。昔の記録もあるし、星の音っていうロマンだけじゃなくて、本当に危険があるかもしれないってことも含めて……。知ってもらわないと、町のみんなの安全を守るどころか、壊してしまうかもしれないから」
三人は黙り込み、それぞれに想いを巡らせる。昼下がりの定食屋には柔らかなBGMが流れ、外の通りには観光客らしき人々の姿もちらほら。まだ夏の気配を残した潮の香りが、時折ふわりと漂っている。
(星の音。もしそれがほんのひとときでも、この町を神秘的な音色で包むものだとしたら——祖父はなぜそれを「封印されている」と考えたんだろう?)
エリカは脳裏に浮かぶ祖父の姿を追いかける。暗号のような数式や図面、歯車の存在。そして「危険」を示唆するメモ。かつて祖父は、その研究途上で何かを掴みかけていたはずだ。
6. ひそやかな決意
昼食を終えると、三人は店を出て、商店街の人混みの中を少し歩いてみる。挨拶を交わす知人もいれば、嵐の影響で店先を片づけている人々もいる。灯台の話など全く関心がないように見える町の風景に、エリカたちだけが焦燥を抱えているような違和感を覚える。
「やっぱり、町の大半の人は知らないんだろうな……。灯台の地下にそんな仕掛けや封印があるなんて想像もしないよね」
マキがつぶやくと、ヒカルは苦い笑顔を返す。
「きっと驚くだろうけど、同時にワクワクする人もいるかもしれない。伝承や歴史ロマンが好きな人にはたまらない話だ。でも、無関心な人や面倒ごとは避けたい人も多いだろうね。そこをあの男に巧みに突かれたら厄介だ……」
エリカは歯車のパーツが入ったバッグを抱きしめるように腕を組む。あの男が今度こそ強硬手段に出た場合、果たして町の人々は助けてくれるのか。
——暗い予感は尽きないが、それでも進むしかない。祖父の意志、そして庄司家の使命を継ぎながら、星の音を正しく解き明かすために。
「わたし、今日はもうちょっと資料の整理を進める。役場が正式に話を進めてくれるまで、しっかり準備しておきたいし。マキさんは大丈夫?」
「うん、わたしも商店街の用事を早めに片づけて、夜にはもう一度エリカさんの家に寄るよ。ヒカルも都合が合えば一緒に見直そうよ」
そう言い合い、三人は一旦ここで解散することにした。夕方には再集合して、対策を詰め直す予定だ。ヒカルは学校や町内の用務が残っており、エリカとマキはそれぞれの場所へ向かう。
時折、どこからか潮騒(しおさい)が聞こえるような気がする。まだ嵐の余韻が残った天気だが、空は雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせ、海辺の町をまぶしく照らしている。
あの男が何を企んでいようと、あの封印を悪用させてはならない。三人それぞれの心に、小さく静かな決意が芽生えていた。それを信じて、また次の行動へ向かうしかない——歯車のように、少しずつかみ合いながら未来へ転がる物語の先には、きっと星の音が待っていると信じたいから。
第十九章 夕暮れに揺れる灯火
昼下がりの町役場での面談を終え、エリカ・マキ・ヒカルの三人はそれぞれの用事を片づけるため、一時的に解散した。役場の担当者には「灯台の地下に危険と謎が眠っている」という事実を伝えることができたが、あの長身の男の存在を考えれば、まだ安心はできない。
そんな思いを抱えつつ、エリカは祖母の家へ戻り、文献やノートを再整理する作業に没頭した。世間の目が向かないうちに、どれだけ情報をわかりやすくまとめられるか——それが灯台調査が正式に始まったときのカギを握るだろう。
夕方になり、空にはオレンジ色の薄暮(はくぼ)が広がりはじめる。今日もどこかで潮の香りがして、町はいつもの時間を刻んでいるように見える。しかしエリカの胸には、どこか不穏なざわめきが絶えなかった。
1. 静かな来客
午後六時を回ったころ、再び玄関のチャイムが鳴った。今度はあの男ではないかと身構えつつ、インターホンを確認すると、そこにはマキの姿が映っていた。
「エリカさん、来たよ。……大丈夫?」
扉を開けると、マキは少し疲れた表情で笑った。だが、一目で安堵の気配が伝わる。
「何事もなくてよかった。ほら、夕食代わりのパン買ってきたから、ついでに一緒に食べようよ」
そう言って小さな袋を手渡す。エリカもほっと息をつき、マキを居間へ案内した。
居間のテーブルは昼間の作業の名残りで書類が散らばっている。マキもさっそくカバンからメモを取り出し、「商店街や祖母の話を聞いたら、ちょっと気になる噂があったの」と切り出した。
「どんな噂?」
「なんでも、灯台を観光地化しようと前から狙っている企業があるらしいんだ。外部資本が入って、海辺に大きなレジャー施設を作りたいとか、歴史ある灯台をリノベーションしてカフェにしたいとか……。正式な計画には至ってないみたいだけど」
それを聞いてエリカは、役場の廊下で見かけた「スーツ姿の男」を思い出す。あれも外部企業の関係者かもしれない。もし長身の男の“依頼主”と繋がっているとしたら、暗い利権争いが水面下で進んでいる可能性がある。
2. 小さな夕食と会議
エリカとマキはパンを頬(ほお)張りながら、今日あったことをそれぞれ報告し合った。マキは商店街の人々から断片的に聞いた情報をまとめ、エリカは昼のうちにまとめておいた古文書の要点を再確認する。
「ヒカルからも連絡があって、学校の用務が終わったらすぐ来るって言ってたけど……まだかかりそうね」
そう言ってマキがスマホを確認すると、「もう少しで行けそう」とのメッセージが届いていた。
夕暮れが深まっていくにつれ、窓の外はゆっくりと闇が迫り、室内の明かりが際立ち始める。エリカは電気スタンドを追加で点け、テーブルの上を照らす。
「……そういえば、あの男が言ってた“海鳴りが鳴く夜は近い”っていう言葉、ずっと気になってるんだ。単なる脅しじゃない気がする」
マキもうなずき、紙に書き留めていた数値を指さす。
「星の音が聴こえる条件って、ペルセウス座流星群のピークと、大潮が夜中に重なるタイミングだよね。潮汐表と照らし合わせると、おそらくあと一週間くらいで“その夜”が訪れるみたい。……つまり、わたしたちはあと一週間で、しっかり動かなきゃいけないのかも」
祖父のノートにも、流星群の周期と潮汐の時刻が走り書きされていた。実際、ペルセウス座流星群が最盛期を迎えるのはもうすぐだ。もしその夜に“扉”を開く仕掛けがあるなら——あるいは、男やその背後にいる勢力が、その夜を目指して行動を加速させるかもしれない。
3. 不意の電話
そんな話をしていると、エリカのスマホが振動した。ディスプレイにはヒカルの名前。
「もしもし、どうしたの?」
> 「ごめん、少し遅れそう。実は、役場の人から追加で呼び止められちゃって。……あと、ちょっと妙な話を聞いたんだ」
エリカは耳をそばだてる。ノイズ交じりの声が、緊迫した空気をまとっているように感じられる。
「妙な話?」
> 「うん。灯台の件で、外部の会社の人間が何度も問い合わせをしてるらしい。どうも“安全調査”に名を借りて、実際には地下を含めた詳細構造を知りたがってるみたい。権利関係や土地の買収についても、ちらほら情報を求めてるって……」
やはり、マキが掴んだ噂話と一致する。いくつかの企業が、水面下で灯台に目をつけている。もしそれと長身の男が繋がっているとすれば、時間が経てば経つほど不利になるのはエリカたちのほうだ。
> 「ともかく、30分くらいでそっちに行くよ。庄司さんにもそう伝えて」
そう言ってヒカルは通話を終えた。エリカは顔を上げ、マキに状況を説明する。二人とも胸の奥に嫌な鼓動を感じつつ、ヒカルの到着を待つことにした。
4. 足音と手がかり
しかし、ヒカルが来る前に、家の外でかすかな物音がした。窓を開けて夜の風を入れていたせいで、庭のほうから人の気配を感じるのだ。
「……また、あの男?」
マキが不安げに立ち上がる。エリカもバッグに歯車のパーツを入れて、すぐ動けるように身構えた。だが、しばらく待ってもチャイムは鳴らず、物音もやんでしまった。
縁側からそっと外を見回すと、あたりは薄暗い闇が広がり、虫の声がしきりに響いているだけ。人影は見当たらない。
「気のせい……かな。それとも誰かが庭先を覗(のぞ)いてた?」
エリカが首をかしげ、マキも警戒の眼差しを庭に向けるが、何も見えない。
「用心するに越したことはないけど、下手に外に出ないほうがいいかも。ヒカルが来るまで待とう」
不気味な沈黙が戻る中、エリカたちは再び居間に腰を下ろし、時計の秒針を聞きながらヒカルを待った。確実に夜が近づいている。
(あと一週間もしないうちに、星の音と潮汐が重なる夜が来る。この町に何が起こるのか……)
不安が渦巻く一方で、エリカの胸の奥には、奇妙な熱情にも似た感覚が芽生えていた。祖父が追い求めていたロマンの頂点が、いよいよ目の前に迫っているのだ。もし星の音が本当に響くなら、自分の耳でそれを聴きたい——その思いが、恐怖を和らげるかのように胸で燃えている。
5. ヒカルの報告
やがて、玄関のチャイムが再び鳴った。今度こそヒカルだろうと玄関を開けると、やはり息を切らしたヒカルが顔を見せる。夜の風にあたったのか、額(ひたい)にうっすら汗が光っている。
「ごめん、遅くなった。外の企業からの問い合わせの話だけど、漁協や消防団にも何か働きかけが来てるらしい。金銭援助をするから、灯台の安全調査を急いでほしいとか、崖崩れの修復を前倒しでやれとか……結構強引らしいよ」
ヒカルの言葉に、マキは思わず唇を噛む。町が前倒しで動き始めるのは一見プラスかもしれないが、その裏に“買収”や“利権”が絡んでいれば、結局あの男や依頼主に有利になるだけかもしれない。
「灯台が単なる老朽施設だったら、誰もこんな必死に動かないはずだよね。きっと何か大きな利益があると踏んでるんだわ」
エリカが低くつぶやくと、ヒカルもうなずく。
「しかも庄司家が地下の封印を解かずに管理し続けるとなると、開発計画が頓挫(とんざ)するかもしれない。だからこそ、あの男が歯車を手に入れて一気に“潜り戸”を開こうとしてるんだろう。町側の動きが本格化する前にね」
6. 夜の作戦会議
三人は居間のテーブルを囲み、改めて今後のシナリオをすり合わせる。
1. 役場や漁協の正式調査: 近々崖崩れの安全確認とともに灯台の基部や内部を調べる動きがある。なるべく立ち会わせてもらえるように根回しを進める。
2. 企業や男の動きへの対応: あの男が再び奇襲してくる可能性もあるため、歯車の所在を隠しつつ、実際の仕掛けをすぐにこじ開けられないよう万全を期す。
3. 星の夜と潮汐のタイミング: おそらくあと一週間前後で“その夜”が訪れる。何らかの合図が起これば、男たちは潜り戸へ突撃してくるかもしれない。一方で、庄司家としては正しく“儀式”を扱えるかどうかが問われる。
議論が白熱する中、マキが深呼吸して意を決したように言う。
「わたし……やっぱり祖母や庄司家の古文書が伝える“儀式”をきちんと受け継いで、必要なら封印を解く覚悟を持ちたい。あの男がやるより、わたしたちが安全に扉を扱えれば、被害を防げるかもしれないし」
ヒカルもエリカも目を合わせ、頷く。
「もちろん、今は安易に扉を開けるべきじゃない。でも、もし町中が巻き込まれる状況になって、封印を解かざるを得ないなら、庄司家とわたしたちで安全策をとるしかないよね」
エリカはそっとカバンの中の歯車に触れ、あの金属の冷たさを確かめる。それはさながら物語の主人公が手にする“鍵”のように、運命を左右する代物なのだ。
7. 夜の気配と廊下の足音
そうして作戦会議をしているうちに、時計は夜の八時を回っていた。外はすっかり闇に包まれ、虫の声がしきりに鳴いている。窓を開けていると、ひんやりした夜気が部屋に流れ込み、三人の肌をかすかに震わせる。
遠くからは波の音すら聞こえるような気もする。まるで夜の海が、近づく星の夜を待ちわびているかのようだ。
すると、またしても廊下が軋(きし)む音が聞こえ、エリカとマキは一瞬びくりとした。けれども、今度は家の造りが鳴っただけだろうと、みな冷静に構える。もう訳の分からない足音に踊らされるほど弱くはない。
ヒカルは少し笑って、「ごめん、つい身構えちゃった」と言う。
「本当に昔の家って、風とか温度差でぎしぎし言うんだよね。幽霊でも出てきたら、そのほうがまだ気がラクかもしれない」
エリカは肩をすくめながら、視線を座敷の欄間(らんま)に向ける。そこには祖母が大切にしていた書画が掛かっていて、薄暗い照明の中で影を作っている。まるで、先祖たちが静かに見守っているようにも見えた。
8. 迫る夜と覚悟
ついに三人の話し合いも一段落し、それぞれ明日以降の動きを確認して解散することにした。ヒカルは町内会の役員や消防団員の知り合いにも掛け合って、灯台調査が本格化したときに連絡をもらえるよう段取りする。マキは庄司家の古文書をさらに読んで、儀式の具体的な手順を再度探りたい。そしてエリカは、祖父のノートに残る暗号的な数式や地図をもう一度丁寧に分析する。
三人で玄関先へ移動すると、夜気がまとわりつくように冷たく感じられた。夜の町は静かだが、闇の向こうには確実に変化の足音が近づいている。星空はまだ雲が多いのか、ほとんど見えない。
「じゃあ、気をつけて帰って。何かあったらすぐ連絡してね」
エリカがそう言うと、ヒカルとマキは頷き合い、外の路地へと消えていった。しばらく見送ってから戸を閉め、鍵をかける。
(この家に住み始めてから、こんなに波乱が続くなんて思わなかった。でも……)
エリカは改めて廊下の灯りを点け、居間に戻る。そこにはまだ資料が散らばっていて、灯台と海と星の謎が紙の上に広がっている。歯車のパーツがかすかに光を反射し、扉や仕掛けのイメージを連想させる。
祖母も祖父も、そして庄司家の先祖たちも、ずっと何かを守り続けてきた。それは町の安全であり、また海と星をつなぐ神秘の儀式でもあったのだろう。時は流れ、封印は形骸化(けいがいか)したかに見えたが、今こそ“封印を解く/守る”という選択を迫られている。
窓の外では、虫の声がかすかに合唱し、夜風が髪を揺らした。やがて遠い海の方角で、波が岩に当たって砕ける音が聴こえたような気がした——まるで海鳴(うみな)りの前触れのように。
(……わたしたちがどう動いても、あの男や企業の思惑は止まらないかもしれない。それでも、祖父や庄司家の想いを踏みにじらせるわけにはいかない。絶対に。)
熱い決意がこみ上げる。夜はまだ長いが、やるべきことは山積みだ。エリカはそっとカバンから歯車を取り出し、手のひらでその冷たい金属の感触を確かめる。ここに眠る秘密は、星の音だけではなく、海と大地、そして人間の営みを大きく揺るがす力を秘めているのかもしれない。
それでも、今ならきっと大丈夫——そう自分に言い聞かせるように、エリカは歯車を布で包み、再びカバンの奥へ仕舞(しま)い込んだ。いつか扉を開く“その夜”まで、あと一週間。嵐のような出来事が、再びこの町を揺るがすに違いない。
エリカの心には、不安と期待が複雑に入り混じりながら、新たな夜の帷(とばり)が下りる。星々は雲の向こうで沈黙を保っているが、その無言こそが、やがて訪れる“音”の前触れなのだろう——そんな予感が、夜風とともにささやいている。
第二十章 海辺に立つ思い
夜の静寂の中で、エリカが歯車を布に包んで仕舞い込み、翌朝を迎える。その夜は不思議と廊下の軋(きし)む音も小さく、まるでこの家自体が「次の段階に向けて、じっと息をひそめている」かのように感じられた。
翌朝、海からの風はどこか湿り気を含み、空を覆う雲から時折小雨が落ちるような天気。エリカは早めに目を覚まし、昨夜整理した文献の控えやメモを改めて見直していた。
(ペルセウス座流星群のピークまで、もう1週間もない……。あの男や企業の動きが加速する中、わたしたちにできることは何だろう)
思考をめぐらせていると、スマホが振動する。画面を見ると、ヒカルからのメッセージだ。
おはよう。今日、漁協の人たちが崖崩れの現場を下見するらしい。午後には役場の担当も合流して、簡単なミーティングをするようだ。マキさんとエリカさんも可能なら一緒に行く? 灯台まで行けるかどうかは分からないけど……
まさに望んでいた展開だった。灯台の内部調査ではないものの、現地に行って状況を確認する貴重なチャンスになるかもしれない。エリカはすぐに「行きたい」と返事し、マキにも一斉送信する。
1. 漁協と消防団の動向
正午を回ったころ、エリカは坂道を下りて商店街近くの漁協事務所へと向かった。マキは雑貨店を少し早めに閉めて合流するとのことだ。
漁協の建物は、古びたコンクリート造りで、表には漁網やブイが積み重なっている。入口脇には消防団の制服を着た人物が出入りし、どうやら嵐の被害関連で打ち合わせしている様子。ヒカルはすでに来ているらしく、建物の前でエリカを見つけると手を振った。
「やあ、来てくれたね。漁協の人が“これから崖の下見に行く”って言うから、僕も同行させてもらうことになったんだ。マキさんはもうすぐ到着するはず」
エリカはひと安心して、息をつく。ひょっとして外部企業の人やあの男が来ていたら……と身構えていたが、とりあえずそんな気配はないようだ。代わりに漁協や消防団の面々がバタバタと準備をしている。
「下見とはいえ、かなり崩れてる区間があるから、完全に灯台のほうへ行けるかは微妙だって。だけど、少なくとも崖近くを歩きながら、安全面のチェックはするみたい。そっちをきっかけに、灯台の正式調査を進めるつもりらしいよ」
ヒカルの言葉に、エリカは内心でガッツポーズを作る。灯台に直接行けなくても、「地下に仕掛けがあるかもしれない」というこちらの情報を現場レベルで共有できれば、あの男が勝手に突入するリスクも下がるはずだ。
2. 崖下の波止場
マキが合流し、一行は車で海沿いの道を移動していく。漁協の四輪駆動車に同乗させてもらい、消防団員や役場の担当者らとともに、嵐の被害が大きかった崖下を目指す。
程なくして到着したのは、漁港から外れた小さな波止場。釣り人が散発的に訪れる程度の場所だが、崖に近く、昨夜の嵐で土砂や漂流物が溜まっているという。
車を降りると、磯の香りが鼻をつき、波の音が大きく聞こえる。崖の上部には、すでに土砂が崩れた跡が見え、茶色い土がむき出しになっていた。まだ雨が時折ぱらつく天気で、足元はぬかるんでいる。
「うわぁ……」
マキが思わず小声で漏らす。かつて灯台へ向かう非公式ルートの入口として使われていた崖道が、見るも無残に崩れかけている。ブロック状の岩が転がり、雑草や木の根が剥(む)き出しだ。
役場の担当者がメジャーを持って近づき、倒れた木や土砂を写真に収めている。消防団員はロープで簡易的な柵を作り、見物に来ないように警戒しているようだ。
ヒカルがその様子を撮影しながら、エリカとマキに言う。
「これは……灯台の基部まで通すのは当分無理そうだね。土砂を撤去しないと。まさに“危険区域”って感じ」
エリカも重くうなずく。あの男が裏道から潜入しようとしても、ここは塞がれているため難しいかもしれない。とはいえ、他のルートを探す可能性もあるだろう。
3. 消防団長との会話
そんな中、一人の男性がエリカたちのほうへ歩み寄ってきた。中年でがっしりとした体格、消防団の腕章をつけている。顔見知りのヒカルが「団長さん、ご苦労さまです」と声をかけると、団長は笑顔で返す。
「おお、先生か。今回は大変だよ。町のみんなが避難するような規模じゃないが、土砂の撤去は時間かかるからね。あんたらは役場の依頼で視察に来たのかい?」
ヒカルがエリカとマキを紹介すると、団長は興味深そうに目を細める。
「灯台が危ないって話は聞いたが……。聞けば地下に仕掛けがあるとか? ほんとかねぇ?」
エリカは少し緊張しながら、自分が祖父のノートで知った事柄や、庄司家の古文書で分かった封印の存在をかいつまんで説明する。マキも「うちの先祖が灯台の地下を管理していた可能性がある」と補足しながら、危険性を強調した。
団長は半信半疑ながらも、「なるほどねぇ」と唸(うな)りながら崖のほうを見やる。
「確かに、この土砂崩れをほったらかしにしたまま、勝手に地下に潜り込まれたら事故になるかもしれん。いまのうちに注意喚起しておくのは大事だな」
こうして地元の消防団にも状況を共有できたことは大きい。団長が「町に戻ったら、署(しょ)のほうにも報告しとくよ」と言ってくれて、エリカたちは安堵(あんど)の息をつく。
4. 灯台が見える岬
続いて、漁協の車が向かったのは、崖道とは別の小高い岬の近く。ここは灯台からかなり距離があるが、遠目に灯台の上部がちらりと見えるというポイントだ。
「あそこ……」
車を降りたマキが指さすと、木々の向こう、うっすらと白い灯台の頂部が見える。まるで海に沈む夕陽(ゆうひ)を見守るように、細長い塔が海面を見下ろしているようだ。
「こんなに離れてても、あそこに仕掛けがあるなんて不思議だよね」
マキが呟く声に、エリカは微笑を返す。確かに、こうして遠くから見るとただの古い建造物にしか見えない。
ヒカルが双眼鏡を取り出し、灯台のあたりを覗(のぞ)き込む。
「うーん、見たところ外壁に大きなダメージはないみたい。嵐のときに多少のヒビや剥落(はくらく)が出たとしても、外観は何とか保ってるね。崖の周辺が危険だから近づけないだけで……」
漁協と消防団の担当者が、「もし安全が確認できたら灯台への作業も視野に入る」と話しているのが聞こえる。実際にはもっと多くの予算と手間が必要だろうが、動き始めたというだけでも一歩前進だ。
5. 迫る夜と不安
夕方が近づき、天候は少し回復傾向にありながらも、海のほうには暗い雲が垂れ込めている。漁協の人たちはひとまず現地の状況を確認したところで本日の作業を終え、役場に戻って報告するという。エリカたちもそれに同行させてもらう予定だったが、途中で「用事があるから一足先に帰ります」と申し出て、車を途中で降りることにした。
「わざわざ調査に同行させてもらえて助かったね。少しは町の人に危機感を共有できたかも」
車を降りたあと、エリカが感想を漏らす。マキも「うん、やっぱり地元の消防団や漁協に話をわかってもらえたのは大きい」と頷く。
ヒカルはスマホで撮影した写真を見ながら、「あの崖、本当にひどく崩れたね。裏道から入るのは当分無理そうだ」と言う一方で、「別のルートをあの男が見つけたらどうしよう」と不安げに口をつぐむ。
まだ陽が沈みきらない薄暮(はくぼ)の時間、三人は商店街のはずれで車を降り、小さな路地を歩きながら家路へ向かった。路地の先には電柱が建ち並び、店じまいの準備をする姿がちらほら見える。
「このあと、また少し話し合う? それともいったん解散する?」
エリカが問うと、ヒカルは「僕は夕飯後でもいいなら、集まれるよ」と提案する。マキは「わたしも店を閉めてからでいいなら、夜に少し時間取れる」と言う。
「じゃあ、今日はもう一度、エリカさんの家に集合かな。あそこが一番落ち着くもんね」とヒカルが笑う。エリカも少し照れながら、「あの古い家が避難所になりつつあるね」と苦笑した。
6. 短い別れと夕暮れの風
三人は商店街の分かれ道で一旦別れる。マキは雑貨店へ、ヒカルは職場関係の用事を済ませに、そしてエリカは祖母の家へ戻るため、坂道を登る。
途中で、地面に落ちている小さな紙切れが目にとまった。風にあおられた広告かチラシの切れ端だろうか。何気なく見下ろすと、「海辺のリゾート開発」「灯台を再生」などのフレーズが書かれている。まさに町外の企業が撒(ま)いている宣伝広告の一部かもしれない。
(こんなに急速に広がるなんて……。やっぱり外部の資本が動き始めてるのかな)
不安を抱えたまま坂を登ると、祖母の家の門が見える。しんと静まり返った敷地に足を踏み入れ、古い扉を開けると、やはり独特の木の香りと埃(ほこり)が混ざった空気が鼻をくすぐる。
靴を脱ぎ、居間に入ってカバンを下ろす。ホッと息をついて見回すと、昼間の温もりがまだ少しだけ残っている。
(また夜に二人が来るなら、少し部屋を片づけておこうかな)
エリカはそう考え、置きっ放しの文献やコピーを重ねてテーブルの端に寄せる。すると、ふと廊下の奥から微かな軋(きし)み音が聞こえた。もうすっかり慣れたはずの家の呼吸音だけれど、心が落ち着くというより、近づきつつある星の夜をやはり思い出させてしまう。
7. 窓辺に立つ思慕(しぼ)
カーテンを開け、窓辺に立つと、夕暮れの色が濃くなった町並みが見渡せる。遠くの山陰(やまかげ)には雲が垂れ込め、ここのところの荒天の名残が漂っている。
エリカはぼんやりと、祖父のノートを思い出す。「もし流星群と潮汐が重なった夜に、この町で何かが起こるとしたら——」
点滅する街灯を見下ろしながら、まるで深い潮騒のように胸がざわめく。あの男の冷たい眼差し、外部企業の思惑、そして祖父が果たせなかった“星の音”への到達。
外の世界が動き出す前に、どれだけ味方を得られるかが鍵になる。庄司家のマキ、そしてヒカル。カシワギ老人や消防団長も少しは味方になってくれそうだ。町の大半はまだ状況を知らないが、少なくとも危険が及ぶ前に、それを防ごうとしている人は確かにいる。
(あと少しで、わたしたちは星の音と扉の封印に向き合わなきゃいけない……。だけど、本当にわたしたちで大丈夫?)
不安と使命感が、エリカの中でせめぎ合う。祖父の足跡を継ぐのは、科学者としての好奇心だけでなく、この町を守るための責任にも似た重みがあるのだ、と改めて感じた。
8. 小さな覚悟
家の柱時計が、針を動かして微かな音を立てる。窓の外は青い闇に包まれ始め、空にはわずかに星の光が滲(にじ)み始めている。
「よし……」
エリカは気を取り直し、急いで部屋を片づける。夜の作戦会議に向け、テーブルの上をクリアにし、マキやヒカルが到着したらすぐ作業を始められるように整える。
蒼白い蛍光灯の下、歯車のパーツをそっと取り出して眺める。相変わらず冷たく無機質だが、どこか不思議な存在感を放つ。
(どんな仕掛けなんだろう、これ。灯台の地下に嵌(は)まる歯車……か)
まるで異世界の道具を手にしているような感覚がする。これを正しい場所にはめ込めば、星の音が響くのか。それとも恐るべき災厄を招くのか——。
何にせよ、マキやヒカルと共に使い方を解明しなければならない。その先には、町の未来を左右する運命が待っているかもしれない。
夜の空気が窓から入り込み、カーテンをわずかに揺らす。廊下の軋む音も今日はおとなしい。まるで、この家そのものが「準備はできた?」と問いかけているように思えた。
エリカは歯車を布に戻し、布団の脇に仕舞い込む。そしてカバンや資料をテーブルに並べ直し、最後に深く息をつく。
これからやって来る夜の作戦会議で、さらに一歩先へ。崖崩れの現場を見たことで、町の動きが加速するのは間違いない。あと数日のうちに何かが起こるだろう。
(どんな道を歩むにしても、もう後戻りはできないんだ……)
外では風が少し強まったのか、電線がビュウと鳴いている。空には星がちらほら見えているようだ。ペルセウス座流星群がピークを迎えるまで、もう本当に時間がない。
エリカは夜の訪れを前に、改めて心を落ち着けようと台所で湯を沸かし、お茶を用意する。マキとヒカルがやってくる前に、ほんの少しだけでも自分の中にある揺らぎを沈めておきたい——そう思いながら。
遠くの海に目をやると、波止場の灯りがちらつき、波がさざめいているように見える。いつかこの町に、星の音が響くとき、そこに生まれるのは奇跡か、それとも……。
エリカは心の奥で、祖父の声が「大丈夫、進め」と囁(ささや)いているように感じた。夜の風が古い家の廊下を抜けていくとき、軋む音が一際大きく聞こえたのは、きっと気のせいではない。
第二十一章 闇に宿る声
夕闇が深まり始めた頃、古い家の居間でエリカはお茶を淹(い)れたまま、じっと湯気の立つ湯飲みを見つめていた。さっきまで感じていた慌ただしさが少し落ち着き、静けさが戻った部屋の空気には、どこか不穏な予感が溶け込んでいる。
外では虫の声がそこかしこから湧き上がり、風がひゅうと軒先を抜けていく。昼間に土砂崩れの現場を下見してきたばかりで、崩れかけた崖や転がる岩の光景が瞼(まぶた)に焼きついている。あの男が裏道を使おうにも、あの現状ではさすがに無理だろう。しかし——。
(他のルート、例えば灯台の正面から強引に侵入する方法だってあるかもしれない。崖崩れを逆手に取って、町や役場が混乱しているうちにこっそり……)
内側からこみ上げる不安を、コトリと湯飲みを置く音で振り払う。歯車を握りしめて思い悩んでいた数日前と比べれば、今のエリカには同じような恐れを抱えつつも、微かな覚悟のようなものが芽生えていた。
1. 小さな集合
夜のとばりが下りきる前、玄関のチャイムが鳴る。ドキリとしながらも、エリカは急いで応対すると、そこにはマキの姿があった。 「エリカさん、こんばんは。また遅くなっちゃった……ごめんね」 カバンを抱え、少し息を切らしながらマキが居間へと入ってくる。続いて、少し間を置いてヒカルも姿を見せた。
「二人とも、いらっしゃい。今お茶を淹れてあるから、ゆっくりして」 エリカがそう言うと、マキはほっとしたような笑顔を見せ、ヒカルも安心した様子だ。昼間の崖下見学を経て、夜に再集合——いつしかこの古い家が三人の“作戦会議”の定位置となっていた。
マキが奥の座布団に腰を下ろし、手早く資料をカバンから取り出す。 「きょうは、おばあちゃんと少し話ができたの。……体調は良くなってきてるみたい。でね、庄司(しょうじ)家が昔やっていた“儀式”の手順書みたいなものが蔵の奥にあるって聞いたんだけど、残念ながら見つからないんだって。戦時中の混乱で、どこかに紛れたままかもしれないらしい」 エリカとヒカルは顔を見合わせ、どこか落胆の表情が浮かぶ。「やはり、そう簡単にはいかないか……」と。
2. 灯台の正面ルート
一方、ヒカルは役場や漁協から新たな話を仕入れてきた。 「まだ確定ではないけど、来週にも役場の人たちが灯台の正面入口の安全を確認して、内部調査の可能性を探るって話が出てるんだ。さすがに地下には降りられないかもしれないけど、“建物としての灯台”を詳しく点検する必要がある、っていう意見が強くなってるんだよね」 それを聞いてエリカは思わず身を乗り出す。 「やっぱり、表からの正面ルートも崖がせり出していて危険だって資料で読んだけど、そっちを整備すれば“いちおう近づける”状態にはできるかもしれないってことだよね?」
ヒカルが頷(うなず)く。 「うん。正規の道は町や国の管理下にあるから、土砂崩れの裏道よりは整備が早いはず。だからこそ、あの男や企業連中がそっちのルートを狙う可能性はある。漁協や役場が焦って動けば、それをかいくぐって侵入する余地が生まれるかもしれないし……」
そう、崖下からは回り込めなくても、正規ルートを“表”でこじ開けられたら同じことだ。マキは肘をつきながら思案げに言う。 「いずれにしても、本格的な内部調査が始まる前に、わたしたちが“灯台の地下に仕掛けがある”ことをちゃんと伝えないと、誰かがうっかり封印を壊しちゃうかもしれない。まあ、役場には一通り話してあるけど、どこまで共有されるか不透明だし」
3. 封印をめぐる推測
エリカは廊下の奥をちらりと見やり、歯車のパーツが入ったバッグを意識する。もし灯台の調査が本格化したら、彼女たちが歯車を持ち込むタイミングが来るのだろうか。 「庄司家の言い伝えでは、“歯車を正しく使ってこそ、封印を安全に扱える”ってことだよね。逆に言えば、あの男が適当に歯車を差し込んでしまえば、崩落や水没の危険があるかもしれない」
マキも同感だというように、資料をめくりながら答える。 「うん、古文書やノートから察するに、“波と星が呼応する夜”にこそ歯車を正しい位置にセットしないとダメみたい。普通の夜にセットしても仕掛けは動かないか、逆に安全装置が外れるだけ……みたいな書き方もある。どういう理屈かは分からないけど」
ヒカルは唸(うな)り声を漏らしつつ、手元のメモを広げる。 「ペルセウス座流星群のピーク、満潮、海鳴(うみな)り……この要素が揃うと“星の音”が最大化するんじゃないか、という仮説は祖父(エリカの祖父)も書いていたね。つまり、その夜にこそ扉が開くってことか」 「そして、たぶん、その夜が“もうすぐ”だというのが厄介。時間がなさすぎる……」 マキがため息混じりにつぶやいた。
4. 停電? それとも……
ふと、部屋の電気が一瞬ちらついた。二秒ほど灯りが暗転したのち、また復活する。エリカ、マキ、ヒカルの三人は顔を見合わせ、不安げに周囲を見回した。 「え、停電……? そんな感じじゃなかったけど」 エリカが困惑していると、ヒカルが「今、外も暗くなった気がする」と窓を見やる。路地の街灯も一瞬消えかけたようだが、すぐに復帰したらしい。
「嵐の後遺症とかで電線が傷んでるのかな……?」 マキが首をかしげる。しかし、外からは特に騒ぎもなく、復旧したらしい街灯が相変わらずオレンジ色の光を投げかけている。 「ま、気にしても仕方ないか。とりあえず、余計なトラブルがなければいいけど」 ヒカルがそう言って椅子を引き寄せる。だが三人とも、何となく嫌な胸騒ぎを拭えない。まるで町の“外部”から誰かがこちらを覗いているかのような——そんな感覚が妙に落ち着きを奪っている。
5. 夜の提案
小さなトラブルはさておき、エリカたちは今後の作戦を具体的に詰め始める。土砂崩れで裏道は使えない。正面ルートの整備が急かされている。外部の企業やあの男が暗躍しつつある。となれば、とれる手段は限られる。
ヒカルが口火を切る。 「もし今週中に町が“正面ルートの安全確認”を始めるなら、そこに僕らがきちんと同行できるよう、あらためて防災課や建設課に掛け合おうよ。書類で説明するだけじゃなく、庄司家の記録を見せながら“地下空洞のリスク”を訴えて、下手に触らないようお願いするんだ」 エリカが頷(うな)ずく。 「うん、あの男に先手を打たれないためにも、こちらから“潜り戸”の存在を示しておくべきだよね。町の公式調査として、地下を簡単に壊さないように釘(くぎ)を刺す。そうすれば少なくとも正面からの侵入は防ぎやすいかも」
マキも深く息をついて言葉を継ぐ。 「わたし、庄司家の代表として『灯台の地下はうちの先祖が管理していた』とちゃんと名乗り出るつもり。カシワギさんも協力してくれると思うし。最初はビックリされそうだけど、あの男のほうこそ余所者だから、地元を守る意志を示せば多少は優位に立てる……と思いたい」
まだ手探りだが、三人は少しずつ具体的な方向性を固めていく。“封印は勝手に解かないが、外部にも下手に触れさせない”という立場で動くのだ。
6. わずかな雑音
そんな話し合いの最中、不意に窓の外でバサリと音がした。まるで鳥が羽ばたいたような音だが、少し大きい。三人は一瞬身をこわばらせるが、すぐにマキが「カラスとかじゃない?」と囁(ささや)く。
「外の様子、見てみる?」
ヒカルが立ち上がろうとするが、エリカは首を振る。
「いや、家の周りにはあまり街灯がないし、下手に出て行っても危険かも。どっちみち鍵もかけてるし、大丈夫だよ」
さすがに男が堂々と侵入してくるとは考えにくいが、背筋にうっすら寒気が走るのも事実だ。
「やっぱり、こんなに落ち着かないのは“星の夜”が近いせいかしら……」
マキがぽつりとこぼした声が、部屋の空気を静かに揺らす。
7. 士気を高め合う
エリカは声を強め、二人に呼びかける。
「……大丈夫だよ。少なくとも今は、わたしたち三人がここに集まってる。あの男や企業がどう出ようと、町の人たちに危険を伝えて、灯台を守ることはできるはず。カシワギさんも消防団も協力的だし」
マキはこくりと頷いて、指先で歯車の図をなぞる。
「それに、いざとなったら、庄司家として封印を解く覚悟もある。わたしたちはただ封印を守るだけじゃなく、祖先が残した“星の音”の秘密を正しいかたちで確かめたいんだよね……。それこそ、あなたのお祖父さんが果たせなかった願いでもあるし」
ヒカルは小さく微笑しながら、三人の連帯を噛みしめるようにうなずく。
「そうだ。町を守るために封印が必要なら守る。でも、本当に“星の音”がこの町に降り注ぐなら、それを見逃したくないのも本当の気持ちだよ」
各々の想いが交錯し、暖色の照明に照らされる居間は、まるで小さな作戦本部のようだった。世界は外で動き、夜の闇が深まっていく。けれど、この部屋の中では確かな結束が育ちつつある。
8. それぞれの夜へ
やがて十時を回り、遅くまで騒いでいても近所迷惑になると、三人はその日の会議を終えることにした。ヒカルは「明日以降に再び役場と漁協を訪ねる」と言い、マキは「庄司家の資料から新たな手掛かりが見つからないか探す」と宣言する。
エリカは二人を玄関先で見送ったあと、急いで戸締まりを確認する。昼間の下見が順調だったおかげか、今夜は多少落ち着いた気分で過ごせそうだ。
廊下へ戻り、ふと心がざわついているのに気づく。灯りを消して床に就こうとすると、まるで家全体が息を潜めたような静寂が訪れ、廊下の軋む音すら聞こえなくなる。
(何も起こらないのが一番だけど……。もうすぐ“その時”がやって来るんだよね)
エリカは新しい布団を敷きながら、バッグの中で冷たく光る歯車の重みを思い出す。町に“星の音”が鳴り響くとき、それは奇跡か、それとも災厄か。どちらにせよ、もう逃げるわけにはいかない。
夜風がカーテンを揺らし、小さな羽虫が窓辺を飛び回る。明かりを落とすと、闇の向こうには遠くの海鳴(うみな)りがかすかに耳に届く気がする。あの男は今どこで何をしているのか。外部企業はどこまで進出しているのか。
だが、不安を積み上げても堂々巡りだ。エリカは深呼吸して目を閉じ、やるべきことを心の中で反芻(はんすう)しながら、眠りに落ちていく。廊下のきしみも、家の呼吸も、今夜だけは穏やかに感じられた。
(星の夜まで、あと数日……。明日からまた、新しい一歩を踏み出さなきゃ)
そう自分に言い聞かせるように、静かな暗闇に意識を委(ゆだ)ねた。古い時計が小さく針を刻む音が、まるで運命の歯車が動き始める合図のように感じられるのは、きっと気のせいではない。たとえ夜が深くとも、星の音の予兆はゆっくりと近づいているのだから。
第二十二章 動揺の波紋
朝の光が雲間から差し込むと、海辺の町・葉空(ようくう)は静かに目覚め始めた。夏の名残を思わせる湿った空気が、遠くの水平線を淡く染めている。風はそれほど強くないが、どこか不安定な湿度が漂い、いつ雨が落ちてきてもおかしくない天気だった。
エリカはいつもより早く目を覚まし、朝食もそこそこに古文書や祖父のノートを再点検する。昨夜の作戦会議で、彼女たちの方向性は定まってきた。だが、町の動きはあくまで「崖崩れの安全確認」や「灯台の建造物としての調査」という段階に過ぎない。誰もが知らない「封印」と「星の音」の謎を、エリカたちはどう守り抜くべきか。
——時間は少ない。もし“星の夜”に封印が解かれてしまえば、あの男たちに利用される危険がある。何より、祖父が果たせなかった願いを、そして庄司家が守り続けた封印を、無責任に壊されてしまうわけにはいかない。
1. 不意の訪問
午前九時を過ぎたころ、エリカが居間で書類の整理をしていると、玄関のチャイムが控えめに鳴った。またあの男かと身構えるが、インターホンのモニターには見慣れぬ中年女性の姿。スーツ姿で小さなカバンを持っており、どうやら誰かを尋ねてきたようだ。
「すみません、こちら四宮さんのお宅でしょうか? 少々お話を伺いたいのですが……」
エリカが恐る恐る扉を開けると、その女性は柔らかな口調で名刺を差し出す。そこには「和泉(いずみ)コンサルティング」の文字。裏面には「地域再生事業コーディネーター」と記載がある。
(外部企業——まさか、灯台のリノベーションを狙う連中の一員?)
警戒を解かぬままエリカが名刺を受け取ると、女性は軽く一礼して微笑む。
「突然お邪魔して申し訳ありません。最近、灯台の活用をめぐって町とお話を進めている会社がいくつかありまして……。その関連で、地元の方のお考えを直接伺いたいんです。もしご負担でなければ、少しだけお時間をいただけませんか?」
エリカは嫌な予感を拭えないまま、応対をどうするか迷う。居間に通すのも危険な気がするが、門前払いすれば逆に不信感を買うかもしれない。
「あの……、いま少し手が離せないので、手短にお願いできますか。立ち話になってしまいますが……」
そう区切りを付け、玄関先で話を聞く態勢を取った。女性は苦笑しながらも、つとめて感じ良い口調を保つ。
2. 企業の思惑
「実は、弊社は観光開発を専門にしておりまして。灯台の再生や周辺エリアのリゾート化を検討する企業と提携しているんです。先日の土砂崩れの件も、なるべく早く整備して観光客が訪れやすい状況を作りたいと考えていて……。四宮さんはどう思われますか?」
やはり、予想した通りの話だ。エリカは慎重に言葉を選ぶ。
「わたしはこの町で育ったわけではないので、観光整備に反対というわけではありません。でも、あの灯台には昔からの伝承や仕掛けがあるらしいんです。あまり安易にリノベーションしてしまうのは、町の歴史や自然を壊す可能性もあるかと……」
女性は穏やかに頷(うな)きながらメモを取っているが、その表情にわずかな焦りの色が混じっているように見えた。
「なるほど、歴史や伝承を大切にしたい、と。確かに地元の消防団や漁協からも“勝手に壊すな”という声が上がっていると聞きました。でも、わたしたちは“共存”を目指しているんです。カフェや展望施設など、町の魅力を引き立てる方法はいくらでもありますから」
どこか、「星の音」や「封印」の危険性を知らないまま話を進めようとしている印象だ。エリカは「すみませんが、本格的な検討は町や庄司家の方と直接お話ししてもらったほうが……」と言葉を濁す。女性も「そうですか」と納得したように見えたが、最後にこう付け加えた。
「近々、正面ルートの補修が進むという噂を聞きました。もし内部の安全が確認できれば、ライトアップや展望デッキの設置などを提案したいんです。町の財政状況から考えても、外部資本が入るほうがメリット大きいと思うんですよね」
(やはり、急速に進めようとしている……)
エリカは曖昧な笑顔で対応し、女性が名刺をしまって頭を下げると、「また改めてお話を伺えれば幸いです」と言い残して去っていく。廊下へ戻ると、胸がざわつき、嫌な汗がにじむのを感じた。
3. マキとヒカルへ連絡
エリカはすぐさまスマホを取り出し、マキへと連絡を入れる。先ほどの来訪が外部企業の一員であることを伝え、彼女が「灯台の再生」「外部資本によるリゾート化」と口にしていた旨を伝えると、マキは案の定、嫌そうな声を出した。
> 「わたしの店にもさっき、観光開発のチラシらしきものが投函(とうかん)されてたわ。なんだか気味が悪いくらい積極的だよね……。きっとあの男の依頼主か、その同業他社かもしれない」
続いて、ヒカルにも同じ内容をメッセージで送ると、しばらくして電話が返ってきた。
> 「漁協の人も似たような話をしてたよ。外部企業から“崖崩れを早期復旧したいから、人手と資金を出す”って申し出が来てるって。これって不自然に急ぎすぎだよね。どう考えても灯台の地下を狙ってるってことじゃないかな……」
エリカは頷(うな)ずくように小さく息を吐く。二人も同じ結論に達しているようだ。星の夜に間に合わせるためか、企業やあの男の背後にいる組織が焦っている——そう疑わずにはいられない。
4. 心の行方
再び居間に腰を下ろすと、机の上の祖父のノートが視界に入る。あまりにも多くの外部の思惑が灯台に向かい始めている現状を前に、エリカはどうにも落ち着かない。
(祖父は、これを予期していたんじゃないか。星の音や封印の価値が世に知れれば、必ず金や利権の争いが生まれる……)
ノートを開けば、理論物理の数式や天文観測のメモが雑然と並ぶ。その下に走り書きされた「町を巻き込む災厄を防ぐには、正しい儀式と歯車が要」といった言葉がより強くエリカの胸に響く。
ふと扉の向こうでパタリと物音がし、ドキリと身構えるが、どうやら郵便受けにチラシが投函された音らしい。さきほどの企業がまた何かを撒いているのか。エリカは立ち上がり、玄関に行ってポストを確認する。
案の定、観光開発のチラシが一枚。そこには灯台のシルエットが描かれ、「歴史的資源を新たな観光地へ!」というキャッチコピーが踊っている。だが、その灯台のイラストはまるで外見だけを切り取ったような安易な印象で、“地下に隠された封印や儀式”など想像もしないだろう。
5. ささやかな決断
チラシを丸めてゴミ箱に捨てると、エリカは改めて庄司(しょうじ)家やマキの想いを噛みしめる。誰もが町の財政や経済のことを無視できないのは分かる。だが、ただの観光アトラクションにしてしまうには、灯台には危険も、歴史も、そして星の音という神秘すら含まれている。
(わたしたちにできるのは、町に正しく事情を伝えて、少なくとも“封印”を壊さない体制を整えること。あの男に先を越されないためにも、企業や外部組織が軽率に動けないようにすること……)
エリカはスマホを握りしめ、「わたしも、町のみんなに星の音の可能性や危険を伝えたい」とマキへと再びメッセージを打ち込む。彼女が主役である庄司家とともに、ヒカルの民俗学的知見も交えて、今こそ世間に話すべきなのかもしれない。秘密を守るためには、一部でも“危険な事実”を開示しないと、事態が外部のペースで進んでしまう。
6. 風の音と夜の海
夕方に近づくにつれ、空模様は再び怪しくなってきた。遠くから雷鳴のような低いゴロゴロ音が聞こえ、嫌な湿度が町を包みつつある。マキもヒカルも、仕事や店の対応を早めに切り上げ、今夜もう一度集まるつもりらしい。
エリカは台所で簡単な夕食の下ごしらえをしながら、廊下の軋(きし)む音を気にしている。あの男や企業の手先が再び押しかけてくる可能性を思うと、どうにも胃が落ち着かない。
(きっと、空が荒れてるのは気のせいだけじゃない。何か大きな“波”が押し寄せようとしている……)
その予感は、家の軒先からふと聞こえる風のざわめきや、海の向こうから断続的に響く波音がさらに強める。まるで夜の海が“星の夜”の到来を告げるように、地鳴りに似た低い振動を伝えているのだ。
7. 明日に向けて
もうすぐ夜が来る——その夜を越えれば、灯台をめぐる争いは一歩進むだろう。企業やあの男が激しく動き出すかもしれないし、町の側も漁協や役場の主導で調査を本格化させるかもしれない。
エリカは廊下の奥へ足を運び、そっと鞄を開ける。中には銀色に光る歯車のパーツ。もう一度布を外し、手のひらに載せてみる。冷たい金属の感触が、祖父の声や庄司家の祈りを内包しているようにも思える。
(わたしが選ぶ道は、たぶん正しい。でも、ひとつ間違えば取り返しのつかない事態になるかもしれない。星の音はロマンでもあるけど、封印された大いなる力でもあるから……)
そして思い浮かぶのは、カシワギ老人の厳しい眼差し。彼もまた、祖父から依頼された“星の音”の謎を解くために動いてきた。きっとこのタイミングを逃すまいと、どこかで準備を進めているだろう。もし彼も町の側に立ってくれるなら、さらに心強い。
8. かすかな光、深まる闇
外の空は薄曇りで星の姿は見えないが、雲の切れ目からわずかに月の光がこぼれている。時間が経てば再び厚い雲に覆われるかもしれない。
エリカは鞄のチャックを閉め、居間に戻って明かりをつけ直す。少し部屋が暗く感じられ、スイッチを押す手が微妙に震えた。
(大丈夫。いまはまだ嵐の前……やるべきことをやるだけ)
心を落ち着けようと、ふと窓を開け放つと、生温い風が部屋に入り込んでくる。ささやかに頬を撫でるその風には、潮の香りと不穏な湿度が混じっている。廊下の軋む音も今日はやや頻繁で、まるで家が「立ち止まってはいけない」とでも言っているようだ。
この夜が明ければ、また新たな展開が待っているだろう。星の音をめぐる戦いは、外部の介入を巻き込みながら加速していく。そのとき、エリカ・マキ・ヒカルの三人は町と封印を守り抜くことができるのか。誰も答えを知らないが、いまはただ歯を食いしばって道を切り開くしかない。
夜の帳(とばり)が重く降りかかる中、エリカは決意を新たに湯飲みを握りしめる。茶の温かさが指先に染み渡り、静かな覚悟が胸に芽生える。星の夜と潮鳴りが重なる刻限が、刻一刻と近づいている——それを感じ取るように、町の風がざわざわと吹き抜けていった。
第二十三章 灯りの行方
夜のとばりが降りてしばらくした頃、街灯に照らされる海辺の町・葉空(ようくう)は、不思議な緊張感に包まれていた。浅い霧が漂い、空には低い雲が広がっている。夜の海からは定期的にごうごうという波音が響き、まるで暗いリズムを刻むように。
エリカは居間の机に資料やノートを並べたまま、歯車のパーツを収めた鞄(かばん)をそっと抱え込んでいた。あの男や外部企業の人間が動き回っている状況で、うかつに家を留守にできない。かといって、仲間との連絡や作戦のために外にも出なければならない。
廊下の軋(きし)む音がいつになく大きく感じられ、古い家の柱が時折カタリと震える。まるで家全体が「夜が深まるぞ、覚悟はいいか」と告げるように思えた。
1. マキからの報せ
ポケットのスマホが震え、画面を見るとマキからのメッセージが届いていた。
> 今夜、遅くなっちゃったけど、一度そっちに行っていい?
> 実は、祖母が “庄司家の儀式に使っていたかもしれない道具” を見つけたって言うの。少しだけど何か手掛かりになるかも。
思わずエリカは胸を高鳴らせる。もし本当に庄司家の遺物が出てきたなら、あの潜り戸(せんこ)や歯車の仕掛けを解く一助になるかもしれない。
(夜遅くても構わない……むしろ今すぐ聞きたいくらい)
エリカはすぐに「もちろん来て」と返事を打ち込み、念のため玄関の戸締りを再チェックする。あの男が突然現れても対応できるよう、ドアチェーンや補助錠もかけておいた。
2. 暗い路地の足音
しばらくして、門扉の開く音が聞こえた。続いて控えめなチャイムが鳴り、インターホンに映るマキの姿を確認してエリカは胸を撫(な)で下ろす。
玄関戸を開けると、マキは少し大きめの紙袋を抱え、夜の湿気をまとっていた。
「ごめんね、こんな時間に。……なんだか街灯が暗くなったり、変な感じだけど大丈夫?」
エリカは「今のところは平気」と笑みを返し、マキを居間へ案内する。途中、廊下の軋みが一際大きく響いたが、二人とも慣れた様子でやり過ごす。
居間の小さな灯りの下、マキが紙袋を開けると、中から古びた木箱や鉄製の小道具らしきものが出てきた。
「祖母が“これ、庄司家の蔵にあった道具じゃないか”って。正直、使い道はわからないんだけど……ほら、歯車をはめる“溝”らしき形状が一部に残ってるの」
確かに、木箱の角には円形の金属パーツをはめ込みそうな凹(へこ)みがあり、錆(さび)や汚れが付着している。
3. 遺物から読み解くかすかな手掛かり
エリカは懐中電灯の明かりを当てながら木箱の側面を丹念に調べる。古びた金属板やネジが付いており、何らかの“仕掛け”だった痕跡を示していた。
「もしかして、これ自体が潜り戸を制御する一部? それとも灯台で使われてた航海道具?」
マキは首を振る。
「祖母もわからないって。儀式のときに当主が持っていた道具らしいけど、細かい記録はないんだって。……ただ、歯車って言葉だけは昔から聞いてた、と」
まるでパズルのピースを一つずつ拾い集めるようだ。エリカは木箱の表面に刻まれた文様を見て、一瞬息を呑む。
「これ、何かの“星の絵”じゃない? ほら、細い線で五芒星みたいな形がかすかに……」
言われてみれば、擦(す)れた彫刻のラインが五つの角を描いているようにも見える。星を象徴するマークといえば、庄司家の“星の儀式”を連想させる。
エリカは歯車のパーツを鞄から取り出し、木箱の溝に当ててみる。寸法こそ違うが、確かに円形のリングがはまりそうな形状だ。
「もしこれが本体と歯車を接続するための“試作品”とか“小型模型”なら、実際の仕掛けにも似た構造があるかもしれない……」
4. 悪寒と足音
そんなふうに二人で道具を観察していると、突然、家の裏手のほうからバタバタと音が響いた。まるで誰かが敷地内を走り回っているような印象だ。エリカとマキは互いに目を合わせ、胸がざわつく。
「ちょ、ちょっと、外で何かが……」
エリカは暗い顔をして、戸締まりを確認しようと立ち上がる。廊下を抜け、裏口の鍵をしっかりかけたあと、縁側のカーテンを僅かに開けて外を窺(うかが)ってみるが、真っ暗で人影は見当たらない。
(また鳥や猫が走ったのか? でも、足音は人間っぽかったような……)
嫌な冷や汗を感じつつ、エリカが戻るとマキも顔をこわばらせている。
「外、見えた?」
「ううん、暗くて何も……。たぶん気のせいだと思うけど、怖いよね」
二人とも、あの男が忍び込んだか、企業関係者が盗み聞きでもしているかと身構えたが、今のところそれらしき気配はない。とりあえず居間に戻り、戸を閉めて鍵を施錠し、家の中で警戒を続けるほかない。
5. 熱中する二人
気を取り直し、再び木箱や金属の小道具を調べる二人。エリカは昼間まとめていた祖父のノートの写しを取り出し、「星の音」「歯車」「潮汐」などのキーワードを相互に参照する。
するとマキが箱の内側に貼り付いている紙片を発見し、静かに声を上げる。
「これ……墨の字がだいぶ消えちゃってるけど、“潜戸(せんこ)”“狭間(はざま)”“器”みたいな単語が並んでる。あとは読み取れないけど、どう見ても“儀式の道具”っぽいよね」
エリカも手伝って紙片を光に透かすようにしてみるが、ほとんど判読できない。薄ぼんやりと“潮満チル刻(とき)”や“星ガ降ル夜”といったフレーズらしき文字が見える程度だ。
「でも、確信持てるよ。やっぱり歯車とこの木箱は繋がってる。“星の夜”に合わせて扉を開く方法を示す小道具だった……あるいは封印を管理する装置の一部を真似たものかもしれない」
エリカが力強く頷くと、マキは少し安心したように笑みを浮かべる。
「わたし、心配だったの。何も手掛かりが見つからないまま“その夜”を迎えたらどうしようって。でも、これなら少しは……」
6. マキの決意
マキはふいに箱から目を離し、エリカの顔をまっすぐ見つめる。
「エリカさん、もし最悪の場合……わたしたちだけで“潜り戸”を開くことになっても、やるしかないよね。あの男に封印を壊されるより、わたしたちが管理しているほうがまだ安全だと思う」
驚きつつも、エリカは同感だと頷く。
「うん。できれば町の正式調査で、専門家も交えつつ安全に進めたい。でも、このまま外部企業やあの男が強引に侵入してきたら……私たちで先に封印を解かざるを得ないかもしれない。庄司家と祖父の意思を継いで、正しいやり方を使わなきゃ」
歯車を不法に扱われれば、大規模な崩落や水没の危険もあるという記述をノートで読んだ以上、放置すれば町の人に被害が及ぶ可能性すらある。庄司家の当主代行でもあるマキの決断は、重いが避けられない選択だ。
7. 家を揺るがす音
そんな会話をしていると、突如として家全体がグラリと小さく揺れる。地震かと思うほどの振動が床から伝わり、思わずマキとエリカは身を固める。だが、数秒で収まり、大きな被害はなさそうだ。
「地震……じゃないよね? まさか土砂崩れ? それとも風のせい……?」
エリカは驚きながら廊下に出て、窓を少し開けて外の様子を確認するが、何も変化は見当たらない。今のは一体……。
「ただの揺れっていうか、家がきしんだだけかも。でも嫌な感じ」
マキも不安げに眉を寄せ、木箱を布で包み直す。
さっきの足音や外での物音、そして今の揺れ——一連の奇妙な出来事が、まるで何かの“前兆”のように二人を落ち着かせない。けれど、ここで取り乱しても仕方がない。
8. 星を求める夜
外を見ると、雲がやや薄れてきて、わずかに星が滲(にじ)むように光っている。ペルセウス座流星群のピークが近いとはいえ、この曇りがちの天気では今夜大きな流れ星を見るのは難しそうだ。
マキは窓辺に立ち、首をすくめるように夜空を見上げる。
「……もう少しはっきり星が見えれば、気分も変わるのにな。自分の家系が“星と海”をつなぐ儀式をしてたなんて、まだ信じられないよ」
エリカは寄り添うようにマキの横に立ち、ゆっくり夜空を眺める。
「わたしも祖父から聞かされた“星の音”が、本当に存在するのかどうか、まだ心のどこかで信じきれていない。でも、あの歯車や古文書を調べるたびに、ただの空想じゃないって確信が芽生えてきて……」
外の路地は相変わらず暗く、街灯がぼんやりと道を照らしているだけ。あの男の姿は見えないが、どこかでこちらを監視しているかもしれない。企業のチラシも撒かれ始め、町は徐々に無関心を装いながらも騒がしくなってきている。
9. 対抗策と安堵
マキとエリカは居間に戻り、木箱と歯車を丁寧に梱包して鞄に収める。今後の対抗策としては、以下のポイントを確認し合う。
1. 庄司家の遺物: 新たに見つかった木箱と小道具。さらに歯車と合わせて「封印を管理する道具」であると仮定し、実際の地下仕掛けに応用できないか検証する。
2. 町への告知: マキが庄司家の代表として、崖崩れが落ち着く前に役場や消防団へ“本当の危険”を訴える。カシワギ老人やヒカルにも協力してもらい、証拠をそろえる。
3. 星の夜への備え: ペルセウス座流星群と潮汐が重なる夜まで、あと数日。あの男や企業が強行突破しようとしたら、先手を打って自分たちで封印を保全(または正しく開放)するかもしれない、という覚悟を持つ。
すべて確認し終え、二人はひとまず息をつく。マキはやや疲労の色を浮かべながらも、どこか安堵の表情だ。
「やっぱり、エリカさんと話していると落ち着くよ。自分一人じゃ不安で押しつぶされそうだから」
エリカも苦笑しながら「わたしも同じ」と返し、互いの心を確かめ合うように微笑んだ。
10. またしても不穏な気配
ちょうどそのとき、縁側のほうからパタリと音が響く。今度は確実に人が歩いているような足音。二人が顔を見合わせ、居間の灯りをそっと落として廊下へ向かうと、またもや音は消えてしまった。
(……誰かが家の周りをうろついてる?)
マキが息をのむ。エリカはスマホを片手に握り、いつでも通報できるように構える。だが、窓をそっと開けて外を覗(のぞ)いてみても、人影はおろか猫や鳥すら見えない。
静寂が戻り、海鳴(うみな)りにも似た低い風の音だけが聞こえる。星も雲に隠れてしまったのか、夜空は漆黒のヴェールをまといはじめている。
「おかしいわね……。でも、様子を見に外へ出るのは危険すぎるし」
エリカが囁(ささや)くように言うと、マキも不安そうに頷(うな)ずく。
「もし、あの男なら……わざわざ足音を立てるかしら。嫌がらせみたいだけど……」
不審者がいるかもしれない状況で、二人だけでは立ち撃ちできない。エリカは思い切ってヒカルに連絡し、もしかしたら助けてもらう必要があるかもしれない。スマホを操作しようとするが、その矢先に立て続けに電波が不安定になり、画面が固まる。通話ボタンが反応しづらい。
11. 闇の中の閃光
さらに悪いことに、部屋の灯りが一瞬だけチラつく。まるで停電の前触れかと思うほど暗転しかけ、すぐに復帰する。二人は息を飲んで廊下を見回すが、変わらず軋む音だけが響く。
「どうなってるの……? 電気設備が壊れかけてるとか?」
マキが不安げに言うと、エリカはひとまず通話アプリを再起動し、ヒカルへの連絡を試みる。数コール後、やっと繋がった。
> 「エリカさん? どうした? さっき電波が一瞬おかしくて」
事のあらましを簡潔に伝え、「不審な物音が続いているんだけど、見に行くのも怖い」と打ち明けると、ヒカルは少し考えて「僕がそっちに寄ろうか?」と提案してくれた。だが、時間も遅いし無用なトラブルを招くかもしれない。
「うーん、気を使ってくれてありがとう。でも、わざわざ来てもらうのも危ないかも……」
マキが弱気に言うと、ヒカルは「じゃあいつでも連絡を」と言って通話を終えた。薄暗い居間は、かすかな照明が怯(ひる)えたように揺れている。
12. 一夜の終わりに
結局、二人は夜更けまで待ってみたが、物音はあれからピタリと止み、特に何事も起こらなかった。ただし、不気味な緊張感だけは肌にまとわりつくように残る。
「今日はもう帰るね。エリカさんも無理しないで……戸締まりちゃんとして。明日からまた忙しくなるだろうから」
マキは木箱を再び紙袋に収め、エリカと一緒に玄関へ移動する。念のためエリカが外の様子を確認しつつ見送ると、商店街のほうへ続く路地は人影もなく真っ暗だ。街灯だけが淡い丸い光を落としている。
「気をつけてね。何かあればすぐ連絡して」
エリカがそう言い、マキは小さく手を振る。少し遠ざかるマキの背中を見送るあいだ、再び不穏な足音や物音は感じられない。
(何だったんだろう……)
戸を閉め、鍵とチェーンをかけてから、エリカは深く呼吸をする。まるで走り回った後のように心臓がドキドキしている。いまだ落ち着かないが、少なくとも今夜は何も大きな事件は起こらずに済んだ。
13. うずまく想い
再び居間に戻ると、消しかけた照明をつけ直し、鞄の中にある歯車パーツを指先でたしかめる。マキが見つけた“儀式の道具”と同じように、祖父が残してくれたこの歯車もまた、確固たる実体をもつ謎の断片だ。
(まるで二つのパズルが合体しそうな感触がある……。あの男と企業が急ぎすぎているのも、きっとこの歯車や封印がもうすぐ “星の夜” と共鳴することを知ってるからなのか)
ベランダ越しに夜空を見上げても、やはり雲が多い。流星群は隠れてしまい、星の音が響くにはまだ時が早い。——だが、その時が確実に近づいていることを、エリカは肌で感じ取っていた。
“揺れやすい町”、“揺れやすい夜”、“揺れやすい運命”——そんな言葉が頭をよぎる。
「絶対に、守り抜くんだから……」
そう小さく呟(つぶや)くと、廊下がかすかに軋んだ。まるで家そのものが「その意気だ」と肯定してくれているような気がした。
深夜の静寂がしんしんと広がり、古い時計がカチ、カチと音を刻む。ペルセウス座流星群のピークまで、あと数日。その夜が来れば、この町の海と星はどんな姿を見せるのか。そして“封印”は——。
階段下の隅で小さく揺れる影が、ふっと闇に溶けていく。エリカの胸には、まだ足音の記憶が痛みのように残っているが、視線を机の資料に戻す。行きつ戻りつしながらも、星の音へと至る道を探し当てるしかない。それが祖父の残した大きな宿題であり、庄司家の祈りを継ぐ大切な使命なのだから。
第二十四章 波打ち際の囁(ささや)き
深夜の不穏な足音や家の微妙な揺れに翻弄されながらも、朝を迎えたエリカは、どこか微かな安堵とともに目を覚ました。曇りがちの空にはわずかに青空がのぞき、夜のうちに漂っていた重苦しい湿気がいくらか和らいでいるように思える。
歯を磨きながら窓の外を眺めると、坂道の下のほうでは町の人々が動き始めている。商店街から漂うパンや醤油(しょうゆ)の匂いが、早朝の空気をほんのり甘塩っぱく彩っている。いつもと変わらない風景に見えるが、外部企業やあの男の暗躍によって、確実にこの町には見えない波紋が広がっていた。
廊下の軋(きし)む音がいつものように聞こえると、「おはよう」と返事をしたくなる。まるで古い家がささやかな励ましを与えてくれているかのようだ。歯車を収めた鞄(かばん)をそっと撫(な)で、エリカは今日やるべきことを頭の中で組み立てていく。
1. 新たな一日
通いなれた坂道を下り、エリカはまず役場へ足を運ぶつもりだった。封印と歯車の件で正式な連絡が来る気配はまだないが、空振りでも顔を出しておけば、あの男や企業が何らかの動きを見せた際にこちらにも情報が入るかもしれない。
しかし、道の途中でマキから連絡が入る。
> 「ごめん、きょうは祖母の具合が急に悪くなっちゃった。わたし、少しだけ看病しなきゃ……。でも昼には落ち着くと思うから、それまでエリカさんは動いてていいよ」
マキ自身も家系の事情や雑貨店の経営があり、なかなか身軽には動けない。エリカは「分かった、落ち着いたら連絡して」と伝え、さらにヒカルにも状況を共有した。するとヒカルは今日も学校関係の用事があり、午後から合流できるという。
(つまり、午前中はわたし一人か……)
エリカは気を引き締め、バッグに歯車を入れたまま一人で役場へと向かった。町が本腰を入れ始める前に、こちらから再度「封印のリスク」を伝えておくのが目的だ。あの男たちより先に動き、存在感を示すことが鍵になる。
2. 町役場にて
朝の役場はまだ閑散としている。窓口には数名の職員が出勤しており、奥の通路には防災関連のポスターや土砂崩れ警戒の張り紙が貼られていた。エリカは建設課や防災課に顔を出し、知り合いの職員がいないか探す。すると、以前に話を聞いてくれた三浦(みうら)係長の姿が見えたので、声をかける。
「係長さん、おはようございます。少しお時間、よろしいですか?」
三浦係長は書類を抱えたまま振り向き、エリカを見つけると、「おお、四宮さん。どうも」と軽く頭を下げる。彼は土砂災害の処理や灯台の安全調査に関わる人物として、エリカも何度か顔を合わせている。
「崖崩れのほうは進捗(しんちょく)ありそうですか?」
エリカが尋ねると、三浦は微妙に眉を寄せた。
「うーん、あと数日は大掛かりな作業には取りかかれないね。予算の問題と人員不足で、緊急性の高いエリアから優先してるから。灯台周辺の安全確認はどうしても後回しになっちゃうんだよ」
エリカは歯がゆさを感じつつも、これが現実なのだと痛感する。そんな中、少し声を落として本題を切り出す。
「あの……実は、あの灯台には“地下に仕掛けがある”って話、前にお伝えしましたよね。わたしや庄司(しょうじ)家がさらに調べた結果、やっぱり安易に壊したり立ち入りしたりしたら危険が大きい可能性があるんです。外部企業から早めの開発を求める動きがあるみたいですが、そこは慎重にしていただきたいんです」
三浦係長は怪訝(けげん)そうにメモをとりつつ、「外部企業か……確かにウチにも問い合わせが来ているよ。リゾートだか観光地化だか」と苦い表情。
「まあ、業者には“ちゃんと地元の意見を聞け”としか言えないが、あなた方の言う“封印や歯車の危険性”をどう理解させるか……難しいねぇ。役場としても科学的根拠がないとなかなか動きづらいんだよ」
3. 科学的根拠を求めて
確かに、町の立場からすれば“伝承”“封印”“歯車”といったオカルトや民俗的要素だけでは動きにくいだろう。エリカも理系の研究者として、その苦しさを分からなくはない。だが、歯車の実物や祖父のノートにはある程度の物理的説明が書かれている。
(そうか、もう少し“科学的根拠”をまとめる必要があるのかもしれない……)
祖父が遺(のこ)した数式や仕掛けのモデルをしっかり再現すれば、町の職員や専門家を納得させられるかもしれない。星の音がただのロマンではなく、実際に潮汐や地殻振動と共鳴する現象だと示せれば——。
エリカは思い立ったように三浦係長へ申し出る。
「分かりました。わたし、今ある資料をさらに整理して“地下空洞のリスク”をもっと具体的に示そうと思います。かえって明日か明後日にはお持ちしますので……」
三浦係長は「ほう、それはありがたい」と感心しつつ、「ただし、あまり大げさな話だとこっちも困る。根拠が揃わなければ企業に押し切られるだけになっちゃうからね」と念を押す。エリカは力強く頷(うな)く。
(やるしかない。祖父のノートを駆使して、本気で“歯車と地下空洞の危険性”を立証してみせる……)
4. 小さな衝撃
役場を出たエリカは、商店街へと向かう足を急がせる。マキは祖母の看病中で来られないが、ヒカルに連絡をとり、二人で資料の科学的根拠を補強できないか話し合うのが先決だ。
しかし、途中で思わぬ人物とすれ違った。スーツ姿の中年男性で、先日役場の廊下でも見かけた「外部企業の人間らしき男」に似ている。男は通話をしながら視線をエリカに向け、軽く口角を上げる。
「……やあ、灯台のことでお忙しいみたいですね」
突然の声かけにエリカは動揺する。男の胸元にある名札にはやはり「○○開発」と社名が書かれており、灯台の観光開発に関わる会社だと推測できる。彼は電話相手に「少し話があるから」と言い残し、通話を切る。
「すみませんが、少々お時間を。あなた、灯台の件で町にいろいろと働きかけている女性ですよね?」
警戒を滲(にじ)ませつつエリカが答える。
「働きかけ……まあ、地元として安全や伝承を守りたいだけです。そちらこそ急ぎすぎじゃないですか?」
男は苦笑し、「ビジネスにはタイミングがあるんですよ。せっかくの遺産を活かさないのはもったいないでしょう?」と言い放つ。どこか慇懃(いんぎん)無礼な物腰に、エリカは嫌悪感を覚える。
5. 火花散るやり取り
「正直申し上げて、あなた方のような地元民が伝承だとか封印だとかを振りかざして、開発を遅らせるのは問題なんです。町の経済発展が阻まれるどころか、危険があるならプロが先に調べたほうが良いと思いませんか?」
男の言葉に、エリカは内心で憤りを抑えられなくなる。しかし、ここで声を荒らげても得るものはない。
「ご心配なく。わたしたちは役場や消防団とも連携しながら、安全第一で進めてるんです。そちらにせかされる筋合いはありません。……“星の音”や“封印”は、ただの迷信ではない可能性が高いんですよ。安易に工事をすれば大惨事になるかもしれない」
男は眉をひそめ、「星の音?」と繰り返す。まるであざ笑うように肩をすくめる動作は、あの長身の“探偵”を名乗る男とも似ている気がする。ひょっとして彼も同じグループなのか。
「まあ、いずれ分かりますよ。町がどう動こうと、我々は正式な許可を取って進めるだけですから。もしあの灯台や崖が有望なら、早い段階で買取やリノベ案を提示して、観光資源にする予定です。あなた方がどんな伝承を主張しようと、事実無根なら簡単に崩れるかと」
そう言い残し、男はスマホの通話画面を再開しながら歩き去っていく。エリカはその背中を睨(にら)みつけるように見送るが、喉の奥に嫌な苦味が広がっていた。
(あれが“依頼主”か、もしくはあの男の仲間なのか……。星の音なんて嘲笑して、封印を壊しても構わないという姿勢が見え見えじゃないか……)
6. ヒカルとの合流
嫌な気分で商店街を抜け、エリカは約束していた喫茶店「海鳴(うみなり)」へ向かった。すでに先に着いていたヒカルが本を読みながら待っている。店の窓から差し込む昼下がりの陽光が、微妙な温かさを帯びているが、エリカの胸中は暗雲が覆っていた。
「こんにちは。……少し疲れてるみたいだね、大丈夫?」
ヒカルが気遣うように声をかけ、エリカはほっと息をついて席に着く。
「ありがとう。実は役場に行ったあと、あの外部企業の人と遭遇しちゃって……。もう、苛立(いらだ)ちを隠せない感じ」
「そっか……。でも、焦らずいこう。とにかく“科学的根拠”や“歴史的記録”をまとめるんだよね? そのことで呼んでくれたのかな」
エリカはうなずき、祖父のノートやコピー資料を取り出す。そこには潮汐の周期や地質構造に関するメモもあり、祖父がかなり真剣に物理学的アプローチを試みていた跡が見える。
「ヒカル、民俗学だけじゃなく、地質や天文学も詳しい学者を知ってたりしない? 町の人を納得させるには、最低限の科学的説明が必要なんだけど……」
ヒカルは少し考え込み、「大学のネットワークで当たってみるよ。急ぎの案件だから、すぐにやり取りできるか分からないけど……」と返事をくれる。
7. 大地の囁(ささや)き
注文したコーヒーが運ばれ、二人は店内で静かに打ち合わせを続ける。カップを傾けつつ、祖父のノートの記述を一節ずつ読み合わせる。そこには“海底空洞”や“地殻共鳴”といった専門的な語が繰り返し登場し、あの灯台地下にあると言われる“潜り戸”が地質的にも興味深い場所であることを示唆していた。
「海鳴(うみな)りの原因はいくつか説があるけど、もし灯台の地下に大きな空洞があって、流星群の夜に大気や地殻が震動して共鳴すれば、“星の音”なんていう不思議な現象が起こってもおかしくないかも……」
エリカが理系の視点で説明すると、ヒカルも目を輝かせる。
「なるほど。民俗学としては“海神(わだつみ)と星の神が共鳴する”という伝承になるのかもしれない。でも実際は物理現象だった。……ロマンと理論が融合してる感じで、すごく興味深いね」
8. 喫茶店を出た先で
ひととおり話を詰め、店を出ようとすると、カウンターの奥からマスターが「いろいろと大変そうだね」と声をかけてきた。常連客らしいヒカルとエリカの会話を聞いていたのだろう。「葉空には昔から不思議な伝承が多いからね、無理せず頑張って」と、温かい言葉をくれる。
外に出ると、鈍色(にびいろ)の雲が低く垂れ込め、わずかに湿った風が頬を掠(かす)める。エリカは背を伸ばし、遠くの海を見やる。波は穏やかそうだが、空気にはどこかざわめきがある。
「ねえ、ちょっと海辺へ行ってみない? 時間があればだけど……」
エリカがヒカルに提案すると、彼も軽くうなずく。どうやら職場への戻りは午後遅くで構わないらしい。
9. 波打ち際の囁き
商店街を抜け、港の奥にある小さな砂浜へ足を運ぶ。ここは観光客向けではなく、地元の人が散歩したり釣りをしたりするだけの静かな場所だ。干潮なのか、波打ち際がやや広がり、海面には昼下がりの光がほのかに反射している。
「海鳴(うみな)りの仕組みとか、地形とか、この辺りからわかることもあるかも……」
エリカはパンプスを脱いで砂の上に降り、スニーカーに履き替える。ヒカルも靴を砂浜に埋めながら、「ここは初めて来たかも」と驚く。
波が寄せては返す音がどこか穏やかで、二人の胸に溜まった緊張を少しだけ溶かしてくれる。
「……やっぱり、この町が好きなんだなって、改めて思うよ。海と山に囲まれてて、どこか懐かしい風景がある。だから、変に大規模開発でぶち壊されたら嫌なんだ」
エリカが言葉に詰まると、ヒカルは優しく微笑む。
「庄司さんやエリカさんみたいに、地元の歴史を守りたい人がいれば、そう簡単には壊されないと思うよ。もちろん、外部勢力が強引に来れば厄介だけど……。それを食い止めるのが今の僕らの役目だね」
10. 突然の気配
ふと二人が波打ち際を眺めていると、視界の端に何か人影がよぎった。振り返ると、遠くの岩場からこちらを見ているらしきシルエットがある。あまりにも距離があるので顔までは判別できないが、なぜかこちらを注視している感じがする。
「……あの男かな?」
ヒカルがそっとつぶやくと、エリカは息を詰めて背筋を伸ばす。姿形は定かでないが、全身が黒っぽい服装らしく、性別すらよく分からない。しばらくして、そのシルエットはスッと岩場の陰に消えていった。
嫌な予感とともに、エリカは歯車の入ったバッグを握りしめる。ヒカルも緊張を隠せない。
「ここにいるのを見られたかもしれないね。あっちに行ってみる? いや……危険だな」
エリカはためらいがちに首を振る。
「二人だけじゃ何かあっても対応できないし、ここは下手に追わないほうがいい。……もう町のほうへ戻ろう。外が暗くなり始める前に」
11. 引きずる不安
砂浜を後にし、舗装道路に戻る。どこまでも付きまとうような不安が、二人の足取りを重くする。ヒカルは何度か後ろを振り返りながら、「次はマキさんも連れて、三人で行動したいね」と声を落とす。エリカも同感だ。
「うん……。時間がないのも分かってるんだけど、焦ってバラバラに行動すると良くないよね。あの男か企業か分からないけど、確実にこっちを警戒してる」
商店街の入り口に近づき、人通りが増えてくると、さっきの不気味な圧力から解放されるような気がする。エリカとヒカルはそこで別れ、「夜にでもまた連絡しよう」と言い合い、それぞれの予定へ向かった。
12. 迫る夕暮れ、そして……
夕方が迫るにつれ、エリカは再度祖母の家へ戻った。鍵を開け、玄関に足を踏み入れると、静かな空気が迎えてくれる。廊下の奥で何度か軋む音がするが、もう慣れたものだ。
だが、部屋に入りかけたとき、思わず目を丸くする。机の上に置いてあった書類の一部が落ちている。風で飛ばされるような場所ではないし、戸締まりもしていたはず……。
(あれ……わたし、出かける前にちゃんとまとめておいたはずだけど)
嫌な予感に胸が締めつけられる。鞄の中に歯車はあるが、祖父のノートや一部のコピーは机に広げていたので、内容が見られた可能性もある。そっと辺りを見回すが、侵入の形跡はわからない。
(家の鍵はしっかりかけたし、窓も閉めていた。もし、誰かが……)
背筋が寒くなりながらも、エリカは書類を拾い上げ、確認する。大きく欠損したり、持ち去られたりした形跡はないが、微妙にページの順序がずれている気がする。鳥肌が立つほどの不安が身体を覆うが、すぐに平静を取り戻すわけにもいかない。
「まずい……本当に、町にいる誰かがわたしの動きを逐一チェックしてるのかもしれない」
13. やむを得ぬ決断
このまま祖母の家に一人でいるのは危険が大きいと判断し、エリカはスマホを取り出し、マキとヒカルに一斉連絡をする。
> 「家の書類が散らばってた。誰かが入ったかもしれない。今晩は一緒にいたいんだけど、どうしよう」
すぐに二人から返信があり、「わたしの店に来る?」「あるいはヒカルの家に……?」という提案が返ってくる。エリカは考えた末、マキの雑貨店に夜は集合して、その後どこか安全な場所で過ごすプランを練ることにした。
それは祖母の家を捨てるというわけではないが、封印を巡る最終決戦(いわば“星の夜”)まであと数日しかない以上、それまでに歯車や重要な資料が盗まれたら本末転倒だからだ。
エリカは歯車やノートを鞄に押し込み、最低限の荷物をまとめる。夜陰に紛れて再び不審者が出るかもしれない——そう思うと、いても立ってもいられない。
(ごめんね、おばあちゃん……少しだけ家を空けるね。でも、わたしは封印を守らなきゃならないの)
14. 出発前の邂逅(かいこう)
カバンを背負い、靴を履きかけたとき、インターホンが鳴った。画面に映ったのはマキではなく、ヒカルでもなく、カシワギ老人だった。
「……カシワギさん?」
驚きながら扉を開けると、老人は杖をつきながら静かに立っている。
「やあ、少し様子を見に来たんだよ。どうやら、あんたの家に“外部の者”が出入りした形跡があるそうだな」
エリカは思わず息を呑む。まるで老人も監視していたかのようだが、それより先に彼の厳しい眼差しが射抜くようにこちらを見ている。
「心配なら、わしが少し見張っておいてやってもいいが……あんたは出ていくところか?」
カシワギ老人はエリカのバッグを見ると、「歯車はあるな?」と低い声で尋ねる。エリカは頷(うな)き、老人に打ち明けた。
「家に知らない人が入ったかもしれなくて……。雑貨店に避難しようと思ってます。マキさんやヒカルと一緒に安全を確保したくて」
すると、老人は薄く笑みを浮かべ、「賢明な判断だ」と言う。
「わしは祖父さんから託された“星の音”の研究を放り出すわけにはいかないが、今はあんたらが最優先だ。街も騒がしくなってきたから、いよいよ本番が近いんだろう。……歯車は、あんたらがしっかり管理してくれ」
エリカの胸に熱いものが込み上げる。カシワギ老人は祖父の意思を知る唯一の協力者であり、同時に町の歴史を見守る賢人でもある。この局面で「任せる」と言ってくれるのはありがたい。
「ありがとうございます……。カシワギさんも気をつけてくださいね。もし何かあれば、すぐ連絡を」
老人は杖を軽く鳴らし、「心得てるさ」と返す。それだけ言い置いて、夜の路地へと消えていった。
15. 闇に消える足音
門の外へ出ると、夜の空気が肌を冷やすように感じられる。エリカは鍵をかけた祖母の家を振り返り、深く頭を下げる。あの長身の男、企業の手先——いずれにせよ、今は安全な場所に歯車を移すのが賢明だろう。
坂道を下りながら、カバンに手を当て、「大丈夫、ちゃんと守る」と心中で誓う。外灯がちらちらと揺れて見えるのは、風のせいか、それとも自分の緊張のせいか。
カシワギ老人が言った「本番が近い」——つまり星の夜まであまり時間が残されていない。潜り戸(せんこ)と歯車、そして海鳴(うみな)りと星の音を巡る闘いの幕が、いよいよ上がろうとしている。
路地を曲がると、ふと足音が聞こえた気がして振り返る。しかし、暗い道に人影はない。ただ風がごうと吹いて、背筋を撫(な)でていく。再び歩き出すと、心臓が高鳴り、呼吸が浅くなる。
(あと数日……その夜が来れば、すべてが動き出すんだ)
夜空を見上げれば、雲が切れた隙間から星が一瞬だけ滲んで光る。すぐにまた雲が覆い隠してしまうが、エリカの瞳にはその輝きがしっかり焼きついた。星々は沈黙しているが、それは嵐の前の静けさでもある。
音もなく夜が深まる——けれど、その暗闇の奥では歯車が回り始め、潮汐と流星群を呼び寄せる“封印”が目覚めようとしている。エリカはバッグをぎゅっと抱きかかえ、夜の路地を駆けるように進んだ。雑貨店までの道のりが、今までになく長く感じられるのは、きっと「星の夜」がすぐそこまで迫っている証拠なのだ。
第二十五章 夜の街へ流れる道
薄曇りの空の下、祖母の家を後にしたエリカは、歯車を抱えて雑貨店へ向かう坂道を急いでいた。まるで夜の湿度が一層高まっているように感じられ、肌がじっとりと汗ばむ。闇が深まる前にたどり着かねばという焦りと、祖母の家を離れる後ろめたさとが、足取りを重くしている。
(あの男や外部企業の動きは、ますます加速している。町はギリギリまで動き出さない状態で、星の夜まで残りわずか……。どうにかして封印も町も守り抜かなくちゃ)
そんな思いを抱えながら坂を下ると、街灯がちらちらと揺れ、商店街の外れにあるマキの雑貨店が見えてきた。薄暗い軒先には「庄司雑貨店」という控えめな看板がかかっており、戸はもう半分閉めかけているように見えた。
1. 雑貨店での合流
店の戸を開けると、閉店準備をしていたマキが「お待ちしてました」と微笑む。照明を落とした店内は少し暗く、カーテンを閉めた窓には夜の街灯が反射している。奥にはヒカルらしき人影も見え、どうやら先に到着していたらしい。
「エリカさん、大丈夫? 家で何かあったんでしょ?」
マキが心配そうに聞くと、エリカは頷(うな)き、書類が散らばっていたことや、不審な気配があったことをかいつまんで説明する。ヒカルは険しい顔で腕を組み、「やはり、あの男か企業の関係者が動いてるんだろう」と推測する。
「今夜は、ここに泊まってもいいって言ってたけど……。大丈夫かな? 鍵かけても、向こうも何かしら手段を講じるかも」
エリカがためらいがちに言うと、マキは小さく息をついて「まぁ、一応店の裏にも格子があるし、万が一のときは大声で通りに助けを求められるから」と説明する。
店内にはテーブルが一つ置かれ、その上には資料やメモが並べられていた。どうやら二人で先に打ち合わせをしていたようだ。エリカも鞄から歯車を取り出し、念のため白い布で隠したままテーブルへ置く。昼にヒカルとした決意を、ここで再び深めようというわけだ。
2. 街角で巻き起こる噂
マキが短く報告を始める。どうやら、外部企業が役場と商談を進めているという噂が今日になって急速に広まり、商店街の一部では「灯台が観光地になるなら商機がある」と浮足立つ店主もいるらしい。
「地元の人でも、『どうせ放置されてきた灯台なら、観光資源にしたほうがいい』って言う声はあるのよね。わたしも商売している身だから、その気持ちは分からなくもないけど……」
マキは苦しげに言葉をつなぐ。自分の家が封印を守る宿命を背負っていることを知りながら、経済的メリットを否定しきれないという葛藤が、表情を曇らせる。
ヒカルは静かにマキの肩を叩き、「大丈夫、外部企業が入るかどうかは、まだ決定じゃない。市民や町が冷静に情報を得られれば、危険だけは避けられる」と励ます。
ただ、あの男(“探偵”を名乗る長身の人物)が潜り戸(せんこ)を狙う事実は依然として最も危険な要素だ。正攻法での観光開発ならまだしも、彼の行動は企業の利権より先に“星の音”を手に入れようとする思惑がにじみ出ている。
「歯車を見つけたら、すぐに扉をこじ開ける気かもしれない。星の夜が近いから、時間がないってことだね……」
エリカは歯車に手を当て、冷たさを感じながら心を引き締める。
3. 夜の商店街を偵察
三人はこのまま雑貨店に籠(こも)っていると、かえって不審者に狙われやすいとも考え、ヒカルの提案で「夜の商店街を少し歩き、気配を探ろう」と決める。あの男が近くをうろついているかもしれないし、商店街の店主らから噂話の真相を探っておきたい。
マキは店を一時的にクローズし、戸締まりをして「後で戻る」と張り紙を貼る。歯車をどうするかが悩みどころだったが、エリカが鞄に入れて持ち歩くことにする。ここに置いていけばリスクが高いし、自宅に持ち帰るのも同様に危険だからだ。
街灯が照らすアーケード街は、夜の商売をする飲食店などがそこそこ人通りを作り出している。三人はさりげなく裏路地や繁華街を観察しながら歩くが、特にあの男の姿は見当たらない。代わりに、二軒ほどの居酒屋の前で地元のおじさんたちが「灯台の再生がどうだ」と話しているのを耳にした。
「そこまで盛り上がる話題じゃなかったはずなのに……いつの間にか町全体が気にしはじめてる感じだね」
ヒカルが口にすると、マキもうなずく。「観光開発のチラシが撒(ま)かれたのか、外部からの投資があるって話が広まったのか……とにかく急すぎる」。
4. 古い神社の佇(たたず)まい
ほかに有力な情報が得られぬまま、三人は町はずれのほうへと歩を進める。古い神社の鳥居が、夜の道を静かに見下ろしている場所だ。商店街の喧騒から離れ、風が一段と冷たく感じられる。
ここはエリカが幼いころに祖母と散歩に来た思い出があり、庄司(しょうじ)家の伝承とも何か関連がありそうだと考えたのだが、実際にはどうか分からない。
境内は薄暗く、足元の苔(こけ)が湿った匂いを放っている。木の葉がざわざわと揺れ、どこか神秘的な雰囲気を醸し出す。空を見上げても、雲に遮られて星はほとんど見えない。
「マキさんの家系だけじゃなく、この神社とか、昔から海神(わだつみ)を祀(まつ)る人たちが多いのかもしれないね。夜の海鳴(うみな)りや星の夜を神事として扱っていた記録があるかもしれない」
ヒカルが提案するが、境内の社務所はもう閉まっており、誰もいない。三人は暗い参道を歩きながら、「日を改めて神主さんに聞いてみよう」と話し合う。
5. 再び夜の静寂へ
結局、この夜は大きな進展もなく、あの男の姿を見ることもなかった。商店街を一巡し、神社まで足を伸ばして戻ってくるころには時計の針が夜の十時を回っている。
「一旦わたしは店に戻って休むね。エリカさんはどうする? 本当に店に泊まっていく?」
マキが問いかけると、エリカは力強く頷(うな)く。
「あの男や企業の手先が夜に忍び込む可能性もあるし、自宅や祖母の家は危険。ここならまだ人通りがあるし、何かあれば助けが呼べると思う」
ヒカルは気遣わしげに、「僕も付き添おうか?」と言うが、自宅への帰り道が逆方向なので、あまり遅いと家族にも心配をかけるという。明日は朝早く学校があるため、やむなく今夜は解散することにする。
「明日は役場や町内会へ再度掛け合って、“星の夜”に備えた説明を少しでも進めるよ。二人もなるべく連絡取り合って、安全第一で頼むね」
そう言い残し、ヒカルは夜道へ消えていった。
6. 静かな店内
マキの雑貨店は夜になるとシャッターを半分閉じ、奥のスタッフルームに電気をつけて控えめに過ごす。エリカは簡易的な布団を借り、歯車のパーツを抱えるようにして腰を下ろした。
「……いろいろあったけど、今夜はここで休めると助かるよ」
マキもふと安堵のため息を漏らす。「わたしも、おばあちゃんが今日よりは落ち着いてるし、夜は店に戻ろうと思ってて……さすがに一人は心細くて」
電気スタンドの柔らかな光が二人を包み込む中、風の音だけが窓ガラスを揺らしている。
思えば、潜り戸(せんこ)や歯車の謎、外部企業やあの男の脅威——すべてが一気に押し寄せてきて、わずか数日で町の空気が変わった。星の夜が近いことを示す“星の音”という言葉はまだ姿を見せないが、今はその前触れの嵐の最中にいるようだ。
「落ち着いたら、木箱や歯車の仕掛けをもっと詳しく調べたいね。あれをどう噛み合わせれば扉を安全に開閉できるのか……」
エリカが呟(つぶや)くと、マキも「うん」と返事する。守るべき封印がそこにある以上、正しい手順を知ることは唯一の防衛策だ。
7. 突然のメール
店の奥で二人が落ち着こうとしていると、エリカのスマホが振動する。画面を見ると「差出人不明」のメールが一通届いていた。件名は「灯台に関して重要な話がある」。
怪しいと感じながらも開くと、本文には「扉を開く方法はもうすぐ分かる。歯車を隠しても無駄だ」という挑発めいた言葉が短く綴(つづ)られている。それだけで終わり。
「……これ、あの男? それとも企業?」
マキが青ざめた顔で画面をのぞき込む。差出人のアドレスはランダム文字列で、追跡は難しそうだ。
(やっぱり、わたしが歯車を持ち歩いていることを知ってるのか……)
エリカは唇を噛(か)み、マキへ視線を送る。マキも同じく恐怖心を抱えつつ、ただ「負けたくない」という決意を固めるように息を整える。
8. 暗い店先の影
その夜、店のシャッターを下ろし、戸を施錠したうえで二人は雑貨店奥の簡易スペースで横になる。街の外灯が消える時間も近づき、路地は静かだが、絶対に安心とは言い切れない。
時折、店の壁をかすめるように風が吹き、軒先の看板がカタンと微かに揺れる音がする。エリカは何度も鞄の中を確かめ、「歯車は大丈夫……」と言い聞かせながら、眠りへ落ちていった。マキも寝袋の中で身を縮め、どこか怯(おび)えながら目を閉じる。
夜の町では、外部企業の気配が大きくなる一方、あの男やカシワギ老人もそれぞれの動きを進めているに違いない。星の夜まであと数日。封印が正しく扱われるのか、それとも一気に壊されてしまうのか——闇に沈む商店街には答えはなく、ただ虫の声と遠い波音がかすかに響くだけである。
天井を見つめながら、エリカは祖父が残した言葉を思い出す。「星の音は科学と神秘の狭間(はざま)にあり、人の欲望をあぶり出すかもしれない」。そう書かれたページの走り書きが、今になって異様な説得力をもって迫ってくる。
何も大きな事件が起こらず朝を迎えればいい——そう願いつつも、胸の奥では「もうすぐ何かが起こる」という確信が熱く脈打っているのを感じる。町の命運、そして庄司(しょうじ)家の封印の行方は、星の夜とともに決まるのだ。
第二十六章 隠された路地と微かな灯
夜の雑貨店で一夜を過ごしたエリカとマキ。翌朝、うっすらと朝日が差し込む頃、エリカは頭を起こし、周囲の様子を確認した。店内はまだ薄暗く、店先のシャッターの向こうからはカタカタと風の音が伝わるだけ。いつの間にか寝入ってしまったらしく、肩に少し痛みを感じる。
バッグの中にある歯車の金属片は無事だし、不審な物音もなかった——夜を越えただけでもほっとする。マキは寝袋の中でまだ浅い眠りにあるようで、時折身じろぎしている。
(星の夜まで数日。灯台と崖の周辺は相変わらず手つかずで、あの男や外部企業がどう出るか……)
そんな思考をめぐらせるうち、マキが目を覚ました。髪をかき上げながら「おはよう」と微笑む。二人はここが雑貨店の奥であることを改めて認識し、少し苦笑した。だが、昨夜の物音や不審者の気配はなかったようで、少なくとも事件にはならずに済んだ。
1. 朝の店先と連絡
簡単に身だしなみを整え、店のシャッターを少しだけ上げると、外にはまだ人通りが少ない。朝の薄日が射し、風が坂道を抜けるのが見える。坂の上のほうにはエリカの祖母の家があり、坂の下には商店街と港が広がっている。いつもと変わらない景色だが、胸の奥には暗い予感が渦巻く。
そこへヒカルから連絡が入る。
> 「おはよう。役場の人からちょっと変わった話を聞いたよ。どうやら“表のルート”を整備する準備が想定より早まりそうだって。企業の動きがあるかも……」
やはり、外部勢力が予想以上のスピードで町を動かしている。もし正面ルートが開通すれば、あの男も、企業の調査員も、灯台へ容易に近づける可能性が高まるということだ。
エリカはマキに目で合図し、歯車の入ったバッグをそっと抱え直す。
「わたしたちも役場や漁協に声をかけて、潜り戸(せんこ)や地下空洞について警告しないと。……それが一番の急務だね。外部の手に渡る前に、何とかしないと」
マキは腕を組んだまま深呼吸し、「うん。朝の開店準備が済んだら、わたしも一緒に行く」と決意を示す。
2. 路地裏の視線
雑貨店のシャッターを開け、マキが店先を掃除し始める。エリカはその横でパンをかじりながら朝食を済ませるが、ふと背後に誰かの視線を感じて振り返った。
「……?」
路地の奥、塀の陰に一瞬人影が見えた気がする。警戒してマキに小声で知らせるが、「大丈夫、朝から見張りにくるなんて」と、マキは苦笑ぎみに応じる。とはいえ、気になって仕方ない。
エリカが店を出て路地を軽く回り込んでみても、そこには誰もいない。ただ、どこか最近になって急に人通りが増えたような気がするのは確かだ。観光客や企業の下見担当がうろうろしているのだろうか。
(歯車を狙う“あの男”が、さらに手下を動員しているとか?)
不穏な想像ばかりが頭をよぎり、エリカはわざと大きな声で「よし、役場に行ってこようか」と宣言してみる。もし聞き耳を立てている者がいれば、こちらの動向を把握したいだろうと思ったのだ。
3. ヒカルとの合流、そして町役場
朝の雑事を済ませ、エリカとマキは連絡を受けていたヒカルと合流する。商店街の中央にあるカフェで落ち合い、今後の行動をすり合わせた。ヒカルは大学に協力を求めるメールを送ったらしいが、返信はまだ来ていないという。
「一方で、建設課の三浦係長から、“何かもう少し科学的根拠を示せる資料はないか”と聞かれている。調査班を正式に編成する前に、もう少し突っ込んだ説明を町の内部で行いたいんだって」
ヒカルが報告すると、エリカは大きく頷(うな)く。
「やっぱり祖父のノートから“科学的根拠”を補強しないと。星の夜と潮汐が重なったときの波動共鳴や地下空洞のモデル……。わたしなりにまとめてみる」
マキは庄司(しょうじ)家に伝わる木箱や小道具を使った簡易的な実演も考えるという。たとえば箱に歯車を入れて“嵌(は)まりそうな部位”を示し、複雑な仕掛けがあることを実感させられるかもしれない。
「うん、前にも言ったけど、オカルトに見せないためには、具体的な仕掛けや危険性を少しでもリアルに伝えなきゃね。あの男がこっそり潜り込んで強引に歯車をセットすれば、崩落や水没の危険がある……っていうのを、町の人にちゃんと知ってもらわないと」
4. 意外な告白
朝のうちに三人で役場へ再度赴(おもむ)き、建設課の係長と短い面談をする運びになった。だが、その席で意外な人物が顔を出した。以前にエリカがすれ違った“企業のスーツ姿の男”——昨晩とは別人らしいが、同じ会社の関係者であることは間違いない。
「いやぁ、ちょうどいいところに。当社は町の経済発展を重視しておりまして、古い伝承も尊重したいと思っていますよ。そちらさんが危険だとおっしゃるなら、むしろプロの調査チームを呼んで地下を徹底的に解析しようじゃないですか」
その言葉を聞いて、エリカとマキは目を見合わせる。プロの調査チーム——具体的にはどんな人材を呼ぶのか、どれほど強引に工事を進めるのか分からないが、少なくとも好意的に聞こえる。しかし、同時に“歯車や封印の在処(ありか)を探し出す口実”にも使われかねない。
役場の係長は言う。「企業さんが資金を出してくれるなら、町としてもありがたい面はある。でも、あくまで安全最優先で、遺産的価値がある部分は慎重に扱う必要がありますよね」
結局、この席では具体的な合意には至らず、エリカたちは「文献の科学的根拠」を提示する資料作りを約束するに留まった。企業の人間は最後に意味深な笑みを浮かべ、「歯車や仕掛けの現物があれば、話は早いんだけどねぇ」と口にし、エリカとマキをじっと見つめる。まるで確信めいているかのようだ。
5. 別れ際の囁(ささや)き
面談を終え、役場の廊下で企業の男とエリカたちが出くわす。男はポケットから名刺を取り出し、「いずれにせよ、われわれも真剣に取り組みたいだけ。封印だろうと歯車だろうと、先回りして壊すつもりなんてないですよ」と言うが、口調はどこか慇懃(いんぎん)無礼。
エリカが対応に困っていると、男は小さく笑って耳打ちするように言った。
「“あの方”も、いよいよ星の夜に合わせて動き出すそうです。早めに結論を出したほうがいいですよ。何かあっても知らない……」
ゾッとするほど低い声で警告され、エリカは背筋を凍らせる。男は役場のエントランスへ足早に去っていく。その姿は昼間の人通りに紛れて、あっという間に見えなくなる。
「……やっぱり、あの男と企業は繋がってるんだ」
ヒカルとマキも息を呑(の)む。まさに“余裕を見せつける脅し”としか思えない態度だ。
6. 裏道での決意
夕方に差しかかる前、三人は役場を出て裏道へ回り込み、静かな場所で短く作戦を確認する。町のメイン通りは企業の人間がうろうろしている可能性が高いし、あの男もどこで見張っているか分からないからだ。
「歯車はわたしの鞄の中、木箱はマキさんの店にある。祖父のノートや古文書は複製を作ってあるし、最低限の“証拠”は失わないようにしてる……」
エリカが一つずつ確認すると、マキは「わたしの雑貨店も、もう危ない気がする」と顔を曇らせる。
「でも、この町に置いておくほかないよね。ヒカルの家だと家族に迷惑がかかるかもしれないし……」
ヒカルは腕時計を見て、「僕も今夜はなるべく協力できるようにする。昼は仕事があるけど、夜に合流したい。灯台の正面ルートを工事するとなれば、そろそろ動きが出るはずだから」と意気込む。
7. 星々の前触れ
裏道を抜けて商店街に戻る途中、ヒカルがスマホで天気予報を確認していると、近々天気が崩れるとの情報が出ている。流星群が迫るタイミングで悪天候は残念だが、その分、外部勢力が工事を強行するには好都合ではないだろう。
「荒れた天気なら、工事日程を後ろ倒しにするかもしれない。逆にあの男が雨の夜に潜り込む可能性もあるけど……」
マキは溜息(ためいき)をつき、「毎日が手探りだね」と言う。
きょうはそれぞれの用事があり、夕方以降に再び雑貨店かヒカルの家へ集まる予定になるが、日中にまた動きがあるかもしれない。少しでも仲間と連絡を密にしなければ——そう決意を噛みしめて三人はまた別れて行動を開始した。
8. 波打ち際の静寂
夕方が近づくにつれ、エリカは少しだけ時間に余裕ができたため、港の波止場へ立ち寄る。昼間の重い空気がそのまま夜に引き継がれる気がして、どうにも頭が冴(さ)えない。
波は穏やかだが、空にはダークグレーの雲が垂れ込め、時折風が強めに吹いて潮の香りを運んでくる。潮汐の時刻を確認すると、今日は夜半に満潮が重なるらしい。星は雲に隠れそうだが、もし夜半に天候が持ち直すなら、流星群が見えるかもしれない……。
(星の夜と潮が重なるあの刻(とき)は、もうすぐ。封印がどうなるか、わたしたちがどう動くか——すべてが数日のうちに決まるんだ)
港に立ち尽くしていると、ふと視線を感じる。振り向けば、遠くの埠頭(ふとう)に誰かが立っていて、こちらの方向を見ているようにも見える。確信は持てないが、やはり不安を増幅させるには十分だ。
(いずれにせよ、もう後戻りはできない。わたしは歯車を、マキは庄司家の儀式を、ヒカルは民俗学と地元連携を——三人でこの町を守りながら“星の音”を紐解くしかない。)
風の音が耳元で囁(ささや)き、波止場のコンクリートに波が優しく打ちつける。遠い水平線の向こうでは、さらに暗雲がたちこめているようだ。今夜から天気が荒れるかもしれない。
そっとバッグの中の歯車を確かめ、エリカは足早に帰路につく。闇が深まる前に合流し、夜の作戦を練らねばならない。星の夜という運命の刻限が近づくにつれ、町はますます不穏に揺れ始めている——それを実感せずにはいられない。
第二十七章 降りしきる静寂
翌日、朝方から黒雲が垂れこめ、町はどこか重苦しい暗さに包まれていた。葉空(ようくう)では、ここ数日で一気に天候が荒れ始め、まるで来るべき星の夜を隠し立てするかのように、厚い雲が空を覆っている。
雑貨店の奥でひと晩を過ごしたエリカとマキは、夜のうちに何事も起こらなかったことに安堵しつつも、外の空気を感じて再び気を引き締める。ヒカルは学校での用事を片づけ次第、午後から二人に合流する予定だ。
1. 朝の雑貨店と微かな期待
マキは開店準備のため、店のシャッターを上げるが、曇り空のせいで通りは薄暗く、人影もまばらだ。観光客らしき姿は見えず、地元民が傘を片手に足早に行き交っている。
エリカは店先で簡単に掃き掃除をしながら、そっとあたりを見回した。昨夜のような不審な気配は感じられないが、どこか落ち着かない気分が抜けない。
「……役場や漁協の動きはどうなってるんだろう。企業の人たちも今日はこんな天気だし、あんまり外回りしないかもしれないけど」
マキが小声で言い、エリカも「そうだね……」と返事する。静かな朝に似つかわしくない不安が胸を占める。
もし今日も何ごともなく過ぎるなら、それだけ星の夜までの残り時間が減るということ。封印がどうなるか、少しでも結論に近づかねばならないという焦りばかりが募っていく。
2. メールの到着
開店して程なく、エリカのスマホに通知音が鳴った。差出人は大学の研究者からのものではなく、またもや「差出人不明」のアドレス。
> 「そろそろ動かないと間に合わない。灯台の正面ルートが開けば、こちらにも好都合だ。星の夜まであとわずか。今のうちに歯車を出せ」
短い文面だが、その脅迫的なニュアンスは明白だ。エリカは唇をかみしめ、マキに見せる。マキも青ざめた顔でうつむく。
「やっぱり、あの男……。企業の人たちが動いてくれてるうちに、自分も潜り戸(せんこ)へ侵入するつもりなんだね……」
エリカは頭を振り、「出すわけないじゃない」と呟(つぶや)いた。
すぐにヒカルへメッセージを送ると、「分かった。昼までにはそっちに行く」と即座に返事が来る。三人が集まっていないと、この脅迫に対して心が折れそうな気がするからだ。
3. 土砂降りの町
午前九時を回ったあたりで、急に雨脚が強まり、まるでバケツをひっくり返したような土砂降りになる。街灯が昼間でも点灯し始め、どんよりとした暗さが店内にまで及ぶ。
マキは「これじゃ客も来ないわね……」と困ったように笑うが、エリカは逆に好都合と考える。外部企業もあの男も、これだけの豪雨では積極的に動きづらいだろう。
「今のうちに、資料をまとめておこう。ヒカルが来たら役場に行くか、または消防団と連絡をとって“もしものとき”に備えられるか確かめたい」
「うん、そうだね」
店の奥に腰を下ろし、二人は祖父のノートや庄司家の古文書を再度読み合わせる。潜り戸を守るためには、歯車を正しい段階でセットするしかないが、その操作手順は最後まで曖昧なままだ。星の夜と潮汐が重なるときに自然に扉が解錠される仕掛けになっているのか、あるいは人が手を加えなければ開かないのか——疑問は尽きない。
4. 不意の来客
土砂降りの音をBGMに作業を続けていると、シャッターの向こうからトントンと控えめに戸を叩く音がした。チャイムがない店なので、客が来たのだろうか。
マキが警戒しながらシャッターを少しだけ開けると、そこには中年の女性が立っていた。先日エリカの祖母の家を訪ねてきた「コンサルティング会社」の女性だ。小さな折りたたみ傘でずぶ濡れになりながら、感じ良さそうに微笑む。
「すみません、突然お邪魔して。庄司マキさんですよね? 以前、四宮(しのみや)さんにお話を聞かせていただいた者です」
エリカが奥から顔をのぞかせると、女性は「こんにちは」と軽く会釈する。まるで商談を進めるかのような穏やかな態度だが、その裏には何か意図があるに違いない。
「町の開発プランで、灯台の周辺も含めたリゾート化を検討していまして……庄司家は昔からこの町に深く根ざしていると聞きました。ぜひ、地元視点でのご意見を伺いたいんです」
マキは一瞬ためらうが、相手が表面上は丁寧な態度をとっているので、店内に通さずシャッターの隙間から応対する形をとった。エリカは背後で無言のまま警戒している。
5. 話を聞くか、拒むか
「開発プラン、とおっしゃいますが、あの灯台には危険な箇所も多いし、むやみに掘り起こすのは避けてほしいという声も多いですよ。町の人も困惑していて……」
マキが遠回しに釘(くぎ)を刺すと、女性は控えめに微笑み、「そこはプロの調査で安全を確認しながら、伝統や封印も尊重する方針ですからご安心を」と返す。
その言い方は、まるで「実はもう封印の中身を把握している」と言わんばかりにも感じられ、エリカの心はざわつく。
「もし封印だとか歯車だとか、具体的な情報があれば、わたしたちも配慮できますので。ご協力いただければ、歴史と文化を壊さずに開発できますよ」
エリカは口を開こうとして思いとどまった。まさにこちらから情報を引き出そうとする手口かもしれない。ヒカルや町の防災課と相談してからでないと、うかつに喋るわけにはいかない。
「すみませんが、急ぎのお客さまが来る予定で、これ以上は……。また正式な段階になったら役場を通して連絡してください」
マキがやんわりと断ると、女性は少し苦い笑みを浮かべ、「そうですか。では、また改めますね」と帰っていった。シャッターを閉めたあと、マキは息をついて「ごめん、断っちゃった」とエリカに視線を送る。
「ううん、正解だよ。あの人たち、絶対に“歯車”や地下仕掛けのことを探ってる……」
雨の音が一段と強くなった。まるで外部の思惑から町を洗い流すかのように、路地に大粒の雨が打ちつける。
6. ヒカルの登場
土砂降りの中、ヒカルがようやく店に到着したのは昼過ぎだった。びしょ濡れの姿でシャッターを叩き、「わぁ……凄い雨だね」と笑いながら奥へ通される。
「ごめんごめん、遅くなった。学校でも企業からの問い合わせがあったりして……なんだか町全体がどこか浮き足立ってる感じだよ」
ヒカルは店の奥で体を拭きながら、すぐに資料の話題へ移行する。「例の研究者へのメール、まだ返信は来てないけど、きょう中には来るかも。地殻共鳴とか潮汐共鳴の専門家が見つかれば、説得力も増すはずだよ」
エリカとマキも同調して、一気に作業モードへ入る。祖父のノート、庄司家の古文書、そしてマキが見つけた木箱や金属部品。これらを総合して、「星の夜の扉が開く仕掛け」を整理しようというわけだ。
「“潜り戸(せんこ)”の自動開閉には、歯車と潮汐・星の揺れが関係する可能性……。これをちゃんと説明できれば、むやみに工事しないよう町の人を説得できる」
エリカはペンを走らせつつ、細かい数式や図を描き込む。ヒカルは民俗学的資料を重ねながら、マキは木箱を見せつつポイントを示す。
7. ささやかな進展
作業が一段落したところで、三人は昼食を取るために店の簡易テーブルに腰を下ろし、持ち寄ったパンやおにぎりを分け合う。外の雨は依然として強く、窓を閉め切っていても聞こえるほどだ。
エリカのスマホが鳴り、画面を見ると大学の研究者からの返信が届いていた。内容を確認すると——簡単なアドバイスと、地盤工学の専門家を紹介してくれるとのこと。すぐにオンラインで意見交換ができるかもしれない。
「やった……! ちょっとは前進だね」
エリカが微笑むと、マキとヒカルも「これは大きい」と喜ぶ。科学的支援が得られれば、町の役場や防災課にとっても大きな後ろ盾となるだろう。
8. 暗雲の行方
しかし、歓喜も束の間、マキのスマホに着信が入り、相手は消防団長からだった。どうやら「外部企業の人が漁協や役場を訪ねて、正面ルートの再整備を一気に進める案を突きつけてきた」という。しかも、町の予算を補助する形で一部工事を代行すると申し出ているという話だ。
「それって……あの企業が、灯台への道を早急に開けるってことか」
ヒカルは難しい顔。エリカは歯車を握りしめながら、「あの男もこれで潜り戸に向かいやすくなるかも……」と恐れる。
「まだ決定じゃないが、町も金銭面で困ってるから、動きが速いかもしれない。いよいよ急展開だよ」
マキの声が震えを帯びる。せめて科学的資料をまとめ上げる前に、正面ルートの工事を着工されてしまったらアウトかもしれない……。
9. 雨音の中で
三人は再度、互いの役割を確認し合う。
- エリカ: 大学の研究者と連携し、歯車や地下空洞に関する科学的リスクを資料化する。できれば一日以内に草案を作り、役場へ提出。
- マキ: 庄司家の記録から追加情報を探し、木箱や金属部品の説得力を高める。町が封印を軽視しないよう、消防団やカシワギ老人とも連携を図る。
- ヒカル: 防災課や町内会に顔を出し、“外部企業の動きが先走らないように”牽制する。あわせて民俗学的な視点を提示し、町の人へ危険を周知させる。
雨脚がさらに強まり、店の屋根を叩く豪雨の音が響く。薄暗い店内で、電気スタンドを点けながら、三人はそれぞれの作業に取りかかる。まるでこの雨が町全体を洗い流して、新しいステージへ移行しようとしているかのようだ。
10. 星の夜までのカウントダウン
夕方近くになっても雨は止まず、むしろ雷鳴まで遠くで轟(とどろ)き始める。土砂災害の危険もあるため、エリカたちは下手に外に出ずに店に留まる。
時間が過ぎるほど、“星の夜”までの残り日は減っていく。ペルセウス座流星群のピークはもうすぐそこだ。あの男や企業が雷雨にもめげずに活動するなら、潜り戸(せんこ)への道はいつ開かれてもおかしくない。
エリカは心が焦(あせ)るのを感じつつ、パソコンのキーボードを叩く。大学の研究者とのオンライン連絡で、歯車や空洞理論の図を用意し、町の防災課へ提出するための資料を急ピッチで作成している。ヒカルは町内へのメール連絡網で、緊急説明会を開催する可能性を探り、マキは店の休業日を利用して庄司家の蔵へ連絡を取り、祖母から追加の古文書を借り受ける段取りを考えている。
11. ほんのささやかな光
夜になっても雨は衰えず、雑貨店のシャッターを下ろしつつ、三人は再びここで夜を越そうかと相談する。エリカの祖母の家へ帰るのはリスクが大きく、ヒカルも自宅が離れているため、嵐の中を帰るのは厳しい。しかし、三人もここに籠(こも)るとなると狭(せま)いので、ヒカルが「僕は一度帰るよ」と申し出る。
「明日、役場に資料を出すときに合流しよう。みんなで揃って説明に行けば、きっと町の偉い人たちも動くはずだ」
そう言って、ヒカルは簡易レインコートを羽織り、雨の夜へ出て行く。軒先の街灯が雷雨で揺れ、まるで幽玄な青い光が路地に浮かんでいるように見えた。
マキは店の奥へとエリカを連れ、かつてのように床へ座布団や寝袋を用意する。狭いスペースだが、エリカは歯車を失わないよう、きょうもバッグを手近に置き、抱きしめるようにして横になる。
(ここが最前線だ……外部企業やあの男がどう動こうと、わたしたちは封印を守り抜く。星の夜まで、あとほんの数日——)
12. 雨音と雷鳴の夜
夜が深まるにつれ、雷が段々と近づいてくるように感じられる。轟音が空を引き裂き、激しい雨が屋根を叩くたびに、店のガラス戸がびりびりと震える。
エリカとマキは恐怖と疲れで言葉少なに過ごし、簡単な食事を済ませて毛布にくるまった。こんな嵐の夜、外に出る者などいるのかと思えば、あの男や企業の手先が奇襲をかける可能性もゼロではない……。
互いの存在を確かめ合うように寝返りを打つが、うまく眠れない。まるで町全体が「変化の時」を迎えていると告げるように、この雷雨は休む気配を見せない。
不意に、電灯がちらつき、店内が一瞬だけ真っ暗になる。二人が息を詰めたまま固まっていると、数秒後に電気が復活し、ほっと安堵の息をつく。しかし、この雷雨で停電が起こっても不思議はないし、闇に紛れてあの男が侵入してくるシナリオすら頭をよぎる。
13. 微睡(まどろ)みの中で
どうにかこうにか夜も更け、嵐がやや遠のいたころ、エリカは瞼(まぶた)の重みに負けて浅い眠りへ落ち始める。隣の寝袋にいるマキもまた、戸の軋(きし)む音に怯(おび)えながらも疲労で意識が遠のいていく。
雷の残響が低く鳴り、雨音がリズムを刻む店内。歯車の冷たさを感じながら、エリカは祖父のノートの一節を思い出す——「星の音は嵐の後にこそ鮮烈になる」という言葉だ。
(こんな夜の後に、本当に星の音が降り注ぐとしたら……その光景は一体どれだけ美しいのだろう)
薄暗い店の奥、軋むシャッター、時折閃(ひらめ)く雷光が外を白く照らす。世界が一時停止したような不思議な静寂が、二人を包み込み、やがて眠りへと誘(いざな)う。外では確かに誰かの気配がした気もするが、もはや確かめる気力すら残されていない。
夜が深まるほど、星の夜は近づく。崩壊か、それとも奇跡の響きか。歯車の回転音が脳裏で響くような幻聴を感じながら、エリカはまた一つ夜を越えていく。誰もが眠る町の暗闇の下で、封印と欲望が衝突する“決戦”はまもなく——雨の夜にそれを感じとりながら、二人は小さな店で揺れる微睡の海に身を委ねていた。
第二十八章 揺れる迷いと小さな覚悟
嵐の夜を雑貨店で過ごしたエリカとマキは、翌朝、またしても厚い雲の垂れ込める空を見上げながら目を覚ました。夜中まで雷鳴がとどろき、家の軋(きし)む音と恐怖心にさいなまれ、まともに眠った気がしない。それでも、あの男の奇襲はなく、企業の動きも表立った行動には至らず、なんとか静かな朝を迎える。
マキが軽くストレッチをしながら、雑貨店のシャッターを少しだけ上げる。濡れた路地に朝の薄い光が差し込むが、雲はまだ厚く、いつまた雨が降り出してもおかしくない気配だ。
「こんな毎日が続くなら、心臓に悪いよね……」
そうつぶやいて、マキは小さく笑う。エリカもふっと息をついて、鞄(かばん)を抱える。歯車は相変わらず冷たい金属の感触を保っているが、この持ち歩きにもいい加減疲弊がたまってくる。
1. 朝の連絡事項
そこへヒカルからメッセージが届く。
> 「おはよう。大学の研究者から少し追加の意見が来たよ。夕方にもらった資料を読み込んでくれたらしい。今日、町の防災課や建設課に持っていくかい?」
エリカは思わず「もちろん!」と即答する。これまで祖父のノートから紐解いた“星の音”と“地下空洞”の危険性を、もう少し科学的に示せるなら、町の関係者も耳を貸してくれるかもしれない。あの企業が正面ルートの整備を急がせても、「地下の仕掛けを安易に壊さないで」と牽制(けんせい)できるはずだ。
「じゃあ、朝のうちに店を少し回して、昼前にはわたしも役場に行くよ。エリカさんはヒカルと先に行ってて構わないから。大切な説明だし、うちの事情も公表する前にしっかり準備しなくちゃ」
マキは簡単な朝食を済ませながら、そう提案する。エリカも理解し、急いで雑貨店のバックヤードで顔を洗って身支度を整える。今日がこの町にとって大きな転機になるかもしれないという予感が胸を高鳴らせる。
2. ヒカルとの待ち合わせ
エリカは雨支度をしながら雑貨店を出て、商店街の一角にある喫茶店「海鳴(うみなり)」へ向かった。ここはいつも三人が落ち合う定番の場所だ。
しとしとと小雨が降る中、傘を差して店に入ると、窓際の席にヒカルが先に着いていた。ノートパソコンを開き、研究者からのメールを確認しているようだ。
「やあ、エリカさん。ちょうど今、メールを読み終えたところ。地殻共鳴や潮汐との関連をもう少し具体的に示すと説得力が増すって書いてある」
ヒカルは画面をエリカに見せながら話す。どうやら専門家は「“音響”と“地質構造”を結びつける理論は面白いが、実測データがないと断定はできない」としている。だが、防災リスクを論じるには十分な仮説を示せるというのだ。
「町の人を納得させるには、“地下の空洞が潮汐や大気振動を増幅する可能性が高い”と言うだけでも、むやみに開発を急がないよう警戒を促せるかも……」
エリカは胸を弾ませつつ、ふと鞄に触れる。歯車の存在をどう説明するかが課題だが、それはあくまで“具体的な仕掛けの一部”として、公式には曖昧に留めるしかないかもしれない。きちんと町が調査班を編成してくれない限り、封印をむやみに公表すれば逆効果にもなりうるからだ。
3. 朝の役場への再訪
コーヒーを一気に飲み干し、ヒカルとエリカは再び町役場へ向かう。建設課や防災課の職員がちょうど出勤しはじめている時間帯を狙ったのだ。
ロビーで待ち構えていると、担当の三浦(みうら)係長の姿が見えた。声をかけると、彼は二人を応接スペースに案内してくれた。「お二人さん、また何か新しい情報?」と笑いながら席につく。
エリカは祖父のノートのコピーと、研究者からのメールを印刷したものを差し出す。そして「灯台の地下に潜り戸(せんこ)があって、特定の潮汐や気圧状況で共鳴しやすい」という仮説を分かりやすく説明した。さらにヒカルが民俗学的な資料を補足し、「昔からこの町に“星の夜”や“封印”の伝承がある理由は、科学と伝承が交錯しているためではないか」と論じる。
「なるほどねぇ……」
三浦係長は何度か唸(うな)り声を上げるが、いまのところ否定的な反応は見せず、真剣にメモを取っている。
4. 企業の視線
そこへ防災課の職員が通りかかり、「あ、ちょうどいいところに企業の方が来てますよ。先日もお会いしましたよね?」と声をかけてくる。
ヒカルとエリカは一瞬嫌な予感に襲われる。案の定、廊下を見やるとスーツ姿の男女が二人、こちらを注視している。中には見覚えのある男もいる。短く会釈をすると、彼らは挨拶もそこそこに防災課の奥へ進んでいった。
「彼ら、表のルート整備の提案を具体化してきてるらしい。町がこれを受け入れると、崖の土砂撤去から灯台正面の道を拡張して、簡易観光ルートを作るとか……」
エリカは悪寒を感じながら、「まずい、そうなれば実質的に灯台へのアクセスが許可される。同時に彼らが“地下”を自由に調べてしまうかも……」と思う。
5. 歯車をめぐる駆け引き
一方、三浦係長は「外部資本の導入は町にとってメリットもあるんですよ。ただ、その前に“地下の危険”をはっきりさせないと、工事で大事故になるかもしれないし……。あんたらの説明は説得力あるから、もう少し補強できれば、町としても“急ぎすぎない”という判断がしやすくなる」と言う。
つまり、今回の資料と仮説が公式に認められれば、企業がすぐに工事を始めるのを阻止できるかもしれない。
「わたしたち、さらにデータをまとめてきます。あくまで“封印”とか“歯車”ってワードをオカルト扱いされないよう、科学的視点を強化したいので……」
エリカがそう訴えると、係長は「期待してるよ」と励ます。「町長や議会にも少しでも根拠を示せれば、慎重路線を採りやすくなるからね」と。
6. マキの思い
ひとまず今日の面談を終え、エリカとヒカルはロビーへ戻る。ちょうどマキが店を早退して駆けつけたようで、三人が顔を合わせる。
「どうだった? 町は慎重に動いてくれそう?」
マキが息を切らしながら問いかける。エリカとヒカルは短く結果を伝える。「もう少し科学的裏付けを出せば、開発を急ぐのを止められるかもしれない」という感じだ。
マキは微笑みつつも苦しげな表情。「でも、本当に間に合うかな……。あの企業や男が強引にルートを開通させたら、私たちが“歯車”を持ってても、結局守りきれないんじゃ……」
エリカはその肩を支えるように手を置く。「大丈夫、がんばろう。庄司家の記録も、今回の資料も、きっと町の人を納得させられる。でも時間がないのは事実……」
7. 神社での祈り
役場を出た三人は、前にヒカルが興味を示した古い神社を訪ねる。かつて海神(わだつみ)を祀(まつ)っていたという伝承がある場所だ。参道を登ると、昼なお暗い木立の中に、小さな社(やしろ)がひっそりと佇(たたず)んでいる。
社務所に挨拶すると、神主はいないらしく留守のようだったが、掃除をしていた年配の女性が「どうぞ自由にお参りください」と声をかける。マキは胸中で「どうか封印が守られますように」と祈り、エリカとヒカルも無言で手を合わせる。
風が木々を揺らし、潮の香りが混じった冷たい空気が境内を通り抜ける。星は見えない昼間の空だが、ペルセウス座流星群の夜が近づいているのを感じずにはいられない。
8. 遠くからの視線
祈りを終え、鳥居(とりい)の前で三人が立ち話をしていると、またしても視線を感じる瞬間があった。参道の奥に誰かが隠れているような気配——だが、いざ見ると誰もいない。
「……もう勘弁してほしいね。ずっと見張られてる気がする」
ヒカルが苦笑するが、エリカとマキも笑い返す気にはなれない。背後にあの男の影が常につきまとっているかもしれない——そして企業の人間も町のあちこちで情報を集めているのだろう。
だが、いまは恐れて立ち止まっている余裕はない。三人はそれぞれの役割をこなし、歯車と封印をどうにか守りきる道を探るしかないのだ。この町に星の音が降り注ぐ夜、潜り戸(せんこ)の扉を誤って壊されればすべてが終わるかもしれない。
9. 滲む星、隠れる雲
午後も終わりに近づくころ、ようやく雲がわずかに切れ始め、夕方には青空が見えはじめた。こんなに変わりやすい天候が続くと、気持ちの上でも乱されてしまう。
ヒカルは学校へ一時戻り、エリカとマキは雑貨店に戻って夕方の仕事を済ませる。そこへ消防団の団長から連絡が入る。「あの外部企業が、明日から正面ルートの下見を始めるらしい。漁協も関わる形で、あくまで“準備段階”って名目だが、事実上の工事計画の下見だろう」とのこと。
エリカたちは急いで役場に追加の資料を明日朝イチで提出し、工事を急がないよう要請するしかない。いよいよ時間との戦いになってきた。
「明日までに、なんとか資料を仕上げる。今日の夜はもう寝ずにがんばるつもり……」
エリカは決意を込めて言う。マキも「わたしも協力する」と同調し、雑貨店の奥でパソコンやプリンターを使った“徹夜作業”の準備を始める。
10. 夜の訪れ、そして……
日が暮れたころ、店を閉めると、二人は奥のスペースで資料作成に着手する。エリカは祖父のノートの数式を一つひとつ読み解きつつ、歯車の構造図を描き起こす。マキは庄司家の古文書を読み返し、潜り戸と歯車の関係を示す伝承を探し、簡単なまとめを書き上げる。
夜風が窓をかすかに揺らしながら、星の夜へのカウントダウンを感じさせる。先ほどまでの雨が嘘のように上がり、夜空の一部が見えてきた。おそらく雲が全て散れば、流星群の一部が顔を見せるかもしれない。
(あと数日……。もうすぐペルセウス座流星群のピーク。この町に大きな激変が訪れるはず)
エリカは筆を走らせながらそう確信する。霧が晴れるように、町の状況も一気に動くだろう。“封印”が守られるか、破壊されるか、それとも自分たちが正しく開放するか——結末は刻々と迫っている。
雑貨店の奥で、深夜にかけての孤独な戦いが始まる。外では風が少しずつ冷たくなり、どこか遠くの空で星が滲(にじ)むように光り始めている。足音がしない静寂に包まれた店内で、二人はペンとキーボードを駆使し、町の未来を守るための資料を作成するのだ。
闇が深まるほど、星の音の夜が近づく——そんな予感が、息苦しいほどの胸の高鳴りを伴ってエリカの心を揺さぶっていた。次に夜が明ければ、企業も町も動き出し、あの男がどう出るかは分からない。だが、今は目の前の作業に集中し、やれるだけのことをやるしかないのだ。
第二十九章 夜明け前の駆け引き
雑貨店の薄暗いバックルームに籠(こも)って、エリカとマキは朝方まで資料作成に没頭した。歯車の構造を示す図解や祖父のノートの理論的根拠、そして庄司(しょうじ)家の民俗的伝承を織り交ぜ、町の人々にも理解しやすい形でまとめる。それは一種の“最終アピール”といってもよい内容だった。
(あの企業が灯台への正面ルートを開通させようとしている。もし何も言わなければ、一気に地下を掘り起こされ、封印が壊されるかもしれない。でも、こちらが“正しい危険性”を示せば、町もそう簡単には動かないはず……)
そんな思いを胸に、エリカはキーボードを叩き続ける。マキも眠気を振り払いつつ、「庄司家が守ってきたもの」を、なるべく“科学と伝承の融合”という形で伝えられるよう言葉を整える。夜が深まるとともに、外の雨は止み、代わりに厚い雲が町を覆っている。星は見えないが、ペルセウス座流星群のピークが近づいているという焦りを、二人とも肌で感じていた。
1. 朝の足音
夜明け前、ようやくひと段落ついたころ、二人はどっと疲労感に襲われた。時間は午前4時を回っている。いつの間にか雨上がりの路地から風の音が入り込み、店のシャッターが微かに揺れる。
「これで……とりあえず一通り、町に示す資料はできたね」
マキが大きく伸びをしながらファイルをぱたんと閉じる。エリカはまだPDF化の作業を進めており、祖父のノートの一部抜粋や写真を貼り付けた原稿を確認している。
「うん、あとはヒカルと合流して最終チェックしてから、役場の防災課や建設課に提出しよう。少しでも“封印”を乱暴に扱わないよう警告できれば……」
雑貨店の奥に仮眠スペースを作ってあったが、結局一時間ほどしか寝ないまま朝を迎えようとしている。外が白んでくる気配がすると、廊下の隅で寝入っていた気怠さが一気に襲ってきた。
2. 早朝のメール
そろそろ眠ろうか、というタイミングでエリカのスマホが振動する。画面を見ると、またしても「差出人不明」のアドレス。二人で顔を見合わせ、嫌な緊張が走る。
> 「焦って資料を作っても遅い。星の夜までに歯車を渡さないなら、潜り戸(せんこ)を無理やり開けるだけだ。そっちが危険を放置するなら、こっちにも手段がある。」
読むだけで寒気が走るような文面に、マキは思わず震えた声を出す。
「…何これ。やっぱり、あの男と企業が繋がってるのかな。“無理やり開ける”って……」
エリカも怒りと恐怖で息を呑む。このままでは、どれだけ町に資料を提示しても、相手が強行突破すれば封印は危うい。
「でも、歯車がないと潜り戸は簡単には開かないはずだよね? 崩落の危険を冒してまで無理に壊すなんて、自殺行為じゃ……」
マキの問いに、エリカは神経を尖らせる。
(あの男なら、そんな自滅覚悟の行動もやりかねない……“星の音”と封印が欲しければ、町を巻き込むリスクなど顧みないかもしれない)
3. 朝の商店街を歩く
翌朝、少しだけ仮眠した二人は、午前7時ごろから開店準備を簡単に済ませ、雑貨店に「すぐ戻ります」の札をかけて外に出た。ヒカルとの待ち合わせまで時間はあるが、いまのうちに道の様子や町の雰囲気を確かめたかったのだ。
商店街には朝の買い物客がぽつぽつおり、魚屋や八百屋が店先を準備している。雨は上がったが重い雲は健在で、どんよりとした空が商店街の朝を暗くしていた。
エリカとマキが裏路地を回っていると、見覚えのあるスーツ姿の企業関係者が二人、地元の店主らしき人物と談笑しているのを目撃する。どうやら観光開発のチラシを配り、積極的に意見を聞いているようだ。
「…このままだと、町のみんなが“灯台は有望な観光資源だから、開発賛成”って流れになる可能性もあるね」
マキが不安そうにつぶやき、エリカは拳を握る。
「だけど、いずれ町の防災課や関係部署が“危険性が高い”って公式見解を出せば、急いで壊したりはできないはず。……それまでにあの男が潜り込まないよう、歯車を絶対に守らないと」
4. ヒカルとの合流
商店街のカフェ「海鳴(うみなり)」に入ると、ヒカルが先に席を取って待っていた。机の上には分厚い資料が積まれており、昨夜ヒカルも遅くまで作業していたらしい。
「おはよう。二人とも顔色が……大丈夫? 徹夜?」
「うん、もうフラフラだよ。でも資料はだいたい形になった。」
エリカが疲れた笑みを浮かべつつ腰を下ろす。三人で飲み物を注文し、役場への提出資料を最終チェックする。
ヒカルは関係者へのメール連絡を確認しながら、「きょう午後には、企業と町の意見交換があるみたい。もし準備が整えば、そこで“地下の危険”を公にして、開発を急がないよう働きかけができるかも」と言う。
その一方で、あの男の動きは読めない。メールで脅しをかけてきたように、守りきれないと見れば“星の夜”を待たずして強行する可能性もあるのだ。
5. すれ違う影
カフェで打ち合わせを終え、三人が外へ出たとき、通りの反対側に“背の高い男”らしきシルエットがちらりと見えた気がした。黒いジャケットを羽織り、こっちに目を向けたまま通りの角に身を隠すように消える。
マキは息を呑(の)むが、エリカとヒカルが気づいたときにはもう姿は見えない。
「……あいつ、まだ町にいるんだ」
ヒカルが低い声で言う。エリカは歯車が入った鞄を握りしめ、「絶対に渡さない」と胸中で叫ぶ。
6. 役場への“決戦”
朝のうちに、三人は役場へ向かう。ちょうど建設課や防災課の職員が出勤し終えたころで、運よく三浦(みうら)係長にもすぐ会えた。先日提出した資料の改訂版を手渡すと、彼は「早かったねぇ……徹夜?」と苦笑しつつ、熱心に目を通し始めた。
新たに加わった研究者の見解や、地殻共鳴の模式図などを確認するうち、彼の顔が真剣味を増していく。
「これは……たしかに興味深い。もし本当に地下に空洞があって、潮汐と気圧が重なれば共鳴を起こす可能性があるってことか」
係長は書類を捲(めく)りつつ、「企業や外部の連中が、ここを強引に掘り進めようとすれば、崩落や水没が起こりえる……そう書いてあるね?」と確認してくる。エリカは力強く頷(うな)ずく。
「そうです。まだ仮説段階ではありますが、充分な調査なしに破壊的な工事をすれば、大事故になる可能性が高い。……だから急ぎすぎないでほしいんです」
ちょうどそのとき、廊下のほうから外部企業のスーツ姿の人影が何人か通りがかり、エリカたちを一瞥(いちべつ)して冷たい笑みを浮かべるのが見えた。どうやら彼らも同じタイミングで“三浦係長や町の主導部”に会おうとしているようだ。
7. 町会議室での意見交換
ほどなくして町の防災課長や建設課の数名も交え、急遽(きゅうきょ)簡単な意見交換会が開かれる運びになった。企業側は「町の財政難を救うために、灯台周辺を早期に観光整備する」「専門家を呼んで地下を調査し、安全ならば速やかに掘削(くっさく)する」と豪語する。
一方、エリカたちは今回の資料を提示し、「危険がある以上、まずは地盤調査など慎重に進めるべき」「星の夜や潮汐が重なる刻(とき)には特殊な現象が起こる可能性が高く、作業を強行すべきでない」と強調。
ヒカルとマキも地元の伝承や庄司家の歴史を絡めて話すが、企業側は「封印など過去の噂に振り回されてはいけない」と冷笑気味だ。
しかし、三浦係長や防災課長らはエリカたちの資料をそれなりに評価しており、「科学的にも仮説を無視できない」「とりあえず地質学者を招き、現地調査をするまでは大規模工事を避ける」といった結論に落ち着きそうな雰囲気となる。企業側も「承知しました」とは答えつつ、どこか不満げな表情を隠そうとしない。
8. 不穏な宣言
会合を終えて三人が帰ろうとすると、廊下で企業の中年男性に呼び止められた。先日も顔を合わせた人物だ。彼は静かに声を落として言う。
「“星の夜と潮汐”の仮説……まあロマンがあるけど、町が乗り気にならなければ我々も動きづらい。とはいえ、灯台周辺を早めに整備するのは既定路線ですよ。小規模なら、実際の許可を得ずとも可能ですから」
エリカは背筋が冷たくなる。小規模な工事——つまり正面ルートの部分的開通ぐらいなら、町の承諾なしでもやれるということか。防災課が反対しても、法的抜け道で進めるのかもしれない。
「お嬢さんたちがいくら抵抗しても、あと数日でお膳立てが整うんじゃないですかね。星の夜までにね……」
男はそう呟(つぶや)くと、廊下の向こうで待つ部下らしき人物と合流し、足早に立ち去った。確信犯的な微笑みは、まるで時間制限付きの勝負で勝利を確信しているかのようだ。
9. 三人の決意
役場を出てすぐ、マキとヒカルは悔しそうに息を吐く。エリカは言葉に詰まりながらも、「でも、今日の会合で町は“拙速な工事は避ける”って言った。防災課長も“まずはきちんと地質学者を呼ぶ”って明言した。だから、そう簡単には進まないよ」と励ます。
しかし、企業やあの男が裏工作を仕掛ける可能性は拭えない。ヒカルはスマホを握りしめ、「消防団や漁協にも情報を共有しよう。もし勝手に重機や工事が来たら、通報してもらうよう頼む」と言い出す。マキも同調し、「わたしが雑貨店にいないときは、誰かに見回りしてもらえないかな」と考えを口にする。
「星の夜まで、あと数日。潜り戸(せんこ)は歯車なしでは簡単に開かないはずだけど、強引に爆破や掘削(くっさく)されるかもしれない……。それだけは絶対に阻止しないと」
エリカの言葉に、二人も力強く頷(うな)ずく。
10. 遠ざかる雨雲、そして……
午後になり、天気が嘘のように回復してきた。重苦しかった雲が裂けて青空がのぞき、日差しが商店街の路地に降り注ぐ。さっきまで暗かった町が一気に明るさを取り戻すようだ。
だが、三人の胸にある暗雲は晴れない。封印を守ろうという彼らと、開発や“星の音”を狙う外部勢力との争いは、いよいよ激化の様相を呈している。
「これで今日から工事の下見が始まるんなら、明日にでも何か重大な動きがあるかもしれない。わたしたちはどうする?」
マキが焦燥(しょうそう)気味に問いかけると、エリカは「今夜、雑貨店にまた泊めてもらうよ。歯車を持ち歩くのはまだ怖いし……」と答える。ヒカルも「僕も可能なかぎり夜に見回りするよ」と言う。
彼らが商店街を歩いていると、いくつかの店先で「灯台観光化」を歓迎する声を耳にした。だが、一方で「どうせ崖崩れの危険があるんだから、無理に開発すべきじゃない」という声も聞こえ、町の中でも意見が割れているようだ。
11. 雑貨店の夕暮れ
夕刻になると、三人は自然とマキの雑貨店に戻り、奥のテーブルで再び顔を突き合わせる。歯車や資料を確認し、各方面への連絡をチェックするが、明確な好転は見えない。一方、企業やあの男からの新たな動きもまだ報告されず、沈黙の戦いが続いている。
「明日になれば、企業の下見がどう進むか分かるね。もし重機が導入されるようなら、すぐに防災課や消防団が止めてくれると信じたいけど……」
ヒカルが疲れた笑みを浮かべる。マキもエリカも祈るような気持ちで、バッグに手を当てて歯車を確かめる。
外では再び雲が広がり、今度は夕立の可能性がある。空はまばらな赤い光に染まり、どこか幻想的な風景を醸し出している。星は隠れて見えないが、その向こうにはペルセウス座流星群の夜が近づいているのだ。
12. 闇の向こうの足音
夜になると、再び雑貨店はシャッターを閉め、三人は簡易的な夕食をとる。ヒカルはこのまま泊まり込むか迷うが、「家族に心配かけたくないから、今日は帰るよ」と言う。
「でも、夜に見回りするって言ってなかった?」とエリカが心配するが、ヒカルは「店の近くをぐるっと回るぐらいならできる。もし連絡があればすぐ駆けつけるよ」と笑う。
エリカとマキは二人で店を守り、あの男の襲来を警戒する。しかし、不気味なくらい静かな夜が続く。足音も、カタカタというシャッターの音さえ抑えられたかのようだ。
深夜零時を回っても何も起こらず、気づけば二人はうとうとと居眠りしている。バッグに歯車をしまい込み、祖父のノートを手元に置いたまま、疲れ果てて眠りへ落ちていく。
13. 夜明け前、空を見上げて
ふとマキが耳慣れない物音で目を覚ましたのは、明け方近くだった。シャッターの軋(きし)む音か、外を行き過ぎるトラックの音か、判断がつかない。エリカも目を覚まし、「なに……」とつぶやいて起き上がる。
しかし、外はしんと静まり返っている。夜が明ける前の深い闇、どこかで鳥が一声さえずったようにも感じるが、空は雲に覆われて星も見えない。
「……気のせい、かな」
再び二人で身構えたが、ほどなく何も起こらないと分かり、胸を撫(な)で下ろす。ふと時計を見ると朝の4時半。もう少しで夜が明け、企業や町の動きが始まる。
星の夜まで、ほんの数日。次に夜が訪れる頃には、正面ルートの工事が本格化するかもしれないし、あの男が星の夜を狙って潜り戸(せんこ)に突入するかもしれない。あらゆる可能性がシビアな時間軸をもってエリカたちを追いつめる。
「今日こそ、町全体がどう動くかが分かるはず……頑張ろう」
エリカはマキに向かって微笑み、「歯車は絶対渡さない。わたしたちで正しい道を示す」と宣言する。マキも弱々しく微笑み、「そうね、がんばろう……」と返す。
またしても夜が明けてしまう。潜り戸と星の音が宿る、あの灯台の地下に眠る封印は、いつ壊されるか分からない瀬戸際だ。けれども、二人の心には今、わずかな前進の手応えがある。町役場や防災課に示した資料が効果を発揮してくれれば、開発が拙速に進むのを防げるかもしれない。
暗闇の先から微かな朝焼けが覗(のぞ)き、雑貨店のシャッターに細い光の筋が差し込む。二人は隣り合わせでその光を見つめながら、祖父のノートと歯車を抱きしめる。星の夜——そして潜り戸の行方をめぐる攻防戦は最終章へ向けて急転直下で加速しつつあった。
第三十章 はじまりの合図
歯車と古文書と──朝焼けのわずかな光を見つめながら、エリカとマキは、昨夜まで続いていた激しい雨の湿気を肌に感じ取っていた。多くの眠れぬ夜を経て、もはや疲労は極限に近づいていたが、二人の目は鋭く、意志の光を宿している。星の夜まで、ほんの数日。あの灯台と「潜り戸(せんこ)」をめぐる闘いは、いよいよ最終局面へなだれ込もうとしていた。
1. 朝の決起
雑貨店の奥で夜を明かした二人。簡単に顔を洗い、シャッターを半分だけ上げると、商店街の路地には薄い朝の色がにじみ出している。太陽は雲に隠れて見えないが、昨日までの荒れ模様がほんの少しだけ収まっている気がする。
「今日こそ、企業の下見が本格化するはずだよね」
マキが目をこするようにしてつぶやく。眠気よりも心配が勝っているようで、声にかすかな震えが混じる。
「うん。町は“仮工事を急ぐな”って言っているけど、相手がどう出るか分からない。少しでも隙を見せたら、あの男が潜り戸に突撃するかもしれない」
エリカは鞄(かばん)の中で歯車の冷たさを確かめ、深く息をつく。一連の脅迫メールが頭をよぎるが、今さら怖気(おじ)づいても仕方がない。
開店準備を済ませたところで、ヒカルから連絡が入った。「今から役場に顔を出す。もし急な動きがあればそちらに知らせる」とのこと。三人は引き続き別行動で町の動向を探り、必要ならすぐ合流する方針だ。
2. 朝の動揺
ところが、店を開いてまもなく、マキのスマホに消防団長から電話が入った。団長いわく「外部企業の作業員らしき人が、すでに正面ルートの崖付近に資材を運び込みはじめたらしい。町の許可はまだなのに、“先行準備”と称して重機を搬入する気配がある」とのことだ。
「えっ……もう?」
マキが驚きの声を上げる横で、エリカも思わず息をのむ。もし本格的に工事の準備が始まれば、現場が一気に混乱し、封印の存在など軽視されかねない。
「団長さんは止めに行ってくれるの?」
マキの問いに、電話越しに「一応は行くけど、あっちも“まだ正式な工事じゃない”と言い張るだろうし……。とにかく急いで現地へ確認してくれないか?」と声が響く。
エリカとマキは顔を見合わせ、「行こう」と即断する。雑貨店のシャッターを閉じ、バッグに歯車を入れたまま、急いで坂を下りていく。
3. 正面ルートの様相
灯台へ通じる正面ルートは、これまで土砂崩れや老朽化のため大掛かりな整備がされておらず、事実上封鎖状態に近かった。しかし、町外れのほうから道を回り込めば、壊れかけた舗装路が灯台の手前まで伸びている。
エリカとマキが急ぎ向かうと、見慣れぬトラックが停まり、ヘルメットをかぶった作業員らしき数名が資材を下ろしていた。まだ本格的な工事というより、軽い下見の延長なのかもしれない。だが、その一角には“あの男”とよく似た背の高いシルエットも見受けられる。
「……あそこにいるの、あの男じゃない?」
マキが息を飲む。遠目では確信はないが、その立ち姿や服装が似通っている。
近づこうとすると、企業のスーツ姿の人物が二人、制止するように手を広げてきた。
「申し訳ありません、ここは私有地と町の境界部になりますので、立ち入りはご遠慮いただいてます。工事の正式許可待ちではありますが、先行して安全確認をしている段階です」
言い草は丁寧だが、その態度には明らかな“排除”の意図が感じられる。エリカはふつふつと怒りを覚えながら、「この場所は町の管理下であって、勝手に入らないでほしい」と抗議する。
「町の防災課が“慎重に”と言ってるのに、どうしてこんな時間に搬入してるんですか?」
すると相手は「いやいや、あくまで調査の準備ですよ。重機もまだ動かしていません。ただこの程度の先行作業は規定の範囲内です」と返す。
(規定の“範囲内”……? まるで穴を突いてくるような言い方)
4. 不安と対峙
砂利道の先を見やると、重機こそないが、シンプルな工具類やロープが搬入されているのが見える。道の先には有刺鉄線で覆われていたはずの柵が、すでに半分ほど外されている。
(これって、実質的に“道をこじ開けている”のと同じじゃない……)
エリカは歯がゆさに胸をかきむしられる思いだ。マキも追いすがるように「勝手に柵を外すなんておかしいです!」と声を上げるが、企業側の人間は「正式な工事開始ではありませんよ」と一点張り。
そうして押し問答していると、遠くの岩陰から背の高い男らしき影が一瞬こちらを睨(にら)んだ気がしたが、すぐに視界から消える。エリカは鳥肌が立ち、「あいつもいる……」とマキに伝えると、マキは不安を隠しきれない。
5. 消えた骨董店主
そこへ消防団の団長がやってきて、企業側と口論を始める。エリカとマキも団長を支援しながら「まずは町の許可を得てからにしてくれ」と要求する。
すると、企業の一人が「先行調査は町から口頭で認められている」と言い始め、話がこじれそうに。だが、どこまでが真実か分からない。こんな状況で工事を止める権限を団長も持っていない。
エリカは悔しさに唇を噛(か)み、カシワギ老人に連絡してみようかと思いつく。あの老人は祖父の足跡を知り、この町の歴史も深く理解している。実際に現場に姿を見せてくれれば、発言力を発揮してくれるかもしれない。
スマホを操作するが、カシワギ老人とはつながらない。留守電になってしまう。マキも同じく連絡が取れず、団長も「そういえば老人を最近見かけないな……」と首をかしげる。
(まさか、あの男に何かされた? いや、考えすぎだ……)
エリカは焦燥感を否めないまま、足下の砂利を踏みしめる。歯車はバッグの中で冷たい金属の質感を保っているが、それが今はやけに頼りなく感じられる。
6. 転がる石、崩れゆく時間
午前中はこの押し問答で過ぎていく。企業側は「明日にも町の担当を交えて本格的な下見をする」と言い、エリカたちは「待ってほしい」と食い下がるだけで成果はない。
やがて雨雲がまた押し寄せ、ぽつぽつと降り始めたころ、作業員たちは「今日はこれくらいで」と撤収していく。正面ルートの柵は半分外されたまま、道も資材が散乱している。
エリカとマキがため息をついて視線を交わしていると、遠くの海岸からガラガラと石が転がるような音が聞こえた気がする。大きな崩落ではないにしても、地盤の不安定が進んでいる証拠かもしれない。
「危ない……これ、星の夜までに一気に崩れる可能性もあるんじゃないかな。そしたら灯台の基部まで工事なんて夢のまた夢なのに……」
だが、その危険を顧みずに外部勢力が突破しようとしているのが、何より恐ろしい。星の夜に潜り込めば、潜り戸(せんこ)を破壊してもおかしくない。エリカは業を煮やし、「もう町に正面ルート自体の即時封鎖を求めるしかない」と声を震わせる。
7. 打ち合わせと決戦の予感
正午を過ぎ、三人は再度雑貨店に戻って状況をすり合わせる。ヒカルも合流し、企業や町の様子を共有した結果、以下の方針を確認した。
1. 町への働きかけ強化: 「地下空洞の危険」をさらに大々的にアピールし、正面ルートの封鎖や工事中止を求める嘆願を出す。ヒカルが町内会や消防団を巻き込み、署名活動も検討する。
2. カシワギ老人の行方: この数日まったく連絡が取れない。あの男に何らかの干渉を受けた可能性もあるが、他の理由も考えられる。とにかく捜索や周囲の聞き込みをしてみる。
3. 星の夜の守り: 封印を守るには、歯車を正しい手順で扱うしかない。万が一、潜り戸を壊されそうになったら、三人で先に扉を制御する以外に方法はない。
もう時間は残されていない。星の夜まで数日しかなく、企業の下見は明日から本格化する。あの男が星の夜を狙って力ずくで潜り込む可能性も大きい。
「……となると、もう本当に最終決戦が近いね」
マキが震えを含む口調で言う。エリカはバッグの奥に潜む歯車を撫(な)で、「どんな形になっても、わたしたちが封印を守り、正しい道を開くしかない」と決意を固める。
8. 夕焼けの色
不穏な一日が過ぎゆき、夕刻になると、意外にも雲が晴れかけている。西の空が朱(あか)く染まり、町を幻想的な色合いに包んでいる。雨続きの日々の合間に見える久々の夕焼けだ。
「きれい……こんな夕日、久しぶりかも」
エリカが雑貨店の前で呟(つぶや)くと、マキも「ほんとだね。嵐のあとって感じ」と微笑む。しかし、それも一時の安らぎに過ぎない。翌日以降の企業の動き、そして星の夜をどう乗り切るか考えると、楽しむ余裕はわずかだ。
ヒカルは「夕日を見ながら、こんな町の風景を守りたいと思うよ。工事でコンクリートが敷き詰められるなんて嫌だし、何より封印が壊されるのは絶対避けたい。……歯車をあの男に奪われる前に、何とか食い止めよう」と静かに言う。
9. 夜の風が運ぶもの
夜になれば、再び星は雲に隠れるかもしれない。だが、エリカは足が疲れていても、この夕焼けを少し味わっておきたい気分だった。何か大きな嵐が再び来る前に、町がほんの一瞬だけ平穏に見える。
マキは店じまいの準備をしながら、エリカとヒカルを呼ぶ。「夜もまた集まろう。きょうはいろいろやったし、もう少し落ち着いて作戦を詰めたい」と。歯車をどう扱うか、星の夜までの監視態勢はどうするか……議論は尽きない。
外を見やると、路地には人通りもあり、あの男の姿は見えない。企業の関係者もひとまず宿に戻っただろうか。ただ、いつまた足音が忍び寄るか分からないと思うと、やはり気が休まらない。
10. これまでの道程(みちのり)、そして……
夕焼け空が薄暮に溶け、町には街灯が灯り始める。三人が雑貨店のシャッターを閉め、奥で簡単な夕食を取ったあと、テーブルで肩を寄せ合うようにして今回のまとめを確認する。
- あす以降の予定: 企業が正面ルートの本格的な下見を行うと見られる。町の防災課は“まだ許可しない”と表明しているが、水面下では“部分的工事”が進むかもしれない。
- 歯車の管理: 相変わらずエリカがバッグに入れて持ち運ぶ。マキの店や祖母の家に置いておけば狙われるリスクが高い。
- カシワギ老人の行方: いまだ連絡がつかない。ヒカルが町内会のつてで情報を得ようとしているが、手がかりなし。
エリカはノートにペンを走らせながら、「ここ数週間で、随分いろんなことが起こったよね」と呟く。マキも「うん、このまま一気に決着になる予感がする。星の夜が来れば、町もあの男も、何らかの行動を起こさずにいられないはず……」とつぶやく。
11. 最終章への序曲
深夜、店の奥で簡易ベッドに横たわりながら、エリカは歯車を握りしめる。この町に星の音が降り注ぐ刻(とき)――祖父が夢見た瞬間は、もうすぐそこまで迫っている。だが、その先にあるのは奇跡か災厄か、いまだ誰にも分からない。
マキは仮眠を取りながらも、寝返りを打つたびに「街の人たちが少しでも理解してくれれば……」と漏らすように言葉をこぼす。ヒカルは防災課や消防団への連絡を入念にチェックするが、特に新情報はないようだ。
こんな日々がいつまで続くのか。それを終わらせるのは、ペルセウス座流星群の“星の夜”そのものかもしれない。星が鳴り、海鳴(うみな)りが響き、封印が揺れ動く刻が――もう、そこまで来ているのだと皆が知っている。
12. 闇に消える足音
午前2時近く、エリカとマキがうつらうつらと微睡(まどろ)んでいると、突然シャッターのほうで僅(わず)かな音がした。ガタン、と何かが当たるような音――あるいは金属の擦(す)れる音か。
「……何?」
マキが目を開け、エリカも飛び起きる。二人でシャッターに近づこうとすると、今度は何の音もせず静まりかえる。
「また猫とか鳥の仕業……じゃなさそうだよね」
エリカは鞄の歯車を握りしめながら緊張の面持ち。でも外へ出るのは危険すぎる。ヒカルは家に帰っているし、二人だけではどうにもならない。結局、しばらく待っても何も起こらず、先ほどの物音は闇に消えていく。
(やっぱり監視されているのか……あの男か、企業の下請けか……)
冷や汗が背筋を伝い、歯車がひやりと手のひらを冷やす。二人はほぼ眠れぬまま朝を迎えることになるのだった。
13. 迫る夜明け
翌朝、空は再び灰色の雲が漂い、風が少し強まっている。星の夜まで、もう残り数日。この町はそわそわした空気に包まれている。雑貨店のシャッターを上げると、路地には工事用の車が通るような轍(わだち)の跡が見え、何やら不吉な予感を増幅させる。
「今日こそ決定的な動きがあるかもしれない」
エリカがマキに語りかけると、マキもうなずきながら「わたし、もう覚悟してる。灯台の地下で何かが起こるなら、庄司家として“潜り戸(せんこ)”を正しく扱うしかない」と静かに瞳を引き締める。
鞄の奥に眠る歯車が、最終的な鍵となるのは間違いない。祖父のノートには「星の夜の波動こそ、歯車を正しく噛(か)み合わせる時」と書いてあった。もしそれが本当なら、あの男が星の夜を待つ理由も合点がいく。一方で、企業の強行工事が先に潜り戸を壊してしまう可能性も捨てきれない。
遠くの海鳴(うみな)りに似た低い音が響き、町の一日が始まろうとしている。星の夜まであとわずか。封印を守りつつ、その先にある“星の音”を迎えたいという切なる願いを抱え、三人は最後の戦いに臨む準備を進めていく。
どこかで雷鳴にも似た地響きが聞こえたような気がするが、それがただの想像か現実かは判然としない。海と空、そして灯台の地下が引き寄せ合う“運命の時”が、すぐそこまで近づいていた。
第三十一章 海鳴(うみな)りの呼ぶ夜
雑貨店の夜を明かす日々が続くなか、朝夕の肌寒さが加速するように、町の空気が日に日に落ち着かなくなっていた。企業が正面ルートの整備を進めようとし、あの男が潜り戸(せんこ)を狙っている気配は、もう誰の目にも明らかだ。だが、町の公式見解としては「慎重に」が掲げられながらも、実際には小規模な工事が進む可能性が高く、結局誰もが手をこまねいている状態と言える。
エリカとマキ、そしてヒカルは懸命に歯車と祖父のノート、庄司(しょうじ)家の古文書を駆使して町へ警鐘を鳴らすが、大半の人々は「本当にそんな危険が?」と半信半疑。むしろ「経済発展のチャンスじゃないか」と期待する声もあり、町全体が微妙に分断されつつあった。
星の夜まで、いよいよ残り数日。——その夜、“星の音”が鳴り響くのか、あるいは封印が破壊されてしまうのか。誰もが知らない巨大な岐路(きろ)に、町は立たされていた。
1. 町のざわめき
ある朝、ヒカルが学校の用事を終えて雑貨店へ駆け込んでくる。手にはタブレットを握りしめ、興奮気味に話し始めた。
「見てこれ、ネットのローカル掲示板でも“灯台の開発”が話題になってる。企業が“お試し観光ルート”みたいなプランを発表してるらしいよ」
画面には、「○○開発・葉空灯台周辺地域再生プロジェクト概要」と銘打たれた資料の一部が写っている。どうやらまだ公式リリースではないようだが、町の一部の人が拡散しているようだ。
マキは溜息(ためいき)混じりに、「なんだか、すでに工事を始める既成事実づくりをしてる感じだよね……」とこぼす。
エリカも肩を落としつつ、「防災課や建設課と話したばかりなのに、こんなに早く“観光ルートの計画”が流出するなんて」と呟(つぶや)く。まるで企業は町の反対派と対立しながらも、一気に既成事実を積み上げようとしているのかもしれない。
2. 玄関先に落ちていたメモ
ヒカルと話している途中、雑貨店のシャッターを半分だけ開けに行ったマキが、小さな紙切れを見つけて戻ってきた。そこには乱雑な文字で「潜り戸(せんこ)」「星の夜」「譲れぬ音」とだけ書かれている。差出人は不明で、まるで短い走り書きのよう。
「何これ……意味深じゃない?」
エリカが紙切れを見つめると、ヒカルが苦い顔で言う。
「“譲れぬ音”……。あの男か企業か、はたまたカシワギさんか。誰がこんな伝言を残したんだろう。いずれにせよ、“音”とは星の音を指すのかな」
マキは奥歯をかみしめながら「カシワギ老人は本当に姿を見せなくなった。あの人ならこんな謎めいた書き方をしそうだけど……こんな露骨に紙切れを残すかしら」と首を振る。誰か別の者が“星の夜”を意識してメッセージを寄越(よこ)したのかもしれない。
3. 動き出す重機
昼下がり、またしても消防団長から電話が入る。「企業が正面ルート周辺に重機を運び込んでいる。町の許可なしでは大掛かりな工事にはならないはずだが、事前の資材搬入をしている可能性がある」との報告だ。
「またか……」
マキは頭を抱え、エリカとヒカルも目を見合わせる。三人は雑貨店を閉めて急ぎ現場へ向かうことにするが、到着したときにはすでに企業の人々が引き揚げた後だった。残されたのは、土砂や資材を載せたパレットや、簡易的な作業小屋らしきものの設置痕(あと)。
「これはもう、明日にも本格的に“試験工事”を始めるんじゃない?」
ヒカルが呆然(ぼうぜん)と呟く。エリカの胸にも悪寒が走る。何度町が慎重にと言っても、企業側は“調査”や“試験”という名目でどんどん既成事実を積み重ねている。
(もし、あの男が裏で手を回して“封印”を破壊しようとしているなら……時間が本当にない)
4. カシワギ老人の痕跡
いったん雑貨店に戻ったあと、エリカは「やっぱりカシワギさんがいないと心細い」と考え、三人で骨董店を訪ねてみる。シャッターはしっかり閉じられ、ドアには「当面休業」と書かれた札が掛かっている。
近所に住むという人に尋ねても、「最近見かけないね。どこか仕入れにでも行ったのかな」と言うだけで、行き先を知らない。電話も繋がらず、店を覗(のぞ)いてみても物が散らかっている気配はなく、まるで長期間留守にしているような雰囲気だ。
「まさか、行方不明になってるとか……ないよね」
マキが不安げに顔を曇らせると、エリカは「まだ決めつけられない。仕入れや古物市の関係で、町を離れた可能性もあるし……」と自分を励ますように答える。しかし胸の底には、あの男が“星の音”の鍵を求めてカシワギ老人を襲ったかもしれないという、暗い予感が渦巻いていた。
5. 防災課の悲観
夕方近く、三人は役場の防災課を再度訪ねるも、担当者たちは「企業がこれ以上勝手な工事を進めないよう働きかけているが、あちらは“調査や安全確保”の名目を盾にしていて、今すぐ止める法的根拠が乏しい」と肩をすくめるばかり。
「町の議会や上層部も、“そこまで危険ならむしろ企業が調査して解決してくれる”と楽観してる人もいるんですよ」と防災課長は苦い表情を浮かべる。実際、町としても財政難を抱えており、外部資本を拒む余裕はないらしい。
エリカたちが歯がゆい思いで役場を出ると、外はまたしても雲が広がり、どこか雷鳴にも似た低い振動音が空にこだまする。日は沈みかけ、薄紫の空が町を静かに包んでいた。
「……星の音が聞こえる前に、すべて壊されちゃうんじゃないか」とヒカルが呟(つぶや)く。マキは「そんなの嫌……」と、か細い声で答える。
6. 夜の雑貨店、そして決意
夜になり、三人はまた雑貨店に集まり、対策を話し合う。寝不足が続いているが、気を緩められる状況ではない。このまま数日で“星の夜”が来る。そして企業の下見が進めば、あの男が封印を壊す絶好の機会を得ることになる。
「潜り戸を守るには、最終的にわたしたちが“正しく”扉を開くしかないのかもしれない。あの男が来る前に、星の夜のタイミングで歯車をセットして、安全に封印を解除し、町にも危険がないようにコントロールする……」
エリカが悲壮感を込めて言うと、マキも小さく頷(うな)ずく。
「おばあちゃんや庄司家の先祖が“星の夜の儀式”を守ってきたのは、こういう事態に備えてだったのかもしれないね。……わたしたちしか、もうどうにもできないってことかも」
ヒカルは歯を食いしばり、「もしそれが町を守る唯一の方法なら、僕も協力する。封印をただ壊されるくらいなら、自分たちで解き明かすしかないんだ」と言い切る。潜り戸を誤って開けば崩壊や水没の危険があると分かっているが、何もしないで企業やあの男の破壊を待つわけにもいかない。
7. 空を裂く流星群
話し合いが進む中、マキがふと店の奥の窓を開けて空を見やる。雲が薄まり、星がわずかに瞬(またた)いている。まだピークには早いが、もしかすると流星の一筋が見えるかもしれない——そんな期待を抱かせる夜空だ。
「星、見えるね……久しぶりに。明るい流れ星が一つでも流れたら、気分も変わるのに」
エリカは窓辺に寄り、「こんなに雲が多くても、流星群は近づいてるんだ」と胸が高鳴る。科学とロマンの交錯点を、祖父は追い求めていたのかもしれない。封印が解かれるとき、本当に“星の音”が鳴り響くのか……。
遠い空にかすかな閃(ひらめ)きが走った気がしたが、見間違いかもしれない。ヒカルは「いよいよだね。星の夜はもうすぐ」とつぶやき、三人は窓際で夜空を見つめながら、それぞれに決意を固める。
8. そして、朝が来る
深夜過ぎまで話し合った末、マキの雑貨店で再び夜を越すことになったエリカとヒカル。マキは店の奥で布団を出し、狭いながらも三人で仮眠をとる。ここが“最後の陣地”のようにも感じられる。
外では風が強く吹き、ひゅうという音が建物をかすめる。もし企業が本格的な工事を始めれば、朝イチから作業が再開されるかもしれない。あの男が星の夜までに歯車を奪いに来るかもしれない。誰一人深い眠りには落ちないまま、空が白み始めるころ、店内にかすかな期待と不安が入り混じる。
(もし明日も何も起こらなければ、星の夜がさらに近づくだけ……。わたしたちは守りきれるの?)
エリカはそんな問いを抱えながら、歯車の金属の感触を再確認する。まるで祖父の声が「最後まで諦めるな」と励ましているかのように思えた。
9. 夜明けの兆し
やがて外が少し明るくなり、鶏(にわとり)の鳴き声が遠くでかすかに聞こえる。雑貨店の奥でうとうとしていた三人は、まるで合図されたかのように目を開ける。
「……朝、か」
マキが寝ぼけた声を出し、エリカも「あれ、少し眠っちゃった」と起き上がる。ヒカルは背中を伸ばしながら、「うん……気を張ってても、結局意識飛んでた」と苦笑する。
立ち上がってシャッターを少し開けると、外には重たい雲の間から朝日が差し込んでいた。まだ薄暗く、路地は寝静まっているような静かさだ。
「よし……きょうは勝負だね。企業やあの男がどんな動きをするか、絶対見逃さない。もし町が危険になるなら、わたしたちで封印を解く覚悟もある」
エリカが気合いを入れると、マキとヒカルも「うん」と力強く応じる。星の夜が近い今、彼らに選択の余地はない。
10. はじまりの合図
ゴオッ、と遠くで風がうねる音がしたかと思うと、路地を突き抜ける突風が店先の看板を揺らす。まるで何かが合図を告げるかのように、軋(きし)む音が耳に響いた。
「……灯台のほうか、海鳴(うみな)りの音か、それともただの風か……」
マキが小さくつぶやく。エリカは鞄の中をそっと確かめ、歯車がどこにも行かないよう強く握りしめる。ヒカルは外を警戒するように覗(のぞ)き、店の外を行き交うわずかな人影をチェックしている。
夜が明け、町が動き出す——その瞬間こそ、外部勢力が一気に仕掛けてくる可能性がある。星の夜まであとわずか。運命の“最終章”に向けて、封印をめぐる対立は加速の一途をたどる。
何もかもが“今日”から本格的に動き出すような予感——まるで大洪水の前触れのように町全体が息をひそめ、静寂と嵐の狭間(はざま)に取り残されているようだ。しかしもう後戻りはできない。三人は互いに目を見合わせ、大きく頷(うな)ずいた。
海鳴りと星の音が呼び合う刻(とき)。歯車が正しい場所に嵌(は)まるのか、それとも破壊されてしまうのか。まもなく一つの答えが出るはずだ——。朝の薄明かりが差し込む雑貨店の床には、その戦いの結末を待つように、祖父のノートと庄司(しょうじ)家の古文書が静かに開かれたまま、未来を見据えて佇(たたず)んでいた。
第三十二章 潮騒の鳴る道
朝の薄光が差し込む雑貨店の奥、エリカとマキ、そしてヒカルは、やがて訪れる「星の夜」を前に気を張り詰めていた。企業が実質的に工事を強行しようとしているなか、町の公式な防災見解は「慎重に」を掲げつつも、実際には歯止めが利かなくなりつつある。
(星の音が響く夜まで、もう本当に時間がない——)
エリカは鞄の奥に潜む歯車を確かめ、祖父のノートの記述を繰り返し脳裏でなぞる。――「星の光と潮汐が重なる刻、海底空洞は音を奏で、扉は開く」。潜り戸(せんこ)が正しく噛(か)み合えば奇跡が起こるとも言え、逆に誤れば町を巻き込む大惨事になりかねない。
1. 朝の通りと揺れる人々
店のシャッターを少しだけ開け、三人は商店街の朝の空気に触れる。どこか不穏な重さが漂いつつも、表向きは普段と変わらない日常が繰り返されているように見える。魚屋や八百屋、パン屋が開店準備をし、通勤・通学の人々が坂道を急ぎ足で下りていく。
だが、道端で立ち話をする声には「灯台がどうなるか」「観光客が増えるなら歓迎だけど……」「あの崖を大丈夫なの?」といった内容が混じっている。企業の誘いに乗るか、封印を優先するか、町の住民も意見が交錯しているのだ。
マキは「みんなが心配してるのに、どうして企業は強引に進めるんだろう」と眉をひそめる。ヒカルは「町の一部では、もう“観光化されるのは既定路線”みたいな流れができちゃってるみたい。役場の中にも賛成派がいるのかも」と分析する。
エリカは鞄を抱え、「わたしたちにできることは、歯車を守りつつ、封印を正しく扱うしかない。潜り戸を誤って壊されれば取り返しがつかないし……」と呟(つぶや)く。
2. 正面ルートへの足取り
午前中、三人は意を決して正面ルートの現場に足を運んだ。そこには企業の作業員らしき人間が数名、簡易テントを設置しており、重機や資材が運び込まれた痕跡(あと)が見える。まだ本格的な工事ではないが、さながら“本番”に備えての最終準備という雰囲気だ。
作業員の一人が「ああ、きょうも安全確認の下見ですよ」と苦笑まじりに言い、三人を止めようとはしないが、奥へは立ち入らせない。ロープが張られ、看板には「関係者以外立ち入り禁止」。
「……もう柵を外して、ロープに変えたのか」
ヒカルは苛立ちを抑えつつ、周囲を観察する。エリカとマキも、地面に浮かぶ重機のタイヤ痕を見て、恐ろしさを感じずにはいられない。
「あそこ、見て……」
エリカが遠くの岩陰を指さす。黒いジャケットを羽織った背の高い男が、険しい表情でこちらを見ている気がする。どう見ても“探偵”を名乗るあの男だ。だが、今は企業の作業員が多数いるためか、彼も表立って行動しようとはせず、人目を避けるように姿を消した。
3. カシワギ老人の動静
気味悪さと嫌な緊張感が身体を包み込むなか、マキがふと「カシワギさん、どこに行っちゃったのかな」と漏らす。ここ数日のうちに、あの骨董店主が姿を消したまま連絡が取れないままなのだ。
ヒカルは「もし何らかの手がかりを探すなら、骨董店をもう一度覗いてみよう」と提案する。エリカも同意して、「もしかすると潜り戸や歯車に関する重要な情報が眠っているかもしれない」と考える。
しかし、骨董店のシャッターは下りたまま、近所の人に尋ねても「旅行でもしてるんじゃないか」の一点張り。三人はその場でシャッターの前をまじまじと見上げるが、何か荒らされた形跡もなく、やはり長期休業の雰囲気しか感じられない。
「おかしいよね……。町がこんなに騒がしくなってるのに、骨董店を開けないで姿を消すなんて」
マキが唇を噛(か)む。エリカも懸念を抱えつつ、捜し回っても成果は得られなさそうだと悟り、仕方なく引き返すしかない。
4. 歯車をめぐる緊迫
結局、午前中は企業の“先行調査”を遠巻きに見守るだけで、特筆すべき衝突は起こらない。しかし、あちこちで空気がざわつき、午後には大雨がまたやって来る予報が出ている。
エリカとマキは雑貨店に戻り、店奥でヒカルと合流して緊急会議を開く。
「このまま星の夜を迎えたら、あの男は絶対に動くはず。企業が“安全確認”してる隙を狙って、潜り戸に突撃するかもしれない。わたしたちの資料は町に受理されているけど、まだ大きな効果は出ていない……」
エリカが苛立たしげに言う。マキは暗い表情で頷(うな)ずき、「歯車を持ち歩くしかないよね。それを取られたら、本当に封印が壊される……」と声を落とす。
そんな話をしている途中、ヒカルのスマホに着信が入る。画面には漁協の人の名前が表示され、どうやら急用らしい。
「もしもし? はい……えっ、本当ですか……」
ヒカルが受話器越しに驚いた声を上げる。マキとエリカが顔を見合わせ、不安な沈黙が漂うなか、ヒカルは受話器を置いて言った。
「企業の人たちが、あした正式に“灯台の正面ルート整備”を開始すると宣言したみたい。町の一部も“安全調査の段階ならOK”と言い出してる……。これ、事実上の工事スタートだよ」
5. 暗雲の前触れ
またしても大きな衝撃が三人を襲う。今まで“先行調査”とごまかしていた企業が、ついに正式な宣言までしてくるとは……。
「でも、町が慎重って言ってたのに、どうしてこんな急に……?」
マキが慌てて言うと、ヒカルは「恐らく企業は町の上層部に金銭的オファーをして、調査費用を肩代わりするとか、いろいろ仕掛けてるんだろう。そうなれば、町も無下には断れない……」と歯ぎしりする。
エリカはバッグに触れながら、歯車の感触を噛みしめる。あと数日、あるいは数時間で表のルートが大幅に開け放たれれば、あの男が潜り戸に突撃する可能性は極めて高い。
(祖父のノートにあった「星の夜までに歯車を正しくセットせよ」という言葉……。まさか、わたしたちが自ら潜り戸を開けるしかないの?)
6. 最後の方策
三人は真剣に作戦を詰める。もはや町に警告しても企業と町の利害が優先されるかもしれない。あの男の暗躍も止められない。ならば、**“星の夜に自分たちが先に潜り戸を開き、歯車を正しく噛み合わせることで封印を安全に管理する”**という究極の策を遂行するしかないのではないか。
マキは「もしそれが失敗すれば、崩落や水没になるリスクもあるよね。だけど、あの男や企業に壊されるよりは、私たちが正しく扱うほうがまだ可能性がある」と決心を固める。
エリカも半ば自棄(やけ)になりつつ、「祖父が遺したヒントを信じるしかない。星の夜と潮汐が重なるときに歯車をセットすれば、本来の“星の音”を安全に響かせることができるかもしれない」と頷(うな)ずく。
ヒカルは民俗学と地形学の視点から「最低でもヘルメットや安全装備、ロープなどを準備しないと命が危ない」と指摘。三人は封印を解くための具体的な支度——照明器具や応急セット、ロープ、酸素ボンベの簡易版などを検討し始める。まるで探検隊のように真剣な顔つきだ。
7. 夕立と海のざわめき
時間はあっという間に過ぎ、夕方になるころ、再び外で激しい夕立の音が聞こえ始めた。雑貨店のシャッターを閉め、店の奥で最後の打ち合わせを進めようとする三人。
「星の夜まではもう数日。企業があしたから工事を本格化させるなら、明後日か明明後日には道が大きく開きかねない。そうなればあの男がその夜に動くのは確実……」
エリカが辛そうに言うと、マキは拳を握り締め、「わたしたちが先に潜り戸を開く作戦は実行可能だよね?」と確認する。ヒカルは資料を見つめながら「リスクは高いけど……やるしかないだろう」と深く息をつく。
激しい雨音の中、風がシャッターを揺らすたびに、息苦しいほどの緊張が背後に漂う。カシワギ老人はいずこに。あの男はどこで何を狙っているのか。企業は強行突破に突き進むのか。
(町を守るには、儀式を正しく再現するしかないの……?)
エリカはバッグから歯車を取り出し、白い布越しにその形を見つめる。祖父が追い求めた“星の音”の鍵——これが喜びをもたらすか、町を崩壊へ導くかは、もう少しで決まる。
8. 深夜の息遣い
その夜も三人は雑貨店に籠(こも)るつもりだったが、ヒカルは自宅に戻って最終的な装備品や書類を準備すると言って店を出る。「明日がいよいよ山場かもしれないから」と、決意を秘めた目をして言い残した。
エリカとマキはいつものように店奥で簡易ベッドを組み、歯車を抱えたまま夜を過ごすことになる。しかし、夜半過ぎに不穏な物音がしそうな予感がして、二人ともほとんど眠れない。
雨音が時折強まり、シャッターの向こうでガタンという何かが倒れる音が響くと、エリカは鞄(かばん)を握りしめて飛び起きる。マキも驚きながら「大丈夫……?」と声を掛けるが、外へ出るわけにもいかない。何も起こらないまま、薄ら明るい空がまた夜を追い払う。
9. 運命の日の幕開け
翌朝、店のシャッターを上げた瞬間、外の景色が信じられないほど澄んだ青空を見せつけてきた。まるでこれまでの雨と雲が嘘だったかのように晴れ渡り、夜の嵐を洗い流したような爽やかな風が吹き抜ける。
「快晴……! こんなに晴れるなんて久しぶり」
マキが思わず目を細める。その空に、ペルセウス座流星群のピークが近づいているのだ。もし夜までこの天気が持てば、流星群が一気に放たれるかもしれない。つまり、星の夜が“本番”となるだろう。
それは同時に、企業が工事を本格化しやすくなるという意味でもある。崖や泥が乾き始め、作業しやすい環境が整ってしまうからだ。あの男が動く条件も揃(そろ)ってしまう。
「星の夜……きょう明日あたりが山場だよ、絶対に」
エリカは眩(まぶ)しさに目を細めながら、鞄の中の歯車を握りしめる。この一日で事態が一気に転ぶ可能性が高い。ヒカルも早朝に連絡を寄越し、「朝イチで現場を見てくる」とメッセージを残していた。
10. そして、夜へ
朝から町は晴天に包まれ、外部企業の動きも活発化していた。正面ルートに続く道には既に何台もの車両が並び、実質的な“下見工事”が始まったようだ。エリカとマキが急ぎ駆けつけると、多くの作業員がツルハシや簡易測量器具を手にして崖沿いをウロウロしている。
「あ……あれ、だめだ、もうこんなに奥まで入ってる……」
マキが声を詰まらせながら指差す。その先には、有刺鉄線やロープが解かれた先の方で、作業員たちが大きな掛け声を上げている。地面に杭(くい)を打ち、軽く土を掘り返している姿が見える。まさに正式な工事開始と言っていい。
(もう止められないの? 防災課はどうしてるの?)
エリカは悔しさに唇を噛(か)み、周囲を見渡すが、町の職員の姿は見えない。一方、遠くには黒いジャケットの男らしき影がまたちらついている気配がある。「あいつもいる……」とマキが呟き、恐怖で声が震える。
日が傾くにつれ、工事はさらに進むかもしれない。夜になれば、このルートを使って“潜り戸”へ潜り込むのは容易になるかも……。
「……もう時間がない。わたしたちが先に潜り戸を押さえておかないと、本当に壊されちゃう」
エリカは焦燥(しょうそう)感をこらえきれず、歯車を握ったままマキに視線を送る。マキもうなずき、「封印を解きに行くにしても、星の夜じゃなきゃだめなんだよね」と言う。今夜、あるいは明日夜が本当に勝負になる。
11. カシワギ老人の手紙
そんな中、マキのスマホが突然震える。画面には見慣れない番号からの着信。警戒しつつ出てみると、渋い声が聞こえてきた。
> 「おお、庄司マキさんかい? わしだよ、カシワギだ」
思わず二人は目を丸くする。「カシワギさん? いったいどこに……!」
> 「すまん、しばらく町を離れていた。あんたらが苦しんでるのにすぐ戻れなくてな……。きょう戻る途中に、少し用事があってな。よければ夜に骨董店へ来てくれんか? 潜り戸のことも、歯車のことも、話したいことがある」
電話はそれだけを伝え、場所と時間だけを指定して切れた。マキは呆然(ぼうぜん)としながらも、「カシワギさん……生きてた。よかった」と胸を撫(な)で下ろす。エリカも「骨董店に夜……」と怪訝(けげん)な表情を浮かべるが、背に腹はかえられない。
12. 夜の骨董店へ
そして、日が沈むころ。工事現場には作業員が残っていたが、夜間は作業をしないらしく撤収していくようだ。あの男の姿も見当たらない。やがて町に夜の帳(とばり)が降りる頃、三人は骨董店の前に佇(たたず)んでいた。
シャッターは半開きで、中から仄暗い明かりが漏れている。マキが「こんばんは……」と声をかけながら入ると、そこには見慣れた白髪混じりの老人——カシワギ店主が杖をついて立っていた。
「おお、来たか。……迷惑をかけたな。あんたらが苦戦してると知りながら、すぐ戻れなかった」
カシワギ老人は少し痩せたように見えるが、目は相変わらず鋭い。「祖父さんの足跡を追う話、いよいよ最終局面だな?」と切り出すと、古びたテーブルを指し、「座れ」と促す。骨董店の暗い店内は独特の埃(ほこり)臭いが、どこか落ち着く雰囲気もある。
13. カシワギ老人の口から
三人が席に着き、簡単に状況を説明すると、カシワギ老人は渋い顔で唸(うな)る。「やはり企業の資本が入り、この町をどうこうしようと企んでいるか。あの男も同じく、星の夜を待って“星の音”の鍵を奪う気だろうね……」
そして、おもむろに奥の棚から薄い封筒を取り出すと、テーブルに置いた。
「これ、あんたの祖父さんから預かっていた手紙の一部だ。『潜り戸が本格的に危ないとき、あんたらに渡してくれ』と言われてたが、ずっと出しそびれていた。今回の町の騒動を察して、わしは町外で少し調べ物をしていたんだ……」
マキとエリカは息をのんで封筒を手にする。そこには祖父の筆跡で「星の夜に歯車を噛み合わせる方法、緊急時の封鎖手順」と書かれたメモらしきものが収められていた。ヒカルも身を乗り出し、「な、なんだこれ……」と興奮を隠せない。
14. 星の夜の緊急手順
中を開くと、潜り戸(せんこ)の絵が簡易にスケッチされ、歯車をどの位置にセットし、どの順序で回せば「封鎖状態」と「解放状態」を切り替えられるかが走り書きされている。さらに注釈として「二枚の歯車リングを重ねる必要あり」「星の夜の振動が共鳴した瞬間にセット」など、これまで断片的だった情報が一通り詰め込まれているようだ。
エリカの指先が震える。「これが……祖父さんが最後に残してくれた具体的な仕掛けの説明?」
カシワギ老人は深く頷(うな)ずく。「あんたらが苦戦していると知って、わしもあれこれ調べてきた。どうやらこれは本物らしい。もし本当に星の夜が訪れて共鳴が起こるなら、この手順通りに歯車を噛(か)み合わせれば潜り戸を完全に封鎖も解放もできる……。庄司家の記録と組み合わせれば、きっとうまくいくはずだ」
マキは震える声で「まさに庄司家の儀式……正しくやれば、潜り戸が安全に扱えるということか」とつぶやき、胸に込み上げるものを必死に抑える。ヒカルは「これで、あの男に先を越されなくて済むね。企業が工事で壊す前に、僕らが星の夜に扉をコントロールできるなら……」と希望の光を見出す。
15. 老人の秘めた思い
カシワギ老人は大きく息をつき、「わしもな、あんたの祖父さんに言われて骨董屋を装いながら、“星の音”を調べ続けてきた。もし危機が訪れたら、一度は店を閉めて外部で根回しをしようと思っていた。あの男が町へ来てると聞いて、危ないと思ってな……」と告白する。
するとマキが、「あの男に何かされたりしていなかったんですね。よかった……」と安堵の声を漏らす。
「さすがに身体には堪(こた)えたが、わしもまだ動けるよ。あんたらが封印を扱うなら、わしもできる限り手を貸すつもりだ。……祖父さんとの約束だからな」
エリカは目頭が熱くなりながら、老人に頭を下げる。「ありがとうございます……わたしたち、一人じゃ何もできないかもしれない。でも、これで本当に星の夜に扉をコントロールできるかもしれないんですね」
16. 最後の結束
こうして三人とカシワギ老人の四人は、封筒に書かれた「歯車と二重リングの噛み合わせ手順」や「星の夜の共鳴タイミング」を入念に読み込み、その場で簡単な会議をする。
1. 企業とあの男の動き: 星の夜を待たずに壊すリスクがあるため、最新情報を欠かさずチェック。もし“今夜”あたりに強行すれば、こちらも緊急で潜り戸へ向かわねばならない。
2. 星の夜と封鎖手順: 祖父のメモに従い、歯車を“二重リング”の位置にセットし、潮汐のピークと星の振動が共鳴する瞬間に操作すれば「完全封印」「仮解放」が選べるらしい。
3. 潜り戸へ行くタイミング: 星の夜の当日に潜り込むのが理想。あの男が先に来た場合は、最悪、衝突を覚悟するしかない。
カシワギ老人は「わしができるのは裏方の応援だが、情報や手配はやっておく。行くも地獄、引くも地獄かもしれんが、あんたらが守らずして誰が守るんだ」と力を込めて言う。マキは唇を引き結び、決意の色を瞳に宿す。「わたしは庄司家の責任として……絶対に失敗できない」
17. 夜へ向かう雨
話し合いを終え、外に出ると、再び黒雲が空に覆いかぶさり、いつものように雨がぽつりぽつりと降り出していた。夕暮れに近い時刻、天候が荒れ模様に移行し、風が急に強まっている。
「やっぱり、星の夜が近づくにつれて天気がコロコロ変わるね……。明日は晴れるのか、また雨になるのか予報も当てにならない」
エリカがため息を漏らす。ヒカルも「流星群がちゃんと見られるかどうかもわからないけど……、星が出なくても潮汐のピークはくるから、潜り戸は動いてしまうかもしれない」と肩をすくめる。
町は夜にかけてさらに大きく動くだろう。企業が工事を急ぎ、あの男が歯車を狙い、そして封印をどう扱うかの分岐点がすぐ目の前。誰もが息を詰め、嵐の前の静寂のような雰囲気を帯びている。
18. 三人の誓い
夜になり、再び雑貨店奥に身を隠すようにして三人と老人が集まる。今宵はカシワギ老人も店を閉めたままこちらに来ており、何かあれば四人で応戦する形だ。
雨が激しくシャッターを打ち、時折雷鳴にも似た轟(とどろ)きが遠くから聞こえる。路地には人影がなく、嵐の気配と静寂が混在する不思議な夜。
「……あの男が今夜強行してもおかしくないよね。星の夜じゃなくても、工事の混乱に乗じて潰そうとするかもしれない」
マキが暗い表情で言うと、エリカとヒカル、そしてカシワギ老人が「だからこそ今夜は気を抜けない」と互いに視線を交わす。
歯車を握りしめたエリカ、庄司家の誇りを胸に秘めるマキ、町の連携を担うヒカル、そして祖父の遺志を繋ぐカシワギ老人。四人の決意が、激しい雨音の中で固まる。星の音の夜に扉を開かせるか、それとも破壊されるか……大きな賭けが始まった。
19. 闇の先にある光
真夜中になると、雨脚はますます強まり、シャッターの外から轟々(ごうごう)という風の音が聞こえる。まるで夜そのものが封鎖と解放の狭間(はざま)を揺り動かしているようだ。
カシワギ老人は懐中電灯やロープ、簡易ヘルメットなどを支度しており、「もし今夜襲撃があればすぐ潜り戸へ行くか、それともここで迎え撃つか……」と構想を語る。マキは店の奥から非常食や飲料水を用意し、ヒカルは町内会や消防団へ連絡して非常時の対応を確認している。エリカは鞄の歯車を握りしめつつ、祖父のノートに映る“星の音の夜”のイメージを思い描く。
しかし、真夜中の三時、四時を過ぎても物音はなく、企業の工事現場も暗いままだ。あの男の姿も現れず、結局、何も起こらないまま東の空が白み始める。
「何も……なかったね」
マキが息を吐きつつ顔を上げる。だが、エリカは「むしろ、いよいよ最後の刻(とき)が迫ってるのかもしれない」と感じていた。星の夜——明日か明後日か、いずれにせよすぐそこに待ち受ける運命に、息苦しいほどの緊張が走るのだ。
20. 星の夜まで、あと一歩
嵐の夜を越えてまた朝が来る。町は企業の工事下見が続き、あの男の暗躍も水面下で進むだろう。カシワギ老人が戻ってきたことで“星の夜の儀式”が一つ形を成したが、本当に無事に封印を扱えるのか、不安は尽きない。
朝焼けに染まるわずかな雲の切れ間を見上げながら、エリカはハッと気づく。「この空、夜になれば星が見えるかもしれない」と。そう、ペルセウス座流星群のピークまで、もう数十時間。町も企業も、そしてあの男も、その刻限を待ちわびているかのように動いている。
(もうすぐ、わたしたちの“最後の戦い”が始まる……)
四人が雑貨店の軒先に立ち尽くし、新しい朝の空気を吸い込む。水滴が路地を濡らし、風が湿ったまま通りを抜けるが、不思議と爽やかな気配も感じられる。もしかすると、この夜こそが最終局面——星が顔を出し、海鳴(うみな)りが潜り戸を揺らすだろう。
歯車を抱えるエリカ、庄司(しょうじ)家の宿命を背負うマキ、町の民俗学と連携を担うヒカル、そして祖父の遺志をつなぐカシワギ老人。彼らの決断が、今夜か明日の夜、星の光と海の潮汐が交差する一瞬に結実する。
夜が来れば始まる。星の夜が叫ぶか、封印が崩れ去るか。運命の分岐点は、すでに見えている。彼らは朝の光の中でその覚悟を腹に収め、潜り戸と歯車に宿る熱を静かに感じ取っていた。
第三十三章 灯台へ続く夜
朝が白々(しらじら)と明けきった頃、エリカたち四人は雑貨店の奥で小さな会議を開いていた。歯車と潜り戸(せんこ)の封印をどう扱うか——星の夜が刻一刻と迫る今、話し合うべきことは山積みだが、もう迷っている時間はない。町では企業が正面ルートの整備を進め、あの男が暗躍している気配も濃厚。星の夜までに「潜り戸を壊すか、先手を打って自分たちで開くか」という岐路に立たされている。
カシワギ老人が骨董店の留守を続けながら手に入れてきた“祖父から託された緊急メモ”には、星の夜に歯車を正しく噛(か)み合わせる手順がはっきり書かれていた。二重リングの歯車を星の振動がピークに達する瞬間にセットすることで、「完全封鎖」あるいは「仮解放」を安全に行える——それが祖父の残した最終的な示唆であり、星の音の神秘と物理法則が交差する一線でもある。
1. 静まらない町の朝
シャッターを少し開けると、外からは既に路面を踏みしめる足音が聞こえ、商店街には慌ただしさが漂う。企業の車両が通りを走る気配、漁協や消防団らしき人が行き交う姿がちらほらと見える。まるで街全体が“きょうこそ決戦の日”と言わんばかりにソワソワしているようだ。
「どうやら、工事関係者が正面ルートにさらに資材を持ち込むらしい。昨日より大掛かりになりそうだって……」
マキが朝の連絡網を確認しながら暗い顔をする。ヒカルも深いため息をつき、「町が一枚岩ではないから、企業に強くストップをかけられないんだ。防災課は“地盤調査を先に”って言ってるのに、実質見過ごしてる状態だね」と言う。
エリカは鞄の奥にある歯車を指先でなぞりながら、一瞬目を閉じる。あと数日でペルセウス座流星群のピーク。もし天候が合致すれば今夜か明日にも大量の流星が降る。潮汐もタイミングが合えば海鳴(うみな)りと共鳴し、封印が震えるだろう。そうなれば、あの男が潜り戸に飛び込むのはほぼ確実だ。
2. 老人の導き
カシワギ老人がそっと杖をつきながら、低く言葉を発する。
「潜り戸は明らかに“星の夜”に合わせて作られた仕掛けだ。星の音が最大化するとき、地下空洞が共鳴して扉が動く。正しい歯車の噛み合わせがあれば、災厄を防ぎつつ星の音を聴くことができる……だが、あの男が力ずくで壊そうとすれば、町全体を巻き込む大事故になるかもしれん」
老人の視線はエリカをじっと捉(とら)える。まるで“祖父の意思を継ぐ覚悟があるのか”と問いかけるようだ。エリカはまばたき一つせずに答える。
「……やります。星の夜に封印を正しく扱う。それ以外に守る方法はないんですから。祖父が求めていた“星の音”も、この町を混乱から救う道も、わたしたちが扉を開き、制御することでしか実現できない」
マキも庄司(しょうじ)家の記録を抱き締め、「わたしも庄司家の責任を果たす」と言い切る。ヒカルは二人の決意を見てうなずき、「町の人を巻き込まないように、安全装備や準備は万全にして挑もう。僕は民俗学と地形学の知識を活かして、少しでもリスクを減らせるよう準備する」と口を引き結ぶ。
3. 正面ルートの工事が進む
午前中、三人と老人が工事現場を確認しに行くと、企業の作業員が崖沿いの舗装をさらに取り除いているのが見えた。ダンプカーが砂利を運び込み、ショベルが岩を掘り起こしている。もう“仮工事”などと言うには十分すぎる規模だ。
地元住民の一部が心配げに見守るなか、企業のスーツ姿の男が「まずは道路基盤を補強するだけです。崩落を防ぐためにも必要な作業ですよ」と説明する。防災課の職員も現場で見ているが、強硬には止められない様子。
「これなら、今夜にも灯台のすぐ手前まで行ける。あと少しで扉のある地点まで……」
マキは唇を震わせながら呟(つぶや)く。あの男の姿は直接見えないが、どこか陰から様子を窺っているのかもしれない。
エリカは胸の奥で歯車が何かを語りかけるように感じる。昔、祖父と“星の音”の話をした記憶が薄ぼんやりと蘇り、「いつか科学と神秘が出会う瞬間が訪れる」と言われたのを思い出す。
4. 星の夜迫る夕刻
その日、夕刻になるころには工事は一旦終了し、現場には重機が置かれたまま。人々が帰ったあとのそこは、まるで戦場のように荒れた状態だ。砂や岩が転がり、シャベルの痕(あと)が地面を無残に削っている。あの男が夜に入ってくるなら、もう障壁などほとんどないと言っていい。
雑貨店に戻った三人と老人は、ひとまず最後の準備を整えようと取りかかる。ヘルメットやライト、ロープ、少しの非常食。祖父のノートや庄司家の古文書、そしてカシワギ老人が持ってきた“歯車セット手順”の紙。
「よし。これだけあれば、潜り戸に入って封鎖でも解放でも対応できるはず……。万が一、星の夜にあの男が潜り込んでも、こちらが先に正しい歯車の手順を完遂するしかない」
エリカが意を決するように言い、マキとヒカルも無言で頷(うな)ずく。カシワギ老人は杖をつきながら、「わしもできるかぎり同行しよう」と静かに告げる。
5. 流星が走るか
夜になると、空は意外なほど晴れ渡り、満天の星が見える。町の騒がしさが嘘のように静かで、遠くの空ではわずかに流れ星が一筋走ったようにも見える。
「きょうが星の夜の本格的な始まりかもしれない……」
エリカはバッグの歯車を抱きしめ、外の闇を見つめる。企業は夜間作業はしないと言っていたが、あの男は夜中に紛れ込む可能性があるし、封印が震え出せば自分たちも動くしかない。
雑貨店で深夜に備えて待機する四人。懐中電灯やヘルメットをそばに置き、いつでも出発できるようにする。街灯のオレンジ色が通りを照らし、まばらに人影が行き交うが、深夜に向けて静けさが増すのは時間の問題だ。
6. 夜半の予兆
午前0時を回ったころ、外は星空がはっきり見えるほど晴れていた。町外れのほうから夜の海鳴(うみな)りに似た低い振動が聞こえ、カシワギ老人が「来るな……」と低くつぶやく。
「さっき、海岸で軽い地鳴りがあったって報告も入ってる。潮の干満が星と共鳴するとき、あの潜り戸の封印が揺れ動くかもしれない……」
ヒカルがスマホを見ながら目を細める。マキは奥からロープとランタンを取り出して、「どうする? わたしたち、先に灯台へ向かう?」と戸惑いがちに言う。
エリカは心をかきむしられる思いで、歯車が入った鞄を握る。もし今夜が星の夜の真髄なら、潜り戸は共鳴し、あの男が来るはずだ。あるいは企業の連中も騒ぎになるかもしれない——だが、ここで先走るのも危険だ。
「もう少し様子を見よう。もしあっちが動き出したら、すぐに出発しよう。あの男が先に潜り込んでも、わたしたちが歯車を持っていれば封印は完全には壊せない……はず」
7. 不意の知らせ
すると深夜1時過ぎ、ヒカルのスマホが震え、画面を見ると消防団長からのメッセージ。
> 「灯台付近で夜中の車両進入が目撃された。足場を組むような音がしたという通報。応援が必要かもしれない」
“四人の沈黙”が一瞬に破られる。マキが目を見開き、「まさか、企業が夜間工事を強行? それともあの男……?」と唇を震わせる。カシワギ老人は杖を握りしめ、「どのみち行くしかないな。このタイミングで潜り戸を壊されれば、明日の星の夜まで町を守れん」と声を張る。
エリカは歯車を胸に抱き、「行こう。もうここで待つ意味はない」と強く言い切る。もし現地に着いて何もなければ引き返せばいいが、何か起こっているなら潜り戸を守らなくてはならない。
8. 闇夜の道行き
四人は夜中の商店街を急ぎ駆け抜ける。ヘッドライトの代わりに懐中電灯を手に、狭い路地を曲がり、正面ルートへ至る坂道を目指す。夜風が容赦なく吹きつけ、町の街灯も少ないため、足元が危うい。
心臓が高鳴り、呼吸も浅くなる。ヒカルは息を整えながら、「もしあの男が先に行ってたら、どうする?」と問う。マキは「闘うしかないよね。歯車は渡せない。封印を壊させるわけにはいかない……」と決死の口調で答える。
カシワギ老人は杖をつきながらも驚くほど安定した足取りでついてくる。「焦るな、まだ町外れまで距離がある。あんたらは先行って、わしは遅れてでも現地に行くから」と語るが、エリカは「老人だからって無理しないで」と気づかう。
「いや、わしはずっと祖父さんとの約束で、封印を守り抜くと誓ってきたんだ。今さら逃げるわけにはいかんよ」
その言葉にエリカの胸は熱くなる。祖父の意思を継ぎ、カシワギ老人がここまで力を貸してくれることが救いだった。
9. 潜り戸への序章
正面ルートに近づくにつれ、夜空にはいくつもの星が散らばり、遠くの海からはごうという音が低く響く。月明かりはなく、流星群の光が微かに天空を走るのが見える。まさに“星の夜”の前兆が、夜風に乗って肌を刺すようだ。
トンネルを抜け、工事の資材置き場がある地点まで来ると、そこには暗がりの中、何やら物音が……。遠目にも人影が見え、ヘルメットや作業着を着た数名が動いている。企業の人間か、あるいは……?
エリカは歯車を握りしめ、「行こう」と決意を込めて囁(ささや)く。マキとヒカル、カシワギ老人も懐中電灯を構え、足音を忍ばせながら近づいていく。
まるで町のすべてが凍ったような深夜の闇が、破られようとしている。封印の扉がどのような運命を迎えるのか、今宵が大きな山場かもしれない。息苦しいほどの緊張が、夜風の冷たさと混じり合って四人の身体を支配していた。
10. 最終局面へ
月のない夜空に、いくつかの流れ星が瞬(またた)いて落ちるのが見えた。ペルセウス座流星群のピークまであとわずか。星の夜の始まりを告げるその光は、美しいと同時に恐ろしくもある——このまま何もしなければ、潜り戸(せんこ)を壊され、星の音が永遠に失われるかもしれない。
工事現場の照明が道をぼんやり照らし、闇夜に淡い光の帯を作り出している。その先には、あの背の高い男がきっといる。もしくは企業の作業員と結託して、潜り戸に向かっているのか。走り去る人影の音が響くたびに、心拍数が跳ね上がっていく。
エリカは歯車を抱きしめ、「祖父さん、見守っていて……」と胸中で祈る。科学と神秘が交差する一瞬、潜り戸が正しく扱われれば“星の音”が鳴り、町を救う光ともなりうる。けれども失敗すれば町ごと崩壊しかねない。世界が夜の闇に包まれるなかで、封印をめぐる最後の戦いが始まろうとしている。
闇の先でひゅうと風が鳴き、星空にはまた一筋の流れ星が走った。夜の息づかいが一層濃密に感じられ、今宵こそ運命の日だと誰もが確信する。エリカ、マキ、ヒカル、そしてカシワギ老人——四人は視線を交わし、深呼吸して夜の道を踏み出す。
灯台と潜り戸のある崖の先へ向かい、星の夜に封印の扉を正しく開くか、あるいはあの男の手にかかり破壊されるか——すべては今宵の行動にかかっている。息苦しいほどの夜空には、いくつもの星が瞬いていた。
第三十四章 崖の上に刻む足音
夜の闇が深まるなか、エリカ、マキ、ヒカル、そしてカシワギ老人の四人は、雑貨店を出て灯台へ続く正面ルートを目指していた。工事の資材や重機が並んだ道は、夕方まで照明が点されていたが、今は作業を終えたらしく人影が少ない。とはいえ、どこかに潜んでいるかもしれない企業の作業員や、あの背の高い男の存在を考えると油断はできない。
空には雲が一部残っているが、所々に星が瞬(またた)いている。流星群のピークが近づき、場所によっては大きな流れ星が見えるかもしれない。けれども四人の心にロマンを味わう余裕はなく、歯車をめぐる闘いが一気に最終局面を迎える重圧が押し寄せていた。
1. 静まり返る正面ルート
工事現場の手前に到着すると、柵が半ば開かれたまま、簡易的な黄色いロープが張られている。昼間には作業員が出入りしていたが、夜になると施錠もされず、人気(ひとけ)がない。月明かりが薄く照らすだけで、舗装の一部が掘り返され、瓦礫(がれき)や砂利がむき出しになっているのが分かる。
「……完全に工事が続行されるのは、明日以降なのかな」
ヒカルが囁(ささや)くように言う。カシワギ老人は杖を軽く地面に突き立て、「それでも十分に注意しろ。誰もいないはずがない」と鋭い眼光を放つ。
確かに、夜陰の中で潜んでいる者がいそうな気配がある。岩陰や資材置き場の隙間を懐中電灯で照らしてみても、人影は見当たらない。――が、一瞬だけ塀の向こうに黒い動きがあった気もする。
(あの男……?)
エリカは鞄の中の歯車をぎゅっと握る。万が一、奇襲をかけられても渡すわけにはいかない。星の夜と潮騒(しおさい)が交差する瞬間に、歯車を正しく噛(か)み合わせることだけが扉を守る手段なのだから。
2. 海の呼び声
崖沿いの道を進むほど、海からの風が強まり、遠くで波が岩に砕け散る音が聞こえる。満潮まではまだ時間がありそうだが、潮の匂いがいつもより濃厚に漂っているように感じられる。
「星の夜が近いって、こういうことなんだろうか……」
マキが、小さく息をつきながら呟(つぶや)く。空を見上げると、星がわずかに綻(ほころ)びを見せた雲間から光を投げかけている。すでに流星がひとつふたつ、短い軌跡を描いて消えていくのが見えた。
カシワギ老人は杖をつきながら、足元を慎重に確認して進む。「もともとこの崖は脆(もろ)い。工事で中途半端に掘られたせいで、どこが崩れてもおかしくないよ。気をつけな」
ヒカルは地面を懐中電灯で照らしつつ、「すぐ先に灯台の基部が見えるはず……。企業が昼間掘り返していたから、もしかすると潜り戸まで行けるかもしれない」と声を張る。
3. 灯台の白い影
さらに道を進むと、岩陰の先に灯台の白い塔がぼんやりと浮かび上がってきた。昼間と違い、照明もないため、月と星の光だけが塔の輪郭を映し出している。尖(とが)った上部が空に伸び、下部は石積みの壁面がうっすら見える。
マキが息をのむ。「見た目は変わらないはずなのに、どうしてこんなに不気味なんだろう……」
エリカはふいに懐かしさを覚える。幼い頃、祖父と一緒にこの灯台を眺めては「海と星を繋ぐ場所だよ」と教わったあの情景が頭をよぎる。でも今は、闇に溶け込みそうなほどの静寂が張り詰め、潜り戸の下にある秘密が震えているのを感じずにはいられない。
四人は道をそろりそろりと進みながら、周囲の音に耳を澄ます。しかし、重機も作業員も見当たらない。夜中に工事をする気はないのか、あるいは違う場所に回り込んでいるのか。
「本当にいない……? あの男も姿を現さない」
ヒカルが不思議そうに首をかしげると、カシワギ老人は視線を灯台の入口へ据(す)え、「潜り戸はここから地下へ行く道じゃ。あそこまで行けば、何が起きているか分かる」と低く言い放つ。
4. 潜り戸の入り口
灯台の基部に近づくと、石造りの扉が厳重に鍵がかかっているはず……だったが、実際には錆(さ)びついた錠前や古い鉄柵が取り外されている様子が見える。まるで誰かが最近こじ開けたかのようだ。
「あ……これ、誰かが無理やり壊したんじゃ……」
エリカが震える声で言う。昼間に企業が表のルートを整備していたとはいえ、灯台の扉まで壊す許可は出ていないと聞いている。もし工事関係者がやったのなら違法行為だし、あの男の仕業かもしれない。
マキが扉に手を触れると、簡単に開く感触がする。ヒカルは「まずい、すでに中に入った形跡があるのかも」と焦りをにじませる。カシワギ老人が辺りを見回しても、人影はないが、何か妙な気配が奥から漂うようだ。
「潜り戸(せんこ)はさらに地下へ続く隠し階段があると聞く。普通は鍵がされていて入れないはずだが……もう壊されているかもしれんね」
5. 闇に飲み込まれる通路
意を決して扉を開け、灯台の中に足を踏み入れる。石造りの壁は湿気を帯び、足元がぬかるんだように濡れている。壁には苔(こけ)が生え、一部が朽(く)ちかけている。懐中電灯をかざすと、螺旋階段が上へ続いている一方、脇の方に地下へ降りる小さな通路が隠されているのが見えた。
「これが……潜り戸へ通じる道」
マキは息をのむ。ヒカルは資料を思い出しながら、「確かに祖父のノートにあったスケッチと似てる。ここを下れば潜り戸があるはず」と声を殺す。
エリカは鞄の歯車を握りしめ、「行こう。あの男が先に入ってないといいんだけど……」と険しい表情を浮かべる。カシワギ老人が「わしが後方から照らす。あんたらは慎重に足元を確かめつつ進め」と低く指示する。
6. 階下へ——不穏な足跡
四人は暗い通路をそろりそろりと降り始める。石段が湿り気を帯びて滑りやすいが、ロープと懐中電灯を使いながら慎重に進む。壁に手をつき、鼻を刺すような潮とカビの匂いを感じながら、一段一段降りるたびに胸の鼓動が激しくなる。
(もしあの男が待ち伏せていたら……歯車を奪われたら終わり……)
エリカの思考が恐怖に支配されそうな中、マキの勇気ある声が救いになる。「だいじょうぶ、わたしたちが先に歯車をセットするんだ。星の夜が来る前でも、位置だけは確認できるはず……」
先ほどまでは夜風や虫の声が聞こえていたが、ここでは自分たちの足音と呼吸しか聞こえない。湿った空気がひんやりと頬を撫(な)で、どこか深海へ近づいているような錯覚さえ覚える。
7. 見えた潜り戸(せんこ)
階段を降りきると、小さな空洞のようなスペースに出た。そこには石壁がせり出すように配置され、奥に薄暗い扉のようなものが見える。それこそが潜り戸らしく、中央に円形の彫刻の痕(あと)があり、歯車をはめ込みそうな溝が刻まれている。
「……あった。これが潜り戸……」
マキが目を潤ませる。庄司家の民俗伝承で聞いていたその場所が、実際の地下に眠っている。ヒカルは興奮と畏怖(いふ)を入り混ぜた表情で、「本当に存在したんだ」とつぶやく。
エリカが鞄から歯車を取り出し、懐中電灯で照らしてみる。四重円状の彫刻部分に微妙にかみ合いそうな凹(へこ)みがあるが、細かい石の欠けや苔(こけ)が邪魔していてすぐには判別がつかない。
カシワギ老人は息を整え、「あんたの祖父さんの手順によれば、この溝に歯車を重ね、星の夜に振動が共鳴した瞬間に回す……そうすれば封印が解除もしくは強化されるはずだ」と言う。
ただ、そのタイミングを逃すと歯車が噛み合わずに壊れたり、水の圧力で崩落を招きかねないとノートにも書いてある。ここに来た以上、星の夜の潮騒が訪れる瞬間を待たねばならない。
8. そして、男の声
四人が潜り戸の溝を確認しはじめた刹那、背後から静かな拍手の音が響いた。闇に溶け込むような低い声が、「なるほど、こんなところだったのか……」と呟(つぶや)く。
振り返れば、そこにはやはり背の高い男のシルエット。黒いジャケットをまとい、冷たい笑みを浮かべたまま洞窟の入り口に立っている。まるでずっと後をつけていたとばかりに、その眼差しは歯車に注がれていた。
「よくもまあ、こんな宝の山を独り占めする気だったんだね。歯車はもう用意してあるみたいじゃないか」
エリカはとっさに鞄を抱え、「近寄らないで!」と叫ぶ。マキもヒカルも懐中電灯を相手へ向けるが、男の態度は余裕に満ちている。カシワギ老人が杖をきしませながら「きさま……目的は何だ」と怒鳴るように言う。
男は薄笑いを浮かべたまま、「依頼人は星の音を手に入れたいんだよ。扉を封印して町を守る? そんなのは勝手な言い分さ。ここには金になる資料や資源が眠っているらしいからね。ま、封印ごとぶち壊すか、歯車を奪うか……好きにできる」と冷やかに言い放つ。
9. 臨界の一瞬
突きつけられる絶望感のなか、エリカは歯車をしっかり握り、まっすぐ男を見据える。「あなたが工事を急がせてるんでしょ? そんなことしたら、町ごと崩壊するかもしれないのに……」
男は肩をすくめ、「依頼人の望みは“星の音”を独占すること。町がどうなろうが、知ったこっちゃない。もっとも、完璧に壊してしまうかもしれないけどね」とあざ笑う。その瞬間、背後でごおという低い音が響き、まるで潮汐が地底を揺らしたかのように足元がかすかに震える。
ヒカルが「来る……潮の満ち引きが星と共鳴し始めてる?」と声を上ずらせる。マキは「ああ、もう時間がない!」と恐怖に顔を強張(こわば)らせる。カシワギ老人が杖を突き立て、「いいか、歯車を正しくはめるんだ! 共鳴の瞬間を逃すな!」と一喝する。
男がそれを遮るように一歩前へ踏み出し、「歯車は渡してもらうよ」と冷ややかに言う。エリカは「絶対に渡さない!」と叫ぶや否や、洞窟の壁がぐらりと振動し、石くずがパラパラと落ちてくる。星の夜の幕開け——いま、真の“封印の瞬間”が到来しようとしている。
10. 灯火がもたらす道
ガラガラと小石が崩れ、埃(ほこり)が舞う。男と四人の緊張が最高潮に達しようとする中、洞窟の奥からわずかな光が射し込む。まるで海底の反射が揺らめいたようにも見え、潮騒(しおさい)がごうと耳を打つ。
(もう、本当に始まる——潜り戸が揺れ始めてる!)
エリカは鞄を抱え、「マキさん、ヒカル、カシワギさん……封印の手順を!」と声を張る。マキは泣きそうな顔をこらえつつ、「うん!」と頷(うな)ずき、男に視線を投げる。
男が「愚かだね。そこをどけ!」と詰め寄ろうとするが、ヒカルが「行かせない!」と身を挺(てい)して立ちはだかり、カシワギ老人も杖で牽制する。
「急げ! わしらが引きつけるから、あんたら二人は歯車をセットするんだ!」
老人の叫びに応じ、エリカとマキが潜り戸に駆け寄る。奇妙な振動が石の壁を伝い、心臓を震えさせる——星の振動が地下空洞を揺らしているのか、海からの満潮が迫っているのか、どちらにせよ一刻を争う状況だ。
通路の奥では男とヒカル、老人が激しく睨(にら)み合っている。どこからか大きな岩が崩れ落ちる音が響き、「町が崩れるかもしれない……」という声がこだまする。
エリカとマキは、祖父のノートとカシワギ老人の手紙を思い出しながら、歯車を溝にあてがう。四重円の彫刻部分に歯が噛み合い、キリキリとわずかな金属音が響く。星の夜は、今まさに頂点へ向かっているのだ——。
第三十五章 音なき響き
深い闇の底で、石造りの扉(潜り戸)が小さく振動をはじめる。エリカとマキは歯車を溝にはめ込み、祖父のノートとカシワギ老人の手紙を頼りに、ゴリゴリと噛(か)み合わせの位置を探っていた。背後では、ヒカルとカシワギ老人があの長身の男の猛攻を必死で食い止めている。金属が打ち鳴るような物音、杖の突く音、低い怒声が洞窟に反響して、錯綜した音の奔流(ほんりゅう)を生み出す。
(祖父さん、こんな危険な装置をどうやって発見して、研究していたんだろう……)
エリカは内心でその壮大な思いに震えながらも、手元の歯車を必死に回す。ノートに書かれていた「二重リングの位置を合わせ、流星群の震動が来たら一気に回せ」という指示を思い出し、マキと目を見交わす。
「……マキさん、いける?」
「うん、わたしも庄司家の古文書にあった『内側の溝と外側の噛み合わせを星の刻(とき)に回す』って書き込みを思い出した。今、まさにそのとき……!」
潜り戸の中心部には円形の石板があり、その周囲に歯車を取り付けるための溝が刻んである。二重リングを重ねて“閉鎖”か“解放”を選べるとされるが、それを誤れば崩壊のリスクがある。いまこの瞬間が、すべてを決める瀬戸際だ。
1. 星の刻
洞窟の奥からは地鳴りに似た振動が伝わってくる。まるで海の呼吸が石壁を通り抜け、星々の周波数が地下空洞を揺らしているかのよう。エリカは鞄(かばん)にしまっていた祖父のノートを開き、「“星の夜”が最高潮に達する刻(とき)、歯車の位置を決定しろ」という一文を指差してマキに見せる。
マキはこくりと頷(うな)き、「この歯車をさらに……そこの溝だね。上段のリングを回転させて……」と口早に説明する。歯車の外周には複雑な凸凹(とつおう)があり、まるで繊細な歯車同士を噛(か)み合わせるように見える。
と、そのとき、通路のほうから男の怒声が響く。
「やめろ! その歯車を勝手に使うんじゃない……! 渡せ!」
ゴン、と硬いものがぶつかる音がして、ヒカルの苦しげな声が漏れる。どうやら男が隙を突いて押し込んできたらしい。老人の杖もガキンと何かを弾く音がしている。
しかしエリカとマキは立ち止まらない。ふと、洞窟の天井がビリビリと震えるような感覚に襲われ、気圧の変動か潮汐の揺れか、あるいは星が放つ振動か——いずれにせよ「いまが星の震動のピーク」だと直感した。
2. 二重リングの合わせ
エリカは歯車の外リングを回転させ、マキは内リングを押し込み、歯がきしむような音を立てながら噛み合いを探す。
「ここ……! たぶんここだよ! 祖父のノートにあった位置はここ……!」
マキが涙目になりながら石板を指差し、エリカが力を込めて歯車を押し当てる。外と内のリングが一致した瞬間、ゴリッと鈍い感触が腕に伝わり、石板がわずかに沈むように動いた。
「動いた……!」
何かが噛(か)み合った手応えに、二人は小さく息を飲む。このまま回転させるとどうなるのか、不安が爆発しそうだがやるしかない。
薄暗い洞窟の奥で、小さな金属音がキリキリと鳴り始める。かすかに湧(わ)き出す風が岩の隙間を叩き、夜の冷気が肌を刺すようだ。遠くの海鳴(うみな)りと星の鼓動が合わさり、まるで周囲が淡く震える。
3. 開かれる扉、封印の瞬間
「……回すよ」
マキの声が震え、エリカは小さく「うん」とだけ答える。二人同時に歯車を片手ずつ握り、ぐっと押し込むように回転させる。
ガリガリ……ゴン、という大きな音が石板内部から響き、扉の上下の隙間から埃(ほこり)が舞う。周囲の空気が一気に冷たくなったようにも感じるが、それと同時に腹の底にズンと響くような感覚がある。
すると、灯台の基部のほうでゴウというかすかな轟(とどろ)きが重なり、洞窟全体がわずかに揺れた。
「大丈夫……? 崩れない……よね?」
マキが息を詰めて天井を見上げるが、すぐに壁の奥からゴトゴトという仕掛けの動く音が伝わってくる。まるで古の機構(しくみ)が目覚め、歯車を受け入れているかのようだ。祖父のノートにあった“星の夜に潜り戸が共鳴する”——それがいま実際に目の前で起こっている。
ヒカルたちがどうしているか気になるが、男の叫び声は聞こえなくなった。代わりに洞窟全体に風の流れが生まれ、一種のハミング音のような低音が空気を震わせる。
「これが……星の音?」
エリカは耳を凝らす。まだはっきりした“音”とは言い難いが、波と風と星々の微細な振動が合わさったような響きが胸を打つ。そう、これは祖父が追い求めた“星の音”の予兆かもしれない。
4. 男の絶望
そんな神秘的な空気が漂うなか、突如、背後から男の怒声が響き渡った。
「やめろ! そいつを完全に封鎖したら、中の価値が失われる……!」
ヒカルと老人を振り切ったのか、男が荒い息をつきながら潜り戸のほうへ突っ込んでくる。恐ろしい形相(ぎょうそう)を浮かべ、鞄(かばん)を持つエリカに飛びかかろうとするが——。
だが、その瞬間、石板がギリギリと回転を完了し、ズウ……ンという強い振動が足下から湧き上がる。男がよろめき、壁に手をついて顔を歪(ゆが)める。
「くそ……間に合わなかったか……! 依頼主は何と言うかな……」
男は悔しそうな低い声を漏らし、しかし目の奥にはまだ諦めきれない狂気が宿っている。「なら壊すしかない。歯車ごと壊してしまえばいい!」と叫んで腕を振り上げ——。
その腕を制するように、カシワギ老人が後ろから杖を叩き込む。「させるか!」。ゴン、と鈍い音が響き、男は怯(ひる)んで足を滑らせる。
「……危ない!」
マキが叫ぶと同時に、男がぐらっとバランスを崩して後ろに倒れ込み、ゴツンと石段に背を打ちつける。火花を散らすような衝撃音に、一瞬エリカたちは息を呑(の)む。
5. 闇の底に落ちる影
男は苦しげにうめきつつも、再び立ち上がろうとする。しかし、そこで洞窟の奥深くから大きなうねりのような轟音が巻き起こり、石壁がかすかに崩れる気配がした。
「封印が……共鳴してるの?」
エリカは歯車を押さえつつ、石板がゆっくり完全ロックの位置まで回りきった手応えを感じる。“封鎖モード”に入ったのだろうか。すると、潜り戸全体がガシンという閉鎖音を立て、巨大な鍵が掛かったかのように振動が沈む。
男はその振動に足を取られ、「くっ……」と呻(うめ)いてさらに崖のほうへ後退してしまう。ヒカルが咄嗟に手を伸ばすが間に合わず、男は尻餅をつくようにして転がる。石壁の隙間がこつんと頭を打ったのか、意識が朦朧(もうろう)としているようだ。
「大丈夫、死にはしない……」
カシワギ老人が息を整えながら杖を構える。男は苦しそうに乱れた呼吸をし、「封鎖……だと……」と握り締めた拳を壁に叩きつける。
6. 星の音、微かな響き
突如、洞窟の空気が変わる。すっと風が通り抜けるような感覚があり、かすかな低音の振動が耳を震わせる。星の夜を告げる流星群のエネルギーか、潮汐のピークか、あるいは両方が同期(シンクロ)しているのだろう。
「……これは……“音”だよね」
エリカが声を震わせる。確かに音として聞こえるわけではないが、身体の内部で揺さぶられるような振動感が広がっている。気圧の変化と波動が、まるで洞窟全体を楽器のように共鳴させているようだ。
マキは涙ぐんだまま、一歩後ずさりして天井を見上げる。「これが星の音……。庄司家が守ってきた、海と星を結ぶ響き……」と呟(つぶや)き、カシワギ老人も無言で頷(うな)ずき、杖を握った手を小刻みに震わせる。
封印を“封鎖モード”にセットした歯車が、石板の位置を固定し、潜り戸を外部から安易に開けられない状態にしたのだろう。その完了を告げるかのように、星と海の微弱な振動が洞窟を満たしている。音というより振動に近いが、確かに“何か”が響いている。
7. 取り残された男
床に倒れ込んだ男は苦しげに胸を押さえ、息を荒くしている。彼の依頼人が望んでいた「星の音」は目の前で鳴り始めているというのに、自分のものにならない現実に、怒りと後悔の表情を浮かべているようにも見える。
「……ここで……終わりってわけか。貴様ら、よくも……」
憎悪を滲(にじ)ませた声はしかし、封鎖が完了した扉の前では空しく響く。マキは「どうする? 警察に連絡する?」と困ったようにヒカルに問う。ヒカルは迷った末、「ひとまず拘束しておくか、外に連れ出して町の人に引き渡すしかないね」と答える。
エリカは歯車を固定した扉を見つめながら、半ば放心したまま。「これで……町は守られたのかな……?」と複雑な思いを漏らす。星の夜がまだ終わったわけではないが、少なくとも今この瞬間、潜り戸を壊されることは避けられた。
カシワギ老人が静かに続ける。「封鎖モードにした以上、潜り戸はしばらく誰にも開けられない。少なくとも企業が工事で無理やり破壊しようとしない限り……。だが、星の夜が完全に明けるまで、油断は禁物だ」
8. 星の光が降る
洞窟から地上へ戻ると、夜空には幾筋(いくすじ)もの流れ星が走っていた。ペルセウス座流星群のピークはまさに今であり、はるか高い星空から光の矢が絶え間なく散っている。
闇の崖道は相変わらず危険で、工事資材が転がっているが、四人は懐中電灯を頼りに慎重に戻る。男は意識を取り戻しつつあるが、老人とヒカルが警戒して背後から付いている。
マキは涙を浮かべながら星空を見上げ、「わたし、こんなにたくさんの流星を見たの初めて……」と呟(つぶや)く。封鎖された潜り戸の“星の音”はもう断片しか聞こえなくなったが、夜空には壮大な星のシャワーが降り注いでいる。
(祖父が夢見た光景は、きっとこれ……。本当に星の音は存在したんだ)
エリカは胸が熱くなり、歯車を握る手に力を込める。あの男の野望は阻止したものの、町の工事が完全にストップしたわけではない。だが、今この一瞬だけは、星々の祝福を浴びるような穏やかさが広がっている。
9. 夜明けへ
四人は男を連行する形で崖道を引き返し、夜の正面ルートを慎重に歩く。工事用の足場を乗り越え、崖が崩れやすい危険箇所を避けつつ、灯台の基部を離れていく。遠くでは、街灯が淡いオレンジ色を灯し、町の夜景が眠りを誘(さそ)うように静かだ。
男は疲労と痛みで足を引きずりながら黙り込み、悔しそうな表情を浮かべている。依頼人の計画は失敗し、歯車と潜り戸の封印は守られた。この先、どう処理されるかは町や警察が判断するだろう。
カシワギ老人は杖を頼りにしつつ、夜空をちらりと見上げる。「星の夜はまだ続いとるな……。封印は無事だが、町の工事問題はこれからが本番だろう。企業がさらに強引に進めるかもしれん」
ヒカルもうなずき、「あの男は倒れたけど、企業や依頼人は別にいる。封印を破壊しようとする動きがまた起こる可能性はあるね」と警戒を解かない。
10. あふれる安堵
しかし、潜り戸が今夜壊される最悪のシナリオは回避できた。エリカは歯車を大切に抱え、「祖父さん、わたしたちやったよ……」と心の中で語りかける。ここ数週間の疲労がどっと湧き出してきて、足元がふらつくほどだ。
マキは夜空を最後に見上げながら、「星の音、わたしたちほんの少しだけ聞けたよね。あれ、もう少しじっくり感じてみたかった……」と笑みを浮かべる。ヒカルは「また機会があるよ、封印を正しく管理すれば、町のみんなに星の神秘を伝えられるかもしれない」と微笑む。
男は痛みで呻(うめ)きつつ、「こんな馬鹿な……」と呟(つぶや)き、苦々しく夜空を睨(にら)んでいる。歯車と星の夜は彼のものにはならなかったのだ。
11. 町の朝
やがて夜が明け、崖道を離れたころには東の空が白み始めていた。流星群の輝きも薄れ、町の通りには朝の光が差し込む。マキとエリカは雑貨店へ戻り、男を一時拘束したまま消防団長に連絡し、企業や町の役場にも報告した。ヒカルとカシワギ老人がそれらの手続きを手伝い、男は最終的に引き渡される形となる。
「まさか夜中に勝手に灯台を壊そうとしてた……。これは由々しき問題だ。町としてもしっかり対応しないと」
担当者たちは驚きつつも、ここまで突っ込んだ行動をされた以上、企業も簡単にはシラを切れないだろう。何らかの形で工事が一旦ストップされる可能性が高くなってきた。
12. 潜り戸を超えて
エリカは雑貨店の奥で、祖父のノートをそっと閉じる。歯車は今もバッグの中にあるが、潜り戸を封鎖モードにしてしまった以上、簡単には解き放てない。これから先、町が封印をどう扱うかは、慎重な協議が必要だ。しかし少なくとも今は、星の夜に破壊される危険は乗り越えられた。
マキは庄司家の古文書を撫(な)でながら、「わたしの先祖がずっと守り続けてきた儀式……やっぱり本物だったんだ。たくさんの血と汗と涙でつないできた封印を、わたしたちが次にどう活かすか……考えないと」とやや涙ぐむ。
ヒカルは「町の人に危険を訴えて、工事を見直す運動が盛り上がれば、外部企業もそう簡単に開発できないと思う。星の夜が証明したんだ、適当な工事では崩壊のリスクがあるってこと」と腕を組む。
13. カシワギ老人の提案
カシワギ老人は、あの男を引き渡した後、雑貨店の奥で再び四人に向かって語る。「わしは骨董店を再開してもいいが、それより先に町に“星の音”の本質を知ってもらう方法を考えたい。学者を呼び、地質調査を進めれば、科学的に封印の存在を理解できるだろう」
エリカとマキは疲労困憊(こんぱい)だが、どこか希望を感じて頷(うな)ずく。「祖父のノートや庄司家の資料、すでに専門家も興味を示してるし、町の人を説得できる可能性は高いかも」とエリカは言う。ヒカルも「企業の金に頼らなくても、町の人たちが望む形で観光と伝承を両立する道を模索すれば、きっとやっていける」と微笑む。
14. 夜明けの星
そして、夜が明けてしばらくたった頃、再び空を見上げると、すっかり流星群の輝きは消え、朝日が町を柔らかく照らしていた。エリカは鞄の底で歯車をそっと撫(な)でる。昨晩、確かに星の夜が“本当の音”を微かに聞かせてくれた。その瞬間、祖父が求めていた真実が存在することを体感した気がする。
「おじいちゃん……。わたし、あなたの夢を守ることができたよね、少しだけ……」
マキが「今度こそ、町のみんなが星と海を大切に思えるようにがんばろう」と声を上げると、ヒカルが「うん。まだ工事問題は解決してないけど、少なくともあの男が歯車を奪って潜り戸を壊すことは防げた」と力強く応じる。カシワギ老人は微笑をたたえながら、「あんたらが夜空を守ってくれた。祖父さんもきっと誇りに思うだろう」と呟(つぶや)く。
15. さらなる未来へ
雑貨店のシャッターを開け放つと、新しい朝の空気が店内に流れ込み、ここ数日とは打って変わったような清々しさを感じる。あの男は倒れ、企業の工事は一旦足止めされる可能性が高い。そして“封印”は、星の夜の力を借りて見事に封鎖モードへ移行し、町を守る形となった。
「だけど……すべてが終わったわけじゃないよね」
エリカが小さく言う。祖父のノートには「星の音は一度でも感じられたら、また呼び起こせる」とある。もし町の人々が正しいアプローチを理解すれば、観光や歴史保存も平和的に進められるかもしれない。カシワギ老人も「わしの骨董店に来る観光客を星の音へ誘(いざな)く時代が来るかもしれん」と瞳を細める。
マキは笑顔で、「庄司家として協力する。わたしも雑貨店で星のグッズを売ったり、伝承を伝えたりできる」と楽しそうに話す。ヒカルも「学問的にも面白いし、町の活性化にも繋がる可能性がある」と明るい未来を口にする。
朝の日差しが優しく店内を照らし、ふと歯車に照り返しが走る。もう潜り戸の扉が勝手に壊される危険はない。星の夜は過ぎ去り、最悪のシナリオは回避された。
エリカは空を見上げ、祖父の姿を思い出す。海と星、そして町を繋ぐ奇跡。これからも様々な問題は残るが、封印が正しく扱われる可能性は開かれたのだ。歯車が冷たい金属光を放ち、「まだ物語は続くよ」と語りかけているようにも思える。
16. 終焉から新生へ
企業との交渉、町の復興、そして灯台や星の音の本格的な調査——やるべきことは山ほどある。だが、歯車をめぐる大きな危機はひとまず乗り越えた。あの男が再び立ち上がる力はないし、依頼人がどう動いても町の意志が団結すれば簡単には破壊されないはず。
埃(ほこり)っぽい光が雑貨店の床に落ち、マキが「よし、営業を再開しなくちゃね」と笑う。エリカとヒカルは疲れた体をほぐしながら、それでも心の底に満ちる達成感を噛みしめる。カシワギ老人は杖を突き、「封印は守られた。ただ次は、どうやって“星の音”を未来に活かすかが課題だな」と穏やかな口調で言う。
潜り戸(せんこ)が星の夜に示した奇跡は、科学と伝承の融合を成し遂げる希望を与えている。祖父のノートはその一端を明かし、庄司家の記録は守られた。この町は今、新たな未来へ歩み始めるだろう。星と海が重なり合う夜ごとに、人々はきっと思い出す——封印が破壊されそうになりながらも、正しい道を選び抜いたあの夜の出来事を。
歯車がそっと鞄の中で微かな重みを伝え、「星の音はまだ続くよ」とささやく。これが終焉(しゅうえん)ではなく、新たな始まりなのだと、エリカは確信していた——。
最終章 新たな空へ
封印の危機を乗り越えた朝。雑貨店のシャッターをゆっくりと上げると、町の路地にはさわやかな潮風が吹いていた。これまで幾度となく続いてきた雨と嵐の気配は、まるで嘘だったかのように消え失せ、空には穏やかな雲が浮かんでいる。
エリカは疲労にまみれた体を引きずりながらも、ふと外の世界を見上げ、深呼吸する。思えば、この町に来てから、本当にさまざまな出来事があった。祖父のノートと歯車に導かれ、民俗学者のヒカル、庄司(しょうじ)家を継ぐマキ、そしてカシワギ老人とともに“封印”を守る道を走り続けてきた。
あの背の高い男は転落こそ免(まぬか)れたものの、行動不能の状態で捕えられた。依頼人の正体は判明していないが、町の内外で後ろ盾を失った今、しばらくは動きが鈍るだろう。企業も「強引な工事」を一旦ストップせざるを得ない状況になり、町の人々も少しずつ「星の夜」の潜在的な危険を理解しはじめている。
そして、潜り戸(せんこ)は——
星の夜の最中、歯車を正しく噛(か)み合わせたことにより、“封鎖モード”へ移行した。昔から庄司家の記録にあった“仮封印”の一形態で、外部から乱暴に破壊しようとすれば大きな崩落を招きかねない。だからこそ“星の音”の神秘に敬意を払い、正しい手順で扱わねばならないのだ。
「結局、あの男の思惑も企業のゴリ押しも止められたんだね。まだ問題は山積みだけど……」
マキが隣でつぶやき、エリカはうなずく。今後は町の防災課や議会が、灯台と地下空洞の保護を検討する方向に動くかもしれない。外部資本に頼るとしても、“封印”を破壊しない範囲で行う計画に修正される見込みが高い。
1. 雑貨店に流れる新しい風
シャッターを開けると、パラパラと商店街を行き交う人たちから声をかけられる。「あれ、きょうは朝から店を開けるの?」と尋ねられるが、マキは笑顔で「はい、落ち着いたので」と返事をする。これまでの夜籠(よごも)り生活を思えば、少しの平和が嘘みたいだ。
埃(ほこり)や資料の山で散らかった店内を片づけると、明るい日差しが奥まで届き、雑貨がキラキラ反射して見える。エリカはカウンターの隅で、祖父のノートを手に取り、最後のページにそっと触れた。
“星の音は理と謎のあわいにあり、正しく扱う者こそ継承すべし”
走り書きのこの一文が、今や皮肉なくらい重い意味を放っている。庄司家と自分たち——つまりはマキとヒカル、そしてカシワギ老人が力を合わせ、最悪の破壊から町を守った。祖父の言葉は正しかったのだ。
2. カシワギ老人の提案
昼過ぎにカシワギ老人が骨董店のシャッターを開け始めたと聞き、エリカとマキ、ヒカルは様子を見に行く。そこには久しぶりに店を開いた姿の老人がいて、店内を軽く掃除している最中だった。
「すっかり町のみんなに迷惑かけたが、ここからがわしの真価だな。星の夜の秘宝を町に伝えていかに興味を持ってもらうか、一方で封印を安易に破壊させないか……」
老人は深いしわの刻まれた顔に微笑をたたえ、「あんたらが今回成し遂げたことは、この町の歴史を新たに変えたんだよ」と言う。
「じきに大学の専門家も呼んで、地下空洞の調査を進める案が役場でも浮上してる。資金はどこから出すか、問題はあるが……そのへんもうまくやり繰りしていこう。灯台はただの廃墟じゃなく、貴重な歴史遺産なんだと知ってもらわんといかん」
ヒカルは「僕らも手伝えるよ。町の人たちに封印や星の音の存在を伝えながら、安全な方法で観光資源にする道を一緒に模索したい」と笑顔を返す。マキも「うちの店でも関連グッズを売ったり、説明会を開いたり……まだまだ課題は多いけど、前向きに進めていきましょう」と力を込める。
3. 星の音、そのあとで
あの“星の夜”の最中に感じた低音の共鳴、あれは完全に幻になったわけではない。封鎖モードに移行した潜り戸は、星の音を外界に大きく響かせることは当分できないかもしれないが、少なくとも破壊の危機からは救われた。
エリカは雑貨店に戻ったあと、鞄(かばん)から歯車を取り出してしばらく眺める。金属の表面にはかすかな傷が増えており、激しい闘いの痕跡(あと)を物語る。それでも中枢(ちゅうすう)の歯はしっかり形を保っており、今後の再利用をうかがわせる。
「もし再び扉を開く必要があれば、今度は町のみんなに協力してもらいながら、安全に星の音を迎えたいね」
マキがそっと歯車に触れて微笑む。庄司家の伝承を次代に繋ぐためにも、この歯車は形見として大切に管理していくのだろう。
4. 企業が撤退……そして?
数日後、いくつかの事情が明るみに出て、あの外部企業は灯台の一部を勝手に壊そうとしていたことを町に咎(とが)められ、実質的に撤退に追い込まれた。強行工事の事実が発覚し、町の住民や議員たちが強く反発したからだ。
ただし、工事が完全に白紙となったわけではない。別の角度から“安全な観光地整備”を提案する動きが起こり、いずれ町主導で慎重な検討が進むだろう。夜のうちに扉をこじ開けようとした男の一件もあって、封印を乱暴に扱うのは御法度(ごはっと)だという意識が広がったのが救いだ。
エリカとヒカルは防災課や町の学術関係者と連絡を取り合い、実際に「星の夜と歯車の仮説」を解明するプロジェクトを立ち上げられないか奔走している。マキは庄司家として雑貨店を基点に町の住民と対話し、灯台と地下空洞の危険や神秘を伝え続けている。
5. 灯台を見上げる日々
そんなこんなで日常が少しずつ安定を取り戻していくある日、エリカはマキと連れ立って崖の上へ向かう。工事の途中で止まっている正面ルートは柵が厳重に再設置され、町の管理下で封鎖されている。実質、灯台には近づけないが、崖の上から白い塔を見下ろすことは可能だ。
海は凪(な)いだように静かで、空には穏やかな雲が浮いていた。もう星の夜は過ぎ、流星群は去ったが、潜り戸を封鎖モードにできた安堵が胸に満ちる。
「わたし、初めは星の音なんてただの伝説だと思ってたけど……本当にあったんだよね」
マキが笑い交じりに言い、エリカも微笑む。「うん、本当に聞けたよね。あれはきっとまだ眠ってるだけ。でも、町が安全に管理できるなら、またいつか星の夜に響くかもしれない」と。
6. 終わらない物語
祖父が残したノートに記されていた「星の音は終わりではなく、始まりを告げるもの」。封印を“正しく”扱う限り、星と海が織りなす奇跡は町を壊す代わりに、新しい未来をもたらすかもしれない——エリカはそれを強く確信する。
マキは庄司家の立場から「当主」として背負う責任を改めて自覚し、ヒカルは民俗学の視点でこの町の歴史と神秘を発掘し続けるだろう。カシワギ老人も骨董店を軸に星の秘密を外部に伝えていく意欲を燃やしている。
危機は去ったが、物語はまだ続く。海と星と人が交わる場所で、灯台はまた新しい姿を模索し、町は変化を受け入れながらも大切なものを守り抜く道を歩むだろう。
7. セレナーデの響き
夕暮れが近づくころ、エリカとマキは雑貨店に戻る途中で立ち止まり、静かに海を眺める。風が頬を撫(な)で、遠くで船の汽笛が鳴り、空には黄金色の西日が差し込む。
「あのとき聞こえた振動——あれをもう一度体験したい気持ちがある。いつか町のみんなで、封印を正しく扱って、星の音を共有できたら……」
エリカの言葉に、マキは微笑む。「庄司家も、そのために存在してきたのかもしれない。“星の夜の儀式”は危険な封印とともに、人に感動を与える奇跡を同時に守ってきたんだよね」
心地よい夕陽を浴びながら、歯車の金属片が鞄の奥でひそやかに光る。全てが終わったわけじゃない。町の工事問題や、外部の資金、そして星の夜がもつ可能性は今後も試されるだろう。
それでも、星の音を守る道は開かれた。あの封印がもう少し穏やかに受け入れられ、いつか町の人々が共に星の響きを聴く日がやって来ると信じられる。
終幕、その先のはじまり
風と星々のセレナーデ。祖父が夢に見た海と星の調和が、いま確かにこの町に息づいている。潜り戸の封印は解けてはいないけれど、安全に管理される形で未来を示した。
災厄を引き寄せるかもしれない封印が、星の夜には美しい音を響かせる可能性を秘めている。それを町がどう受け止めるか、外部からの力がどう変容させるかは、きっとこれからの物語になるだろう。エリカたちは、その始まりの瞬間を守り抜いたのだ。
雑貨店に戻った三人と老人。夜が降りれば、もう流星の大量発生はないかもしれないが、星はいつだって空に存在する。あの深い洞窟の底でかすかに感じた“音の揺れ”は、彼らの胸に永遠の調べとして刻まれた。
そして、町の人々が朝を迎えるたびに、新しい一日が生まれる。海鳴(うみな)りと星々が交響するセレナーデは、今もまだ続いているのだ。物語が終わったわけではなく、これが真の“新たなる幕開け”なのだから。
──終わり、そして未来へ──