1111⑥
これはあくまで「小説」です。全部うそ。全部うそということも含めて、全部うそだよ。私の闘争です。
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今回毒親の描写が続くので、トリガーアラート出します。殴ったりとか身体的暴力はないけど、毒親の描写むりな人は読まないでください。(追い詰める系です)
宗田の両親はロビーで葬式の話をするのを嫌がり、2人の部屋で打ち合わせを行っていた。小さなビジネスホテルの2名シングルルームという小さな部屋に、私と葬儀会社の社員2名を入れた計5名がキュウキュウに入って打ち合わせを行った。香典返しの数や、料理の数や種類も、私が決めていった。私しか、宗田の友人関係や人数、規模感を把握していなかったのだから当たり前だ。まるで喪主のように私が決めていく。むかし、宗田が私に話したことがあった。
「もしも私が死んだら、お母さんは私のことを何も知らないから、築地さんが両親と一緒に葬儀の段取りをお願いします。洗礼を受けていないからカトリックのお葬式はしてもらえないし、うちは実家が珍しく真言宗だからなんかゴリゴリした葬儀になっちゃうと思う。いわゆる浄土真宗とは違うんだけど、でもその範囲内でお願いしたいことがあるし、呼んでほしい人もいるから、よろしくお願いします」
葬儀屋からのいくつかの質問を形式的に回答していき、金額が提示された。150万は越えていて、私はきちんとしたお葬式の価格の高さに少しびっくりする。両親は金額を見て問題ない、といった様子で見積もりを承諾した。
そうやって無事にこの葬儀屋に依頼することが決まった。(当たり前だ、私がネットで血眼で探したんだから。)
「それでは、遺影の候補だけ、メールにてご送信よろしくお願いします。」そう言って、葬儀屋は帰っていった。
「遺影をね、どうしようかと思って。築地さん何かいいのを持ってる?」母親はそう言うと、驚きの言葉を続ける。「15歳の時の写りのいい写真があって、可愛いからそれにしようかとも思うんだけど。他に最近の写真でいいのがあればそうしたいけど、築地さんいいのを持ってる?」
じゅ、15歳…?次から次に出てくる気味が悪い話に頭がおかしくなりそうだ。私は、宗田自身が開催した生前葬で本人が選んだ遺影候補の写真数枚を両親に提示した。それらは本人が甲乙つけがたいと言っていて、どれもとても可愛らしかった。
「うーん…あんまりこれじゃ本人の顔っぽくないから、これらはちょっと…。写真を加工してるのかな?化粧が濃いわね。京都に出てきてからの写真は、どれもなんかまゆちゃんじゃないみたいよね。知らない人みたい。やっぱり、15歳のじゃだめかしら?これしかないって言ったらいけるよね?」
母親は、母親の中にある宗田のイメージには無い、大人になって京都に出てきてからの宗田の写真を気味悪がった。本人が遺影候補にした写真なのに、故人の意思を尊重する気が全然ない。母親は、あくまで母親の中にいる宗田のイメージに近いものでないと納得しないようだった。15歳、中学3年生。従順で忠実な娘を必死にやっていたと本人が言っていた・・・。従順で、忠実じゃないと、車が必須の山奥の家からは、買い物に行くことすらできないから。高校を経て、大学進学で京都にエスケープしてきた宗田のことを、母親は「京都に出て変わってしまった、送り出したのは間違いだった」と漏らしていた。私と宗田は生前からこの発言に対して、ヤバすぎる/怖すぎる、と慄き、京都に出てくることで支配から逃れ自由になった宗田を寿いでいた。母親にとっては自身に反抗的な態度を示しだす以前の、15歳のころにこだわりがあって、その写真を遺影にしようとするのだろう。でもたぶん、無意識に。きっとそういうものなんだろう。
私も、このお葬式はそもそもカトリック式ではないのだから、故人の意思も何も、この葬式自体が生きてる人のための儀式であることを思っていた。「15歳のころの写真じゃだめかなあ?」
しかしな、15歳の写真ってのは、絶っっっ対にだめだろ。キモすぎるよ。
「えっと、亡くなる3日前に、月蝕をバックに撮ったポートレートがあります。いまはここにありませんが、帰宅してPCの中に。ちょうど最近編集作業中だったのですが、すごく写りがいいと思っていたので、そちらから見繕わせてください。」
「ああ、それ、私が振り込んであげたお金で買った服で写ってるやつでしょう!当日すぐにLINEで送ってくれたのよ。お母さんがお金をくれたので、このお洋服が買えましたって。ああ、それがいいわ!またあとで私に送ってね」
もうずっと、吐き気が止まらない私である。
「築地さんお疲れさま。夕飯をごちそうするから一緒に食べましょう。築地さん、ごはん屋さん探してくれる?」
あーもう、ご飯屋さん探しも、私にさせるのか。はーもう、なんでもいいや。はい、やります。思考停止して一刻も早く帰りたい私は、大人しく命令に従う。
そう、このあたりから母親の”お願い”はすべて私への”命令”だったと、今となっては思う。拒否権は、実は用意されていない。母親は、わたしに拒否権を用意する気も無いし、私たちの間にある権力勾配を無視して、同じ立場のように振る舞いながら、私を実質的に支配してなんでも思い通りに動くように命令していた。
夜ご飯。まずわたしは、このあたりの徒歩圏内では無難で手軽なものは中華料理や韓国料理ばかりだ、と伝えた。このタイミングで両親には年齢的にも状況的にもコッテリ系はきついのではないかと伝えたが、中華でいいという話になった。かくいう私のほうは全然中華など食べられる気がしなかったのだが、御馳走してくれるということだし、食べられなければ食べなければいいと思って同意した。中華屋で母親には何度も着信が入った。そのたびに母親は一旦店を出て、外で電話の対応をした。警察や葬儀屋からの今後のスケジュールや見積もりなどの事務連絡が来るのだろう。電話が来る度に母親は店の外に出て行った。内容を聞かれるのを憚ってのことだろうと思ったが、店の人には何度もチャイムが鳴るので、迷惑そうに睨まれていた。
母親が退店するたびに、席には父親と私が2名で着席している状態になり、非常に気まずい時間が流れた。この男と仲良く談笑する気は本当にない。なんならわたしの腑は煮えくりかえっている。睡眠不足と思考停止でぼーっとしたいるわたしは、父親の顔面に水をぶっかける妄想が止まらない。ーーこの偉そうな、男尊女卑の、家父長制の煮凝りみたいな男。水をぶっかけたら、どんなことになるのかな…。ーー
でもそんなことをしたら、私は葬式に参加できなくされるだろう。葬式の諸々の決定に、ある程度意見できる立ち位置に食い込むなら、こいつら両親には平身低頭、忠誠を見せて信頼されておくことが大事だ。喪主のように様々なことを代行している私だが、両親の一存で一瞬で葬儀にまつわるあれこれから排除されるであろうことは想像に難くない。要は、言うこと聞くなら参加させてやる、の状態だ。いいんだ、それで。だってわたしは、宗田本人から生前、葬式や遺品に関してのいくつかの要望を聞いていたから、それを実現しなくちゃいけないのだ。あの子は、生きているころから普段の雑談の中でいつも、自分が死んだらということを何度も、細かく、様々に私に伝えていた。
そんなことを黙々と考えながら、わたしは案外、中華を食べられていた。中華料理すごい。ほとんど何も口にできずにいたのだが、中華料理を目にして、お腹が鳴った。食欲が湧いた。青椒肉絲、麻婆豆腐、チャーハン。食べられる。嬉しい。
1日4箱前後のとてつもない量のアメスピと、1日1.5Lくらいのコーヒー、たまに少しだけコンビニのハムのサンドイッチをつまんで過ごした数日間だったので、食欲が戻ったのが嬉しかった。
さて、その中華屋の麻婆豆腐だが、中国の方が経営するお店だったので非常に辛かった。私は何度かウォーターサーバーに水を汲みに行った。何度目かの離席で、父親のお冷グラスがとうにカラであることに気づいた。父親の顔色をこっそり窺うと、汗が出て、なんか辛そうにしている。アンタも水が必要なんじゃないか…?
しかし彼は、水を汲みに行く私に対して、自分もお願いしますと言うことはなく、また、自ら離席してウォーターサーバーに向かうこともしない様子だった。
わたしは、絶対に絶対に絶対にこいつの水を汲みたくない!!!こいつに気を遣いたくない!!!こいつに、水要りますか?って聞きたくない!
父親の、敬われて当たり前ケアされて当たり前という態度や、その内面化した自意識を心の底から嫌悪した。そして母親側も、電話に出てる間は築地さんが父親をケアしてくれるだろうそれが当たり前だと判断しているのも感じたので、また嫌悪した。家父長制が人生と価値観に溶け込んで融合していて、その自動性に乗っかってるから、こういう人間が出来上がる。
ねえ?だってねえ?他人の父親のケアなんて、なんで私がしなきゃいけないんだって話じゃないですか。当日からこの瞬間に至るまで、私のことは誰がケアしてくれたって言うんですか…?彼らがそれ(私が父親のケアを自動的にすること)が正しいと思い込んでいるとしたら、それって私が若い女で、向こうが宗田の両親だからっていうことじゃないか。その自動性に乗ってたまるかよ。
顔を真っ赤にして、水が欲しいとは言わず、誰かが水を汲んでくれるのを待っている状態の父親。しかしその状態に苛つく様子はなく、ただただ、水の不足という問題を長年自分では解決してこなかったから、水が不足しているなら汲めばいい、ということを思いついていない状態だ、と気づいて私はショックを受けた。この人は何年、自分で水について自発的にならずに来たんだろう・・・・。と、ここで退店していた母親が席に戻ってきて、着席するより早く伴侶の水を汲みに行ったのだった。
地獄のような中華屋での夕飯を終えると、父親が私の手に紙幣をねじ込んできた。「入用だと思うから、貰っておきなさい」私の手の中には5,000円札があった。「ありがとうございます・・・」礼を言いながら、既に3万円以上出費している私は大きくため息をついた。この人たちって、本当に・・・。
「じゃあ、明日は11時ごろに、宗田の自宅に集合で、みんなで遺品整理をしましょう。おつかれさまでした。」
やっと解放された私は、もはや乗り換えや電車賃すら何も考えずに無心で家に帰りたかった。少し歩いてタクシーを捕まえると、そのまま家まで直行で帰った。5000円は交通費でほとんど無くなった。
帰宅して、数日ぶりに米を口にしたこともあってか、その日の晩は多少の眠りにつくことができた。眠りながらも、止まらないアドレナリンか何かの作用で心拍数はずっと高いままで、脳は興奮状態から解けなかった。30分ごとに目を覚ましては、50分かけてまた眠るような睡眠を繰り返しているうちに、あっという間に次の日の11時が迫っていた。それでも、睡眠がとれて体は楽になり、とめどなく出続けるアドレナリンのおかげで、頭は冴えていた。
私は友人の車を借りて、遺品整理に向かった。大量のロリィタファッションを、葬儀でできるだけ知人友人に配りたかった。それらの懐古ロリといわれる2000年代前後のロリィタメゾン華やかなりし時代のアンティークなお洋服たちは、絶対に実家に戻されて墓前に供えられて死蔵されることを望んではいなかった。お洋服たちは着られるためにこの世に生まれてきたのだから。お洋服たちの人生の一部に宗田を経由した時間があって、その時間が終わったということだから、次に着てくれる人たちの元へ、私が責任をもって繋げていかなくてはならない。これはお洋服のためであり、この考えをもってお洋服を愛した宗田のためでもあった。私は、全ての遺品を最終的には引き取って、日本中、世界中の次の人へ渡すつもりだった。まるで、臓器提供のように。全ての行先を決めてあげるのだ。
限界を超えた体で、宗田の自宅の遺品整理に向かう。
つづく