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『裸のニッキー』 長編恋愛詩(1/3)

あらすじ ―― アメリカ、ネバダ州。湖での釣りキャンプの最中に友と戯れに訪れた『Girls Dance』。砂漠の街での予期せぬ出会い。すべてが不思議な美少女はいったい何者? わからぬまま〝僕〟は恋に落ちる。

恋、してますか?

恋ってなんですか?

長いながい恋愛詩 


第一部 踊る少女 
Act-I: GIRLS DANCE


 人は人に出会うとき、だれもが必ず主人公プロタゴニストになれる。今日の主役はもちろん僕と、そしてもうひとり――背中に〝愛〟を刻んだ裸のニッキー。 

第一景 セイジの香火インセンス、あるいはローズマリィの艶香アロマ


 愚図で愚鈍な子供のように、頭上いっぱいに広がる星空に――、

「なぁ、ケイちゃん‥‥‥いつもこういうもんなの?」

 僕は同じ溜息ばかり吐きかけつづけていた。

「だからぁ!」

 友人の圭も、焚火のぜる音に乗じて――、

「何度も言っているようにぃ! そんなわけありませんって!」

 飽きもせずに同じ弁ばかり繰り返していた。

「考えてみてくださいよ? いつもあんなだったら、それこそ町じゅうの男たちが押しかけますって!」

「フフフ‥‥‥だよ、なぁ~‥‥‥」

 僕はしばしニンマリ笑いになり、だが次にはしかめっ面をブルブルと横に振る。

「いやいや、ケイちゃん! ヴァンパイアなんだよな? ヴァンパイアとかって言ってたろう?」

「違いますって! あれは違いますよ!」

「そう? ‥‥‥俺もさぁ、どうにもヴァンパイアなんてふうには思えなかったんだよなぁ‥‥‥だってさぁ‥‥‥」

「フンフン?」

「キス‥‥‥されたよ」

 聞くなり圭は、丸顔をさらに丸くし――、

「やっぱりそうでしょ! Oh, my!」

 両手でピシャリと膝頭を叩いた。こういうとき、この男の日本人らしからぬ〝口髭メキシカン〟の風貌は、さらに〝本物〟になる。

「そうじゃないかと思ったんですよ! 彼女、うまく髪で隠してましたね!」

「うん‥‥‥」

「本当に?」

「うん‥‥‥」

「どこに?」

「どこにって‥‥‥あちこち?」

「Oh, my! まったくう!」

〝アミーゴ圭〟は大げさに両手を広げてけ反り、そのまま器用に背後の薪山に手を伸ばし――、

「なんですか! そんな罪のない幸せそうな顔して! ありえませんって!」

 言いながら、小枝の束を鷲掴み、揺り戻す反動とともにズイと火中に突き入れた。

 とたんに爽気アロマが鼻孔にまとわりつく。パチパチと爆ぜるブッシュセイジは、なんの躊躇いもなく、その内に秘めた濃密な香気を解き放つ。

 僕はこのストイックな〝砂漠の香火デザートインセンス〟がまったく嫌いではない。安物ウオッカStolichnayaストリチナヤの小瓶は半分ほどになっていたろう。

「あの子はねぇ――」

 と、火を突きながら圭はつづける。

「うん、いい子ですよ。ああいうところのナンバー・ワンは、どこでもたいてい金髪グラマー女なんですよ。でも、あの子は黒髪でスレンダー。ナンバー・ワンじゃないでしょうけど、それでもかなりの人気者なはずですよ。だって可愛かったですもん」

「な? 可愛かったよな?」

「ええ、だからもう何度も言ってますって。可愛かったですよ、フフフ」

「でも、あれだろう?」

 と、僕はまた神妙仮面を着けなおす。

「あれもプロの技かもしれないわけだろう? 名前も、Real?って訊いたら、ウン!って言ってたけど、嘘かもなわけだろう?」

「名前はねぇ、ああいう場所だと、まぁ本当じゃないでしょうけど‥‥‥本当じゃないと思いますけど‥‥‥」

 キラリと目を輝かせ、一転、圭は唾を飛ばす。

「とにかくですねえ! 触っちゃ駄目なんですよ! 絶対に! キヨさん触りまくってたでしょう? あれは駄目ですよっ!」

〝駄目〟が〝Damn!〟に聞こえ、僕は気圧される。

「で、でもさ、一番に訊いたんだぜ? 最初に背中に軽く手を当ててさ、Can I do this?って。そしたら、彼女、ウン!って言ったからさ‥‥‥しかもその声がさぁ‥‥‥」

 そこで、だから愚図で愚鈍な子供のように、僕は星空を仰ぎ見るのだ。

「その声が‥‥‥なんて言うか‥‥‥明るくって‥‥‥元気よくってさぁ‥‥‥」

「フンフン?」

「聞いたこともないような、ちょっとハスキーな高い声で‥‥‥」

「フンフン?」

 まったく聞き上手な友なのだ。旅に出たときの僕らは――近隣のカフェでも同じだが――いつもかしましい女の子たちのようになった。

「いや! いやいやいや!」

 と僕は強引に首を横に振る。

「触ったのは、だから彼女がウンって、Mm-hmmって言ったからで! First timeだって、こんなところ初めてだって、ちゃんと言っといたんだから!」

「途中でマネージャーに怒られてたじゃないですか? 笑っちゃいましたよ!」

「怒られてないよ! Don't touch!って言われただけ!」

「ほら、やっぱり怒られてるじゃないですか。フフフ、恥ずかしいなぁ、駄目ですよ」

「でもさ、あの子‥‥‥庇ってくれたよ。It's his first time!って、マネージャーに言ってくれた」

「へぇ、それは‥‥‥」

 少し声音を落とし、圭はまた背後の小枝の山に、今度はゆっくりと手を伸ばした。

 久保圭一郎は、高校からアメリカに留学している男だった。それゆえネイティブばりに英語を操る。渡米の時期が高校卒業以前か以後かで、身につく英語には天と地ほどの差が開く。

 最初に住んだのはカリフォルニア州の南端サンディエゴ。大学が北のサンフランシスコ。もう二〇代も半ばをとうに過ぎていたが、大学の卒業制作をやっている最中で、エキゾチックダンサーたちにカメラを向けるルポルタージュをやりはじめたところだった。

 エキゾチックダンサーというのは、まぁ、その手の女性たちだ。わかるだろう? 本来ストイックでスピリチュアルなはずの〝砂漠のキャンプ〟のスケジュールにそんな場所をねじ込んだのも、だからこの男だったわけだ。

 そうそう、圭はたっぷりした長髪を後ろに束ねている。たまにそれを解いて、黒いヘアゴムを指で巧みに操りながら浪人侍のような髪型を作り直すのだが、その一連の所作を見るとき、僕は胸がときめいた。「ときめいた」というのはちょっと違うかもしれないが、なんだか黙ってじっと見つめてしまい、気恥ずかしいような、うらやましいような、不思議な感慨が湧いて、胸が‥‥‥やっぱりときめいた。

 彼の口癖は「フンフン?」と「本当」。「フンフン?」のほうは、ほぼ英語のMm-hmmやUh-huhのイントネーションのままで、「本当」のほうも同様に、英語ふうに二重母音が強い。

「ホントウなら」と口癖のように出てくるのは、彼がなんにつけ〝正統性〟に拘わる質だからであり、僕はいつもそこに彼の〝育ちの良さ〟と幾分の〝複雑さ〟を嗅ぎ取っていた。

「へぇ、それは‥‥‥本当にいい子なんですねぇ」

 と、圭が小さくつぶやく。

 店の者にたしなめられた僕を、ダンサーが〝庇ってくれた〟という話をしていた。

「そう? なの? 本当に? いい子なの?」

「そうですよ」

 照れずに、斜に構えずに、この友は真摯に語るのだ、なにかにつけ。

「まずですね、他の女たちの目を見てわかったと思いますけど、全部で一八人いて、そのうちのほとんどがカネのことしか考えてないヴァパイアだったでしょう? ちゃんとこっちの目を見もしないで踊ってたでしょう?」

「うん、そうだった。ケイちゃんの言うとおりだった。〝目を見ない〟っていう意味、よくわかった。見てても、見ていない」

「でしょう。でもあの子は、ヤバイくらいじっと見つめてましたよ、最初キヨさんの横に座ったときから、キヨさんのこと。他の女たちとは違ってましたもん」

「うん‥‥‥そうなんだよなぁ~」

 安物ウオッカ小瓶の口を噛んで――、

「なんだったんだろう‥‥‥なんでなの?」

 僕はセイジ小枝を拾い上げ、火中に放った。

 気付けば、白い石塊いしくれで組んだ竈では、厚切りベーコンが二枚、フライパンの上で〝頃合い〟を訴えて身悶えしていた。 

「だいたい、ああいう店はですねぇ」

 言いながら圭は、おもむろに傍らのプラスチックバッグを引き寄せ、サワドーブレッドの太い一本を掴み出し――、

「女の子たちに厳しいですからねぇ」

 と言ったところで黙り込んだ。

 口髭を曲げながらレザーベストのポケットから赤いアーミーナイフを取り出し、サワドーブレッドの真ん中に刃を刺し回して二つ割りにし、それぞれの重みを計るようにしながら、双方に水平に切り込みを入れた。

 日本で言う〝フランスパン〟の大振りなものを思ってもらえれば、ほぼこの〝サワドーブレッド〟になる。ただし、スーパーマーケットでもグロサリストアでも、サンフランシスコの街なかで買うものはどれも決まって酸っぱい。

 新参の日本人は、最初その酸っぱさに驚き、「酸っぱいから〝サワドー〟と呼ぶんだな」と思う。だがやがて、なにかの拍子にSourdoughとは〝パン種〟のことだと知ってハッとする。が、それでもまだ足りない。さらにまたなにかの拍子にSourdoughには〝開拓者〟や〝探鉱者〟という意味もあることに気づいて、ようやくそれが、この街のゴールドラッシュの歴史を着せた西部劇的ワイルドウエスタンなパンであったことを知るに至る。

 そのころには――、

「俺もこの街に住んで丸二年、いや足掛け三年だもんな、ふふん」

 と、わかった気になる。だが、実はまだまだ足りないのだよ、ふふん。

 そもそもの〝なぜこんなに酸っぱいのか?〟という疑問が残っているはずなのだが、二年や三年ではなかなかそこまで頭が回らないのだ。

〝当たり前〟が二つある。

 サワドーが発酵パン種の酸味どころではなく酸っぱいのは、焼くときに酢を入れてあるからだ。当たり前だろう?

 では、なぜ酢を入れたりするのか? 答えは、それがこの街の人々にとっての〝うまい〟だからだ。当たり前すぎる?

 だが、そんな当たり前の数々は、旅行者や駐在員の期間を大きく超えてこの広大無辺の地に暮らしてみなければ、本当に理解できやしないのだよ。

 それは同時に、日本に生まれ日本に生きてきた自分が、どれほど〝受け身パッシブ〟で〝自分なしセルフレス〟だったのかを思い知ることでもあって、ようは恥ずかしい思いも、悲しい思いも嫌ほど味わわなければならないのだが、それでいいのだ。

 なぜなら、酸っぱいパンはやがて〝それ以外は考えられなくなる〟ほどに、うまくなるのだから。

 サワドーブレッドの切り開いた面をフライパンに押し付けて脂を染ませてから、分厚いベーコンを乗せ、広口ガラス瓶からスティックピクルスを取り出して一緒に挟む――圭は出来上がったひとつ目を、口髭を斜めにしつつ僕に差し出した。

 すぐには受け取らないのだ。焚火の前で二本のフォークを器用に片手使いする男の姿に、そして始終目を逸らし気味にした彼の表情に、〝メヒコMEXICO〟の雰囲気が色濃く漂うのを、僕は楽しむのだ。

「Gracious, Signor Kay!」

 鱒が一匹も釣れなかったときはそんな夕食になる。愚者たちはケチャップもマスタードも買い忘れていたのだが、ベーコンの塩味とピクルスの酸味で「ノ・プロブレモ! ムイ・ビエン!」だ。キャンベルのチリビーンズ缶もあったが、手は伸びない。この際既製品は味わいに欠く。

「だからですねぇ、ああやってですねぇ」

 ベーコンサワドーサンドを歯でむしり取るようにして頬張り、モシャモシャポリポリまったくいい音を立てながら、友はようやく話のつづきに取りかかる。

「ああやって女の子たちは、一人ひとり稼いで、毎晩店にいくらか払ってるんですよ」

「へぇ、ステージで踊っていくら――ってわけじゃないんだ?」

「そうじゃないんですよ。店に雇われて給料もらってるんじゃなくって、だから女の子たちはみんなライバルなわけで、仲悪かったりするんですよね」

「へぇ~‥‥‥でもさすが、ああいう女の子たちを撮りはじめただけあって、詳しいね、ケイちゃん。ただのマニアじゃないね!」

「当然ですよ!」

 褒めそやすのは本心からだが、話に〝拍車〟をかけるためでもある。

 マニア――つまりこの男の〝女好き〟には、尋常ならざる気配があった。「気配」なのは、まだその片鱗しか明かされてないからだ。僕は決して同好の士ではありえなかったし、今ひとつ理解できもしなかったが、圭が僕の〝親友〟であることに嘘はなかった。

 ひとつには、この男が根っ子のところで至極真っ当な人間だと感じていたからであり、さらにもうひとつ、そんな〝風変わりな友〟を持てることこそ、アメリカに住んでいることの恩恵だと思っていた。彼の笑顔も、弾むような独特の歩き方も、まったくもって嫌いではなかった。

「そもそもですね! ああいう店はですね!」

 拍車を得て、馬はいななく――、

「オンナのラタイを! ビジュアルで楽しむところなんですよ!」

〝裸体〟を口にするとき、〝女〟も同様に、この男は胸の内にある疼きを隠そうとしない。広大無辺な星空の下、世界はこの男の独壇場だ。湖の女神も赤面していたにちがいない。

「触るのは絶対駄目! ましてやキスするなんて! ありえませんよ! 何度も指名してあげて、同じオンナにひと晩二〇〇ドルとか使って、週何回も通って稼がしてあげて、それでもああいうのは〝あるかないか〟ですよ!」

「そう‥‥‥なの?」

「キヨさん、あの子にいくら使いました?」

「いくらかな‥‥‥入口エントランスでケイちゃんと一緒に両替してもらって‥‥‥」

「一〇ドル? 二〇ドル? 三〇ドル? そんなの〝たった〟ですよ! 僕がチップあげても、彼女キスしてくれませんでしたもん!」

 おどけ風味の尖った口ぶりに、幾分本気が匂わないでもなかった。

「彼女はね、気に入ってたんですよ、キヨさんのこと。そうじゃなかったら僕が狙ってますよ。可愛かったですもん。ちょっと通えば絶対仲良くなれますよ、あれは、俺から見ても。通います?」

「ええ? 通わないよぉ! 怖いなぁ。仲良くってなによ? しょせんヴァンパイアなんだろう?」

「まぁ、そうですけどね、たいていのオンナたちは‥‥‥まぁ、そうですけどね‥‥‥」

 ゆっくりと薪に手を伸ばした友を見ながら、僕は――、

「とにかくさぁ‥‥‥」

 ため息を吐く。

「驚きだよね‥‥‥話聞いただけじゃわからないよね、あんなところにあんな女の子がいるなんて。俺の年齢とし聞いてびっくりしてた。若く見える――って」

 友の手がピタリと止まる。

「なんです? 年齢なんか訊かれたんですか? あの子いくつですって? 相当若いでしょう?」

「知らない」

「でも訊いたんでしょ? 彼女の年齢、キヨさんが先に」

「いや、訊いてないけど」

「え? 訊いてないのに、向こうから訊かれたんですか?」

「そう、だけど?」

「へぇ、いいじゃないですか‥‥‥いいなぁ」

 圭は小枝を焚火に突き入れる。

「なに? 年齢訊かれるのも〝ない〟ことなの?」

 乱暴にかきまわされた焚火から大量の火の粉が舞い上り、いったんは星空に混じりそうになりながら、四方八方散り散りに消えていった。

「まぁいいですよ。それで?」

「うん。まぁ、とりあえず三つくらい鯖読んでみたんだけど、No! You look much younger!って、驚いてた」

「なんですかそれ? 嘘ついたんですか? ハハハ、キヨさん、可愛いとこあるなぁ」

「いやいやケイちゃん、そうじゃないよ! そうじゃないでしょ? あんな|とこで本当のトシ言ってどうすんのよ――ってことだろう? ケイちゃんに脅かされてたからさ、本当を言っちゃいけないゲームのような気がしててさ」

「そうですけどね。たいていはそうですけどね」

「うん、だから、彼女はさ‥‥‥本当のこと言っててくれてたのかもしれないけどさ‥‥‥俺は‥‥‥だから‥‥‥」

 だからやっぱり、愚図で愚鈍な子供のように、夜空に呆けた息を吐きかけるのだ。

「もう、あれだよぉ‥‥‥なんだかいろんなこと話したからさぁ。本当に〝本当〟を言ってくれてるなんて、そんなふうに信じちゃうとさ、ゲームがゲームじゃなくなりそうで、それこそ嵌ってしまいそうな気がして‥‥‥もう、あれだよぉ‥‥‥わけわからんくなった」

「ハハハ、いいじゃないですか。そんなに楽しんでもらえて、誘った僕としてはホントウに嬉しいですよ」

 他意も二心もなくそんなセリフを口にするこの男が、僕はやはり嫌いじゃなかった。素直にはにかみ笑顔を作り――、

「まぁもちろん、ゲームの面ももちろんありますけどね――」

 演説をつづける友に耳を傾ける。

「だけどそれ以前に、あれは仕事なんですよ。あそこで踊っている女の子たちの〝仕事〟なんです。でも仕事だからこそ、少しでも自分の好みの男を見つけようとするんです。フィーリングの合いそうな、嫌な思いをしなくて済みそうな相手を、いつもカーテンの奥から――」

 だが僕の集中はつづかない。

「あうう!」

 頭を抱えて悶絶する――、

「だいたいなんであんな女の子が! あんなところに! だいたいなんであんなことを!」

「でもキヨさん、考えてみてくださいよ。あの子があそこで踊っていなかったら、この出会いはありませんでしたよ? ああいう場所だからこそ、ほんの一時間やそこらで、こんなに深い思いを残せるわけでしょう? 普通の日常では〝ない〟ことですよ。だいたい普通程度のレベルの女の子には、あれはできないことなんですよ。案外昼間はジョギングとかスポーツジムとか通って、ちゃんと身体鍛えてますよ。それに意外と大学生なんかもいるんですよね。ただあれが〝一番得意なこと〟なんですよ。売り子とか事務とか、できないんですよ」

「たしかにねぇ‥‥‥あの子も、あんなダンスも‥‥‥あんな‥‥‥あんなして俺を巻き込んでのパフォーマンスも‥‥‥普通じゃありえないよ」

 風のない夜だった。もっとも砂漠に風が吹くときは、決まってテントが吹き飛ばされて湖面に消えてしまうほどの暴風なのだが。

「それにさ‥‥‥うん、どんな仕事をしていても、いい女はいいし、嫌な女は嫌だし、俺としては人間の価値と魅力はそんなところにはないと思ってる。いや、今日はっきり、あらためてそう思った。ヌードダンサーってさ、格好いいよ!」

「キヨさん、通う?」

「通わないって!」

「明日の朝どう言うか、楽しみにしてますよ、ハハハ」

 笑いながら圭は、フライパンを砂の上に移し、小さくなった熾火おきびの上に、最後まで取っておいた大ぶりのローズマリィブッシュをドサリと置いた。

 天然の艶香アロマが鼻にまとわりつく。セイジよりもずっと甘く強い香りに包まれながら、心なしかピンク色を帯びて塔のように真っすぐに立ち昇る煙を追って、僕は空を見上げ、その夜三千回目の大きな溜息を吐いた。

 見ていた圭が、レザーベストのポケットからごく小さなケースを取り出し、つと差し出した。

「鼾がうるさいらしいんですよね」

 僕はそれを――、

「いや、いいよ。大丈夫」

 一旦は受け取らず――、

「いや、やっぱりもらっとく」

 受け取り、友のはにかみ笑顔に応えておいてから――、

「そう言えばさ‥‥‥」

 と、三千一回目の溜息に乗せて言った。

「あの曲なんだった?」

「あの子が踊ったやつですか?」

「うん‥‥‥最初のステージのやつ、高音キンキンの」

「たしか、プリンスの『パープルレイン』アルバムに入ってたやつだと思いますけど」

「ただなぁ‥‥‥あれがなぁ‥‥‥哀しかったなぁ」

「なんだったら、帰ってから、見つけてダビングしますよ。悲しかった? あれが?」

「いや、そうじゃなくさ、ほら、あの背中のタトゥー。あれ、なんだか哀しい匂いがした」

「ああ、〝愛〟ですもんね。ジャパニーズ・タトゥーだって、彼女最初に言ってましたね。中国語でも同じだろうけど。悲しかった?」

「いや、なんでだかわからないけど、なんだか‥‥‥」

「フンフン?」

「いや、いい。わからない、な・に・も・か・も・わ・か・ら・な・い!」

 僕は渡された耳栓を取り出してみる。柔らかい素材のそれをひねり潰すのを、圭は黙って見ている。

「わからないけど‥‥‥あれは日本語の書体だった。チャイニーズのタトゥーなら、あんなすっきりシンプルじゃない。やっぱり彼女、俺たちの会話少しわかってたんじゃないかな。わからない――って言ってたけど」

「なんだったんでしょうねぇ。なにかありますよね、あの子。でなきゃ俺たちのところになんか来ませんよ」

「来ないかな?」

「来ませんよ。二人して日本語しゃべってるところに、『なになに? あなたたちなに話してるの?』とかって、あんなして入ってきませんよ。俺たち金持ってるふうじゃないし、キャンプ途中で汚れだし、俺長髪、キヨさんバンダナで、二人ともひげで怪しいし」

「ハハ、ひどいね! まぁ、そうだけどさ。そういや、名前訊かれたときも、ちょっと変だったんだよな‥‥‥」

「なにがです?」

「いや、うん‥‥‥あうう‥‥‥」

「なんですかそれ?」

「いや、まぁ、なんにせよ、あのタトゥー、おそらくだけど‥‥‥たとえば日本の男と付き合ってたとかじゃないかな?」

「こんな場所で?」

「いや、なさそうだけど、だったりしたんじゃないかな――って。でもってその男が、俺にどっか似てたりしてたんじゃなかろうか。それであんな‥‥‥あんなに‥‥‥あううう‥‥‥」

「でも彼女、日本趣味のような雰囲気ありませんでしたよ?」

「微妙なこと言うね、ケイちゃん。観察鋭いね」

「フフフ、そりゃ、カメラマンですからね。ちょっと顔に出ますもんね、日本人と結婚してたりすると、奇妙に」

「うん。だけど彼女、そんなんじゃなかったよね? 目も、口も、表情も、そんな感じぜんぜんなくって‥‥‥あうう‥‥‥」

「Arghhh?」

「もっと、こう‥‥‥なんて言うか‥‥‥あっけらかんと真っ直ぐで‥‥‥あううう‥‥‥」

「だから、さっきからなんですか、そのArghは?」

「あうううっ!」

「ハハハ、まったく。字の意味はちゃんとわかってたみたいですから、いろいろ考えられますよね。普通の感じだと、約束とか」

「約束? あんな若くて?」

「年齢は関係ないでしょ。よくありますよ、アメリカの約束のタトゥー。とにかくなにかあったんでしょうねぇ」

「でもさぁ‥‥‥厳しいよなぁ!」

「厳しい?」

「だってショーガールだぞ! エキゾチックダンサーだぞ! 俺はヌードダンサーに恋するのか!」

「フフフ、いいじゃないですか。俺は止めませんよ」

「止めてくれえ!」

「フフフ、俺はただ、キヨさんをあそこに連れていっただけで――」

「そうだけどっ! だけどまさか! あんなのがいるなんて!」

「フフフ、You never know what's gonna happen next.」

「一寸先は闇――って? 砂漠の湖で『Trout Fishing in America』しに来ただけなのに‥‥‥」

「先は〝闇〟なんかじゃないですよ。You never know――アメリカ的には、ただ〝わからない〟ってだけで、いつだってPositiveですよ」

「でもさ、俺たちが店出た後、彼女辛い思いしてないかな?」

「Huh? なんでです?」

「だってさ、ほら、俺の後にさ、でかい白人親父がステージの向こう側にやって来て、彼女に言い寄ってたろう? 『オレにもアイツと同じことやってくれよ』みたいに、こっち指差して。そんで彼女につれなくあしらわれてたろう?」

「必死に断っていましたね、彼女。膝立ちで両手広げて、I don't wanna do it!って、言ってたと思います」

「それにほら、若い白人のヤバそうな奴ら、カジノから流れてきた酔っぱらい連中、後ろのほうにいたろう? あいつらに『おめぇ、イエローが好みなのかよう!』とか野次られてないかな?」

「ふうん‥‥‥へぇ‥‥‥」

「なに? よ?」

「いや、そういうことまで考えるキヨさんって、すごいというか、感心するというか‥‥‥」

「だってさケイちゃん! 名前聞いたときドキンとしたもの! あんな下品なうるさい場所で!〝きれい〟から究極的に遠いような場所で! I'm Nikki!って! ちょっとハスキーな高い声! はっきり耳に聞こえたもの! 見たことないような素敵な笑顔で! あんな、あんなこと! ああああ!」

 恋愛まで一五センチを売るのが彼女の仕事のはずだった。だのに少女は、最初からなんの躊躇ためらいもなく、僕に〇センチまで近づいてきたのだ。

 ニッキーがどんな女の子だったのか、もっと話させてほしい。

* * *

第二景 ヴァンパイアたちの宴、あるいは左側にニッキー


 そこはもともと、砂漠に咲いた一輪の徒花あだばなのような、現実味リアリティの希薄な町だった。その夜の僕は、その妖しい町のもっとも猥雑とされるストリートの片隅にいて、裸の天使ニッキーに出会ったのだ。

 最初の一歩から話そう。

 その日、その夕暮れ、僕を〝GIRLS DANCE〟とネオンで大書きされた扉の前に立たせたのは、友人の久保圭一郎であった――とはすでに言った。言ったか?

 圭は女好きだが、ただの女好きではない、筋金入りのマニアだ――とは言っておいたはずだ。

 大自然ワイルドネイチャーに全身全霊でどっぷり浸かっていた東洋男二人組は、頭上に広がる空の〝青〟が冷えはじめるころ、やおら竿を収め、ドームテントをそのままに車に乗り込み、一時間以上かけて〝明るすぎる場所〟まで舞い戻った。

 さて、そこになんらかの恋愛文学的ロマンティックな要素が見つかるかと問われるならば、ない。

 理由は中立的ニュートラルだったのだ。ひとつには、鱒が釣れなかったからだ。

 たとえ小ぶりなものでも、一匹でも釣れていれば、赤いアーミーナイフがその切れ味を発揮していたはずであり、焚火のそばの石組みかまどに火が導き入れられ、バージンオリーブオイルがフライパンをたっぷりと濡らし、石と金属のこすれ合うリズミカル音が湖畔に響き渡っていたはずだったのだ。

 それにつづいてサワドーブレッドとともにラホンタン種特有の香ばしい赤身肉を堪能するひと時があり、その後の安物ウオッカを舐めつつの会話は、獲物が寄り来る前兆サインと手応えの反芻にはじまり、やがて時空を超え延々と広がってゆき、湖畔の夜の二人男の心を奥底まで満たしていたはずだったのだ。

 よからぬ欲望などまったくなかった――とは言わないさ。だがむしろ僕の中で大きかったのは、親しい友として、また同じ表現分野に身を置く輩として、圭が一心にのめり込んでいる被写体世界を、彼の写真だけではなく「実際に自分の目で見てみたい」という思いだ。つまり、真っ当な好奇心と向学心が、僕を動かしたのだ。

 先の大書きネオン文字は、直訳すれば「娘たちが踊る」となる。店名ではなく、その手の店の正面入口ファサードに必ずある――赤もピンクも、黄色もある――言ってみれば〝誘蛾灯〟だ。

 先に断っておきたい。久保圭一郎は好漢である。金沢の良家に生まれ、神奈川の藤沢だったかの祖父家に移って育ち、頭も品もとても良い。

 ベンツ二台に乗るほど裕福だったが、それがずいぶんとおんぼろの六〇年代小型オープン2シーターと、堅実さを形にしたような中古ワゴンで、ともに選びに選んだことがわかるコンディションで、クラシックの方は古びたダッシュボードの木製パーツを自作するなどもしていて――ようは少しも嫌味を感じさせなかった。今回の悪路のつづくフィッシングキャンプにも、Eクラスのほうを駆り出してくれていた。

 ただし、彼は尋常ノーマルでは決してなかった。進んで詮索したことはなかったが、ときおり言葉の端々に〝性〟への強い執着が匂った。

 シルバーゴールドのベンツを誘蛾灯の明かりが届くぎりぎりの位置に停め、エンジンを切るや、圭は〝KAY〟になった。

 息もつかずにドアを開け放ち夜の路上に降り立ったレザーハーフブーツ男は、いつもの弾むような足取りでスパニッシュコロニアルスタイルの重厚なアーチ扉に直進し、そこに立ちはだかっている厳つい黒人ドアマンとなにごとか交渉をはじめた。

 どんな分野もそうであるように、〝ショーガール観賞〟にも作法があるらしかった。「ネイティブばりに英語を操る」と圭のことを言ったが、それどころではない。奴がこの世界の内部事情について、そこらのネイティブたちよりもずっと詳しいことは、やがて知れる。

 まったく頼もしいかぎりなのだ。歩道の隅に立つ僕のほうを振り返ったとき、友は両眼をキラキラと輝かせていた。

「大丈夫です。中で両替できますよ」

 その意味を問う猶予も与えられず、大きなアーチ形ドアをくぐって暗がりをずんずんと進んで行く友を、僕はただただ追いかけた。

 ひとりで入ったなら、そんなことはしない。できもしない。

〈お、おい? ケイちゃん‥‥‥?〉

 あれよと言う間に圭は、中央に広がるテーブル群を右に左に縫うように通り抜け、広大な体育館級スペースの一番奥まった場所にあるステージエリアへ直行し、だれも座っていないその観覧席の、そのまた最前列――〝かぶりつき〟などと言うかもしれない――の中央やや右寄りに腰を下ろし、ようやくひと息ついたかと思いきや、背もたれの反動でそのまま跳ね起き、目の前のステージべりに――小さなスポットライトとスポットライトの間に――両替したての一ドル札シングル五ドル札ファイバーを無造作に並べた。

「いいですか? これがエサです!」

 以降の彼のセリフの片仮名表記は、彼特有の性的疼きを帯びていると思ってほしい。

「ダンサーたちは、オトコをカネとしか見ていないオンナばかりですからね。ヴァンパイアだと思ってください。楽しみ方はだんだんにわかりますから」

「ヴァンパイア‥‥‥ねぇ‥‥‥」

 僕は圭の左隣りに、彼に勧められるまま腰を下ろし、彼を真似てシングル一〇枚とファイバー二枚――圭の五分の一程度――を、セブンブリッジのごとく並べた。

 我ながら、あまり見かけないことをしている自分を鼻で笑いたかったが、まずは速足で駆けつけてきた折り目正しい黒ベスト白人青年に対峙せねばならない。

 スッと鼻先に差し出されたドリンクメニューに、アメリカンクラシック三種――バドワイザー、ミラー、クアーズ――以外の銘柄を見つけた僕は、そのことに、

「Gooood! You have European, too!」

 大げさに感心してウェイターを喜ばせることを忘れずに、ベックスレッドを注文した。

 間を置かずに、プロフェッショナルな笑みとともにいかにもスマートに運ばれてきたパイントグラスを、僕は同じだけスマートにチップと交換に受け取り、思わずそのままひと口とあおってから――、

〈フフン〉

 ようやく鼻笑いが出た。

〈たかがストリップ場でも‥‥‥なかなかやるじゃないか‥‥‥〉

 だがそれは、大して飲めもしないくせにアルコールの助けを借りようとしている自分に向けての苦笑だったろう。

 東洋人エイジャンだと差別されたくはない。ましてや日本人だからといって「プラスチック」だとか、「ビジネスの話ばかりでつまらない」などと言われたくない――そのころの僕は切実にそう思っていた。

ヨーロッパでも、どの国でも、日本人を初めて見るような人々に、「日本人というのは案外紳士で、話ができておもしろいじゃないか」と思ってもらいたいと、己の振る舞いを御していた。

 そんなふうに考えるようになったのにはきっかけがあったのだが、それを言うのはここではないだろう。言わないかもしれない。

 ビールを舐めながら、落ち着いて周囲を眺めやると、そこは思っていたままの――、

〈やっぱ赤カーペットだよな‥‥‥〉

〝薄暗さでいかがわしさを演出した空間〟ではあったが、思っていた一〇倍も広く、天井は驚くほど高く、調度品にも意外な高級感があった。

 客の顔ぶれに目を移すと、これといった特徴は見つけられないようだった。幅広い年齢層の、ジャケットもいないではないが大多数はカジュアルフランクな服装の、ほとんどがカジノ流れの、アメリカ各地からの観光客だと思われた。

 ようは、ガヤガヤと騒がしく、あまり品の良い人群れではなかったということだ。

 加えてアメリカらしくないことに空気が幾分重く感じられたのは、グラス片手に立っていたり座っていたりする男たちのほぼすべてが、窓際や壁際に一定の距離を保ちつつ、仲間内ごとに身を寄せ合うようにしていて、なにやら周囲を警戒しつつ〝牽制し合っている〟ような、妙な具合だったからだ。

 西部劇のサルーン酒場のシーンを思い起こすといいかもしれないが、言ったように空間はもっと巨大だ。

 どうにも尻の据わりが悪く、姿をくらましていた友が弾むような足取りで戻ってきて――、

「いまの時間は一八人のオンナがいるようですよ!」

 どんどんと目の輝きを増していく姿を見ても、

「ふうん‥‥‥」

 僕の反応は鈍かった。

「俺はやっぱり‥‥‥あれだな、駄目っぽいなぁ、こういうの――」

 感想は正直に述べるのだ。

「あれだろう? 男は女を〝カネでなんでもする〟って見下し、女は男を〝カネを絞り取るカモ〟として、やっぱり見下してるってわけだろう? 俺はこんなふうには遊べないな」

 やがて、大音声の楽曲ミュージックが鳴り響き、目の前のステージでダンスショーがはじまっても、僕の気勢は一向に上がらなかった。軽快だったり艶めかしかったりする、とっかえひっかえに一人ずつ出てくる肌の露わな女性たちの、質も、動きも、芸も、あまり良いものとは思えなかった。

「どうですか?」

 右横からキラキラ目に訊ねられても、軽く毒づくしかない。

「まぁ、たしかにねぇ‥‥‥ライブの価値はあるよ。ここまで間近に陣取って見るのは、想像していた以上の意味がある。顔の細部までよく見えるし、息遣いがわかったりとか、少しは面白い。ケイちゃんの餌を受け取るときの〝媚びの芸〟も、いろいろあって少しは楽しめる。けど、もう飽きたな」

 仲がいいから本当のことを言う。僕に軽く否定されたところで、友の信念が揺るぎはしないことはとうにわかっている。それがアメリカ流の個人主義というものなのだよ。

「映画に行けばさ、もっと素敵な女優を見られるわけだし、ダンスを見たいのなら、サンフランのどんな小さなダンスシアターでも、もっとまともな女性たちの、もっとまともな芸を鑑賞できるじゃん? それになんだか、変に‥‥‥うん‥‥‥煮え切らない感じかな? 俺は、恋するなら、ちゃんと恋したいもの」

 初めて足を踏み入れたその淫靡いんびな場所で展開されていたのは、正直な〝欲望〟に端を発しているわりには、ときおり中途半端な口笛が飛び交うだけの、ひどく放漫な『ヴァンパイアたちの宴』でしかなかった。

「女の裸なんてだいたいおんなじだしなぁ」

 僕はつづける。

「デッサンするときだって裸をいつも見てるし、そもそも目を見張るほど綺麗な肢体ボディなんて、写真モデルにも滅多にいないじゃん?」

 論旨が通っている限り、友が機嫌を損ねることはないのだ。

「キヨさんがそう言うの、だいたいわかってましたよ」

 言い遅れたが、僕は松本清貴だ。

 嫌いではないが、あまり文学的な名前だとは思わない。「普通の苗字だね」と言われて悔しかったこともあるし、松本清張を引き合いに出されることもないではないが、一字の違いは大きく、ミステリー小説ファンでもないから、特に感慨はない。

 それよりも、困ったことに、MatsumotoもKiyotakaも、異国の人々にまともに言ってもらえない類なのだ。

 初めての海外、オーストラリアの英語学校の登校初日、書類の文字列を発音しあぐねた長身痩躯の白人校長に――、

「Can I call you Kiyo?」

 と問われて以来、僕はKIYOに生まれ変わった。

 少し抵抗があったことを憶えている。映画『マッドマックス』が好きで、その舞台であるオーストラリアに住むにあたってMaxという英語名を考えていたのだが、そのチャンスは不意に訪れ、即座に消えた。Yes以外の語彙を持ち合わせていなかったからだ。

 だがそのKIYOでさえも、数年後にアメリカに渡ってからようやく本当に気づいたのだが、読ませれば「カイヨ?」が精一杯なのだよ。

だが、遅まきにMaxになろうという気は起きなかった。アメリカはまたオーストラリアとは違ったのだよ。シゲアキやノブオやテツローがBobやTerryやCurtisを平気で名乗っている日本人移民集団の姿に、なぜだが同調できなかった。

 もともと英語で発音できる名前――KenやJunが少し羨ましかっただけだ。まぁ、面倒な場合は〝Q〟で済ますさ、フフ。

 そう、もうひとつ。アメリカでは、銀行口座を開くときなどに、本人確認のための符号として母親の旧姓を書類に書くのだが、僕の場合のYamamotoは、なぜだかきちんと読んでもらえた。

「Wow! すばらしくいい発音ですね!(英語)」

 などと、僕はふくよかな黒人女性銀行員を褒めそやしたものだが、数年後、はたとその理由に思い至った夜には、ひとりベッドの上で悶絶した。黒人女性のどこか不敵な笑みを思い出しつつ――、

「近代史の重要人物じゃないか! ヘラヘラ笑うところじゃないだろう! Fuck me!」

日本人が〝マッカーサー〟を知るようなものだ。アメリカではだれもが小学校で当たり前に習っている。

〝自分〟を標準スタンダードだと信じて疑わず、異文化への敬意と感心に欠く――〝島国根性〟とはおそらくそのことであって、一歩国外に出るだけで、日本人は例外なく、己の浅薄さを思い知るのだ。たとえば旅行会社のキャッチコピー「太陽サンサン西海岸!」に踊らされていたことを。

 サンフランシスコは霧の街なのだよ。アラスカ海流のビーチは、冷たくてとても泳げたものではないのだよ。マーク・トウェインの「人生で経験した最も寒い冬は、サンフランシスコの夏だ」という名言は、文豪の秀でた機知ウィットとともに、新参者のだれもが日を経ずして体感できる。

 入口エントランスはどこにでもあるのだ。一歩日常から踏み出すだけでいい、知らない扉を開くだけでいい。そして〝待ち受けているなにか〟は、前もって知れるようなものではないのだ。

「でもまぁ、キヨさん――」

 ダンサーたちへの僕のネガティブ意見などどこ吹く風、圭の笑顔は変わらないままだった。なぜなら、僕が初めて彼の誘いに乗った夜なのだから。

「オンナたちを観察して、性格を想像してみたり、写真撮影するつもりで、もう少し楽しんでみてくださいよ。きっとなにか見つけますよ、キヨさんなら」

「なにか――つってもなぁ!」

「何十人かの中から、少しでもいいオンナを見つけるのが、この遊びの楽しみでもあるんですよ」

「オーディションの〝ごっこ〟みたいな? なるほど、わからないでもないな。でも流れ星数えてたほうがよかったかもよ?」

〝不意討ちを食らう〟が一番近いかもしれない。いや〝虚を突かれる〟のほうがいいだろうか。「晴天の霹靂」や「寝耳に水」は、まだまだ生ぬるいのだ。アラレも水も、すぐに気づくじゃないか。

 まったく予想だにしなかったことが起こると、人は驚くよりも、それがあまりに想定外なため、〝起こってしまっている〟ことにしばらく気づきもしない――そんな状況や心理状態を言う格言があっただろうか? 

 ないのなら、新しく作る必要がある。曰く――、

 左側にニッキー

 彼女が現れたのは、もう六人目あたりの――ということは入店後一時間以上経っているわけだが――若いタイ人ダンサーが踊りはじめたときだった。

 現れたのはステージ上ではない。僕がもう〝オンナ〟を口にしてはばからなくなった頃合いを見計らったかのように――いや、見計られたのかもしれないのだが、これ以上ないほど絶妙なタイミングで、僕のすぐ左隣りの席に――、

〈ストン〉

 と座ったのだ。

「いかがでしょう? マニア先生としては? このオンナなんぞは?」

 僕は〝オーディションごっこ〟にかまけ、右横の圭に向かって軽口を叩いていたはずだ。

「少々骨太ながらも、アメリカではなかなかない小柄ですし、おそらくタイ人だと思われますが?」

「ダ~メですね。でも二〇歳そこそこでしょう。若さを評価してエサをあげましょう」

「ほほう! なるほど! そうきますか!」

 大仰に唸ったりしながら、その夜何度目かの友の〝餌やり〟を、半笑みで眺めていたはずだ、このバンダナ東洋人野郎は。

 圭がやおら席から身を起こし、ステージべりの紙幣を一枚取り上げてピラピラさせると、それに気づいたステージ中央女は、誇らしげに踊りの調子を上げ、音楽に合わせて身をくねらせつつ、だんだんと近寄ってくる。そして男の目の前で両膝立ちになり、なにやらクネクネと艶っぽさを披露してのち、精一杯もったいつけて餌をつまみ上げ、小さなショーツの、上だったり横だったりに挟み込む。

 それが〝芸〟――ダンサーの一番の見せどころなわけだが、丸顔で骨太でとても美人とは言いがたいタイ娘の一連の演技は、アジア人らしい小柄さと、小麦色の肌と、なかなか似合ったグリーンスポーツショーツを除けば、他の女たちと大差はなかった。

「まったく普通だったねぇ。しかも動きがぎこちないときた」

「いえいえキヨさん、〝ぎこちなさ〟は若さですよ。若さは〝美〟の要素のひとつです」

「お、『プリマヴェーラ』みたいなこと言うね」

「そうですよ。おばあさんのヴィーナスなんかいませんもん。秋や冬じゃなくって、春。それに彼女、匂いが白人とはちがいますよ」

「ひゃあ! 匂いかぁ!」

 僕は真顔になり、ステージ中央に戻ったタイ娘の舞をもう一度よく観察し、こんなことを言っていたはずだ、聞かれているとは知らず――、

「うん‥‥‥たしかに若さはある、それが美しいとも言える、けど、あんなに全身陽に焼いていると、小ぶりな胸が硬そうに見えちゃって、ちょい残念だな。ゴーギャンの『タヒチの女たち』みたいに、胸だけ少し白っぽいとかだと、もっとエロスが匂ったかもな。出てきた時の蜜柑色ドレスはとてもよく似合ってたから、脱がないまま踊ればさ、もっと面白かったかもしれないね」

「ですね。そこが難しいところです。らすだけの価値のある中身なのかと、ゴールがどこかですよね」

「なに? 大したことない中身だから、あまり焦らさないですんなり脱いだほうがいいってこと? 焦らしすぎると、客がたかぶりすぎて、暴れるとか?」

「まぁ、そうですけど、そうじゃないです。この店はあくまでソフトに〝観せる〟がゴールですからね。そのためのストレートフォワードな演出なんです。〝最後〟まであるなら、長く焦らされたほうがいいですけどね」

「ふうん、じゃあ、こんな感じにすぐ胸をさらすのが、これ系のショーのスタンダードってわけか。場所によっていろんなスタンダードがあるわけだ?」

「逆に脱がないままってのもありますよ」

「ほ? なにそれ?」

「転がしとくとか」

「こ、転がしとく?」

「そうです。目隠しして」

「め、目隠し?」

「三〇分とか、そのまま」

「むむ!」

「行きます?」

「いやいやいや! 無理!」

 その時その場の周辺状況を、あらためて詳細に繰り返しておくが、そこはひどく広大な空間の、正面一番奥――小さな半円形ダンスステージの前に、弧を描いて設置された、一二席X六列ほどの椅子の並びの、そのまた最前列〝かぶりつき〟。

 圭に言わせれば「みんな楽しみ方を知りませんよ!」な他の客たちは、薄暗がりに浮かぶ唯一の明るい場所であるそこへは近寄らず、遠巻きに視線を送っているだけで、席はすべて空いていた。

 つまり、僕と圭は、店内で軽く目立ってショーを楽しんでいる珍妙な〝アジア人二人組〟だったわけで、片や長髪に口髭、片やバンダナに無精髭、共にキャンプ途中で小汚く、しかものべつ幕なししゃべりまくっていたのだから、その――、

〈なんだ?‥‥‥この子?〉

 が、わざわざそこにやって来る理由は、どう考えても皆無だった。

〈なんだ? ‥‥‥まるで‥‥‥〉

 まるで空から「ストン」と、音にならない音を立てて、そこに落ちてきたかのようだった。

〈なんだろう‥‥‥? この‥‥‥〉

 圭と愚にもつかない会話を交わしながら、タイ人ダンサーの登壇後すぐから、ずっと僕は、僕の左側に目を向けることができずにいて、ただ――、

〈白い肩‥‥‥? と‥‥‥黒いロングドレス?〉

 の存在を感じつづけていて、そして時計の針の動きに合わせ、そのとき、その場で、実際に頭の中に湧いていたことの他に言い表しようもないのだが――、

〈なんだか妙に‥‥‥可憐で‥‥‥明るい‥‥‥空気‥‥‥〉

 に包まれていった。

「すべての恋愛はひと目惚れではじまる」

 と言ったのは、詩人ではなく、哲学者でもなく、ひとりの動物学者だったはずだ。

* * *

第三景 「なに話してるの?」と彼女は言い、「楽しみにしてる‥‥‥」と僕は言った

第三景を読む】 

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