山で考えたRelationshipのこと(その②/③)
山で異国の人たちにたくさん会っているうちに、あらためて日本を考えてみたくなった。
疑問はとても簡単なのだ。
なぜ、声をかけられて、言葉が出てこない人がいるのだろう? 日本人?
「え?」
詰まる。もしくは完全に無視する。聞こえなかったフリをする。
イギリス友人サイモンも、いつもこれを指摘する。たとえ英語がそこそこ話せてもーー、
「日本人はChatができない」
と言う。
「この間イギリスに帰ったとき、スーパーの店員と長いことChatしたよ」
そんなこと日本ではないだろう? 日本人は〝知らない人〟との意見交換ができないだろう?――と。
その実、山歩きをしていて、声をかけたりかけられたり、気持ちよく言葉を交わすのは、短くともまともな会話ができる相手は、本気の笑顔を交わせるのは、まともなRelatiuonshipを持てるのは、たいてい外国人なのだ。
生粋の地元おじさんとか、若く快活な女性たちとか、話のできる日本人もごくたまにいてホッとさせられるが、たいていは話しかけると、なんだか〝追い込んでいる〟ような、〝しちゃいけないことをしている〟ような気にさせられる。
この疑問を、山仲間のS氏に、山を歩きながら問うてみると、彼はーー、
「う~ん…まず〝どう返せばいいのか〟を考えるんじゃないかな? 自分の言葉ではなくて」
との見解を開示した。彼は元喫茶店マスターで、人との会話に長けているから、こんな疑問にもちゃんと着眼点を見出す。
おそらくそれは〝当たり〟なのだ。
〝自分の意見を言う〟ことに慣れていないのだろう、日本人。
我が身を振り返って見ても、僕も、二十歳のころにオーストラリアに住んだときは、まぁそんなものだったさ。〝なにを話せばいいのかわからない〟、〝自分の意見を見つけられない〟日本人だった。
やがて、英語が少ししゃべれるようになってくると、同時に〝対人恐怖症〟も消えていった。(そう、それは対人恐怖症なのだよ。日本人の9割は対人恐怖症だ――というオックスフォード大学教授の研究報告があったりもする)
僕が見つけた会話のコツは、とても簡単だったのだ。なんだと思う?
〝相手に興味を持つこと〟
それだけだ。知らない人に声をかけられて、返事に困り、心の中でーー、
「この人何者なんだろう…?」
と思うのなら、例えばだが、それを口にすればいいだけなのだ。
「What are you? You look very interesting?」
「あなたは何者なの? 変わってるね!」
どこの国の人なんだろう?
日本に住んでるのかな?
なにやってる人なんだろう?
しかしキレイな目しているな…
服装もおしゃれだな…
かっちょいいブーツだなぁ!
――なんでもいい。言ってしまえ。
おやや? ちょい論点を変えてしまおうかな?
もう、ほぼわかっているのだが、日本人が〝英語苦手国民〟なのは、ここに理由がある。
そもそも母国語でさえ、〝どう答えればいいか〟を探し、〝どんなふうに言うのが正しいか〟を探しているのだから、自発的〝発話(Paroleと言ったりする)〟が前提の、質問が失礼になったりしない(理解に価値を置くから)英語が、しゃべれるようになるわきゃないのだ。
〝なんて言ってるかわからない〟のなら、聞き返せばいいだけの話なのだよ。〝わかろうとする〟だけでいいのだよ。
What?
What's that?
What did you say?
What do you want?
たどたどしくとも、それだけで〝会話〟になってゆくのだ。
僕は山で、子供たちにーー、
Hello!
と声をかける。
子供たちは急に元気笑顔になって、
Hello!
と返してくる。子供たちは英語が好きなのだ。
そこが会話の入り口。人と人のーー〝自分〟と〝自分〟との交流になる。
わかるかな? そこにあるのは、他のだれかのものではない。〝こうあるべき〟という形式などない、一つひとつがオリジナルの、Relationshipの、創造なのだよ。
世界を見渡せばわかるだろう? 日本は今、Relationshipのあり方を変えるべき時にある。
〝察する〟ことこそ日本の伝統? 〝口出ししない〟文化習俗を守る? ああ? 前例がない?
変わろうとしているものを〝変えまい〟とすると、ひどい軋轢を生むよ?
もう、チョンマゲしないじゃん? だけど完全に忘れ去られてしまったわけじゃないじゃん?
変わろうとしているものは、変わるベクトルに乗せたほうがいいーーと、日本を見ているとつくづく思うのである…あれ? そういう話だった?
次回、もう少しわかるように言葉にします。お付き合いください。
(その③につづく)
Love & Peace,
MAZKIYO
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