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プログラミングを学ぶ意味について

どーも、ポルです

一応2020年度から小学校でのプログラミング教育が必修化されたことが一部では話題になりましたが、マゼルプロジェクトでは中高生にプログラミング教室の経営を託しています。
これはプログラミング教室を運営するNPOのロジカアカデミー様の協力により実現している訳ですが、ロジカアカデミーの関理事長に僕が共感しているのは「プログラミングを学ぶのはプログラマーになる為ではなく、生きる力を身に付ける為に学ぶ」という点。

今日はこのプログラミングを学ぶ理由についての考察です。

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少し話の角度が変わるのですが、「学校から職業への移行」が上手くいっていないという社会課題が叫ばれて久しいと思います。この中でよく聞くキーワードとして「高学歴だと思って雇ったけど、指示待ち人間で仕事を任せられない」というような「指示待ち人間」という存在が課題となっているケースがあると思います。
実際僕もラジオ制作の仕事をしていた時やイベント制作の仕事をしている時など、自走して動けないと何もさせてもらえないので自分で仕事(役割)を作るということを心がけていました。
特にフリーランスの世界では「こういうことやりたいねんけど、安生やってくれるけ?」的な丸投げは日常茶飯事ですし、そこに対応してこその仕事と感じることもあります。

はっきり言ってしまうと、これからの時代では特に「指示待ち」をしていて生き残る道はほぼないと感じています。これは社会的な「死」も意味しますが、文字通りの「死」と直結する大変な問題だと思います。

ではまず「指示待ち」とは一体どういう状況なのでしょうか?
僕はそれは本質的には「指示待ち」というよりは「命令待ち」なのだと思っています。これは「指示」と「命令」の正しい日本語という意味ではなく、社会通念としてのニュアンスの話です。
例えるなら「命令」はプログラミングされたタスクで、「指示」はプログラミングする所からタスクになっている状態です。
つまり「あれやっといて」と「指示」をしても「あれ」を達成する為の細かな条件指定をセッティング=命令しなければ動けないのが「命令待ち」の状態であり、多くの場合こちらのケースで悩んでいる上司の方が多いのではないでしょうか?

この場合上司は目的達成の為にプログラマーとしてのスキルを身に付けなければならないし、プログラミングに少しでもミスがあればエラーが発生します。
そうなるとタスクの規模感によっては、「コーヒー淹れて」と頼むのにコーヒーを抽出する為のプログラミングを開発する労力が必要になる、みたいなことが起こり「もうそれやったら自分で淹れるわ」となってしまう。
あるいは上司自身が企画も創造出来るクリエイターでありプログラミングも出来るというマルチプレイヤーである必要が出てきます。

しかしこれからは“プログラミングされたタスク”(命令)をこなすのは、プログラミングされた機械が担うことになります。
逆に人間の仕事は、ざっくり分けると(暴力的なくらいざっくりですが)事業を「クリエイト(創造)」する人と「プログラミング(仕組み化)」する人のどちらかになるのではないでしょうか。

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マゼルプロジェクトで考えるプログラミングを学ぶ意味は、上記のような意味での「指示を形に出来るプログラマー」としてのスキルを伸ばす為に“考え方”を学んで欲しいという認識があります。
目的に対してどんな順序でどんな行動を取るべきなのか最適解を考える論理的思考こそプログラマー脳だと思うのです。

昨今の学校教育の変化も、この「クリエイター」と「プログラマー」というどちらか(あるいはその両方)の役割を担える人材を育成しようとしているように思います。

さて、あなたはどんな役割を担えますか?

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