【小説】水瀬の指輪
西田がレッドブルを飲んで自席に戻るとオフィスは二人だけになっていた。社内で「蟹工船」と呼ばれる激務の部署だ。もうすぐ日付が変わろうとしている。
西田はまだ残業している水瀬をちらりと見た。水瀬は容姿端麗な女性である。性格もさっぱりとしており、社内でも主に男性社員から抜群の人気があった。
「あの、水瀬さん。今話しかけてもいいですか?」
西田はその日、水瀬に聞かなければいけないことがあった。チャンスは今しかないと意を決した。
「水瀬さんって……お付き合いしてる方とかいるんですか?」
「……それ、誰に聞けって言われました?」
「え?いや」
「西田さんがそんなデリカシーのないこと聞いてくるわけないですもん」
人一倍人に気を遣って生きている西田にとって、色恋の話題は最も苦手なもののひとつだった。西田の目が泳ぎ、慌てて言い訳を探し始める。
「いや、あの」
「いいですよ。誰かは聞かないです。その人には『彼氏はいない』って伝えておいてください」
「そうなんですね。指輪をされていたので、てっきり……」
少し前から水瀬は右手薬指に指輪をしていた。それを見つけた先輩が「彼氏がいないか探れ」と西田に指令を出していたのだった。
「ああ、この指輪?これは魔除けです」
この手のありがたくも鬱陶しい扱いは美人として生まれた者の宿命なんだろう。西田は皆に助けられていいなとばかり思っていた水瀬にも相応の苦労があることを知った気がした。
「あ、日付変わった」
水瀬の小さなつぶやきが重い空気を少し揺らした。オフィスの時計が24時を示していた。
「私、今日誕生日なんです」
「おお、それはそれは……」
「西田さんって、変な人ですね」
「え、あ、そうですか」
「はい。普通今日が誕生日って聞いたら『おめでとう』とか『いくつになったの』とか言うじゃないですか」
「はあ、確かに」
水瀬が人生で出会ってきた人は誰もが彼女の誕生日を知りたがったし、知れば頼んでもいないのに祝おうとしてきた。時には高価な贈り物という善意の押し売りの交換条件的に交際の申し込みを図る男もいただろう。
「ええと、じゃあ、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「……」
「もういいです」
水瀬はまたモニターに視線を戻した。この男と会話を交わす努力をするより、一刻も早く仕事を終わらせる方が有意義であると判断したようだった。西田はこの状況をどうにかしようと焦って口を開いた。
「せっかくの誕生日なのに、こんなに遅くまで残業してていいんですか」
「……」
「ああ、気に障ったらすいません。全然、無視してくれていいですから……」
水瀬はパタンとパソコンを閉じて立ち上がった。
「ちゃんと予定はあります。これから恋人が迎えに来てくれます。そのまま出かける予定なんです」
「あ、そうなんですね……えっ?」
「それじゃ。お先に失礼しますね」
微笑みながらオフィスを出ていく水瀬を西田は呆然と見ていた。
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春ピリカグランプリ2023の応募作品です。