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【創作】遠い日の不良に言えないはなしの前段

本田すのうさんの企画「下書き再生工場」参加記事です。

みなさんのだしたボツネタの中から、コニシ木の子さんの「遠い日の不良に言えないはなしの前段」というタイトルをもらってどんな話なのか自分なりに想像して書いてみました。創作です。




世の中に難しいクロスワードパズルは数々あるが、俺がとっている新聞のそれほど厄介なのはちょっと他に見当たらない。

「タテ5の鍵、これがないと世の中を渡っていけないし、女の子ともうまくやっていけません」

マスの数は5つだ。難しい。全く見当がつかない。
たしかに俺は、探偵の看板を掲げている割にあんまり勘のいい方じゃない。
以前、俺が2時間も考えてわからなかったクロスワードパズルの穴を、珈琲を注ぎにきたウエイトレスにあっさり教えられてしまったこともあったくらいだ。

だがこの問題は特別だ。それがないと世の中を渡っていけなくて、おまけに女の子とだってうまくやっていけないものが何だかわからないなんて。
もしかしたら俺が今までうまくやってこれなかったのは全部それのせいかもしれない。今ここでそれが何だかわからないと、この先もずっと世の中で溺れっぱなし、女の子にはフラれっぱなしで終わるんじゃないか。

考えているうちになんだか悲しくなってきた。
別れた妻に言わせると、俺はかなりの「弱がり」らしいのだが、すぐに悲しい気持ちになってしまうものは仕方がない。

ドアがノックされたのはその時だ。俺は鼻を押さえていたスヌーピーのハンカチをあわてて机の引き出しに放り込んだ。
「どうぞ」
俺は落ち着いた声でゆっくりと応えた。とても3秒前までスヌーピーが犬小屋の上で寝ているハンカチで鼻を押さえていた人間とは思えない。

この商売は最初の印象が大切なのだ。医者と同じで、客に対していかにも頼りになりそうだという印象を強く与えてやる必要がある。
俺は何度も練習を積んだおかげで、今ではドアをノックされると反射的に落ち着いた声で「どうぞ」と言えるようになった。

後ろ手にドアを閉めた男を一目見たとたん、俺は悲しくなってしまった。
怖い人なのだ。白い帽子、白いシャツ、白いジャケット。これがカモメの水兵さんでなかったら考えられる職業はひとつしかない。

「こんにちは」
男は練習を積んだ俺よりもはるかに落ち着き払った声でそう言うと、応接用の椅子に勝手に座った。
「いらっしゃいませ。どういった御用件でしょう」
俺はインスタントコーヒーを淹れた紙コップを男の前に置き、努めて丁寧に言った。
男は無言でゆっくりと珈琲を一口啜った。肝が据わったその態度は男がただのチンピラではないことをうかがわせた。

「手を引いてください」
と男は切り出した。
「なんのはなしですか」
思わずそう口が動いていた。久しく仕事に恵まれず、暇を持て余していた俺に一体何から手を引かせるつもりなのか。ここ一週間で俺がやった仕事といえば、クロスワードパズルの穴を埋めることだけなのだ。

「もうじきここへ女が電話をかけてきます。とびきり脚のきれいな女です。床屋へ行くと言って、家を出たきり行方不明になってしまった亭主を探してほしい、とあなたに頼むはずです」
「はあ」
まだよくわからない。この男、予知能力者なのだろうか。
どこか寂しげな表情を浮かべて、男はまた紙コップに口をつけた。

「その依頼を断ってほしいのです」
「ちょっと待ってください。よくわからないのですが、つまり私がこれからされるはずの依頼を、引き受けるなということでしょうか」
「そうです。あなたは大変頭がよろしい。スヌーピーのハンカチもよくお似合いです」
俺は無意識のうちにスヌーピーのハンカチを取り出してしたたる手汗を拭いていた。

たしかに俺は弱がりには違いないが、馬鹿にされるのは好きではない。大体この男とは三分前に会ったばかりなのだ。あまりに一方的な要求に対して何か言い返す言葉を探した。
「私は探偵なんですよ。理由も言わずにそれはないでしょう」

男は微かに笑ったようだった。笑うとさらに怖くなる顔というものを初めて見た。
男は立ち上がり、断りもなく俺のデスクの上にあった新聞を取り上げると、これ以上磨きようのないほど光っている自分の靴のほこりを払った。

そして用済みとなった新聞を丸めると部屋を見渡した。あいにく男にはゴミ箱が目に入らなかったらしい。男はとても上品な仕草で新聞紙を丸めて床に捨てた。
「まあ、亭主は今頃町中の不良から追われていますよ」
そうあっさり言い捨てると、捻りつぶした紙コップを今度はデスクの上に投げ捨てて男は出て行った。

俺はしばらくその場から動くことができなかった。気を取り直し、考えを整理しようと立ち上がって、机の二番目の引き出しを開けた。
グラスを取り出しハンカチで磨いてから、酒を注いだ。目を瞑り、口の中に流し込む。熱い液体が喉を落ちていき、胸に広がった。

その時、電話が鳴った。俺はあわてて受話器を取った。
「人を探しているのです」
よく聞き取れないほど小さい、少女のような声だった。
「夫が家を出たきり帰ってこないのです……」
「床屋が混んでるんじゃないですか」
と俺は口をはさんだ。

女は黙り込んだ。
「今どこですか」
と俺は尋ねた。
「お隣の薬局の公衆電話よ。ねえ、なぜ夫が髪を切りに行ったことをご存知なの?」
「とりあえず上がってきませんか」
そういって俺は受話器を置いた。
どこか気になるところのある声だった。
その声に惹かれると同時に、先程脅しをかけていった男の微かに浮かべた笑みを思い出した。心臓の鼓動がまた激しくなった。
怖さのあまり立っていられなくなった俺は、デスクの椅子に深々と腰を降ろした。

グラスに残った酒を一気に飲み干す。だが俺はあの女の依頼を受けてしまうだろう。
その時、頭の片隅に閃いたことがあった。あのクロスワードパズルの答えは「やせがまん」ではなかっただろうか。だが新聞が捨てられた今、それを確かめることはできない。
俺は新しい酒をもう一杯注ごうかと迷った挙句に、酒瓶を引き出しにしまった。

夕闇が部屋を満たし始めていた。クロスワードパズルの正解などもはやどうでもいいような気になっていた。
俺は椅子に身を沈めたまま空のグラスを握りしめて、とびきり脚のきれいな女がドアを叩くのを待った。

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