
【小説】釣り舟に乗る
創作に挑戦してみました。3000文字くらいありますがよかったら読んでもらえるとうれしいです。お手柔らかにオナシャス。ああ〜緊張する〜
彼女は、慎ましやかに僕の前に座っている。
本当はたまった仕事を片付けないといけなかったが、仕事中に「久しぶりに焼肉食べたい気分。行かない?」とLINEで誘われ、あっさりと取引先から直帰することに決めた。二人で会うときはいつもお互いが乗り換えせずに帰れる駅の近くで落ち合う。
彼女は厚切りタンを焦がすくらい何度も裏返しじっくりと焼いた。
「先輩焼きすぎでしょ」
「いや、今日は焼きたい気分なのよ」
そのカラッとした笑顔を見るたびに僕の胸は疼く。彼女は営業課のひとつ先輩であり、僕が想いを寄せる女性だった。そして、彼女にとって僕は、たぶん一番ではない。二番でもない。三番でもないだろう。ただ同じ部署で年の近い唯一の若手同士、仕事の愚痴を言い合える同僚だ。そのことも僕はなんとなく察していた。終電を逃したこともなければ、食後に同じ方向の電車に乗ったこともない。
「あのさ、赤ちゃんできた」
あの契約取れたよ、と言うくらいのテンションでさらっとそう言ってから、彼女はふうふうと焦げたタンを口に含んだ。
「え…?」
一瞬僕は混乱する。赤ちゃん?犬に?猫に?それともまさか彼女に?
「明日、退職を課長に伝えるつもり。結婚して彼のいる仙台まで引っ越すからもうこのタイミングで仕事辞めちゃおうと思って。あ、赤ちゃんができたことは内緒ね。まだ安定期にも入ってないことだし、ほら、あの課長のことだから変な噂になってすぐまわっちゃいそうだしさ」
頭の中にあまりにもたくさんの考えが駆け巡って、僕はその後ほとんど彼女の言葉を理解できなかった。彼氏がいたことも知らなければ、いきなり妊娠?しかも退職って…。いつか失恋するだろうとは薄々わかっていたけど、それはたぶんまだ先で、僕はもう少しの間だけ彼女とほのかな交流を持ち続けることができるだろう…なんて自分勝手に思っていた。
「結婚してからもたまには話聞いてよね!」
と、彼女は別れ際に言った。それは僕の想いに少なからず気づいていた彼女なりの最後の優しさだったようにも思えた。退職して結婚する彼女と、これまでと同じ関係でいられるはずもないのに。
彼女が去った後の、やりきれない夜道。僕は石になってしまいそうだった。結局、僕は彼女に何ひとつ告げず、一人で恋をして失恋したのだ。そして僕を打ちのめしたのは、あんなに好きだった彼女を今少しだけ恨んでいるということだった。なんてことだ。すべては僕の都合であるのに、僕は逆恨みのように彼女を恨めしく思っている。彼女はちっとも悪くないのに。
「お若い方、早まったことを考えちゃいけません」
気がつくと僕は、川の暗い流れを見つめていた。見たことのない場所。あたりは都会とは思えないほど暗い。僕に声をかけたのは、藍色の浴衣を着た小男だった。男は右手に三味線を持ち、手ぬぐいを頭に巻いていた。
「たとえそんな気はなくっても、そんなに川を見つめていると引き込まれちまいますよ」
そういって男はへっへっへと笑った。男の口がほら穴のように黒く開いたので僕はちょっと怖くなった。
「まあ、よかったらその辺で一杯やりましょう」
男はそう言って、ひたひたと歩いていく。僕は催眠術にかかったように彼の後ろをついていった。
湾岸の工業地帯のような場所だった。タンカーのシルエットが水銀灯に照らし出され、油臭い川の水が月を映している。生暖かい夏の宵だ。かすかに潮の匂いがした。男は堤防の階段をひらりひらりと降りると、泊めてあった小さな釣り舟に飛び乗った。そしておいでおいでをして僕を呼んだ。
僕が舟に乗り腰を降ろすと、男は酒瓶を取り出して湯飲み茶碗に溢れんばかりに酒を注ぎ僕に差し出した。湯飲み茶碗の中に満月が揺れた。僕は月もろとも一気に酒を咽に流し込んだ。
男が三味線を弾いてなにやら歌いだした。男が奇妙な節をつけておどけて歌うので、何を歌っているのかさっぱりわからなかったが、つられて僕も手拍子など打ってしまった。手を打つたび舟がぎいぎいと揺れた。
「眉間のしわ」
と、男が歌を止めて言う。
「え?」
「そのしわが、くせものだ」
そう、僕は眉間にしわを寄せる癖があった。
「嘘つきの顔にはしわが寄る」
男は、そう言って笑った。
そんなことはない、と僕は心の中で思った。
「今、そんなことはない、と思ったろ?」
「え?」
「でも、口に出して言わない。思ったことを飲み込むからしわになって不満が現われるんだよ」
ぎいいと男は大きく舟をこぐ。
「思ったことをなんでも言葉にしたら、世の中生きていけないです」
男は不思議そうな顔をした。
「そうなのか?」
「だって、そんな自分に都合のいいことばかり言っていたら、周りから嫌われるじゃないですか」
「嫌われたら困るのか?」
「嫌われるのは、嫌だ。できれば誰とでも仲良くやっていきたいと思うよ」
男はため息をついて、べべんと三味線をかき鳴らした。
「俺は三味線が好きだ。こいつを弾いているときは、嫌なことも、辛いことも思い出しもしねえ。三味線が俺になってしまう。俺はもっともっと三味線がうまくなりたい。それが俺だ。俺が三味線うまくなるのに、他人は関係ない。俺と三味線があればいい」
男は三味線を愛おしそうに撫でた。
「でも、それじゃあ寂しくない?」
「寂しくない。三味線が弾けなくなったら俺、死ぬ。今は弾けるから寂しくない」
妙に真に迫ってそう言うので、僕はなぜか反論できなかった。
「そんなに好きになれるものがあってうらやましいよ…」
僕には何があるのだろう。僕には彼女がいた。でも、僕はもう彼女には必要のない人間になったんだ。かつて必要だったのかどうかもわからない。僕は必要になる可能性すらなくなってしまったことがひどく悲しい。誰からも望まれずに生きている僕はなんだろう。
「僕にはもう何ひとつ残ってないよ…。それなのになんでここにいるんだろう…」
ひどくせつない気分になって、ふいに涙がこぼれた。人前で泣くなんて情けないと思ったけど、彼女を失った悲しさが突然僕に襲いかかってきて、僕はその感情を理性で押しとどめることができなかった。
男は黙って舟をこぎ始めた。舟は泣いている僕を乗せて、滑るように流れていく。川を下り二つの橋をくぐると、男はさらに舟をこぎ、ずいぶんと沖まで出たようだった。
月が頭の真上に出ていた。
男は再び三味線を弾きだした。三味線の音色は力強く舟を振動させ、僕の体にまで伝わってきた。それは空と海を越えて果てしなく世界を満たし、僕はただその音色に魅了され、音に中に身をゆだねた。夜と月と波、それらは完成された大いなるバランスだった。そこに存在する僕も、そのバランスの中のひとつの小さな点だった。月の光がゆっくりと降りそそいできて、男の姿を銀色に照らし出す。今はもの悲しい静かな声で三味線に合わせて何か歌っている。僕は月の光を全身に浴びた。月の光はひんやりと冷たかった。
「楽しいかい?」
と男が僕に聞いた。
「うん」
と僕が答えると、男は大変うれしそうにうなずいてこう言った。
「あんたは、ちゃんと、そこにいるよ」
一瞬、男の頭上に虹がかかったのを僕は確かに見た。
目が覚めると、僕は薄汚れた川に浮かぶ一艘の舟の上で眠っていた。小男の姿はなかった。
よろよろと起き上がってから、大きく伸びをした。たぶん、明け方五時頃だろう。ハッカ色の空気が辺りを満たしていて、僕は思わず深く息を吸いこんだ。
「こんなことなら一発くらいやっとけばよかったなあ」
僕は彼女に悪態をひとつつくと、それから新しい命にエールを送った。湯飲み茶碗が二つ、船底に転がっていた。