秩父宮、北スタンド

ラグビーを熱心に観ていたことがある。
秩父宮にも足を運んだ。
お気に入りは、決まって巨大スクリーン前。
北スタンドという。

ここはサッカーで言うゴール裏に当たる場所だが、
ラグビー専用球場である秩父宮では、
サポーターが陣取る場所ではない。

テレビとは違う角度でラグビーを観ることができる。
選手と同じ目線でゲームを観ることができる。
この席だけは、ラグビー場へ行って観る価値がある。
と、考える人は多くないようだ。

みな、テレビカメラ目線に慣れてしまってる。
メインとバックスタンドが
だいたい埋まっているのとは対照的に、
北スタンドは空いている。
いや、ガラガラだ。

私は、そんな北スタンドがお気に入り。


立ち見席として設計されている唯一の場所で、移動しながら観るもいい。
座ってゆっくり観ながら、時に立ち上がって興奮するのもいい。
席に縛られて、自由を奪われて、観る必要がない。
トイレは思った時に。両隣に人はいない。
待ち行列、そんなものは当然ない。
強がってるわけじゃない。
お気に入りの場所。

ゲーム開始1時間くらい前から練習が始まる。
2、3の段をスタスタ降りていけば、そこはグラウンド。
選手との間には、腰の高さの塀があるが、距離は全く感じない。

もし、気になる選手がいるならば、
ここでなら自分もアピールできるかもしれないと思わせる。
アピール上手な連中は、この辺りにはやって来ない。


さぁ、いよいよ選手入場。
試合前、ファンサービスで、
サイン入りレプリカボールをスタンドに投げ入れる。
子供はみんな欲しいものだが、1選手1つだけしかもっていない。

たくさんの観客が陣取る、
メインスタンドとバックスタンドに
次々と吸い込まれていくボール。
我々、北スタンドの連中は、
このイベントを指をくわえながら、なすすべなく見守る。
こればかりは、仕方ない。
観客が少ないというよりは、
グラウンドから、はるか遠く、ボールが観客に届かない。
この時間は耐え忍ぶしかない。

一瞬、
グラウンド中央から、こちらに向かってくるようにみえた。
まさか、この北スタンドにサインボールを届ける選手はいない。
いや、ちょっと待って。
姿がみえる。どんどん大きくなっている。

選手だ。
ある選手が長い距離を走って、目の前までやってきた。
いや、驚いた。
ひとりとしてここに来た選手を私は見なかったが、彼は来た。
今、目の前にいる。
そのユニフォーム姿は、練習時の雰囲気とはまた違う。

彼は、すこし息を整えると、
応援してください!という上手な日本語と一緒に、
息子に自筆のサインボールを手渡した。
そしてグラウンドへ戻っていった。

ほんの数秒間の出来事だった。

その試合、
少なくとも私たち親子は、彼にくぎ付けになった。
他の選手は見えなかった。
ほとんどの時間、グラウンドの彼を目で追った、追った。
彼が活躍するたび、息子の方を振り向いた。
息子と目が合う。
無言でふたり、うなずいて、また彼を探す。
繰り返した。

熱狂的なファンが2人増えた。


後日、
息子がまた行きたいと言った。
実はチケットはもう取ってあった。私も行きたいと思ったから。

北スタンドはガラガラだろうし、
席取りに並ぶ必要は全くないけど、早く行って練習をまず観たいな。

私は、うなずいた。

このお気に入りの北スタンドは、
最も価格の安い席なんだよと伝えた時、
彼はとっても驚いた。

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