読書の感想〜風と共に去りぬ〜
世界中で聖書の次に読まれた本、というこの小説のことは僕はいつも気になっていましたが、別に読みたい本があって後回しにしていました。
ある日、出張中に立ち寄った書店で「黒人奴隷」のことを書いたノンフィクション小説「ある奴隷少女に起こった出来事」(ハリエット・アン・ジェイコブズ著)に出会いました。何気なく立ち読みしていく中で話の内容に引き込まれてしまい、購入して読み耽っていきました。
その黒人の視点で描かれていた話を読むうちに、逆に白人の視点で描かれてベストセラーになったこの「風ととも去りぬ」を読むことで、私の中の理解が深まるんじゃないかと思えてきて、後回しにしていた気持ちが後退し、手にとってみることになったのです。
ところが読み始めてみると、主人公、スカーレット・オハラの面白さにどんどん引き込まれてしまって、当初の思いは何処かに飛んで行ってしまいました。
時代が変わっても色褪せないスカーレットの魅力。これがこの小説の一番の読みどころと僕は思っています。また、スカーレットをめぐる男たちの争い、駆け引き。そして南北戦争という時代の大きな変わり目が上手く折り重なって展開するストーリーにも魅せられました。
手に取ったきっかけだった黒人奴隷の心情については、虚と実を感じました。
裕福で聡明な白人のご主人の元で暮らす奴隷は、身分は奴隷でも心は満たされ、主人に支えることにも誇りを持っている。「風と共に去りぬ」ではそう描かれている。一方で、「ある奴隷少女に起こった出来事」の中で描かれている黒人奴隷は、どうしようもない境遇にいつしか一つ一つ希望を失っていく。
どちらも真実だろう。描かれている虚と実は表裏一体で、形や環境は違えど今の現実の世の中でも見られることだろうと思った。それを理解しながら僕みたいなちっぽけな人間は生きていくしかないのだろうな、と。
セオドア・レビットさんの著書「マーケティング論」の中で、「他人志向型人間」と「内向型人間」という定義が出てくる。彼はアメリカ人だから、それらを北部と南部で例えていた。ちょうどこの「風と共に去りぬ」の北部と南部に重なり、納得できた。
「他人志向型」では、他人の目や評判を重視する。その考え方の下では、人の見た目も態度も精錬され、組織もまた同様に精錬されていく。様々な工夫が凝らされ発展していくという。一方、「内向型」では、他人の考えよりも自己の中から溢れる想いにフォーカスし、その想いに駆られて行動するとともに他人を巻き込んでいく。ともすれば独裁者の方へ向かっていく。
しかし、魅力、という点では明らかに「内向型」の人間の方であり、イノベーションはその類いの人から生まれてくるらしい。
スカーレット・オハラの魅力はまさにこの「内向型」の人間の魅力に他ならないと思った。その魅力は国境を越え、時代を超え、今もなお色褪せない。
「あとがき」がまた非常に面白かった。この「風と共に去りぬ」が大きな賞賛を浴びるのは実は映画になってからのことなのである。名作と後に言われる映画のヒットが世界中を駆け巡ったのです。
著者のマーガレット・ミッチェルさんは映画化は「絶対に無理」と思っていたらしいし、して欲しくもなかったらしい。この小説は登場人物の描写もさることながら、風景だったり、建物だったりの細かな描写にも拘りがあり、そういうものは映画では表現できないし、ミッチェルさんが思っている世界感と違ったものになってしまうと考えられていたようです。
それを知ると、そうだよね、だからこんなに面白かったんだ、と合点が行きました。
映画の主演女優だったビビアン・スーさん選出にも逸話があるようです。監督は当初ある有名女優を当てる予定だったそうなのですが、何かの都合で急に無理になったらしい。当時ビビアン・スーさんは美女ではあるが演技力は二流と思われていたそうですが、監督がビビアン・スーさんに会うと「この人しかいない」と惚れ込み、まさに監督が考えるスカーレット・オハラそのものだったそうです。
ビビアン・スーさんはこの抜擢でスター女優の階段を駆け上ったようです。
何かの偶然が重なってこの物語を大作に持ち上げていく。そのストーリーにもまた面白さがありました。
しかしながら、奥底にある「何か」があったからそれらの偶然が繋がっていったのではないか? と僕は考えており、その「何か」ははっきりと言語化はできないけれど、確かに共感できた「何か」だったと思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました!
また、何か書いてみたいと思います。