知財という職種に就いた経緯
自分の就いた職種のことを書ける機会があるとは思わなかったので、今回、この記事を書いてみたいと思います。
〜就職活動から入社〜
僕は地方国立大学の機械工学科の大学院を出て、ある食品機械メーカーに就職しました。
大学院二年生の春、何となく「研究職」に就きたいなと思ってはいたけれど、行き先を担当教官に任せっきりにしてのんびりと研究していた僕は、当時は世間知らずだったなと思います。ある大手の自動車部品メーカーに就職したかったけれど失敗してしまいました。
途方にくれていた僕にある時手を差しのべてくれた中小企業の食品機械メーカーがありました。藁にもすがる思いでその企業に就職させていただきました。どんな仕事が待っているのかは想像できなかったのですが、就職浪人したくなかった僕に選択肢はありませんでした。
〜仕事が始まって〜
社会人生活が始まりました。会社の人たちはみんな親切な人たちばかりでした。しかも若い人たちばかり! 新卒とはいえ大学院卒の僕は二十四歳でしたが、何と会社の平均年齢は二十二歳! 僕は平均年齢よりも年上だったのです。何人かの管理職の方を除いて、周りは二十代の人たちばかりでした。
先ずは品質管理の仕事から始まりました。出来上がった製品の検査と品質チェック記録の整理の毎日でした。若い会社だったこともあり、そういったチェック体制は未熟でした。上司、といっても二つしか歳の違わない方でしたが、その方と一緒にチェック体制を作り上げて行きました。
当時の社長は創業家の二代目の方でした。若くて熱意に溢れた方でした。特に商品開発に熱心でした。工学部の院卒だった私はその社長に可愛がっていただき、品質管理の仕事に加えて商品開発の仕事を叩き込まれました。若い会社だったので未だ正式な商品開発部門が無かったのです。
入社して二年目に専属の開発部が出来ました。その時は僕はまだ品質管理部門にいましたが、人員が少なかったこともあり、三年目の春、開発部に移りました。そこで僕は会社の中で二番目に売上が大きい主力商品を担当することになりました。
元々は研究職に憧れていた僕は、商品開発という仕事になかなかピンと来ませんでした。お客様のニーズを製品で実現する仕事、と今ならサラッと言えるけれど、当時は何をやればいいんだろう? と悩んでしまっていました。
結果が出ないまま、開発担当役員の方からはダメ出しばかりの毎日。少し鬱になっていたかもしれません。試作品作りや試験に追われる中、アイデアを考えては「こりゃダメだ」と考え直す毎日でした。
そんな時、事件が起こりました。
〜特許係争〜
会社は老舗の食品機械メーカーでしたが、その市場には何社かの大手競合企業がいました。そのうちの一社から警告状が来たのです。特許を侵害しているということでした。
毎月、開発部員が集まりこの分野の特許を見ていましたが、正直なところ僕には特許が何なのかよく分かっていませんでした。特許を侵害している? どういうこと? 顧問契約をしている弁理士の先生から説明を受けてもよく分からないまま、社内はてんやわんやで、僕は上司に指示されるまま特許回避策を検討していました。
ある時、それまでは絶対に戦うという姿勢だった交渉チームが一転して和解する方向に方針を転換しました。会社全体が株式の上場に向けて動いていたため、特許訴訟はできないということになったようです。
しかし、問題は違うところにありました。和解交渉は顧問弁護士を通じて行われました。競合企業の特許は有名な弁理士により鑑定され、僕たちの会社は不利な立場であることが明白でした。ただ、その和解のための回避策がまずかったのです。
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