生物的に優れた人間に、言葉はあんまりいらないらしい
もうじき終わる大学生活について、授業の思い出を振り返っている。
ふと、教授の雑談にあった話を思い出した。
野生動物の生死を分けるのは、言ってしまえば反射神経である。
敵が視界に入ればすぐ逃げる、親が餌を持ってくれば我先にと大口をあける。そうしなければ待っているのは死だ。反射神経が鈍く、いわば「どんくさい」種や個体は、そうやって次第に淘汰されていく。
それに対して人間はどうなっているか。
いまのところ、ニンゲンといういきものを好んで捕食する外敵は存在しないようだ。
取って食われる心配もなく、食べるものも――無論、ほかの動物と比べればだが――そう命の危険を侵さなくとも手に入る。
よって、多少「どんくさい」人間もそのせいで死ぬことはあまりない。
なにを隠そうわたし自身、押しも押されもせぬ「どんくさい」人間だが、のんきに20年余りも生きてしまった。
ただその代償として我々「どんくさい」人間は、集団や社会で生きるのに、ほんの少しずつ苦痛を要することになっている。
たとえば明るく気持ちのいい挨拶だとか。何かまずいことをしたとき、咄嗟に頭を下げて謝れるだとか。そう考えると人間社会は、けっこう反射神経を必要とする。
わたしのような「どんくさい」人間というのは、得てしてそういうコミュニケーション的な反射神経もそうよろしくない。
ぼーっと考え事をしている間に挨拶すべき人を見逃したり、剣呑な雰囲気に「えっ? えっ?」と狼狽えているうちに「すみませんの一言もないのか!」と怒鳴られたりする。
べつに、わたしとて好きこのんで相手を無視しているわけではない。剣呑になってしまった状況を飲み込めたあとなら、申し訳ない気持ちだって湧いてくる。
湧いてこないこともあるが。
人並みの感情も親愛も持っているのに、「どんくさい」人間はただ反応が遅いだけで嫌われたり叱られたりするのだ。そんな経験は、ちくりちくりと確実に心を蝕んでゆく。
ほんのちょっとの苦痛だが、積み重なればまあ、たやすく人格が捻じ曲がるくらいの重量にはなるというわけだ。
そんな苦痛から自分の心を守るため、「どんくさい」人間たちが何を企てたかというと、
言い訳を考えることだったらしい。
「毎回毎回、先輩に挨拶する必要無くない?おかしいのは自分じゃなくてルールの方では?」
「別に俺、悪くないじゃん。こんな上司に謝らなくて正解だわ」
なんて具合に、自分を正当化するのだ。
こう具体例を挙げるとクズみたいだが、彼らは本気で、必死で言い訳を考えているのだ。
ただ生きているだけなのに、どうしてか自分だけが傷つかなくてはならない理由を。
こんなにも孤独で胸が軋むのに、死ぬこともできずに苦しみ続けなくてはならないわけを。
「わたし」が、生きていく意味を。
そのために「どんくさい」先人たちは知恵をめぐらせ、言葉を重ねた。
そうして文学は生まれた。
生物的に優れていないとされ、疎まれてきた「どんくさい」人間は、
結果として人間に「人間らしさ」とも言える、人間固有の文学を、文化をもたらす存在となったのだ……と。
ちなみにわたしはこの話を、大学の言語学研究の教授から聞いた。
聞いてすぐ記事にしなかったので、もう2年か3年前の話になる。
途中から褒められているのか貶されているのか本気でわからなくなってきたが、わたしはこの話を聞いて、すこし嬉しかったのを覚えている。
そもそも、わたしが大学で言語学なんかやろうと思ったのは、自分の人間性に絶望したからだ。
どんくさいわたしがいろいろあって、友人だったはずの人に「あなた、人間としておかしいんじゃないの」と言われたとき、
突き落とされるような絶望と同時に、なにかがすとんと腑に落ちた。
ああ、そうか。わたしおかしいんだ。
おかしくない、普通の人なら、ここで「変わらなきゃ」と考えるんだろうと思う。
でもできなかった。その友人たちとは生まれて初めて、自然体で仲良くなれたと思っていたから。
自然体は変われないと思う。
自然体のわたしが「おかしい」のが罪なら、もう「おかしくない」自然体に生まれ直すまで待つしかない。
じゃあ死ぬしかないじゃないか、と自殺未遂でもしていれば、まだわたしにも可愛げがあったのだろうが、
残念ながらわたしはそうも考えられなかった。
この時点でわたしがとてつもないクズなのは明らかで、
つまり、わたしまでわたしに失望しわたしを責めるようなことがあれば、最早この世にわたしの味方など一人もいなくなるのは確実なのだ。
それは嫌だと思った。
ではどうするか。
もっともっとうまく擬態しなくてはならない。
ようは、自然体が「おかしい」のが他人にバレなければいいのだ。
心や頭で「おかしい」ことを考えたり感じたりしていても、それを表に出さなければ、それはないのと同じこと。
日本は思想や信教の自由が保障された国だ。
つまり人を傷つけるとか、言動に「おかしい」が反映されない限り、わたしは真っ当だ。
そうに違いない。そうでなければ困る。
そのように、わたしは言葉に縋るに至った。
こんな重たい理由で大学に来た学生というのもそんなにはいない気はするのだが、
それでも、「言葉」になにかしらの夢や期待を持つからこそ受ける講義だ。
そんな学生たちにこの話を聞かせた教授には、なにかの意図があった気がしてならない。
言葉はままならない。
コミュニケーションはままならない。
この痛みや苦しみに、なにか意味がないなら嘘だ――そんな「どんくさい」先人たちの負け惜しみが、転んでもただでは起きない泥臭い負け犬根性が、いつのまにかわたしたちの「あたりまえ」を作ったならば嬉しい。
いつか、なにかしら、わたしもそれに続くことができたらいいと思う。