【小説】短編集『四条大橋』より・夏の章
思うに、この世はとうにディストピアだ。
人間はなぜ労働するのか。社会のため、金のため、自己実現のため。世間はそんな具合に苦し紛れの理由をつけたがるが、おそらく実のところはこうだろうと僕は思っている。
機械に働かせるより、人間を使った方が安いからだ。
例えばこの手のファストフード店。大量生産された肉だの卵だのを焼き、トレーに移し、注文通りにパンにはさんで、袋に詰めて放り投げる。サルでもできるこんな単純作業を、なぜ義務教育をとうに終えた我々成人男子が雁首揃えてこなさなくてはならないのか。厨房調理も、カウンターも、全部機械がやればいい。そうすれば、やれ愛想がないだの、誠意が感じられないだのと馬鹿をほざくカミサマどもも少しは静かになるだろうに。
ああうるさい、今度は何や。四方八方から同時にブザー音が聞こえる日には、まったくこの世の凡てを恨みたくなる。レタスの期限が切れている、揚げ物が揚がっている、それとこのエッグ――何が「エッグクッカー」や、アホと違うか。「卵焼き器」でええやろそこは。日本人なら日本語使わんかい、日本語を。
勤め始めて数か月、実を言えば、こんな具合に脳内で憎まれ口を叩く余裕ができたことさえつい最近の話だ。鈍間の僕が典型的な体育会系の巣窟でアルバイトとは、数年前の自分に言っても信じてもらえないに違いない。無論僕とて好き好んでここへ来た訳ではないのだが、例に漏れぬ貧乏学生に選り好みする権利はなかった。とにかく金が無いのだ。物書きなんていう、貧乏の代名詞みたいな職業に就こうとしているのだから、尚更だ。
大学生というと自由な青春時代だとか、新時代の才能の坩堝だとかいうイメージが無闇矢鱈と強調されているが――概ね僕自身もそう夢想したから大学進学を決めたわけだが――それはもう誇大広告も甚だしく、結論を言えばまったく期待外れだった。教授もクズなら学生もクズ。結局僕はそのクズたちを濃縮還元したような掃溜めの文芸部に籍を置き、執筆活動をしながら、講義に出る時間をどれだけ金に換えられるかという阿漕な計算に勤しむ、それこそクズの見本のような生活をもう丸五年間も続けていた。
ちらと時計を確認する。もう退勤予定の午後二時から十五分が経とうとしていた。
仮にも観光都市京都の中心部、加えて夏休みの昼間となっては、こんな店はこと多忙を極める。外国人観光客から高校生連中まで、猫も杓子も示し合わせたように狭い店内へ押し寄せてくるのだ――くそ、僕が賞を取ったら、こんな所すぐにでも辞めたるからな。
「店長ォ」
「え、ああ、ゴメンゴメン。木津川くん、上がりやな。お疲れ」
「うす、お先ーっす」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
恨みがましい声のトーンでばれたのか、店長はすぐに僕の言わんとすることを察した。新人の高校生クンの挨拶に一応片手で応え、踵を返す。元気なものだ。
店を出たら少しは静かになるかと思ったが、とんだ期待外れだったとすぐに思い知る。
昼下がりの四条大橋は、うんざりするほどの大量の観光客でごった返していた。何がそんなに珍しいのやらひっきりなしに写真を撮る者、大声でがなりながら押し寄せてくる団体、そんな連中のおこぼれにあずかろうとよくわからない音楽を始める、代わり映えのしない顔ぶれのストリート・ミュージシャンたち。二酸化炭素濃度の上昇に伴って生ぬるい喧噪に支配された四条大橋は、異様ともいえる雰囲気を醸し出していた。ギラギラとした「前進」への欲望がてんでばらばらの方向に入り乱れているこの場所は、バイトの憂鬱もあいまってどうにも気が滅入る。めいめい目的をもった人間たちが、膨大なエネルギー量でもって通り過ぎてゆくさまは、どこか異邦へ来てしまったような途方もない感情を僕に錯覚させた。
おまけにうっかり橋の下をのぞき込もうものなら、流れているのは例の鴨川だ。この川辺じゃカップルが等間隔に並ぶというのは本当の話である。トンビにでも食い物をさらわれてしまえ。ただでさえ暑いのに加えて従業員割引のハンバーガーセットの紙袋がほんのり生暖かく濡れてくるのまで何やら子憎たらしくなり、僕はいそぎ欄干を離れた。
中国人らしき一団をかき分けかき分け進んで、どうにか祇園四条駅にたどり着いたあたりで、ポケットの中の振動音に気が付く。地下へと雪崩れ込む人の群れに流されながら、画面も確認できないままに通話ボタンを押した。
「もしもし」
「あ、晃一? 俺やけど。西山」
電話の相手はそう言ったきり、僕の出方を伺うように黙り込んだ。
「は? お前――西山か!?」
「おう、久々。元気か?」
「元気かって、いや、お前なあ」
階段の途中で立ち止まっていたので、地下鉄の利用者がしきりに背中や腕にぶつかってくる。一旦駅を出て、人の少ない川沿いのベンチへ腰を下ろした。
「こっちの台詞やねん。お前、この一年何してたんや。完全に音信不通やったろ」
「いやあ、ゴメンゴメン、こっちも色々あってなあ」
悪びれる素振りもない西山の口ぶりに、思わず溜息が漏れる。
奴――西山というのは文芸部の同期生で、授業のある日もない日も、僕とはよく部室でつるんでいた仲だった。良くも悪くもノリの軽い人間で、何故文芸部に居るのかも、また何故僕のような面白みのない奴に絡んでくるのかも、五年経った今でもさっぱりわからない。この読めない男はおよそ一年前、突然部室で「一人旅でも行くかァ!」と叫んだきり、一切の連絡がつかなくなっていたのである。
「それより晃一は今日暇か? 俺、久々にこっちに帰ってきてるねん。飲み行こうや」
「急やな、なんでそれ今日言うねん。いや……暇やけど」
「おし決まり! じゃあ8時な。いつもの所でええやろ? 河原町の」
「おう。西山お前、自分で決めてんからな。すっぽかすなよ?」
「わかってるって。あー、ほんま久々やな。お互い積もる話も色々あるやろ。楽しみにしてるわ」
「……まあ、な」
じゃあ、と一言残して電話を切る。
携帯を仕舞い直して、ズボンの尻についた汚れを払いながら立ち上がった。人を殺さんばかりの外気温よりはまだ辛うじて冷たさを保っている石のベンチには、去年の枯葉の残骸だとか、細かくなって川辺から飛んできた砂埃だとか、目には見えない累積物が無数にこびりついている。四月が来て桜が散るたびに、きっとこれらは更新されてゆくのだろう。僕には、なにも変わらないように見えたとしても。
知れず、二つ目の溜息が漏れていた。
約束の相手があの西山となっては、どうも改めて身支度を整える気力がわかず、バイト先に着ていったシャツもそのままに約束の居酒屋へ出向く。新品のはずの制服はバイトを始めてすぐのころからいたく油くさく、どうにかならないかとはじめこそある程度奮闘したものの、まったくの徒労に終わったばかりか最近では箪笥の中、ひいては僕の部屋中をあの胸焼けしそうな厨房くささが乗っ取ろうとしていた。
目当ての店に到着するが手近に西山の姿はない。アプリの連絡画面を確認すると、どこで見つけたのだかしらない悪趣味なキャラクタースタンプとともに、先に入店して座席を確保している旨が記されていた。
店員に要件を告げて狭い店内に足を踏み入れれば、すぐにこちらに気づいた西山が片手を挙げて合図を送った。既にほとんどビールジョッキを開けている奴を尻目に適当なアルコールを注文し、自分すっぽかすなとか言うた癖に何分待たすねん、などといった不平不満を聞き流す。
「んで、晃一はどうよ、最近。今は何書いてる」
「……相変わらずや。前から続きで書いてるやつが、あー、社会派SF? かな、アレは。あと最近は歴史モノっぽいのもプロット組んでる。あとは企画段階のやつが二、三本」
僕の書いているものになんか大して興味もないくせに、一応そう切り出すのが西山の常套手段だった。証拠にこの手の話には「ふーん」と返したきりそれ以上は突っ込んでこない。文芸部で初めて会ったときから、毎回このやりとりは続いていた。
「あー、聞いてほしそうやから聞くけど。お前は? 一人旅とかいうの、ガチか」
半ば強制的な流れでそう訊いてやると、奴は待ってましたとばかりににまりと口角をつりあげた。
「そりゃあもう、『ガチガチのガチ』やぞ、お前、見てみろこれ俺のインスタ」
と差し出された画面にはなるほどアフリカだか東南アジアだかで撮ったらしい写真が載っている。この男が二年前ほど前「時代の流れに逆らって俺はこの手のSNSは一切やらん」とかなんとか豪語していた記憶が僕の脳裏には鮮明に残っているのだが、ひとまずそのあたりは閉口しておく。
頼んでもいないのに一枚一枚の画像に解説をいれながら、西山は半余年にまで及んだという旅の模様を事細かに喋り始めた。既に飲んでいたビールで酔いが回っているのか、どう考えても面白おかしく口任せに誇張したであろうエピソードを四割ほどの割合で混ぜる話しぶりに半ば呆れつつ相槌を打つ。思い返せば、この男の針小棒大な話しぶりは今に始まったものでもなかったのだが。
結露がすっかり済んで、ただ濡れただけになったグラスの残りを飲み干す。新人らしい店員を捕まえて、グラス交換と次の注文を頼むと西山も乗っかった。
「はあ、まあ、随分と有意義な旅ができたようで何よりでございます。ていうか前言うてた彼女はどうなってん。置いてったんか」
「ああ、うん。知らん間にLINEブロックされとった」
「そらせやわ」
「あいつには若干悪いことしたな。向こうでいい出会いがあったから俺的にはチャラやけど」
「なんや、海外で女ひっかけたんか」
「いや、就職先が決まった」
――就職先。
テンポ通りの鸚鵡返しが、喉の奥で引っかかり、やむなく歪に飲み込み直して、それきり次の句が告げなくなった。
ひゅっ、と妙な息が、開け放しの口から洩れたのに西山は気づいたろうか。僕は何度か瞬きをして、ざっと頭の中で暴れだした情報の波すら遣り過ごせないうちに再び口から零れ出たのもやはりひどく間抜けな音だった。
「は?」
「現地の飲み屋に行ったら、先に日本人のおっちゃんが来とってさ。たまたま喋ったら意気投合してな、なんや、新聞記者やって言うから、文芸部の話とか一人旅の話とかしたら、『君面白いね』みたいな? 今年の春から一緒に働くかっつって、声かけられてそのまま決まったわ」
西山が口にした社名をネットで検索すると、一件、前衛デザインめいた原色とアニメーションがふんだんに使われた社公式ホームページが目に飛び込んでくる。カテゴリとしては新聞社になるが設立されてまだ日が浅く、ベンチャー色の強い会社のようだった。
なるほど西山の選択としては悪くないように思えた。
「――お前、入るんなら絶対東京の出版社か大手のマスコミやとか言うとったろ。ここ、関東つってもだいぶ地方やぞ。つか本社っつってもこれ雑居ビルの一室と違うか」
「パラダイムシフトっちゅーやつや、おっちゃんの話聞いてたらそんなんもええかなと思って。何にせよ、もの書ける仕事には違いないしな」
「そうか……いや……お前が納得してるんなら、ええけど。まあ、頑張れよ」
「おう、お前もな。晃一はやっぱ、就活はせえへんのか」
「アホか、そんなもん、今更僕に出来ると思うか?」
「俺はお前、一般企業でもイケると思うけどなあ。それこそ志望動機とか、お前の文章力なら、いくらでもデタラメでっち上げて――」
「僕のフィクションはそんなことの為にあるんやない」
西山は何を言っている。
僕は何を話している。
「大体、今からどこに面接行って、何喋れっちゅーねん、『小説以外何の取り柄もないクズですけど金欲しいんで仕事ください』以外言うことないわ。それとも十割嘘で『御社の社会貢献事業に興味が』とか言えばいいんか? 僕が? ほんまアホくさい、どっちにしろそんな第二新卒が欲しい会社なんかあるわけないやろ」
「別にそこまで言うてへんやろ。ただ、晃一にちょっとでも迷いがあるんやったら、」
「うるさい!」
思わず立ち上がっていた。
テーブルが揺れる。西山が息を呑み目を見開く。周囲の客が一斉にこちらを見る。新しいグラスを持ってきたあの新人らしい店員が、戸惑い途方に暮れたような表情で僕を見ている。
僕を。
口内がいやに乾いている。顔がひどく熱い。
「……帰るわ」
「晃一? えっ、おい、金どうすんねん」
「知るか。お前がどうにかせえ、春から正社員やろ」
「はぁ!?」
飲みすぎたのだろうか。
火照りと胃のむかつきがいつまでも取れない。下宿先へ戻ろうにもあの俗生活に汚れきった狭い住居でじっとしている気にもなれず、当てもなく周辺を早足に歩き回った。河川敷へ降り、喧騒に背を向けてただ進んだ。疲れて歩けなくなるまでこのまま下ればいいと思った。
僕の小説が完結しなくなったのは、いつからだったろう。
昔はただ、書くのが楽しくて仕方なかった。他の連中のように運動が出来なくとも、人前で気の利いた話が出来なくとも、僕には言葉があった。他人と違う特技が誇らしく、夢中であらゆる作品を書いては賞に応募する日々だった。まともに人の目も見られない、無愛想で不出来な子供だった僕を、小説が人間にした。
それが、なぜ逆転したのだったか。
物語がクライマックスに差し掛かると、脳裏に不安がよぎるのだ。このまま描き切ってよいのか。これは駄作ではないのか。すべて書き終えたあと通しで読んだ時、胸に浮かぶ第一の所感を想像するのがひどく恐ろしくて、一文字打ち込むたびに指が震えた。シュレディンガーの猫のようなもので、結末が頭の中にあるうちはいつまでも僕は傑作を抱えていられる。この手を通して活字になった瞬間、僕の作品は容易に他人に晒され、批評される対象物となるのだ。心血を注いで書き上げた小説が、唾棄されるべきくだらないものだと分かってしまったら僕はどうなる? 僕から小説を取ったら、残る物なんてもう何も無いのに。
どうしてこんなところへ来てしまったのだろう。
名前の知らない町まで歩き続けて、そのまま行き倒れてそれっきりになったっていいと思っていたのに、ふと顔を上げると南座が見えていた。四条大橋だった。
夜になるとここは少しばかり様変わりする。昼間のように大勢の観光客がごった返しているわけではないものの人手はあり、飲み屋や舟屋の高級料亭から出てきた人影が淀みながら流れてゆくので決して静かではなかった。物好きなのかそんな客を狙っているのか、もう随分夜も更けているだろうにまだ朧げにストリート・ライブの音が聞こえてくる。とはいえ、態々河川敷を歩く人影は僕以外にないので、ここで弾いている奴は居ないが――
否。
橋を少し超えた先に、大きな荷物――恐らく、ギターかなにかだろう――を抱えた誰かが折畳式の椅子に座り、弾き語りをしている。
女の声だった。それに、距離があるにしてもどうやらかなり身長が低い。幾許かの気まずさはあったものの、このまま来た道を引き返すのも不自然である。暫し逡巡した末、僕はその人影の方向へ直進することにした。
橋の下に差し掛かると、ギターを持った女の全貌が見えてくる。
女というか、正確に言えば、少女だ。見たところ十代前半、昼間なら中学か高校の制服を着ていてもおかしくない年齢に見えた。自身の座高ほどもあるアコースティック・ギターを抱え、掻き鳴らしながら聞いたこともない歌を歌っている。
真夜中、こんな人気のない場所に年頃の娘を出歩かせていていいのか。否、逆か、家出少女なのかもしれない。どちらにせよ穏やかな話ではない、すぐ近くには交番があるというのに、こんなのを放っておいて警察は何をしているのだ。
ともあれどうせそのうち交番が見つけて補導してくれる筈で、僕が関わってやる義理など何処にも無いのだけれど、万が一この顔が明日、行方不明者として新聞に載ったりしたら流石に夢見が悪い。
少女は呑気にも足をパタパタとさせながら、音が気に食わなかったのか、腕を限界まで伸ばして調弦を試み始めた。一つ嘆息して、僕は少女の正面に回った。
「こんな所で、君は何をしてんねや。子供が出歩いていい時間と違うやろ」
数拍遅れて気付いたらしい少女は、きょとんとした表情で僕を見上げた。今度は更に直接的に帰宅を促すと、今度は困ったように視線を彷徨わせ始める。やはり何かしら面倒な事情があるらしい。居場所に困って、こんなところまで流れてきたわけだ。
「気持ちはわかるけどな」
そうはいっても、家出なら家出でこの時勢、他にいくらでも方法はあろう。このあたりなら深夜営業のカラオケやネットカフェが数件あるし、金が問題なら知り合いの家に厄介になるなり、ひとまず駅やコンビニに入るなりすれば、善良な大人が何かしらの手段を講じてくれるかもしれない。適当な提案を思索していると、ふと、椅子の隣にある古びた小箱に視線が吸い寄せられた。
「それ、ひょっとしてストリート・ミュージシャンのつもりか?」
演奏を気に入った聴衆に小銭を投げ込んでもらうためのものだろう、河原町駅や祇園四条駅の周りでよく見る連中と同じ手法だ。よく見ると買ったのだか貰ったのだか知らない小袋入りの洋菓子と、250mlサイズのペットボトル紅茶が入っている。金は一銭も貰えていないようだった。
少女の方は我が意を得たり、とばかりに大きな瞳を輝かせ、ギターを抱え直してみせる。また演奏を続ける気だろうか。
少女がにこりと笑って、空気を吸い込む。
何故だか、彼女にこのまま歌わせてはならない気がした。
「やめとけやめとけ、ストリートなんか、碌なもんやない。現実見えてないアホと夢諦めきれんオッサンが、自己満足でやっとるだけや。儲かるもんでもないし、さっさと帰って学校の支度でもした方が身のためやぞ」
想定したより大きな声が出て、少女も僕も一瞬、息を止めた。
少しも翳りのない純真な眼が、真っ直ぐに僕を映している。最初に声を掛けたときのような、当惑や驚きの色はない。否、彼女の瞳にはあらゆる意味も感情もなかった。立つ僕と座る少女、倍ほど違う僕の迷いと矛盾だけを冷酷に映し出す、例えるなら鏡じみた、無にすら似た覚悟と意志があるばかりだった。
耐えかねて目を逸らした、次の一刹那、再び呼吸音が聞こえる。
「あ」
決して力強いとはいえない、幼さの残る歌声に、ギターの和音が融けていく。細い腕は一定のリズムを保ち、擦り切れたピックを幾度となく振り下ろす。
少女の演奏は拙い。弦を押さえる左手は、楽譜を追いきれず時折ポロポロと音を拾い損なった。ピックもたまに本体に引っかかって、弦楽器らしからぬ鈍い音を立てるし、声だってそう際立った美しさも魅力もない。どこにでもあるような、ありきたりな歌声だった。
橋の上で笑い声が響いた。どこかの団体が店から出てきたのだろう、何が可笑しいのだか大声で騒ぎ合いながら、僕らの頭上を素通りしていった。
欄干越しに仰ぎ見える人影は皆一様に誰かと共に居て、鴨川を見下ろす者もまるで少女と関係のない、明後日の方向を向いていた。歌声など意にも介さず何処かへ帰ってゆく橋の上の人間たちは、僕らとは別の世界の住人に見えた。
何処を見ているのかわからないあの黒々とした瞳で、いくら張り上げても今一つ張りのない声を張り上げて、終わりの見えない歌のために彼女はギターをかき鳴らす。
少女の演奏は拙い。
少女は演奏を止めない。
「ほら、周り見てみ、君の音楽なんか誰も聞いてへんやろ! こんなこと、続けたって何の意味もない。諦めるなら早いうちのほうがいい、才能に見切りがつくのも。君ならまだ幾らでもやり直しが効くんやから!」
少女は演奏を止めない。
「なあ、聞いてんのか、僕の話……」
最早、彼女に僕の姿が見えているのかどうかももう解らなかった。
半歩引いて砂利を踏んでいた。ポケットを探り、手を出した瞬間に駈け出した。
「くそっ」
否、僕は逃げ出したのだ。
眠い。それに腹が減った。
酒が入っていたとはいえ、通りすがりのストリート・ミュージシャンに小銭入れをそのまま投げつけるなんて我ながらまったくどうかしていたと思う。後から考えればあの中にはまだ数人の野口英世が納まっていたはずで、給料日前の貧乏学生は致命傷に近いレベルの損失を余儀なくされることとなった。カード類こそ無事だったものの、ここ数日はバイト先の従業員割引と白米でどうにか飢えを凌いでいる。
「……ガイアブックス、新文芸書院、おのむら書房……マジか、ここも倒産しとる……」
いよいよ手つきが覚束なくなってきたが、あと少しで僕の本棚にある出版社のリストアップが凡て完了する。中古屋で買った本ばかりだからか四割強は既に出版元が潰れていたが、それでも奥付やホームページを当たれば三十社ほどの名前と連絡先を入手することができた。
徹夜明けの今朝、八千字ほどの小作品が完成した。
正直、僕の書いたものの中では、設定も世界観もありきたりだと思う。もう少し時間をかけて練れば、斬新な別の切り口が見つかるかもしれない。
けれど、完成した。僕の描きたかったものを、最後まで描ききることができた。
携帯電話が鳴る。飛びつくように画面を確認すると、さっき連絡したばかりの番号だった。
「もしもし」
「もしもし、こちら幻夜文庫の久坂でございます。木津川晃一様のお電話番号でお間違いはございませんでしょうか」
「はい。折り返しのご連絡、ありがとうございます」
「とんでもございません。ところで、ご用件をお伺いしても宜しかったでしょうか」
「ええと、はい。実は、小説の持ち込みをさせて頂きたくて……」
「かしこまりました。少々、お待ちいただけますか」
久坂と名乗った女性は大した迷いもなく言い切って、すぐに保留音が流れ始めた。
一息つく。比較的、好感触だ。これまで何社か掛けたが、「小説の持ち込みを」の時点で門前払いされるところもままあった。何処のネットの記事を読んでも成功の可能性は限りなく低いとのことだったから、この程度は想定内だが。
「木津川様、お待たせ致しました」
不意に保留音が途切れる。一気に緊張が走った。
「大変申し訳ございません。只今、当社では作品の持ち込みは受け付けておりませんので……」
「……そうですか。ありがとうございます、お手数をお掛け致しました」
肩から力が抜けて、疲れと呆れから乾いた笑いが出る。ひとまず紳士的に電話を終え、ソファーに肉体ごと放り投げた。
「まあ、こんなもんやわなあ」
お待たせ致しました、と言われた時の声色から、なんとなく予想していた結果ではあった。メモ帳の‘幻夜文庫’に斜線を入れる。
顔を上げるともう朝の8時半、とうに出勤の時間だった。
「やっば」
慌てて制服をひっぱり出し、鞄に携帯電話を詰め込んだ。まだ折り返し連絡が来ていない会社も多い。事務所に着いたら、一度電源は切っておいたほうがいいかもしれない。
そんな経緯でいつも以上に早足に、四条通を歩いていた時分だった。
「はいもしもし、木津川です」
「もしもし、いずみ出版ですけど。今、お時間大丈夫ですか?」
しまった、声に社会人の皮を被せ損なった。いずみ書房はたしか、電話したが繋がらず留守電に要件だけ吹き込んだところだったか。
腕時計で時間を確認する。仕方あるまい、店長には着いてから謝ろう。
「はい、大丈夫です」
「電話をくださっていた内容は、小説の持ち込みですよね。ちなみに木津川さん、今見せられる未発表の作品って、どれくらいありますか?」
「未発表……そうですね、完結しているものが、短編、一本です。プロットなら、まだ四、五本あるんですけど」
「ううん、なるほど、短編一本かあ。それだけだと、ちょっと現時点では評価が難しいですね」
電話口の男性は絶妙に毒見を感じさせないトーンでうなるように言い、それきり沈黙した。やはり作品の少なさはネックか。わかりました、と言おうと口を開く、と同時に男性の呟くような声が割り込んできた。
「三本かなあ」
「え?」
「今ある短編を含めて、三本、作品を完結させて、弊社にメールか郵送で送ってください。どんなに短い話でもいいので、きちんとオチまでついたものをね。その出来栄えを見て、編集部でどうするか判断します。そういう形の持ち込みでも構いませんか?」
「はい、はい、ありがとうございます!」
「では」
男性は心なしか明るい声で、こう締めくくった。
「楽しみに待たせていただきますので」
電話を切る。地下鉄祇園四条駅からは学生たちが列を成し、旗を持ったツアー客が鴨川を見下ろして舟屋の立ち並ぶ風景に歓声を上げていた。自由になった右耳から、誰かのストリート・ライブの音が無数に飛び込んでくる。
八月の四条大橋は、やはり今日も騒がしい。
※この小説は、オムニバス短編集『四条大橋』に収録されています。
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