もりちという人。1
「読んでみようかな」と思ってここまで来ていただいた方、ありがとうございます😊
自己表現が苦手な私が、このnoteを通して自分のことを書いてみました。
自己紹介というより、今の私につながる生い立ちについて書いています。
だいぶ暗い話なのです。が、5分で読み終わります。
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです😊
自己表現苦手人間をつくる種
自己表現がとにかく苦手です。
自分がどんな人間でどんな経験をしてきたのか、今どんな気持ちでどうしてほしいのか・・・素直に自己表現できる人が羨ましい。羨ましいけど、できない・・・。
口下手なのも相まって、自己表現が苦手な人間になってしまいました。
なんでそんな自分になってしまったのか・・・遡ることそれは幼少期。
気づけば、父はいませんでした。
4、5歳くらいだったのでそれまでの父の記憶はもちろんあります。
薄っすらと。
だけど一緒にどこかに行ったとか遊んだとかそんな記憶はほとんどありませんでした。
いつまにか父が不在になり、母はたぶん当時20代後半。姉と私とおなかには弟。
4,5歳の私の記憶では、そのあと祖父母の家に預けられ、里帰り出産の母を寂しく待っている記憶が蘇ります。
祖父は当時「かまぼこ工場」で働いていて、私たちを連れて職場に通っていました。今思えば、相当な負担だったと思います。
魚のにおいと、しょうゆのにおいを嗅ぐと当時の祖父のことを思い出します。
幼少期の記憶を色で表すと、「グレー」。
どんな場面もそんな色でしか思い出せません。
「悲しい、寂しい、恋しい。」
そんな思いがあっても、祖父や姉にそれを伝えることはできませんでした。
2人の心配する顔を見たくなかった。
それと、その気持ちを言葉にして伝えると本当に悲しくなって止まらなくなる気がしたのかもしれません。
幼少期のそんな経験は、自己表現苦手人間を作る種になる出来事でした。
トラウマを抱えた思春期
思春期の記憶は鮮明に覚えていて、においや音楽や似たような場所に触れると、思い出しては胸が痛くなることがあります。
まもなく小学6年生になろうとしている時期に、母から突然
「4月からお父さんと一緒に暮らして。」と言われたときは
「お父さんと連絡とってたんだ・・・。」と的外れなことを頭の中で何度も反芻させていました。
母の言葉にショックを受けていたのに、ショックを受けている自分を認めたくなくて、泣きたくなくて、違うことを考えようとしていました。
数日後、久しぶりに会う祖父と、そして父が会いに来て、母の言葉が真実だったことにショックを受け、そして父が再婚をしていることを知らされました。
「私と姉は、その奥さんと一緒に暮らすの?」
「なんで弟だけ、お母さんと一緒なの?」
言いたいことはたくさんあったのに、何も言えず、ただぼんやりと
その現実を受け入れるしかありませんでした。
不安な私と知らない町
どんどん走る父の車の中で、町の景色が変わっていくのを見ながら
「これからどうなってしまうのか」と考えていました。
姉の表情を見ながら、気持ちを探ろうとしましたが、姉は泣くことも、不安そうでもなく、いつも通りの表情で座っていました。
その姿に心強くもあり、落胆に似た気持ちにもなりました。
今思えば、姉も口に出せず我慢をしていたんだと思います。
遠い道のりの先に待っていたのは、知らない町でした。
受け入れられない私たち
父の住んでいる家に行くものだと思っていた私たちが、たどり着いたのは叔母の家でした。
数年ぶりに会う叔母と従姉妹にホッとしながらも
「なぜ何だろう」と考えていました。
後日知ったのですが
どうやら、父の再婚相手が私たちをまだ受け入れられないとのこと。
母に捨てられ、再婚相手にも受け入れてもらえない。
当時の私はそれをどう受け止めたのか、私は何も思い出せません。
さらに受け入れられない私たち
叔母の家での生活は続き
初めは優しかった叔母も、日に日にストレスが溜まっていくのが見て取れるようになってきました。
人が2人増えれば、当たり前に消費するお金も労力も増えます。
当時、父がそのあたりをどうフォローしていたのかわかりませんが、明らかに叔母は私たちの存在を疎ましく思っているようでした。
できる限り、叔母にストレスを与えないように
大人しく
大人しく
でも、ただそこにいるだけでイラ立たせてしまう。
叔母の顔色を伺いながら生活するようになっていました。
自分の気持ちを伝えられる人は、もうどこにもいませんでした。
救いの手は
学校という場所が好きなのは、当時の私を救ってくれた場所だからです。
学校を職場に選んだのも、そこに理由があります。
「つらい、苦しい、悲しい、寂しい」
この時、感情を口に出せない私のことを、わかっていてくれる先生の存在は、私を救ってくれる大きな存在でした。
そんな人になりたくて、私は教職という道を選んだのです。
口に出せない感情
父の再婚相手が私たちを受け入れることはなく、叔母との生活は、中学生になるころに終わり、父との生活が始まりました。
毎日テーブルに父が置いていく1000円。今でもその1000円札が目に焼き付いています。
それを握りしめて姉が買い物に行き、ごはんを作る。
私はそんな姉に甘え、自分が好きなことをして生活していました。中学生の姉が家事の全部をできるわけもなく、いつも家の中は荒れ放題。
私はそんな家の中を直視したくなくて逃げていました。
姉がどんなつらい思いをしていたか、今考えると胸が張りさせそうになります。
そんな生活が変化してきたのは
父がだんだんと帰って来なくなったことから始まりました。
帰宅が1日おきになり、2日おきになり、3日おきになる。
そうすることで置かれる1000円も1日おき、2日おきになるのです。
私と姉は恐怖を感じていました。
二人とも口にはしないけど、このまま私たちは置き去りにされるんじゃないかという恐怖を日に日に感じるようになっていました。
心折れる
「こうなってしまうんじゃ。」
強く思ったり、イメージすると現実になってしまうってよく聞きます。
当時の私たちは、きっといつもその恐怖にとらわれていました。
だから現実になってしまったのだと言われても、あの時の私たちからその恐怖を取り除くことはできなかったと思います。
父が帰らなくなって、どれくらい経ったのか覚えていません。
朝起きて、父が帰っていないのを確認すると、姉か私かどちらかともなく泣き出してしまいました。
もう耐えきれませんでした。
私たちは自分たちが捨てられたんだと悟って、初めて二人で泣きました。
姉が高2、私が中3の冬の頃です。
15歳の決心
その時とった行動は1つだけ覚えています。
叔母に電話をして「助けてほしい」と言ったこと。
初めて言った自分の気持ちでした。
どこから電話をかけ、そのあとどうやって叔母が来てくれて、どうやって移動したのか何も思い出せません。
そんななかでも、学校には何事もなかったように通っていました。
姉も私も学校が唯一普通の人になれる場所だったんだと思います。
しかし、私は中3で高校受験が目前に控えていました。同級生は進路選択をし、会話の中心も受験のこと。
私は正直、勉強なんてどうでもよかった。
絶対に親に頼らずに生きてやると、もう心に決めていたからです。
続く。
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