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繭野は何故、現パロが苦手なのか

 どこかで読んだ「自らの内に潜む悪意を知ることによって善良な理性が培われる」といったような主張から着想を得て、自らの苦手とするものについて熟考することに意義があると思い至った。そこで、何故繭野は現パロが苦手なのかについて考えた。

 キャラクター・世界観・設定・展開などはそれぞれが作品の一要素であり、他の点と線で結ばれ物語という像を成す。作品を舞台に例えるなら、役・脚本・美術などの要素は舞台を成立させるための舞台装置。キャラクターを推すという行為が人口に膾炙した現代においては少数派に類するかもしれないが、これが僕の作品に対する基本的な姿勢だ。ただ、これはあくまで基本的な姿勢であり、キャラクター単体に対する愛着はある。0か100かの話ではない。僕は作品を見る時にキャラクターよりも作品全体の構造を注視している傾向にあるというだけの話だ。これが僕が現パロを苦手とする理由と繋がっている。


 現パロは、作品の中からキャラクターだけを抜き出し現代で生かすという行為だ。作品全体で1つの構造として見ている僕にとってこれはとてつもないちゃぶ台返しに映る。世界観や原作上の展開を廃し都合良くキャラクターを現代に転生させるということは、僕が作品において重視していた構造美が損なわれるということを意味する。なので、僕は現パロが苦手なのだと思う。
一つ具体例を挙げる。戦国の世を駆け回った勇猛果敢な武将を現世に受肉させた現パロがあったとする。僕はそれに対して、武将の気高さはあの時代あってのものだし、現代にアイツらを連れてきたところでただのテロリストでしかないと思う。なので、この現パロはキャラクターの魅力とその他の要素の間に齟齬が生じていると僕は感じざるを得ない。

 「キャラクターのみを抜き出して都合の良い状態に放り込むという点において、それは現パロだけでなく全ての二次創作に言えることなのだから、君は原理主義者なのでは」と思った人もいるだろう。前半までは同意します。原理主義者という点においても完全に否定する事はできないが、しかし、そこまで杓子定規ではない。僕が述べている事は全て程度の問題であり、現パロは作品構造を大きく改変しているから苦手というだけだ。要は程度の問題。


 ここまで書いておいて気づいたが、とどのつまり、僕は現パロだろうとスカトロだろうと面白くありさえすればなんでもいい。現パロが苦手なのは、それが僕の面白いと感じる要素が排除されやすい様式であるからであって、それでも面白くありさえすれば別に現パロでも構わない。僕の中では作品における面白さは何においても優先するものであり、その妨げになる可能性が高いものについては苦手ということなんだろう。そのうちの一つに現パロが入っているというだけのことだと思う。究極、現パロが嫌なのではなく、つまらないのが嫌なのだ。

 念のため誤解ないように付け加えておくと、僕は自分の好みから外れた創作にケチをつけるほど狭量でないし、精神・表現の自由という基本的な人権意識を有しているので、言うまでもなく各々が好きなことをドシドシやるべきだと考えている。現パロに関してはもう二次創作として鉄板のジャンルになりすぎて検索避けなんてものは機能していない事が多々あるがそれも一向に構わない。繭野は器がデカいため、苦手な表現が流れてきてもさほど気にならないから。あと、一生涯をかけて現パロを嫌い続ける気もないから何かのきっかけに現パロの真髄を理解できることにも期待している。そういう意味でも検索避けなんてもうどうでもいいから各々が自由にやって欲しい。他のオタクたちがどう思ってるかは知らん。


 自らの内に巣食う嫌悪が紐解かれて解決に至りました。皆さんも何か嫌いなものについて深掘りしてみては如何でしょうか。

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