見出し画像

「人」という字は

ここ最近囚われ続けている感情に少しでも整理をつけようと、このnoteを綴る。
これからもこの気持ちを忘れないためにも。





* * *




「『人』という字は人と人が支えあって出来ている」

というフレーズは、日本人なら一度は聞いたことのあるであろう某大先生の言葉だ。
私たちヒトは一人で生きてはいけない。もしそう思わない方がいるとしたなら、私は論破できるだけの根拠と事実をその方に話せると自負している。
その理由の簡単なところだと、毎日食しているその食材・料理は誰が育て作ったものだろうか。あなたが持っているそのお金はどこを経由して来たものだろうか。
人は、人の手を介して育てられ、死んでいく。
この世に絶対という事はないとは言うけれど、これだけはきっと"絶対"なのだ。

一人で何の助けも得ず生きられる人なんて、絶対に居ない。

私はそう思っている。


「人の終わり」というものに焦点を当てる。
極論を言えば実に簡単だ。

肉体が先に果てるか。
精神が先に果てるか。
この二択。

肉体が先に果てる時は、老衰か病気であろう。
このどちらかであれば、残された者はまだ、仕方がないと思うことも出来る。
しかし、精神が先に果てるというのは、仕方がないとはどう足掻いても言い難い。
残された者に後悔の念を押し付けていく。
十字架を背負わせていく。
もっと出来ることがあったのではないか……。
考えても答えが出ないものを抱えるのはとても苦しい。
時間が解決するものでもない。

人は長い年月をかけてこんなにも進化したというのに、なんと脆く弱い生き物か。
痩せ細った小枝がぽきりと折れるように、呆気なく終わってしまう。
いつか友人が言っていた。
「退化したところが浮き彫りになるくらい、進化してしまったのかもしれない」
そんな言葉を思い出す。


感情を持つ生き物すべてにおいて、孤独になった瞬間が一番終わりに近いのだろう。
だから孤独にさせてはならない。
完全理解がない世界だからこそ、歩み寄って、寄り添う必要がある。

人は心の拠り所を求める生き物でありながら、感情の共有が下手な生き物だと私は思う。
苦しみを抱え、頼りどころを見つけられず、不安を上手く処理しきれずにいる人というのは、その事象について常に思考するようになる。
良くないとは分かっていても、考えていくうちにその事象は元あった大きさよりも肥大していき、抱えきれなくなってしまう。
そして突然、器ごと姿を消すのだ。
その前に食い止めたい。
これ以上は私が耐えられない。
苦しみを抱えた人の心に声が届くうちに、必死に届けなければならない。


気付いてあげなくては。
誰よりも明るい人というのは、誰よりも繊細で、人想いで、悩み多き人であったりする。
聞き上手な人というのは、誰よりも本当は自分の話を聞いてほしい人であったりする。
表面上に見えているものがすべてではない。

…分かっていたはずだった。理解したつもりだった。
だが、痛感した。
私は目に見えている部分だけで人を判断しているのではないか……。

これは私が死ぬまでの教訓だ。
人は支え合わねば生きられない。
こんなにも簡単に消えてしまう、か弱い生き物だ。
人が小さな生き物を愛でるのは、守るものを作るためかもしれない。
守るものがなければ、人は強くなれないのかもしれない。
痛みを知らなければ、優しくなれないのかもしれない。
戻れないものに直面しなければ、ありがたみも忘れてしまうのかもしれない。
なんて不器用な生き物だろう。

心の傷は放置してはいけない。癒さねばならない。
自分一人だけで癒すべき傷なんて僅かだ。
抱えきれない時は溢せばいい。
散らかせばいい。
それから共に片付けるんだ。
少しずつ。ゆっくり。

人という字を崩さないでおくれ。
勝手に独りで歩いていかないでおくれ。
「お互い様だよ」
そう言い合える関係で在ろう。
お願いだよ。

生きて。
生きていて。
それだけで充分だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?