「メメント・モリと写真」を鑑賞して
9月の頭に複数の写真作家からなる写真展「メメント・モリと写真」をTOP MUSEUMへ鑑賞してきた。
この主題となる"memento mori (メメント・モリ)"は、古代ローマの思想であるのだが、当初は「今を楽しめ」という、現在の「死を想え」とは真逆の意味を持っていたのだそうだ。後に言葉が広まるにつれてキリスト教と思想が交わり、そこでは『天国・地獄・魂の救済』が重要視されることにより"死"が意識の前面に出てきたため、今現在、当初とは違った意味持つようになったのだとか。
(気になった方はWikipediaへ)
さて、私もこのマガジンを『MEMENTO MORI』と称させてもらっているのだが、その所以は私個人としても「死を想うとは、生を想う」と考えたからである。
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私はずっとずっと長い間「早く死にたい」と考えてきた。辛いことから逃げ出したかったし、無かったことにしたかった。それも出来ないのなら終わりが欲しかった。
終わりのない苦痛に耐えられる気がしない。死んだように生きるのは辛い。どうしたらここから解放されるだろうか。
考えを巡らせた先の答えはいつも"死"しか出てこなかった。
死ねば全部終わる。嫌なことを何も感じなくて済む。
今より遥かに超絶ネガティブなよなよ星人だった私は、ずっとそう考えてきた。
「生き地獄」
「この言葉を考えた人とは仲良くなれそうだな」
なんて昔は思っていた。
しかし、歳を重ねるにつれて気付いていく。
「死にたい」と考えているはずなのに、その裏には「どうしてこんなにも不器用にしか生きられないのか」ということを常々思考していないか……?と。
そしてある時辿り着いたのが「メメント・モリ」の思想であった。
言葉を知った時は衝撃であった。今まで上手く言葉に起こせず、霧のかかったままだった感情や思考がスーッと晴れていくようだった。
そして気付く。私は死にたいのではない。
私は「生きている」実感をしたかったのだと。
【 死を想う=生を想う 】とはどういうことか。
"死とは悪である"とお考えの方もいるとは思うのだが、私の考えでは"死"は事象でしかない。
生命を持つもの万物共通。不変的なもの。
生まれたその瞬間から死へ向かって歩んでいく。
それが早いか遅いか。ただそれだけ。
「死を想え」と言われて真っ先に思いつくのは死際の話だ。「充分私は幸せに生きた」と満足して死にたいと願うとすると、どう考えたって生きている間を悔いなく過ごすべきであるという答えに行き着く。
つまり「どう生きるか」であり「生きるとは何か」になっていく。
死を想えば生を想ってしまう、不思議なロジックだ。
「生きるとは何か」を追求することで、生まれてから死ぬまで何を感じ、何を見聞きして生きてゆくのか、何を大事にしていきたいのか、自分の中での定義を考えることになる。
「死にたい」ばかりを考えて塞ぎ込んでいた思考は外に向き始め、まだまだ知らないことがたくさんあることに気付く。死んだら勿体無いかもしれない……。
「メメント・モリ」の思想を知って、そう思えるようになった。
このマガジンは私が何を思って生きたか、死際に満足出来るように記録するため生まれてきた。
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今回伺った「メメント・モリと写真」
多くの著名な写真家たちの残した写真には共通点があった。
それは"刹那的である"ということ。
喜怒哀楽、様々な日常を切り取った写真だからこそ、生きることは刹那の積み重ねであることを改めて感じた。
彼らは死を想い続けるが故に、生きていた証をその一枚一枚に込めているように思えた。
日常が日常であることが、どれほど刹那的なものなのか、大量の日々の写真がそれを物語っていた。この安寧がいつか壊れるのではないか。そんな恐れを写しているようでもあった。それは斯くして死生観につながるものだと思う。
『写真』という記録媒体であることも刹那的感覚を強くさせるのだろう。その一瞬を切り取る写真からは、その前後がどうであったかなどは想像するしかない。
「今」を切り取る写真は、「メメント・モリ」当初の意味であった「今を楽しめ」にも由来する。
この展示の題である「メメント・モリと写真」
-死は何を照らし出すのか-
正しく「生きるとは何か」を照らし出していると思う。
一見、死を扱ったテーマのように思えて、生々しい生に固執したテーマであり、メメント・モリの思想と写真という媒体の相性の良さも感じた展示であった。
これからも「生きるとは何か」を死ぬまで見つめ続けては私のこのマガジンにも記録していきたいと思う。
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