見出し画像

#14 消費期限

 夏の焼けるような日差しは、僕の少ない体力を問答無用で根こそぎ削り出していった。
 ほんの少しスーパーへ出ただけで汗は滝のように吹き出る。その不快感よりも既に脱力感が襲ってきていた。
 以前彼女に夜に外出するのが良いと言われたことを今更思い出した。
「この熱烈さがあらゆる美女からのものなら良いのに…」
 今にも溶け出て行きそうな脳味噌の回路はヒートアイランド状態で、ほんの10分程度で済むはずの帰路は、果てしなく長く感じた。
 逃げる幸福もない僕から止め処なく溢れ出る溜息と共に不意に足元へ視線を落とすと、真新しい皺くちゃになった映画の半券が落ちているのが見えた。
 映画なんて一体何年観に行っていないのだろう。学生当時、こんな僕でも付き合っていた彼女と一緒に「夏の醍醐味だ」なんて言ってホラーものを観に行ったきりか。
 映画の半券なんぞ用無しでしかないのだが、どうにも捨てられなくて困る。困り果てた末に、それらは日付順にスケジュール帳のポケットに溜め込んで保存されている。
 それらは見返されることもなく、ただ埃を被っていくだけ。その様を思い返すことは出来ても、今まで何を観てきたか、はっきりとは思い出せない。
 惨めにこうして捨てられるが良いか、思い出されもせずに塵となって埋もれゆくが良いか。センチメンタルな気持ちに浸っている自分に嫌悪しつつも、皺くちゃの半券を見ながら僕の不感さを反芻した。
 「暑さに殺される前に早く帰ろう」とため息をついて、僕は快適な空間へと家路を急いだ。

「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」
 意気消沈としながら扉を開けたその先には素晴らしい楽園が待っていた。
 リビングに居た彼女は僕の帰宅に気付くと、読んでいた本を閉じて荷物を受け取ってくれた…のだが、僕が手を離したと同時に彼女はあっという間に重力に引かれていった。
「うわっ……!随分買い込みましたね」
「もうこの暑さの中を出たくなくてね」
「これ…ほとんど冷凍食品じゃないですか」
 袋の中を見た彼女は僕の顔をまじまじと見た。
「文句があれば君が買ってきてくれ。元々自炊もそんなに得意ではないのでね」
 僕は彼女から雑に袋を取り上げて、然程大きくもない冷凍庫に食品をガサガサと詰め込んでいった。そんな大人気ない様を彼女は呆れたという顔をして見ていた。
「それでしたら私のこの残り短い命、美味しいものを食べて過ごしたいので、この食材がなくなったら私が作ります」
 食材を詰め込んでいた手は止まり、彼女の意外な言葉に僕は鳩に豆鉄砲を喰らわされた。
「料理はあまりしないタイプなんじゃなかったのか?」
「いいじゃないですか。死ぬまでに人間らしいことをしておかないと」
「人間らしい、ねぇ…」
 手を後ろに組んで照れ臭そうにぎったんばったんと体を揺らす少女は、あくまで死までの期間を楽しむ気だなのだろうが、どこからその気持ちが生まれてくるのか僕にはまだ理解ができなかった。その光景は不気味にさえ思える。

 "人間らしい"とは何だろうか。
 彼女の言う"人間らしい"というのは、所謂"普通"と呼ばれ生きている人のことだろうか。
 その普通な人はどんな生活をしているのだろう。家庭を持つ男性は、毎朝殺伐とした電車に揺られて仕事に向かい、家族のため、地位のため、財力のためと与えられた仕事をこなし、それを終えると今度は鬱蒼とした電車に揺られて帰宅。扉を開けた先には温かな家族の笑顔と夕飯の匂いが漂うのを感じて「ああ、今日も頑張った」なんて思うのだろうか。
 そんな普通の中でも水準の高そうな、僕がいくら手を伸ばしても届かなそうなものばかりを連想する。
 こういうものが世の中の普通と言うのなら、僕のような捻くれ者としてはこちらから願い下げさせて頂きたいのと、それと比較するとしたら僕らは全くもって人間らしさなど欠片も無いのだろう。
 ましてや、人の死を助長するような人間が出来る生活とは思えない。
 僕のような感性の卑しい人間でも人間らしいと言えるのか。人を羨み、妬み、自分の価値を他人から見出そうとしている僕は、人間として生きているのか。否、欲に塗れ返った奴ほど泥臭くて人間らしいと言うべきか。
 "人間らしさ"にでさえ優劣があったかと僕は頭を抱えた。

「それじゃあ君のその意気込みを期待するとしようかね。どんなに美味しい料理を振舞ってくれるんだろうなあ〜」
 悪意たっぷりにそういうと彼女は今に見ていろと言わんばかりの目つきで自室に戻っていった。表情の微弱になっていた彼女が久しぶりに見せた崩れた顔だった。

─────────────────────

 暑さでやはり体力を削られた僕は自室のベッドでしばらく眠っていた。
 喉の渇きで目を覚まし飲み物を取りにキッチンへ向かおうとドアを開けると、ふわりと米が炊き上がる香りがした。
 キッチンの側まで行くと彼女の後ろ姿が見えた。いつもより纏っている雰囲気が柔らかいような気がする。
「あ、起きました?冷凍食品をあれこれ駆使して夕飯を作ってみようと思って」
「ああ…」
「……あ、あの、勝手に色々使ってしまってすみません……」
 さっきまでにこやかにしていた彼女は、僕が不機嫌になったと勘違いをしたのか、みるみる不安げな強張った表情へと変わっていった。きっと今までも良かれと思ってしたことを咎められた機会が多かったのだろう。
 半分寝ぼけていた僕は彼女がなんだか楽しそうに料理している姿が幻か何かだと思い込んで、上手く声をかけてやれなかったというだけだった。慌てて言葉を補う。
「ああ、いや、ごめん。自由に使ってもらって構わないよ。夕飯、ありがとう。もうそんな時間になってしまったか」
 彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「もう少しで出来上がるんですが、手伝って頂けませんか?」
「僕が出来ることで頼むよ」
「あの…卵焼きって作れますか…?どうしても上手く出来なくて…」
 気付けばカウンターにはスクランブルエッグ……もとい卵焼きが置かれていた。僕のその視線に気付いて、彼女は「それは私が食べますから…!」と言ってきた。
「フライパンだと綺麗な四角い卵焼きは初心者には難しいんじゃないか?」
「やはり…そうなんですね…」
「僕も上手くは無いけど…」
 そう言って僕は卵焼きを作ってみることにした。

「湊太さん…これ………」
 そうして出来上がったのはスクランブルエッグだった。彼女はクスクスと笑い始めた。
「た…たまたま今日は上手く行かなかっただけだ!」
「ふふ…分かりましたよ(笑)そんなに慌てなくたって」
 まるで料理に興味の無かった2人がキッチンに並ぶとそれはそれは惨めな光景となる。
 これが平穏さ、温かさというものか。そんなことに初めて幸福感を見つけてしまって、僕は戻れない何かを感じた。
 手を伸ばしても届かないと思っていたものは不器用な人間が2人揃うことで賄いあえることもあるらしい。僕は着実に彼女と過ごす日々で今まで知り得なかった感情に触れつつある。
「そう言えば、明日らしいぞ、祭り」
「そうなんですね!行きましょう、お祭り。私の人生、最初で最後のお祭りです」

 祭りを終えたら、僕はこれ以上彼女と共に何かを成すことはやめようと決めた。
 彼女を僕の中に取り込んでゆくのは危険なような気がしたのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?