プロローグ
春。渋谷。夜7時前。
だんだんと気候も暖かくなり始めて、人々の陽気さも増していた。土曜日の渋谷は見渡す限りの人。
「治安の良い街」とはかけ離れた渋谷に何も期待はしていないにしても、土曜日の今日は尚更治安の悪さが露呈している。
見渡す限りの人に比例するように、見渡す限りの道にはゴミ。ファストフード店のジュースカップ、コンビニの袋、空き缶、煙草の吸い殻。いつから"道"は"ゴミ箱"に変わったのか。この街のマナーとモラルの無さが伺える。
大量に散乱したゴミから発せられる臭いにつられて、あちこちの臭いが気になりだした。換気扇から出る飲食店油の纏わりつく臭い、酔っ払いサラリーマンの臭い、若者の付ける強い香水の臭い。全くもって、最高で最悪な悪臭のコラボレーション。渋谷の空気を調べたら有害物質の方が酸素の量より多いのではないかとさえ思う。
そんな思考から気を紛らわそうと人々の様子を見ると、そこら中ナンパの嵐。目ぼしい女が捕まらないとなれば、見苦しい罵詈雑言が飛び交ってゆく。じゃあ更に視線を上へ向ければ気が晴れるかと思いきや四角く狭い空に星の一つすら見当たらない。
色んな意味を込めて「ゴミ溜め」という言葉が相応しいな、と暗闇を見つめながら、僕は独り言ちた。
渋谷の街は嫌いだと思いながら、何故ここに来てしまうのだろう。惹かれるように、導かれるように、皆ここへ集まるのは、悪いコトをしても"全て渋谷のせい"に出来るからだろうか。某鉄道会社のキャッチコピーとは似ても似つかぬキャッチコピーである。
そして、僕も導かれた内の一人としてこの街に訪れている。それも一人の少女との待ち合わせという理由で。
しかし、確実にその少女が来るという保証は無い。
というのも、渋谷の瘴気に当てられた僕が昨日適当に声をかけた少女なのだ。つまり、僕はそこら辺の詰まらない男に成り下がった訳だ。だが、ナンパをした割にその少女は僕のタイプでもなければ、どうでもいいようなタイプの子だった。 見た目も至って普通。
黒髪ロングでぱっつん前髪。派手なメイクをしている訳でも、服装をしている訳でもない。こけしが髪を伸ばしたような、特徴が無いことが特徴のような。それくらいの印象しか受けず、興味も無かった。
何故声をかけたのかと聞かれたら「そこに居て、ただ視界に入ったから」と答えるだろう。何を話したいでも、ラブホテルに連れ込んでやろうとも思っていなかった。
「視界に入った」というとその子に興味を持ったから視界に入ったのでは?と思うだろうが、本当に、特に目的は無い。
そう、その時は思っていた。
声をかけたその時、彼女は何故か一切不審がらず、僕の話に耳を傾けてくれた。一人でフラフラと夜の渋谷を彷徨い、突然声をかけてくる男なんてろくでもないだろうし気持ちが悪いだろうに。どうした訳か普通に会話をしたのだ。
彼女の方には友人がいて、友人の方は明らかに僕を不審がっていた。それが当たり前の反応なはずだ。それなのに「それじゃあ、明日の夜7時に同じ場所で」と彼女はそう言って去って行った。隣の友人は、怪訝そうにこちらをチラチラと振り返りながら、彼女の耳元でひそひそと話していた。
「やめておきなよ。危ないって」
そんな聞こえなくても分かる会話をしていたに違いない。その訝し気な顔はとてもよく覚えている。
そういう訳で、彼女がいくつで、どこに住んでいて、何をしている子なのかさっぱり分からない。その時間にちゃんと来るのかさえ分からない。そんな子を、このごった返した雑踏から見つけられるものだろうか。向こうが覚えていない限り、僕には到底無理なことのように思える。
時刻は間もなく夜7時。
昨日と同じTSUTAYAの前辺りで腕時計を見ていた時だった。僕の視界に女性の腰から下だけが映った。無理だと不安がっていた割に、あの少女だと直感的に思った。
「昨日の方…ですよね?違ったらすみません」
顔を上げるとそこには昨日と同じ少女がこちらを見つめ立っていた。今日も至って普通な、年相応な格好をしている。
「そうだよ。よく分かったね」
「この派手な街で一人ぽつんと素朴な格好をしている人は、比較的見つけやすいです」
彼女も似たようなことを考えていたものだと思った。よくよく考えれば、僕だって見つけにくいくらい気配のない人間だ。逆にこの街では、僕みたいな冴えない格好をした人間は浮いて見えるのかもしれないなと、僕をまじまじと見つめる少女を見ながらぼんやり思った。
「それじゃ、どこか喫茶店にでも入りましょうか。お話はそれからで」
彼女の一言で僕らは喫茶店に入った。彼女のあまりに不審がらない態度に僕が不審感を覚えるほど、彼女は普通に接してくる。明らかに僕よりは年下の女の子だ。どんな肝の座った女の子だろう。
「それで、まず自己紹介でもしましょうか」と目の前の飲み物を凝視しながら少女は言った。
席に着くなりクリームソーダを注文した。喫茶店のクリームソーダでその店のレベルが分かるのだと豪語していた。
「えっと、能崎 紫(のうざき ゆかり)です。『ゆかり』は『むらさき』と書いて紫です。大学1年です」
「へえ、綺麗な名前だね」
彼女は真顔でそそくさとアイスクリームを口に運んだ。聞いているのか聞いていないのかよく分からない。
「僕は榊 湊太(さかき かなた)。『湊(みなと)』に『太い』で『かなた』。歳は24だ。そして僕は今ギリギリ犯罪を起こしているようだね」
そう言うと「今後、性的目的でもあるのですか?」とふわりと顔を上げてこちらを見た。恥ずかし気もなく大っぴらに聞いて来たのには驚いた。今のところは無いと言ったら、彼女は歳に似合わない艶やかな笑みを浮かべてみせた。
クリームソーダは半分を過ぎた。
「それで、能崎さんはなんで僕なんかとまた会おうなんて思ったんだ?」
「そうですね…単純に面白そうだと思ったからです。すみませんも無しに『また明日会ってもらえませんか?』なんて、普通じゃないことは確かでしょ?私に興味を持つ男性がどんな人なのか見てみたかったんです。最悪な事態は考えて、腹は括っていましたから」
そう淡々と話す彼女を前に、この子は何かが欠落した人間だと僕は確信した。
グラスをズルズルと啜る音がした。
「僕は君に興味も目的もないまま話しかけたんだがな」
「それは可笑しな話です。人間、心動かされなければ行動に出ようなんてそうそう思いませんよ」
彼女はそう言うと、一瞬にして平らげた680円の8割は手数料であろうクリームソーダのグラスをテーブルの端に避け、落ち着いた調子で店員を呼び、ブレンドコーヒーを頼んだ。とてもさっきまであんな糖分の権化とも言えようものにがっついていたとは思えない。僕はその光景をカフェラテと共に飲み込んだ。
「年下にそんな事を言われるなんて僕の人間性が計り知れるな」
なんとなく図星を突かれた気がして僕が苦笑いをしながらそう言うと、彼女は偉そうに深く大きな溜息を吐いた。
「年齢が関係していると思っている時点でがっかりですね。年齢なんてただのカウントです。その人の人間性なんてどんな人生を過ごしてきたかで決まるんですよ。案外詰まらない人間に私は目をつけられてしまったようです…」
言葉に詰まった。
詰まらない人間だと自分でも思ってはいたが、そうハッキリと言われるとは思ってもいなかった。そう思うと同時になんて小賢しい女だと思った。5つも下の女に舐めた口を効かれてはこちらも黙ってはいられない。
「冗談の効かない子だな。謙遜してそう言ったまでだ。詰まるか詰まらないかはこれを聞いてから判断してほしいものだね」
僕の挑発的な言動にたじろいだようだったが、更に挑発的な態度で次の言葉を彼女は待っていた。僕はこれから最高の反撃に出る。
「ねえ、君は、僕が人殺しだって言ったら、どうする?」
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