泥水を好む鶏と、魔法瓶の家に住む人間
最近安曇野での鶏たちとの生活や、設計事務所での仕事を通して、思っていることを綴った記事です。
深刻化し続ける環境問題への対応が、世界の常識のようになってきました。ビニール袋の有料化、電球はどんどんLEDにとって変わられ、太陽光パネルが増え、高断熱高気密の住宅を推奨する人が増えて、建築の省エネの基準もこれから厳しくなることが決まっています。
でも、毎日安曇野の澄んだ空気の中で、鶏とアヒルたちが庭でキャッキャと過ごしている姿を見て暮らしていると、そういう時代の流れを少し冷ややかに、少なからずの矛盾を感じながらみている自分がいて、今日はそんなことを文章にしてみようと思います。
泥水を好む鶏
ここ数年の私の最大の関心ごとは、飼っている鶏たちとアヒルちゃんが、いかに幸せに健康に育ってくれるかということです。市販の配合飼料は与えず、安曇野の玄米や、畑の野菜をたっぷりあげて愛情たっぷり甘やかして育てています。そんな彼らのために鶏の本をたくさん読んだり、彼らを見ていて気づいたことがあります。それは、鶏もアヒルも、水道水を好まず、人間だったら絶対飲めないような池の泥水を美味しそうにごくごく飲むのです。水道水を飲まないわけではないのですが、並べてあったら必ず泥水や雨水を美味しそうに選んで飲みます。鶏の本によると、鳥たちは塩素やカルキの入った水道水にはなんの魅力も感じず、微生物のたくさん入った泥水を好む、その方が健康に良い、とのこと。
ほんの些細なことなんですが、これに気づいたとき、私の中で大きな衝撃というか、深い気づきのようなものがありました。自然のなかにある水をありのまま味わい、栄養を摂取できる動物と、大きな施設で水を浄化して、塩素を加えて、ようやく安全だと言って飲む人間。なんでこんなに違ってしまったんだろう?動物たちって、超すごくない!?というのが、私の最近の大きな気づきでした。
魔法瓶の家に住む人間
もうひとつ、衝撃を受けたことがありました。新築の建物を設計していて、屋根の断熱材を調べていたときのこと。とある人のブログで、魔法瓶のような家に住みたくて、超高気密超高断熱の家をつくってもらった、というのを読みました。内断熱と外断熱材の合わせ技。窓は極力少なく、ペアガラスで二重窓で。
それを読んだとき、5分くらいは、すごいなぁー私たちももっと高断熱がんばったほうがいいかな?と思ったのですが、あとからじわじわと、怖くなってきたのです。魔法瓶の家、その言葉の強烈なインパクト。つまりそれは、外の世界から完全に断絶された、完全なる非自然空間。暖房や冷房の空調をするエネルギーは極力抑えられて快適なのかもしれないけど、風通しがよくて気持ちいいとか、窓から外の良い景色が見えて幸せとか、冬の南側の暖かい日差しが入ってポカポカとか、そういうのはなくなっちゃって、ただ常に一定の温熱環境にしやすい家なんじゃないかなと想像してしまったんです。
私は、外にいるのが好きです。安曇野の豊かな風景を眺めながら、畑仕事したり鶏たちと戯れたり。土の上に座ってごはん食べるのも好きだし、春とかの季節の良い時は家中の窓を開けたいし、大きな窓から山が見える暮らしが気に入っています。テント泊も好きだし、芝生に寝転びたいし、虫も好きだし、日差しも風も大好き。なるべくそういう自然を感じられる家に住みたい。高気密や高断熱をがんばるのはもちろん悪いことじゃないけど、やりすぎて失うものもあるんじゃないかな?と、気づいたのです。
私が暮らしたい家
もちろん夏暑くて冬寒い家はいやなので、快適に暮らせる家をつくる工夫はたくさんしています。南向きの大きい窓と深くて低い軒、風通しが良いようにバランスよくたくさん窓があって、しっかり断熱する。気密はとりすぎるとキーンとして息が詰まるしドアがバタンとなるので、ほどほどに自然通気をとります。ペアガラスにはしますが、二重窓まではしなくても、じゅうぶん暖かい家がつくれます。簡単に言うと、昔ながらの日本建築のつくりで断熱性を上げるのが、単純だけど素晴らしく良いと思っているのです。
私の暮らしている家は古民家風のつくりですが、築40年弱で割と新しいのでアルミサッシが入っていて、シングルガラスですが縁側と障子があるので日が暮れたら障子を閉めれば全然寒くありません。建てた当初は断熱がほとんどされていなくて、床下も今時のベタ基礎ではなく独立基礎で、床下が土のままなので冬は死ぬほど寒い家でした。移住前に床、壁、天井に断熱材を入れる工事をしたので、冬でも石油ストーブをつければポカポカになります。去年薪ストーブも入れたので、本当にポッカポカで幸せです。
私は今の自分の家が心底気に入っています。設計は降幡廣信さんという古民家建築の巨匠建築家で、安曇野松本エリアに本当にたくさんの古民家建築をつくり、改修して生み出してきた方です。深い軒は夏の暑い日差しを遮り、冬のポカポカありがたい日差しをとりこみ、雨の日でも窓を開けて風を通すことができて、年中快適で幸せです。もちろん、安曇野という土地が気候的に暮らしやすいのは大前提としてあります。暮らす土地も、ひとつの選択ですよね。
それは本当に必要か?
最近私がよく自問自答すること。あたりまえのように使ってきたそのアイテム、本当に必要?
ちょっと前に民泊に来てくれたお客さんが、家政婦さんの仕事をしていて、その時窓拭きが面倒でなかなか時間を取れないことが悩みだった私は、その女性にお掃除についていろいろ相談しました。お掃除って、なんとなく母がやっていたやり方でそのままやっていて、床は掃除機、洗い物は洗剤、しつこい汚れはキッチン泡ハイター、お風呂はバスマジックリン、油汚れは油汚れマジックリン、ガラスはガラスマジックリン、トイレも、家電も、、、各所になにかアイテムを使ってやるのが当たり前のように思っていて、なんの疑問も持たず使っていました。その家政婦さんは私に、水拭き用の雑巾と、乾拭き用の雑巾が数枚ずつあれば家中を綺麗にできると教えてくれました。面倒だと思っていたガラスも、しっかり濡らした雑巾で上から下に順に拭いて、また乾いた雑巾で上から下にしっかり拭いていくだけでいいんだよと。汚くなった雑巾でもう一度拭いちゃダメとか、しっかり乾拭きをするとかコツはあるけれど、ハイターとかマジックリンとか、使わなくても綺麗にできるんだよと。そのときすごく目から鱗が落ちたような気持ちになって、お掃除が楽しくなりました。思い込みで必要だと思っていた便利アイテムって、実はほとんど要らなくない?という、大きな気づきでした。それから、掃除に限らず生活のあらゆる面で、思い込みによる過剰なアイテムをなくしていったら、すごくシンプルになりました。そりゃ、使わなくて済むなら、楽ですよね。使った方が早いかもしれないけど、実際そんなには変わらなかったりして。
思い込みの積み重ねを崩したい
思えば現代社会のいろいろな問題は、そういう思い込みによってできた、過剰な余剰の積み重ねによる結果なのかなと、考えるようになりました。うちの鶏たちみたいに、もっとシンプルに生きれたらいいのに。そういう向きに動くことができたら、人間の適応力も上がって、どんどんいろんなものがいらなくなっていくんじゃないかな?豊かさって、たくさんのものを持つことじゃなくて、たくさんのものを受け取れる自分であることなんじゃないかな?
自然界に汚いものはない
もうひとつ、鶏たちやうちの自然農の畑を観察して気づいたこと。自然界において、汚い、受け入れ難いようなものはひとつもないということです。家の中で生ゴミを放置すると腐って臭くなって耐えられないし、ペットボトルのお茶も口をつけて数日するととんでもないものになるけど、私の庭にも畑にも、鶏たちが食べれないものはないんです。刈った草は土の上に敷いておけば発酵して微生物が育って土がフカフカになるし、鶏たちの糞も庭に転がってしばらくすると乾燥したり分解したりでただの栄養になるし、鶏たちが散らばした米や野菜も、しばらくするといなくなる。大量の生ゴミはコンポストに入れとけば次の日には真っ黒い分解された状態になって、下から出た栄養たっぷりの土は鶏たちがいちばん喜ぶご馳走になるのです。
逆に、どんなにコンポストに長いことあっても全く分解されないプラスチックには恐怖すら覚えるけれど、自然界にある自然のものって、本当に心底びっくりするくらい、悪いものにならないんです。いやな臭いもしないし、なんなら全部か誰かの栄養になっていく。自然界って、本当にすごい。私も、その一部になりたい。自然物のひとつでありたい。
まとまらないまとめ
たくさんのことを勢いで書き綴りました。まとまってませんが、ここに書いてきたことは、すべて同じようなことに収束する気がします。そして、その先に、とても大事なことが見つかる気がしています。ここまで読んでくださった方、どうもありがとうございます。また思いついたら、続編をかけるといいなと思ってます。
MIGRANT 小穴真弓←名前が変わりました!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?