【639/1096】たくさん失敗する
「ちゃんと」「ただしく」「しっかり」やること。
これが子どもの頃から言い聞かされていたことで、それをしようとしてきたし、そうできない自分を責めるというのとセットであった。
ちゃんと正しくしっかりやるということは、失敗は許されないということでもあった。
ちゃんと正しくしっかりやれなかったら、怒られるのは仕方のないことで、それがやれなかった理由は考慮されない。
その結果、できるだけ失敗しないようにするのが癖になっている。
でも、失敗しないようにするのは、成功することではない。
失敗しないようにするというのは、工夫をする余地はない。失敗しないことが重要なので。
工夫して、なんとかうまくやろうとするには、失敗がつきものである。
失敗しないようにするではなくて、どうしたらうまくできるか工夫するに変化するのはなかなかに大変で、失敗なんかこわくない!えーいっ!と思い切ればいい、というわけでもなかった。
自分の身体の動かし方で、息の出入りが変わるということを呼吸・整体で学んで、これはすごい!!となり早速日々の中に取り入れた。
のであるが、身体の動かし方も「ちゃんと」「ただしく」「しっかり」やる方法を探してしまう。
例えば、息が止まってしまう動作をしていた(ちなみに、特に止める必要もないのに止めている動作は日常に数限りなくやっていた)と気づいた後に、どうしたら止まらないように動けるか?を探すのではなくて、「ちゃんと」「ただしく」息が止まらないように動くには?を探してしまうということをした。
ちゃんとただしく病は、かなり自分の中にしみこんでいるので、そうしてしまうことに気づかないことも多かった。
もちろん、今もまだ無意識にぼろっと出る。
ちゃんとただしくしっかりやる答えなどはなくて、どうしたらいいか?を自分で探して、自分で決めればよいだけだ。
そのためには、「失敗してもいい」と自分に失敗を許してあげるのが大事。
特に、人に迷惑をかけない範囲でたくさん失敗をしてみるのは、「ちゃんと」「ただしく」「しっかり」がしみこんでればしみこんでるほど必要だと思う。
こうやると息が止まるんだ。
こっちも止まる。
じゃあこうしたら?
こうやって自分で探して、自分で見つけて、自分でこうしようと決める。
その体験が圧倒的に少ないので。
そして、これこそ、主体性。。。。
息で練習する分には、誰にも迷惑がかからない。
そして、多少失敗しても、すぐに気づいて修正できたり、いくらでも探求できるので、安全である。
そうやって、自分の息を守る動きをしていくと、次第に自分の中に安心、安全がつくられていく。
失敗しても大丈夫、そういう感覚が育ってくる。
もちろん、子どもの頃にこの感覚が育っていたら、もっといいけど、ここまで年数重ねてても、できないことはない。
というわけで、たくさん失敗する体験を安全に何度でも。
息は生きている限り続いているから、大丈夫。
では、また。