【627/1096】わかってから進む、はない。
呼吸のことを伝えていて、よく聞かれることに
「それってどうしてそうなるんですか?」
というのがある。
「そうなるかどうか、やってみて体験してみよう!」ということの前に、「わかってから進みたい」がある。
わかってから、のわかっては、脳で理解したい、知識で理解したい。
そして、その裏には、わからないものは、やりたくないがある。
私はこれを学校教育の弊害じゃないかと思っている。
何を隠そう私もそうだった。
そして、小学生の子どもが、習字を習っていて、お手本に学校で習っていない字が出てくると
「習ってないから書けません」
というのだ。
今、その手本を見て、習うのだよ!!!!!
と思って、驚く。
しかし、習字の先生も
「え?習ってないの?じゃあ書けなくても仕方ないね」
みたいなことを言うのである。
「学校で習う前のことは、やらない」って、呪いがどっかでかかったのだ。
たぶん、この呪いにかかってる人は多い。
身体のことも、呼吸のことも、
学校で教えてくれることはない。
まったくない。
よく考えてみればわかる。
赤ちゃんは誰かに習ったから、寝がえりしはじめるのではない。
ハイハイするのも、つかまり立ちするのも、誰かに習ったからやるのではない。
だから、わかってから、習ってから、教わってから、やるというのはない!!!
わからないままやるのである。
いいからとにかくやる。
やってみて、修正する。
そのようにして、「体得」するのだ。
でも大人は、理性の脳がある程度発達してしまっているので、そこが満足しないと動かないということがある。
だから、なんと!懇切丁寧にそれを体系化してくださった先生がいて、それを教えてくれる場もあるのである!
なんと素晴らしいことであろうか。
森田敦史先生が考案された呼吸・整体は、そのとおりやればよく、さらに、自分で探求できるのである。
重要なのは、残念ながら、脳が満足しただけでは変わらないということで。
知識としてわかったことは、体得したことにならない。
赤ちゃんが寝返りし始めたとき、何度も何度も繰り返し繰り返し、ひっくり返ろうとする。
手が抜けなくて泣いたり、うまい方向に寝返れなくて泣いたり、いろいろ試して試してうまくなる。
大人は、それより難易度が高くなる気がするのは、なぜなら、これまで生きてきた中でついた癖があるから。
でも、その癖が、今の自分にとって楽でないなら、変えることはできる。
けれども、変える前に、「わかった」状態ではじめることはできない。
わからないから、やるのである。
そこを間違えると、いつまで経っても変わらないうえに、ドツボにハマる。
ドツボにはまるのも、一興ではあるが、けっこう時間は無駄にする。
そこをできるだけ最短で抜けるために、一緒にやる人が必要なのである。
自分だけでやっていると、ドツボにハマったら抜けられない。
では、また。