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「理系クラスで落ちこぼれ、でも化学だけは好きだった私」──その後の仏教との出会い(前編)

高校時代、私は理系クラスに所属していたものの、
その実態は「理系らしからぬ落ちこぼれ」だった。

数学は普通にはできるレベルだけど楽しくない、物理は苦手。

いわゆる「理系科目が得意で論理的な人」という
イメージには程遠い存在だった。

それでもなんとか食らいついていこうとする日々で、
物理の公式を覚えたり、問題集をひたすら解いたりするのが精一杯。

子どもながらによくがんばったなと思う。

特に力学や電磁気の単元では、問題を解く手順がまるで迷路のように
感じられ、授業を聞きながら
「なんでこんな難しいものを勉強するんだろう」と思っていた。

周りには、物理や数学を楽しんで学んでいる友人もいた。
そんな彼女らが公式の背景にある理論や自然現象について語る姿を見て、
「私は彼女らとは違う世界にいるんだ」と
劣等感を抱くこともしばしばあった。
ちなみに今は希少な女子高だったから、彼女らとしておく。

理系クラスにいる以上、物理も数学もできて当たり前——
そんな空気が漂っていて、苦手意識を隠して過ごしていたように思う。

ただ、そんな私でも化学だけは好きだった。
暗記が多いと言われる化学の内容も、
なぜか理論が頭にスッと入ってきたし、
原子や分子の性質を考えるのが楽しかった。

特に、周期表を眺めているときの
「整然とした秩序の中に無限の可能性が詰まっている」感じに
ワクワクしたのを覚えている。

各元素がどんな特性を持ち、どんな反応を起こすのか。
その一つ一つが不思議で面白かった。

理論と現象の一致がわかりやすい「化学の実験」も大好きだった。

炎色反応で鮮やかな色が生まれる仕組みを理解する面白さ、
電気分解での「見えない電気の力」を目に見える形で化学変化として
体験できたこと、
中和滴定で目に見えない化学式を「体感」できたことなどなど……

そのすべてが私にとって「目に見えない力で世界が動いている」ことを
体感できた瞬間だった。

授業で習った内容が実験という形で「目に見える現象」になるとき、
化学は単なる暗記科目ではなく、私が住んでいる世界そのものを教えてくれる存在になるように感じた。

とはいえ、理系科目で得意なのは化学だけ。
問題集もたくさん解いたし、難関大学の赤本も何冊か買って勉強していた。とにかく楽しかった。

でも他の理系科目でつまずき続ける日々は、理系クラスにいる自分の居場所のなさを強く感じさせた。

授業中、先生が「ここまでは全員理解しているね?」と確認するたび、
心の中で「全然わかりません!」と叫びたくなることも
しょっちゅうだった。

特に物理は、「世界を解明する学問」と言われる一方で、
私にとっては計算や公式の羅列にしか見えなかった。

それでも、「なんで自分は理系を選んだんだろう」と後悔したことはない。

化学が好きだという思いだけで選んだ道だったけれど、
そのおかげで「理系で落ちこぼれる」という経験ができたのだから。
あと理系クラスには個性的で面白い人たちがたくさんいたのも楽しかった。

あのときの自分を振り返ると、
「学問には得手不得手があるし、それでいいんだ」と言ってあげたくなる。

そして、化学が与えてくれた「目に見えない世界を想像する楽しさ」は、
今の私にもずっと残っている。

次回予告:「物理学や哲学よりも広い世界観が仏教にあった」
高校時代、理系クラスで苦労した私だが、科学はそれでも「世界を解き明かす唯一の手段」だと思い込んでいた。
そんな私が仏教に出会い、目に見えないもののつながりや本質について知ったとき、科学では到達できない広い世界があることに気づかされた。
次回は、その仏教との出会いが私に与えた驚きについて語りたい。


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