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接客を伴う夜の店

「いくつになってもハタチの女の子が好き」
当時40代後半だった男性の言葉だ。

彼は、A子、B美、私の3人を可愛がってくれて、よく遊びや食事に連れていってくれた。

普通なら絶対に行けない一見さんお断りのお茶屋さん、宴席に芸妓さんや舞妓さん。京都から神戸へリムジンでランチ。祇園や新地の高級クラブツアーなど。

ハタチの小娘だけでは絶対にできない遊びを、次々と繰り出し楽しませてくれた。

宿泊を伴う遊びがなかったのは、彼の立場もあったのだろう。それでも私たちはしたことのない遊びを楽しんだし、彼はハタチそこそこの女の子3人を連れて満足そうに見えた。

でも、私たちは彼が誘いたいのはA子だけということも知っていたし、今から思えばおこがましいが、A子を守るという使命感もあった。

そんな彼は、酔いがまわると決まってその言葉を口にした。

俺は10代の頃はずっとハタチのお姉さんが好きやった。
ハタチになったら同級生に好きな子ができた。
20代後半からはまたハタチの女の子が好きになって、30代になっても40代になっても、もうすぐ50代になるけどやっぱりハタチの女の子が好きやねん

要するに女好きなんよね。と私たちはいつも笑ったが、これって人間としては当たり前のことなんだと思う。

出産に一番適応している年齢は20代半ばと言われ、それは今でも変わっていない。
30代でマルコウという言葉は使われなくなったが、多少なりともハイリスクになるのは誰もが知っている。

そこで20代前半ではより良い染色体を求めて、おそらく人生の中で最も美しい外見を持つようになる。努力なしでえられる自然の美しさだ。それは動物と同じ雌としての「状態」なんだと思う。

その状態にある雌を、生殖能力のある雄が「何歳になっても好き」なのは遺伝子を残すための本能なんだろう。責めるべきものでもない。

でも、面と向かって言葉にされると「この色ボケが!」とか思ってしまうのは、人間が社会的な動物で、その所属する社会による価値観があるから。

もしかしたら世界にはそれが推奨される土地があるかもしれないと思うと、文化って面白いものだなぁと思う。

そういう風に考えると、40代くらいの女性が「え?」と思うような若い格好をしていたり、後期高齢者になってもいつまでも「若く見えたい」と思う人がいるのも、「若見え」とかいう言葉ができるのも、なんとなく理解はできる。
雌でありたい。それに尽きるんじゃないだろうか。

私の母親は78歳だ。
さすがに20代の女の子のような格好はしないが「お母さんは60代に見られる」と自慢する。若く見えると言われて嬉しいようだ。

いや、それ、お世辞でしょ。どう見ても70は過ぎてるように見えるし。

それを口にする私は、見る目がないとか親不孝ものとか言われる。もう、判断力もなくなってしまったのかと残念に思う。

私自身も友達に「女、捨てたらあかん」と言われる。今さら何を言うやらと思いながらも、その友達が「30代って言われることがある」というのをにこにこしながら聞いている。

いや、それは30代の女性全員に対して失礼でしょう。とは、思っていても言わない。彼女が「若く見える」ことに執着し、毎月20万以上のお金をかけていることを知ってるからだ。

エステ業界とか化粧品業界にそれだけ貢献してる人に水をさしては、業界で働く人に迷惑をかける。本人が満足しているならそれでよいのではないかと思う。

ちょっと脱線だが。
今の50代半ば以上の女性は10代後半以降でバブルを経験している。あの時期、経済に明るい学生は株を買ってその儲けで家を買ったり高級外車を買って乗り回したりしていた。

学生がコンパにいく時、男性では十数万するようなブランドスーツというのは珍しくなく、女性も同じようにワンピースやスーツを着用していた。

それらは普通のことだったし、私たち無知な女学生でさえも、そういったバブルの恩恵にあずかっていた。ちょっと小綺麗にしていたらお金はどこかから勝手に湧いて出てくる時代だったのだ。

バブルを体験していない人から見れば、いまだにお金の使い方がなんだかおかしい人も多い。いろんな分野でターゲットなんだろうなぁ。

そんなことをぼんやり思いながら「30代かぁ。それはよかったね」と友達には言う。

こうやって、いつまでも二十歳の女の子が好きな雄と、いつまでも若く見られたい雌が多数存在する限り、接客を伴う夜の店に需要があり続けるのは理解できる。

ただ、イマイチよくわからないのは、ホストクラブなどのお客さんに若い女の子がけっこういることだ。

ひと昔前なら、なんとなく理解はできた。そういうところに行く若い女の子には同業者が多い。とホストやってた友達に聞いたこともある。

最近は同業者でない女の子も多いと聞く。ホストクラブとかイロモノバーなどは一度行けば十分という気もしないではないが、ハマるのだそうだ。

そして、思い出したのが祇園のお茶屋さんにいた「タイコモチ」と呼ばれる男性だ。

舞妓さんや芸妓さんは、呼んでから来るまでに多かれ少なかれ時間がかかる。
お座敷が立て込んでいるときは調整もあるのだろう。

そういう時に現れるのがタイコモチさんだそうだ。私が会ったタイコモチさんは、和服を上手に着こなした少し頭の薄くなってきた?おじさんだった。

タイコモチさんは会話のプロだ!と思った。
一時間近くあったと思うが、その時間は一瞬だったし、すごく「気持ちよく」過ごさせてもらった。

別にひとり漫才をやってたわけでもないし、自分を卑下して客の歓心をかったわけでもない。こちらを褒めたおしてくれたわけでもない。

その人が提供した話題で覚えているのは「今日は蒸し暑い」と「舞妓さんの髪結い」の話題くらい。提供しただけで、あとはずっと連れの男性(そこへ連れていってくれた人)や私達がしゃべっていた。

話をさせるのが巧いのだ。そしていつもならその男性のおしゃべりに「また始まったよ」と辟易する同伴者が、気持ちよくその話を聞けるというマジックのような空間を提供したのだと思う。

男性いわく、そのタイコモチさんは祇園でも引っ張りだこで、なかなか会えないそうだ。売れっ子といわれる芸妓さんよりも会うのが難しいと言っていた。

失礼とは承知だが、昨今の接待を伴う夜の店などで、そういった技術を持った人はいないか、極少数だと思う。
なのにハマる。とても不思議に思う。

まぁ。直接的に褒めてほしい人が多いというのはわからないでもないのだが、外から眺めているとイロイロもったいないなぁなどと思ってしまう。

需要があるかぎり、そういう産業は形を変えながらも、ずっと続いていくんだろう。

でも、コロナウイルスを蔓延させている原因の一つと知っていながら、そこへ行く人を奨励するわけではない。

理性というものがあるなら、しばらくは自制してもいいんじゃない?それもわからないくらいお馬鹿さんなのかしら?

などと思いながらかなり冷ややかに、ただ眺めている。きっと私は雌を捨て、褒められる快楽も捨てたのだ。それもまたイロイロもったいないのだろう。

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