流れていく
人間の身体では、毎日3000~4000億個の細胞が死に、それとほぼ同数の細胞が新しく生まれているそうです。
参考
身体全体で細胞は60兆個あるから、一日で入れ替わるのはほんの数%だけど、それでも、昨日の私と今日の私は、確実に違う。
違う器なのに、心なんかもっと違うのに、昨日と同じ名前を名乗るのヘンじゃない?とか思う。ふつうに、実情と合ってない。
私という意識は、発生する。今パソコンを使っている私。書き終わったらその私は終わる。うまく書けたな~とか失敗だな~とか思うかもしれない。その私も、思いが過ぎれば、終わる。
「自分史」に思いを馳せることがある。何かできなかった、あるいは成し遂げた私。それは、今この瞬間の私とは、あまり関係ないと感じる。私が何かを敢えて思い出している時、それによって自分を元気づけようとしていることが多い。あるいは、自分はダメなんだという方向にもっていこうとしていたりする。
過去の栄光を盾にしないと立っていられない時は、無理せず休むことにしている。しばらくすると、盾は要らないと気づく。思い出でもって自分責めをしてしまう時は、暇すぎるので、ああ自分は退屈してるんだな、と自覚する。しばらくすると、別の暇つぶしに目がいく。昨日の私と今日の私が別人ということになれば、何かで捕まっても、罪を犯したのはあの日の別人です私は知りませんって言えるから、裁くことができなくなって社会的にまずいんだろうな~とか考える。
「責任」って実体がなくて、社会が機能するための概念にすぎないと聞いたことがある。引き受ける人、というのが登場するとなんかうまくいくらしい。引き受けるって何だろう?それは結局、今どうするか、決めて動くことだと思う。暮らしのために私は一応、昨日と同じ名前を名乗る。でも「昨日」は残像として、参考程度にする。