幸せの定義
あまりにも頭痛が酷いので何も考えずに天井をぼーっと見つめていたら、ふと思った。
私は幸せなのか。否か。
私の家庭はそれほど貧しい暮らしをしているわけではないし、金銭面ではなんら問題はない。
しかし、私はしばしば心の奥で
"消えたい"
"もっと愛されたい"
と強く願う。
なぜか。
私が中学生、いわば思春期と呼ばれる時期にいた頃は、何を見ても敵だと思った。
担任の先生、友達、親、電柱、近所の犬...
毎日が不機嫌でまして生理の時なんかは酷かったなぁと今でも反省することがある。
しかし、それは人間が成長する過程で通らなければならない道であって、その過程が過ぎた現在ではそれを理由にはできない。
何をもって人を幸せにするのか。
なぜ幸せになる人間と、不幸を背負っていかなければならない人間がいるのか。
そんな理不尽が、私の心をかき乱すのだろうか。
私が"幸せだ"と感じる一方で、"死にたい"と思う人が何処かにいるのかもしれない。
それを思うといたたまれない。
考えすぎだ。
とよく父に言われる。
それでは、自分の幸せを素直に喜ぶことなどできないじゃないか。
と。
全くもってその通りなのだが、それに反発したくなるのが私の悪い性格。
私がいないだけで、どれほどの人が喜びを噛み締めることができるだろうか。
私がいなければ、
私が入った高校に誰かが代わりに入れたかもしれない。
私が買った最後1個のプリンを誰かが代わりに買えたかもしれない。
私が飼った犬は誰かが代わりにもっと裕福に世話をしてやれたかもしれない。
私がいなかったら…。
なんて、"かも"の話はいつも頭の中で絶えない。
それが実現したら、本当にそうなるのか。
でも、私はここにいる。
そんな矛盾。
幸せになれる定義なんてないのかもしれない。
かつて経済学の父と呼ばれたアダム・スミスは、神の見えざる手によって価格を支配していると提唱した。
それと同じように、誰かがなにかをしなくとも、私達はいずれ幸せになれるのかもしれない。