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宇宙の片隅に生まれて:発達障害者からの脱皮

私はASDとADHDを併有している、社会的には発達障害者という位置付けを与えられている。「発達障害者は宇宙人だ」なんて言葉もよく耳にするが、私は周りの人間が宇宙人だと思っていた。今世間をある程度知ると、地球人は彼らで宇宙に住むのは私だったわけだが。私は宇宙人だった。もっと正しく言うと、宇宙人の皮を被った地球人だった。ここでは、宇宙の片隅に生きた身として、社会について少し語ろうと思う。

宇宙の片隅にいた。

ASDとADHDの診断を受けたとき、私は正直ほっとした。地球に存在する名前を付けられて、「普通」の人が使う言葉に当てはめられて、私の存在が許されたような気がした。変なのが変なんじゃなくて、変なのが当たり前なんだって。

幼稚園の頃、氷鬼の鬼ばかりをさせられた。私は泣いて泣いて泣いたけど、私を鬼にさせたねねちゃん(仮名)は素知らぬ顔だった。
小学生の頃、「おはようございます」って言ってみてよと言われた。何度言っても許されず、「先生の前と全然違うじゃん〜」と笑われた。
中学生の頃、人の声から逃げて、蛍光灯から逃げて、保健室から逃げて、学校に行かなくなった。

不思議なことに、そうだと言われると障害が原因だったのではというエピソードが出てくる出てくる。まるで占い師に、あなたは何か悩んでることがありますね?と聞かれた時みたいだった。今まであった割り切れない出来事を、当てはめて当てはめて「発達障害の私」を作った。思春期で壊されたアイデンティティを保証された名前で埋めた。私は入れ物になったのだ。

人から保証されたアイデンティティは随分心地いいものだった。メルトダウンを起こしても、過集中で時間を忘れても、それが私だからと受け入れられた。過去、私自身が否定し続けた自己を、やっと認められるようになったのは発達障害という診断のおかげだった。こうして、私は自他ともに認める宇宙人になった。

私は今、その皮を脱ごうとしている。

バズワードとなった発達障害

今、世間では「発達障害」が一種のバズワードとして扱われているように感じる。定型発達者だけでなく、発達障害者自身も発達障害者として自分を扱い、自身だけの価値や弱みを探すことをしていない。私自身がそうだったように、素の自分を見せるのが、見せて嫌われるのが、怒られるのが、嫌だからかもしれない。それは決して、責められることではないはずだ。私たちにとって最善の選択はそれだったのだから。ただ、宇宙人として生きることに寂しさは覚えないだろうか。もちろん、宇宙人として生きることは楽だ。今まであった割り切れない出来事も、失敗したことも、「変」って目で見られても、私たちは「発達障害者なのだから」と言い訳できる。それは辛い日々を過ごした私たちにとって安寧の日々だったはずだ。だけど、何かが上手くいった時、私たちはどう思うのだろうか。失敗は、発達障害のせいにして、成功は、自分のものに?違うだろう。あなたの失敗も、悲しみも、成功も、喜びもあなただけのもののはずだ。あなただけの経験の、感情のはずだ。あなたの経験を、感情を、発達障害に譲ってはならない。だって、もし、あなたが大好きな人と付き合えたとして、それを「発達障害のおかげだね」と言われたらどう思うだろうか?(わかりにくいなら、「美人なおかげだね」と言われたと思ってほしい)。それはあなたの努力のおかげなはずだ。だというのに、それを否定された気持ちにならないだろうか。私はなる。

もっとマクロ的な視点で見ると、私たちが発達障害だからと言い訳するたびに、発達障害は「悪い」ことになる。生まれながらに持った特性に「良い」も「悪い」もないはずだ。背が高い人はかっこいいだとか、逆に低い人はダサいとか。個人の趣味嗜好は勝手だけれど、社会としてそれを言い始めたらおかしなことになる。だけれど今、社会にとって、発達障害は「悪いこと」になっていないだろうか?もちろん、その要因は私たちだけにあるとは限らない。だけれど、私たちが「発達障害だから」と言い訳すれば、社会はそれを受け入れざるを得ず、ますます「発達障害=悪いこと」という式が完成するだろう。そんな社会で私たちは生きていけるのだろうか。幸せになれるのだろうか。私は疑問を感じる。

発達障害というレッテルから脱するために

では、発達障害というレッテルから脱するにはどうすれば良いだろうか。当事者として何ができるだろうか。私は今それを模索中である。もちろん、「普通の人と同じように動けるようにしよう」なんてことを言うつもりはない。そんなの、過剰適応に陥って私たちの身を苦しめるだけである。私たちが持つ発達障害という特性を活かし、しかし発達障害ドリブンでなく、自分ドリブンで生きる。これこそが私が目指す生き方である。具体的には、私が今大学で専門とする経営学をもとに、社会にインパクトを残す企業について分析したい。そして、その分析によって社会や企業にインパクトを与えたい。他にもしたいことは山ほどある。その足跡をこのnoteに残すつもりだ。

もちろん、これが発達障害者としての正しい生き方である、と論じるつもりはない。ただ、私が1つの生き方を、宇宙の片隅で生まれた、1人の地球人としての生き方を示したい。そして、それが他の誰かを救えばこの上ない幸福である。

社会の片隅から、この文章があなたに寄り添うことを祈る。

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