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「大森さんちの家出」第4話

4、ふたたび、大森さん

 

 大森さんは墓を作らない。

 以前も死んだメダカのことを、水草に挟ませるままにしていたら、奥さんに、「ちょっと、そのままにしとく気? お墓でも作りなよ」と言われて、びっくりした。
 飼っているメダカが死んで、お墓を作る、というアイディアが浮かばなかった自分に、驚いたのだ。それでも結局大森さんは、割り箸で白くなったメダカをつまんで、ゴミ箱に捨てただけだった。だってここはマンションの三階で、埋める花壇も畑も裏庭もない。

 今日、最後の一匹のメダカが死んでも、大森さんはやっぱり同じだった。なんとなく死んだままにさせておいて、帰って来た奥さんに、見せたかったけれど、それも怒られそうだと思い、コンビニで貰った割り箸でメダカをつまむ。メダカの目はもう真っ黒に滲んだようになっている。レジ袋の中にポトリと落とすと、なんて軽さだろうと思った。

 ガラス瓶は動くものを失って、喪に服している。大森さんはダイニングチェアに座って、それをしばらく眺めていた。

「ゲフ」

 おでい味のげっぷが出る。それが合図だったかのように突然、夕焼け小焼けのメロディが窓を震わせる。

「こちらは(こちらは)、柏(柏)、市役所です(です)。午後(午後)、五時に(時に)、なりました(ました)。外で(外で)、活動している(ている)、お子さんたちは(子さんたちは)、お家に帰りましょう(お家に帰りましょう)」

 ゆっくりと丁寧な女の人の声でアナウンスが流れる。反響で二重に聞こえて、大森さんと奥さんはこれを「宇宙からの中継」と呼んでいる。
 時々、この曲が流れる頃、奥さんは仕事部屋から出てきて、大森さんを押し倒す。大森さんの鼻を舐め、目を舐め、耳たぶをかじる。
 大森さんは決してそれを待っているわけではないのだが、そうなってみるといつも、いわれのないご褒美を与えられた子供のように、腑に落ちない喜びに戸惑う。

 奥さんは自分から服を脱ぐ。大森さんはそれを見ているのが好きだ。
 奥さんは自分のことは自分で決める優しさがある。大森さんは奥さんのおっぱいをかじり、奥さんは息を漏らす。そんな時に、宇宙からの中継が流れると、奥さんも大森さんも笑ってしまう。
 奥さんは脱いだワンピースを胸に当て、ベッドから立ち上がって、カーテンを閉める。夕焼け小焼けのメロディが余韻たっぷりに響くなか、奥さんのお尻がこちらに丸見えなのも、大森さんは可愛くてならない。
 
 変な気持ちになって、大森さんは椅子から立ち上がる。

 昨日、奥さんと朝の六時に目覚ましをかけて、フーナーテストを行った。 

 子どもそろそろ欲しいよね、という奥さんの一言で不妊クリニックに通い出したのは半年前だ。コロナで停滞した家の空気をぶんぶんと掻きまわしてくれるような期待があった。
 フーナーテストというのは、実際にセックスをして、その後の子宮内での精子の動きを調べて、妊娠に関わる問題がないか探るテストだ。
 「あられもないテストだよね」とは奥さんの談。
 生きのいい状態の精子で診察するために、セックスの時間は医者から指定される。奥さんは寝起きが悪い。大森さんはすこぶるいい。目覚ましを止めて、奥さんを揺する。

「んあ。あーそーか」

 奥さんは夢から覚め、今日がフーナーテストであることを思い出す。そして、赤ちゃんのように両手を広げる。

「……哲くん」

 大森さんは奥さんの横に並んで、黙って同じように天井へ向かって両手を広げる。

「もー哲くんからしてよ」

 大森さんは答えず、同じポーズで待つ。

「もー」

 奥さんは大森さんの脇の下から頭を入れて、大森さんを抱きしめる。大森さんはそうしてもらってからやっと、フーナーテストに取り掛かった。いつもそうなのだ、大森さんは人と交わることに関して、自分でも嫌になるほど臆病なのだ。

 その後、奥さんは会社を午前半休して、結果を聞きに行き、その足で会社に行って二十二時頃に帰ってきた。帰ってくるなり、「疲れたああああああ」と大きなため息つきで言うので、大森さんはテストの結果を聞きそびれてしまった。

「お風呂入れといたよ」

 奥さんは、ありがとう、と小さく言うと、そのまま浴室へ行ってしまった。仕方がないので、大森さんはベッドに横になりながら携帯でニュースサイトを読んでいた。しばらくすると、奥さんが化粧水を顔にパタパタ染み込ませながらやってきた。

「ねえ哲くん」

 大森さんは顔を上げる。

「哲くんは明日なにするの?」

「まあ、適当にやるよ」

「久しぶりに時村くんでも誘ったら」

 時村とは、大森さんのほぼ唯一と言っていい、友達だ。院の研究室が同じで、大森さんが東京に出てきたのと同じ頃、時村もふらりとやってきた。彼は何を考えたのだか院を中退し、印刷工場だとか、美術品専門の配送会社だとか、バーテンだとか、一貫性のないバイトをしながら、ゆるゆると生きていた。いつ誘っても大抵断らないので、大森さんから唯一誘える相手だった。それを十分に分かった上で、奥さんは時村の名前を出すのである。

「うん、まあ、」

 大森さんは気が乗らなかった。自分が思いついて誘うならいいのだけど、なんだか奥さんにそれを言われると、おもちゃをあてがわれたようで、反抗したくなるのである。思わず小さなため息をついたら、「疲れたの?」と、奥さんが布団に入りながら言う。

「うん」

 そういうことにしておこうと、奥さんに背を向けて目を閉じると、小さな親指が、大森さんのぼんのくぼを押す。その他の指は大森さんの肩に沿って配置され、ただ置かれている。お風呂上がりの奥さんの指は熱かった。その温度に後押しされて、

「どうだったの?」

 勇気を出して聞いた。

「んー?」

「病院」

「あ、そうだね」

 奥さんはむっくりと起き上がり、コスメボックスを開けると、「忘れてた」と鏡を見ながらクリームに取り掛かる。それが自然な流れのようで、その分、わざとらしい気がする。

「よくなかった?」

 大森さんも起き上がり、思わず自分のあそこに視線を落とすが、どんどん元に戻りつつある立派な腹が見えるだけだ。

「ううん。哲くんの方はやっぱり問題ないんだよ」

「どういうこと?」

 奥さんは振り向いて、口を開け、また閉じた。メダカのようだな、と大森さんは思う。それから白い小さな指を頰に当てた。

「私の方の問題でね、もうちょっと詳しい検査することになった」

「そうなんだ」

 少しだけ、沈黙が流れる。大森さんは奥さんの様子をちらりと観察した。「困った」というように、小指が唇に触れ、今にも歯嚙みが始まりそうだった。奥さんの小指が奥さんに食べられてしまう前に、大森さんはひょいとそれを掬いたいと思った。

「それって、痛い?」

「え?」

「痛い検査?」

「……」

 奥さんは、立ち上がって、ゆっくりとベッドに上がり、大森さんの首におでこを沿わせる。クリームの匂いがする。

「好きよ」

 ふざけているのかと顔を確かめると、とても苦しそうな奥さんと目が合った。

 

――どうしたんだろう。またややこしいこと考えてなきゃいいけど

 西日がまともに目の中に入って痛い。大森さんは奥さんの部屋のカーテンを閉めようと近づく。ついでに、窓の状態もチェックする。本日も曇りなし。ちらっと横目で奥さんのパソコンを見ると、スリープ画面でなにも読めない。また視線を窓に戻したら、ピカピカだった窓に大森さんの指紋ががっつり付いている。

「あぁあ……」

 それにしても奥さんが帰ってこない。一人にして、と言われて一人にしたのに、家からも出るのは反則ではないのか。ルールなんてないけれど、宇宙からの中継の時にはいつも、同じ屋根の下にいたじゃないか。大森さんは携帯を起動させる。LINEの画面を開く。何かを打とうとして、

【ど】

 と、一文字打った。でもそれをまた消して、時村とのトーク画面を開く。

〈つづく〉

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#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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