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結婚と餃子とスピリチュアル

ずっと悩み続けた恋愛依存症を克服して、結婚したのが41歳のとき。

早いもので、それから3年半が経ちました。そんな私が感じている、“結婚とは”ということについて、今回は綴ってみたいと思います。




恋愛依存症の自分を変えるために、学び始めた“現実創造の仕組み”。

学び始めてからも、本当に自分の意識、特に意識の深いところにある無意識の意識を、自分が見たり体験する現実として映し出しているなど、「そんな摩訶不思議なことが本当に真実なのか?」と半信半疑でした。

ですが、自分が恋愛依存症を克服するにあたり、それが真実であり真理であると、体験と体感を通して、深く納得せざるを得ませんでした。




そして、始まった結婚生活。

すぐさま、妊娠と出産も経験し、それまで生きてきた孤独な世界から、まるで別次元の世界に移行したかのような、そんな感覚でした。

娘が生まれて数ヶ月が経ったころ。
私は、言葉にできないイライラを抱き始めました。

これまで、手に余るほどあった自分時間。それが、一気にゼロの状態へ。

そして、そのうっぷんの矛先は、旦那さんへと向けられました。

ある日、旦那さんと軽い口喧嘩をした後、私は一人で浴室に篭りました。そして、怒りにまかせて、シャワーを床に強く叩きつけました。

ハッとしました。

「あっ、これ、子供の頃にやってたことだ。」

私は、家庭内では、とにかく不機嫌な子供でした。外面は良いけど、はたまた一歩家に入ると、不機嫌になる。典型的な内弁慶でした。

そして、外で溜め込んだストレス、家庭内で感じるストレスを、うまく言葉に表現することが出来ず、家族の見えないところで、何かを殴ったり壊したりしていたのです。

ずっと忘れていたけど、壊れたシャワーヘッドを見て、そのことを思い出しました。



そして、思いました。

「夢にまで描いた結婚生活。結婚して、もっと幸せを感じるはずじゃなかったの?せっかく出会えた旦那と娘と、幸せな時間を共有するはずじゃなかったの?」

きっと、このままでは、せっかく築いた新しい家族、家庭内でも、また不機嫌な自分で居続けることになってしまう。



「もう、そんな自分を辞めよう。」



私は、このことを機に、もう一度、“現実創造”のことを学び直そうと決めました。




とは言っても、家族から離れて海外での育児。

ゆえに、誰に頼れるわけでもなく、自分だけの時間を捻出することは難しかったのですが、幸い旦那と餃子バルをオープンさせてからは、餃子を仕込む時間が、私にとって貴重なおひとりさまタイムとなりました。

餃子を包みながら、YouTubeで、“現実創造”や“願望実現”に関するチャンネルを聴き流す毎日。

そして、それらのことを、もっと端的に奥深く、かつ分かりやすく解説してくれるチャンネルに出会いました。

かつての私は、“潜在意識”や“引き寄せ”というアプローチから“現実創造”のことを学んだのですが、新たに私が惹きつけられたのは、“スピリチュアル”からのアプローチによるものでした。

どこかまだ、“スピリチュアル”と聞くと、むずかゆいような偏見を持っていた私。

なぜなら、“スピリチュアル”というと、どこか神頼み的な、他力本願的な、そして、フワフワと訳のわからないことを言っているような。

そんな印象があったからです。

でも、本当の“スピリチュアル”は、そういうものではないということを、はっきりと仰っているのを聞いて、“スピリチュアル”という言葉が放つイメージが、大きく変わりました。




“スピリチュアル”な生き方とは、全責任を自分に置いて生きるということ。そして、本当の自分を生きるということ。



これを聞いた時、“スピリチュアル”とは、決して浮き足立ったものではない。“自分が自分の現実を創っているという、揺るがない真理”を踏まえた上で、どう責任を持って、人生を生き切るか。

自分が見ている現実は、自分の意識の反映にままならないのであれば、自分を整え、自分の意識を望む方向へ向けさせるだけ。

自分を大切にし、自分を愛し、自分を整えて、最高の人生を謳歌するという意味での、“責任”。

本当にそれに尽きるなぁと、今では“スピリチュアル”な生き方こそが、私たち本来の生き方だと、深く同感しています。


私は、“結婚”というものを通して、本当にたくさんのことを学ばせてもらっている道半ばにいます。

結婚して3年半が経ちましたが、旦那に対してイライラしたり、モヤモヤすることも多々ありました。ましてや、ご近所さんを巻き込むほどの大バトルを繰り広げたこともあります。



でも、過去の私とは決定的に違うこと。



それは、私を苛立たせたり、モヤモヤを与える旦那という姿さえも、映し出しているのは、自分の意識そのものであり、変えるべきは相手ではなく、自分の意識であるということ。

絶対に揺るがない、この法則を知ったからこそ、何かが起こるたびに、しっかりと自分と向き合うことができるようになりました。

その甲斐もあり、ともに過ごす時間を重ねるたびに、私も旦那もお互いを理解し、認め合うことができてきているように感じるのです。


とはいえ、まだまだ小さな喧嘩はしてしまうのですが。

つい先日も、喧嘩の翌日に、旦那から目も合わせてもらえず、口もきいてくれないことがありました。

ずーんと沈んだ心で、ふと冷蔵庫を開けました。

その瞬間、目に飛び込んできたのは、私が大好きな枝豆でした。

(旦那と書くと、なんか違和感を感じるので、彼の名前で書き続けます。)

「フェラーリは、あんなに怒っているはずのに、もしかしたら昨日のことで傷ついているかもしれないのに、まだ私のことを想ってくれてるんだ。」

私は、本当に優しくて、懐の深い男性を、今世の大切なパートナーとして選んだんだなということを、この一袋の枝豆にあらためて教えられたように感じました。

フェラーリは、私の魂の成長に欠かせない、本当に大切な人です。

長い長い独身時代は、結婚することでラブラブハッピーな人生が送れると思っていたけど、実際に結婚してみて思うことは、結婚とは、“魂の成長のための舞台”だということ。

そういった意味で、私はとっても幸せだし、私にとって、ピッタリの舞台だなと感じています。

フェラーリとの結婚生活を通して、思うこと、感じることがたくさんあります。

これから、そういったこともブログでシェアしていきたいなと思っています。

それでは、今回もお読みくださりありがとうございました。

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