ミント・ジュレップ
聞き返すのはどうにもきまりが悪くて、じゃあ、それを下さい、とすまして言ってやった。カウンターチェアの細い足置きに丸めたつま先の力をそっと抜く。
「かしこまりました」
こんな大学生の背伸びなんてわざわざ見抜くまでもないだろうに、表情一つ変えず恭しく頷くバーテンはやはりプロだ。滑るように背中を向けるのにつられて、私も真横のC君の方を見た。
C君は特に緊張する様子もなく、所狭しと並んだ酒瓶を眺めている。カウンター上だけでもゆうに百本はあるだろうウイスキーの瓶は確かに綺麗だ。瓶によりわずかずつ違う金色が、一様な暖色のもとで万華鏡のように反射している。
「すごいね」
C君がラベルを指でなぞりながら言って、何か続くのかと思えば、それだけだった。
「そうなんや」
「そうなんや、って。ここ連れてきたん自分やろ」
「そやけど」
いつまでも口に馴染まない西の言葉が、ぼんやりと煙みたいに広がる。はっきりと発音をしてはいけない。曖昧に、早口で、薄く、人を食ったように発話をする。東京に居たって、エセ標準語なんてことは誰も言わないのに、関西人のエセ関西弁の判定基準はやたらと厳しい。
「いうても、私いっつもおすすめしか頼まへんし、どのお酒が良いとかわからんし」
人を食ったままの、薄い言葉で続ける。
「僕もそんな知ってるんと違うけどな」
瓶を回しながら淀みなく返すC君の言葉はただ自然で、私はどんなに研究したってこうなれないことを悟った。
他に客のいない店内に、バーテンの立てる透明な音だけが静かに響く。夏のおすすめありますか、と頼んだお酒は作られる音まで涼やかだ。
「ミント………えっと…私が今頼んだやつ」
「ジュレップ」
「それだ」
ミント・ジュレップ。口に出すと楽しいけれど、何かと混じって明日には忘れていそうな響き。
「飲んだことある?」
「僕はない、から一口もらうで」
「うん」
C君は組んでいた足をだらりとさせて、猫みたいに笑った。3人兄弟の末っ子で、私よりも1つ年下だからなおのこと、こんなに屈託なく話してくるのだろう。私も悪い気はしない。
運ばれて来たミント・ジュレップがカウンターに置かれたその時点で、ペパーミントの香味がふわりと鼻をついた。結露したアルミのタンブラーの温度感とは異質とも言える香りの強さに戸惑いつつ、恐る恐る口にする。甘い。冷たさよりも炭酸よりも、ペパーミントの辛さよりも、強い甘さにやられる。
「ストローは二本同時に吸われるといいですよ。一本ですと、何故か酔いやすいんです」
バーテンが教えてくれた言葉の理屈は全然わからないけれど、二本を同時に吸うと、砂糖と一緒に、炭酸がよりまろやかに弾けて、バーボンの味が少し華やかに広がる気がした。そして余韻の中に、ミントの刺激が香る。クラッシュアイスの隙間を埋めるだけの炭酸水が、とにかく冷たくて、爽快で、やっぱり甘い。
「おいしい、けど甘い」
そう言ってC君にタンブラーを回す。
「甘くておいしいな」
ここでも本当に衒いがない。私は舌の奥に吹き溜まるペパーミントを慣らしながら、もっと飲んでいいよ、と促した。
実際、私だって甘いものは好きだ。ただ、人よりも少しずつしか食べられない。例えばハーゲンダッツなら、8等分して、8日かけて食べたい。
そのハーゲンダッツが美味しいのだって、0度のアイスにはうまく機能しない舌が、アイスクリームを溶かすその瞬間に、初めて強い甘さを感じるからで、初めからドロドロに溶けた常温のハーゲンダッツは甘すぎて美味しくない。要はそのままではとんでもない甘さを、冷たさの刺激で封じ込めているのだ。
それに引き換え、このミント・ジュレップは何だ。ぶっちぎった甘さのあとから、冷たさと炭酸とペパーミントの刺激が追いかけてくる。アイスクリームとは正反対だ。
「お姉さん、これもう飲まへんの」
「もう少ししたら飲む。舌が冷えちゃって」
「え、何それ」
怪訝そうなC君に、私がハーゲンダッツを食べ切れない話をする。コスパ良くてええやん、と言うC君に苦笑いをしつつ、もう一口だけもらう。先に飲んだ時よりも、さらに甘い。炭酸も抜けてきて刺激も弱い。とんでもない。このミント・ジュレップは、アメリカ・ケンタッキー州の競馬場の風物詩で、一度に数万杯売れるそうだ。正気の沙汰ではない。
「…C君って、ちょっとこのお酒みたいだよね」
「何やそれ」
軽口を叩いたところで一向に引かない、冷え切った舌の甘ったるさを、C君が頼んでいた何だか長い名前のストレートのウイスキーで焼いた。
金曜日の夜なのに、一向に私たちの他に客が来ない。乾杯さえ交わさなかった、こんな夏の夜には、ミント・ジュレップは甘すぎるけれど、取ってつけた爽やかさは、いかにも夏の味だった。
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