いけばなの叡智:伝えるのではなく共に探究する
華道家として本格的に活動を始めてから約2年。IKERUと称した活動の趣旨としては「いけばなの叡智を現代に合わせて社会の様々な場所に伝えていく」という説明をしていました。
でもどこかで「まあそうなんだけど、なんか違うような。。」というかすかな違和感が消えませんでした。
違和感を感じていた点は、主に二つありました。まず、いけばなの叡智というものはすでに確固たるものとして定義されているような感じがあること。そして、その叡智をいろんな人に伝えていくという立場に自分をおいていた、というところです。例えていうなら、宗教のミッショナリーのような。
でも、この2年間、学生、若手社会人、企業幹部、経営者、起業家、社会活動家、研究者、そして海外の方など、数百名を超えるたくさんの方にいけばなを体験いただいていますが、彼らが花と向き合う姿、彼らの学びから、自分はまだ気づいていなかったいけばなの叡智を教えてもらっている、という感覚が強くありました。
いけばなの叡智というものは、自分がなんとなく把握しているものよりはるかに深く豊かで、ひたすら経験を積むことで感じ取れるものもあれば、たった一回のいけばな体験であっても、それぞれの唯一無二の人生や感性を通すことで、その人にしかつかめない叡智もある、ということなんではないかと。
さらに言えば、「チームいけばな」という4-5名で一つの作品をつくるというワークショップを独自に開発して組織向けに提供していますが、こうした新たないけばなの体験をデザインすることで、これまでの歴史では具現化していなかったいけばなの叡智が立ち現れるということも起きているような気がしています。(英語のCreate Ikebana As A Team: A Collective Sense of Beautyを参照)
つまり、私は、すでに定義もされ確立されているいけばなの叡智を、それまでいけばなと接点がなかった人たちに自分を通じて伝える、という伝達・ミッショナリーの活動をやっているのではなく、まだまだ底知れぬいけばなの叡智という豊かすぎる泉をいろんな人と新しい体験の形を創りながら共に探究している、ということなのではないか!と、気づきました。数日前に。
だから、IKERUのレッスンやワークショップに来てくださっている方々は、この探究活動の仲間、ということです。もともと「先生」と言われるのも、レッスンに通っている方々が自分の「生徒」や「弟子」だというのも、なんか違うなあと思っていましたが、この違和感の元は、ここにありました。彼らは、共にいけばなの叡智を探究する仲間であり、私とはあくまで対等な関係だ、ということです。
IKERUとは「いけばなの叡智を探究しそれを表現する活動」と腹落ちした瞬間、自分の気持ちもぐいっと切り替わりました。これまでは、ミッショナリーなので、どこか「今の時代、社会がいけばなの叡智を求めているから、それを伝えるんだ」という「社会のため」感があって、自分の気持ちと離れてなんか疲れちゃうこともありました。
今や「自分がやりたいからやっている。でも自分一人じゃいけばな叡智すごすぎてつかみきれないから、いろんな人の感性と力を借りて一緒に探究している」と思うと、要は自分の創作活動なので、心の奥底からエネルギーが出てくる感じです。そうした活動の結果として、いけばなの叡智が社会に役立つこともあるかもしれない。でもそれはあくまで結果であって、目的ではない。
同時に、ものすごく謙虚な気持ちになりました。これまではどことなく「いけばなの叡智を理解している自分」みたいなおごりがあった。でもとんでもない。いけばなの叡智は、自分ごときで一生かけても、その2%ぐらいしかつかめないぐらいの、広がりと深さを持つもの。だからいろんな人といろんな形で探究する。こんなテーマを与えてくださってありがとう、と、何か大きな存在に、感謝の気持ちもむくむく湧いてきています。
ホームページの表現を全面的に直さないと(笑)