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センスなんて関係ない、本当に。

いけばなの話をすると「いやー、私にはそういうセンスがなくて。。。」とおっしゃる方が結構いる。それに対して私はいつも「いけばなはセンスとは関係ありません。花に向き合う心が大切だから」とお伝えする。

私のこの「いけばなにセンスは関係ない」という言葉は、とりあえずその場をなごませるために言っているわけではない。本当に心から本気だ。なぜなら私自身が「いけばなのセンス」があるかないかでいうと、「ない」からである。

母親は私が大学でいけばなを始めてから、約20年間、ほぼすべての展覧会に来てくれている。そして私の作品をみると毎度「ふーん」といった感じで帰って行く。

先日、母親はこう言った。

「あなたがいけばなを仕事にするだなんてねえ。。。だって、いけばなのセンス、ないじゃない」

ちなみにうちの母親はとにかく強い。自分が正しいと信じていることを子どもに伝えることに一切の躊躇も遠慮もない。彼女の中では私は勉強ができるまじめちゃん、という認識である。たぶん今でも。だから勉強以外のことに一生懸命になりだすと、その都度「あなたはそれは才能ないんだからやめたら?」と言われていた。

そんな言葉を受けながらも、なぜか私はいけばなをやめなかった。展覧会に出す度に他の作品と比べて微妙に落ち込んだりしていたが、それでも出し続けた。

たぶん、ただ好きだったのだと思う。作品の見栄えがどうであれ、花を生けるという行動、過程そのものが。それに、どんなにもともとセンスがなくても、ひたすら続けていれば、20年前よりは少しはうまくなる。いけばなの感覚が自分の身体に少しずつ刻まれていく。それも楽しい。

そしてついには、いけばなを仕事とするようになった。自分自身がずっと感じてきた、うまい下手やセンスとは関係のないところで、純粋に花をいけるという行為を楽しむ、それを伝え広げる活動だ。

もしいけばなのセンスがあったなら、作品の出来で勝負して、それこそもっとセンスがある人たちの作品の前に絶望してやめていたかもしれない。センスがなかったからこそ、人の評価とは関係ないところで、自分にとって大切だから、というだけで続けられた。センスがなかったからこそいけばなを仕事とする今の自分がある。センスがなくて、よかった。

何かが自分にとって大切だったら、センスがあるかどうかなんて関係ない。うまいかどうかも関係ないし、周りから何を言われようと、それをする時間を味わい続けていればいい。そうしているうちに、以前よりは絶対にうまくなる。

もしかして偶然に仕事になればそれはすばらしいこと。でも、別に仕事にならなくても、何かを純粋に楽しみ続ける、それだけで十分人生はおもしろい。


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