花をいかす、と、花を切る、はどう両立する?
個人向けのIKERUレッスンでも、組織向けのチームIKERUのワークショップでも、参加した方が花をいかすという行為からどういうったことを感じているのか、毎回深い学びを得ています。
その中でよく出てくる質問、疑問がいくつかあります。こうした疑問は、私にとっても改めていけばなについて考える機会になるので、とても貴重です。
「花をいかす、ということと、あえて切ることで花をいかすということが、どうもしっくりこない」という疑問が昨日のワークショップで何度かでて、それについて考えたい気分になったので、書いてみたいと思います。
以前二軸を使ったフレームワークで、いけばなの様々な形を整理しました。「いけばなとは何か」についていろんな考え方が成り立ちうる中で、私は「いけばなとは、花を人の手によって生かすもの」だと考えており、自分の活動もこの考え方を基盤としています。
そして、花や葉、枝は、そのまますべてを残すと、もさっとした印象になるので、あえて切ることで中心となる流れがいきる、ということもお伝えしています。枝物、花、小さい花、葉物。。。と作品に花材を足しながらも、同時に引いていくことで、美を創る。
ここで出てくる疑問が「切ってしまう、というのは、花をいかすことにならないのではないか」というもの。そこにせっかく美しく花が咲いている。葉が茂っている。枝がある。それは残すことこそが、本来の「花をいかす」なのではないか。
これ、もっともな疑問です。何をもって「花をいかす」というのか。これは、自然と人間の関係をどう捉えるかによって、変わってきます。
いけばなの流派の中には、なるべく枝も葉も花も切らず、そのままいける、という流派も存在します。展覧会でこうした作品をいくつか見たことがありますが、ぱっと見た時に、野山の姿がそこにそのまま現れているような、そんな印象を受けました。自然はそのままが美しく、だから自然そのままであるほど、人の手が入らないように見えるほど、花がいかされる、という考え方です。
一方、人の手が入って始めて現れる自然本来の美がある、という考え方があります。自然はそのままでももちろん美しいけれど、それとはまた異なる美しさを、人の手が入ることで、輝かせる=いかす、ことができる。この考え方に基づけば、花を切ることが花をいかすことにつながります。
私は後者の考え方に基づき、ずっといけばなをやってきたので、枝にたくさんの花がそのままついている状態でいけられているのを見ると、「花がついた小枝を少し落とせば、ぐっと枝ぶりがいきるのになー」などと思うようになっています。全部の花がそのままあることが、逆に花をいかしていないように感じる。
「この花はきれいだから、そのまま残したい。切るのはもったいない」という気持ちもわかるし、それは尊いものだと思っています。尊いものだと思いつつ、やっぱり私は、「うーん、花がいかされてない」とどうしても感じてしまう、というか頭より先に身体が動いて気づけば切っている。ということで、そういう時は、切った小枝をまた別の場所にいけていかすこともできるし、その小枝を小さなコップに入れて別の作品として楽しむこともできるんです、とお伝えしています。
もったいないからといって元の場所に残すことで逆にその花もそれ以外の花もいかされないことになるなら、その花には作品の中でも外でも、新たにいきる場所を作ればいいのでは、ということです。
さらに、もっと言ってしまえば、いけばなをする、という時点で、花や枝は切られて、命を奪われた「いきていない」状態にある。それを「いかす」というのは、そもそもにおいて、ねじれた矛盾の行為なわけです。手に取った枝の花や葉を切るかどうかは、ほんの小さな差にすぎない。
ブラックジャックの漫画の一つに、病弱の天才的ないけばなの家元の話があります。彼女がブラックジャックの手で再び元気になり、花をいけられるようになると、みんなが熱狂する。それを見てブラックジャックが「花は自然に生えているのが最も美しいのに」的なコメント(うる覚え)をつぶやいて去っていくシーンは、今でも時々思い出します。
そして、思います。
花をいかすのがいけばな、といいながら、私は何をやっているのか、と。要は花を殺してそれをさしているだけではないか、と。エゴを消して花と向き合うといいつつ、人間のエゴそのものの行為じゃないか、と。いや、本当に。
でも、心を鎮めて花と向き合っていると、本当に花の声が聞こえる気がするし、その声に従っていけた作品は、花が喜んでいるように感じる。そんな美しい創造の体験をさせてもらうことに感謝する。短い時間ではあっても、自分の手が加わったからこその美を、花とコラボレーションして出現させる、それが、そもそも矛盾がある中での、最大限の「いかす」なのではないか、と考えています。