「いけばなとは何か」をフレームワークで整理してみました。
「いけばな」とは何か。
自分が20年以上いけばなを続けてきた中で、一つの定義をするとしたら「花をいかす」、それにつきます。
自分がこうしたい、という表現を花を通じてするのではなく、それぞれの花、枝、葉、草がいきるよう、その声を聞いていける。その結果、全体としても調和が生まれる、というものです。
でもいけばなには500年以上の歴史があり、また今では1,700も流派があるといわれています。それがゆえに、何をもって「いけばな」とするのか、という単一の定義は存在しない。それが、いろいろといけばなに関する本を読んでみて思ったことです。人と花の関係、その先に何を見るかについては、様々な考え方があって、どれが正しいとはいえない。
はるか昔、私は経営コンサルタントをしていて、ロジカルシンキング、とか、フレームワーク、とかの世界にどっぷり浸かっていました。今はすっかり感覚と擬態語の人ですが、時折むくっと、あの頃の思考法が出てくることがあります。いろいろ混在しているものをみると、軸を見極めて、マトリクスに整理したくなるのです。
ということで、いけばなとは何か、についての考え方を二軸で整理してみました。
まず最初の軸は、①花が主体なのか、花は何かの表現のための客体なのか、ということです。花が主体、というのは、花がもともと持つ流れや角度、色などをどうやったらいかせるか、という観点から花と向き合う、ということです。一方、花が客体であるときは、何か表現したいものが先にあって、それに合わせて花を使っていく、というもの。
もう一つの軸が、②その作品が表現するものは何か、何に向かうのか、という違いです。大きく分けるとその先に自然や宇宙があるのか、それとも自分の表現があるのか。
ざっくりまとめるとこんな感じになります。
4つの象限としては、
・右上:花を使う x 宇宙や自然を表現
・右下:花を使う x 自分の表現
・左上:花をいかす x 宇宙や自然を表現
・左下:花をいかす x 自分の表現
花を使う x 宇宙や自然を表現:この象限には明確な「型」が存在します。最も古く大きな流派である池坊が最初に体系化した「立花(りっか)」と呼ばれる壮大な型が代表例です。この型は宇宙の理を表すと言われており、たくさんの種類の枝や花を使ってその理を表現します。また、もう少し時代としては後にでてきた「生花(せいか)」は、草木や花、枝の持つ本来の流れやバランスを人間が抽出し方程式化したようなもので、花の種類によっていけ方が決まっている、というものです。この象限のいけばなをいけられるようになるのは、長年の修行が必須です。
花を使う x 自分の表現:これは、戦後に出てきたスタイルで、まとめて「前衛いけばな」とも言われます。いける人は、いわば一人一人がアーティスト、という感じで、それぞれ自分が表現したい世界を花を使ってあらわす。花の持っているバランスにあえて逆らうような作品も、花すら使わない作品もあります。いける人本人が作品の中にいるというようなインスタレーション的な作品もあったとか。
花をいかす x 宇宙や自然を表現:壮大な「立花」はすばらしいけれど、そもそもの花をいかす、という視点がないのではないか、という考えの中で生まれてきたのが「抛入(なげいれ)花」です。まさに投げ入れるように、花には人の手を加えず、すっと花を花器にいける。なお、茶道の花「茶花」は、いけばなとば別系統ではありますが、その時期にある野の花を時間をかけず、いけ直さずさっといける、という意味においては、この象限の特徴を持っています。
花をいかす x 自分の表現:明治以降、生活様式が西洋化する中で、小原流の創始者によって体系化されたのが「盛り花」と呼ばれるもので、現在「いけばな」として目にする多くがこのスタイルです。花を面的にいけることを可能にする剣山が発明されたのも大きい。盛り花は、ある程度の型はありながらも、それぞれの枝や花の流れをいかすことを重視し、またいける人の感性も大切にする、という感じで、いろんないけばなの醍醐味が気軽な形で詰まっています。
ちなみに私自身の話でいくと、「花をいかす」と「いける人の感性をいかす」というのが大切だと思っているので、象限で言うと左下、のところで、IKERU活動を展開しています。
ただ、自分の表現、といっても、右下の象限ような自己表現、とは違う。主体はあくまで花で、その花をどういかすか、というところにいける人の感性が入ってくる、という感じです。
どういけるか、ではなく、どういかすか。
いかす中で、自ずと世界が立ち現れてくる、そんな感覚をIKERUでは味わってもらえたらと思っています。