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改めて、剣山、ってすごい

いけばなをやったことがない人でも、なんとなく「剣山」のことはご存知なのではないかと思います。けんざん。剣の山と書きますが、見た目はどっちかというと針の山です。形状としてよくあるのは長方形と丸で、花留めと重しの機能を果たします。

長い歴史があるいけばな。花を空間の中に留めるために、時代やスタイルに応じていろんな工夫がなされてきました。花瓶の中に草や枝をいれてその上で花をいける。枝を花瓶の直径の長さで切り、さらに枝を割って空間をつくり、その間に花をいける。穴のあいた金属板にいける。そして、明治以降に生まれたのが、剣山です。

ただただいけばなのお稽古をやっていた時期は、剣山ってなんか古いイメージがあるし、重いし、ぼんやりしていると指を刺してけがするし、あまりよい印象を持っていませんでした。

でも、最近、今の時代におけるいけばなって何だろうということを考えたり、仮説を実装してみたりしているうちに、実は剣山って、イノベーションであり、同時にいけばなの変わらぬ本質を伝える役割も果たしている、すごいものなんじゃないかと思うようになりました。伝統と革新の絶妙な塩梅が剣山なのです。

まず、イノベーション、という点から。剣山ができたおかげで、いろんな角度に指すことができる上に、面的に広がる作品をいけることが可能になりました。つまり、それまでの花留めではできなかった、自由な表現が可能になった。一方、剣山自体が重いので、いけばなの特徴ともいえる重量のある枝もそれまでと同じようにいけることができます。

そして、利便性。それまでの花留めだと、花を留める土台を作るだけでかなり時間と手間がかかっていたのが、剣山さえあれば、花器に置いて水を入れればそれですぐいけられます。硯で墨を時間かけてすらなくてもすぐに書けるという、書道の墨汁に近い感じでしょうか。

とはいえ、このイノベーションという点、とりわけ自由な表現に関しては、アメリカで1950年代に開発されたフラワーアレンジメントで使われている「オアシス」と呼ばれる緑色の給水フォームのほうに分があります。オアシスだと剣山には茎が細すぎていけられない、猫じゃらしみたいな花材だって何のその。切り取ったり組み合わせたりすることで、ほぼ無限の形を作ることができる。なので、いけばなでも、花留めという意味ではよりイノベーションとも言えるオアシス使えばいいんじゃない?となりますよね。実際、いけばなの展覧会でも、オアシスはよく使われています。

でも、私がこのところ「いけばなの叡智」と表現しているものの多くが、実は剣山だからこそ可能になっているのではないかと思うようになりました。時代を超えて、むしろ今だからこそいきるいけばなの本質は、剣山だからこそ味わうことができているのではないかと。中でも以下の二つが大切だと思っています。

① 一つひとつの花をいかす「間」をつくることができる:いけばなの基本は「一つひとつの花材をいかす」ということ。枝であれ、花であれ、葉であれ、花材がいきるためには、それぞれが呼吸できるだけの「間」が必要です。間がないと呼吸ができない。思いっきり、その花であれない。そしてこうした間は、ほどよい感覚で針が並んでいる剣山だから、作ることができます。オアシスを使うと、基本的に空間は埋めていくので

個別の花を活かすには、その花がどの角度でどの長さでどの場にあると最も美しく見えるのかを見極めるのも大切ですが、それと同じぐらい、花と花の間の空間も大切。どんなにその花自体は素敵にいけられていても、そこに他の花が交差したり、葉が混み合っていては、花はいきない。十分な間があってこそ、いきる。これは、きっと人でも同じこと。それぞれのよさがいきるためには、その人がその人であれるだけの間、時間と空間の両方、が必要

② 圧倒的な身体感覚:剣山は、すっといれればすっと花がはいるオアシスと違って、させばすぐに花がたつわけではありません。この角度、この場所にいければ、花がいきる、と思っていれても、剣山にしっかりささらないとそれは実現できない。剣山にどうさせば安定してささるかは、頭で考えてもどうしようもなく、実際にいけてみないとわからない。その剣山とのやり取りは非常に身体的です。剣山にしっかり花をぐいっとさすと、自分の身体の中にも筋が通る。剣山に花をさすことで、いけるという感覚を身体に刻んでいる感じがあります。

今、いけばなを中心に据えた人生を送っていますが、その決意に至ったいくつかの気づきの瞬間があります。その一つが、あるイベントのために朝に花をいけた後、展覧会の作品をいけた、という日。要は一日中ずっとただ花をいけていました。この時の、自分の身体がぐいっとしまっていく感じ、地に足がついている感じ、そしてそれを通じて心もすーっと整う感じが、「ああ、これが毎日だったらいいなあ」と思ったのでした。動的なマインドフルネス、とでも言えるかもしれません。(そこから華道家として独立するまでに何年もかかりましたが)

つまり、剣山には、すぐにセットして花をいけられるという利便性がある、いろんな角度で花を留めることができ、かつ重量があるため重い大きめの枝でもいけられることで、表現の幅が広がる、という、それまでの花留めにはない革新性があります。同時に、花をいかす間、身体感覚、という、いけばなが持つ普遍的な叡智を、剣山は今の時代にもつなげてくれているのではないか。これは、剣山より革新的ともいえるオアシスを使うのでは得られないものです。

と、正月早々、つらつらと剣山のことについて書きましたが、これは12月に軽井沢で新しい学校作りに挑戦している人たちに、チームで一つのいけばなの作品をつくるというIKERUワークショップをやり、そこで剣山について深い洞察をしてくださった方がいたのがきっかけです。その方は「剣山の器用で不器用な具合、使い勝手がいいようで悪いのが、おもしろい。組織と似ている。」とおっしゃっていました。

それを機に、自分が剣山についてなんとなく感じていたことを、改めて言葉にしてみました。そして言葉にしてみて、やっぱり、剣山、ってすごい、と思いました。

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