包括的な社会
私は現在、スイスの大学院でフィジカルシアターを学んでいるダンサーです。
最近よく考えることがあります。
You tubeとかでよく出てくる日本の番組、それを見ていて時に、なんだか、日本の番組に出ているタレントさんがかわいそうだなって思うことがたくさんあるのです。
例えば、このまえ、自分がしくじったことを反面教師にさせるような番組がyou tubeに出てきてそれを見ていたんですが、
自分の過ちを誤っている元アイドルの回でした、その人を見ながら、この人が本当に悪いんだろうか?と思っていたのです。それを作り出した社会や、周りにいた人たちも絶対、共犯なんじゃないだろうかと思うのです。
昔、シアターで特にApplied Theater( 応用演劇)で有名なAgost Boalの本を読んでいた時、当時は英語もよくわからないから解釈が正しかったのかはわからないけど、「演劇そして、社会とは水槽のようなものだ」といっていた。
水槽の水を、魚たちがシェアするように、私たちはいろいろ反応し、誰かが水を汚すとその水槽全体が汚れていく、みんなで動けば大きな波になるし、ばらばらに動けば反ればそれで水は動いている。
この元アイドルを見ていて私が思った感覚は、どうしてこの人だけが吊り上げられるんだろうと思ったことです、例えば水槽の例でいうと、たまたまその水槽の水が汚くて、くしゃみをしてしまった、その魚、がつるし上げられてしまった元アイドルの姿に見えたのです。いろんな人がつるし上げられては消える日本のニュースをみていて、一瞬にして消えていく日本の芸能の世界に「生贄」という言葉すら正しいような感じがしました。
社会がずいぶん汚れてきている。それを誰かが生贄になりつるし上げられて、お茶の間の気分をすっきりさせる、でもまだ水槽は汚いので、次の生贄ができる。
そんなイメージに私は見えます。
包括的な要因でその人がいぶしあげられる、でもその裏にある包んでいる、いや、私たちがいるその社会の水槽事態に解決すべきことがある。
なんかそう思います。
最近私もこちらで途方もない文化の違いを感じたりする時があります、
もちろん、こっちの人が大好きだし、ハグをしたり、ご飯を一緒に食べたりもするけど、そんなに人とつながるって簡単じゃない、
表面的じゃない、人と生きることについて考えさせられる毎日です。
表で触れ合ったからと言って、本当につながったわけじゃない1分でできるものでもない、また、その公に見えた、(悪)を取り除いても何の解決にもならないのです。その水槽をどうやって気持ちいい水槽にしていくのか水をきれいにするのかを考えていきたいですね。その見えない存在も考えたいと思います。
※この写真、、誰かの写真みたいだけど、、使っていいのかしら。。
以上