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なにをエンジンにするか
小さい頃からものを書いていた。
だけど、その原動力は不平不満や満たされなさ、不安からきていたように思う。
ヨーガを始めた。ヴェーダンタを学んでいき、変化していく.
もちろん生活が劇的に変化したわけではなかったのだけど、気づいたら
不平不満や満たされなさが小さく小さくなっていく。
なくなったとは言わないけれど、少なくなったら、書くことがなくなった。ガソリンにするものがないのだ!
拍子抜けした。
文章をかかないのかと母親に言われたりもする。だけど、書くガソリンがないのだからかけないのだ。
難解な文章も読めなくなった。
アホになったのかもしれないし、シンプルになったともいえる。
だけど、負の感情を昇華するために無意識にせよかいていたとしたら、もう書くことが限りなくないのだ。
じゃあ、ハッピーなことをかけばよいのではない?と言われそうだけど、あまり面白い読み応えのあるものにはならない。情報を書けば良いのでは?やー、別にかくにはいたらないなあ、というのが本音だったりする。
書くことで保っていた小さなエゴがそもそもなくなり、普通の人になった。文章を書く知り合いも減り、むかしのわたしはいなくなった。
自分はいったいどうなるんだろう?
などと思いがよぎることもあるけど、そもそもわたし、はどこにもいかないしどうなりもしないのだ。
ベジタリアンでもなくなったので、完璧にヴェーダンタを学ぶ人ともいえないかもしれないけれど、少なくとも学んでよかったし、ラマナのように結局、わたしは誰か?ということにわたしはバガヴァーンだと言えればそれでよい。
みえないコンプレックスが小さく小さくなるにつれ、謎の思考の追いかけっこもなくなり、文章もかけなくなりつつあるけれど、安心安全、アーナンダがわたしと理解して腑に落ちる。
もしかしたら書くというカルマからも解放されたとしたら幸せなことなのかもしれない。
ただ、ある、ことでなにに運ばれていくのか、見守りたいとおもう。
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